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あむあむあむ

○フィンディルの感想

ごじの肝だめし/箒星 影  への感想

ごじの肝だめし/箒星 影
作品はこちらから。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
意欲的な構成により目を引く作品だが、粗が大きく多い。凝った箇所と雑な箇所が極端なので、全体を見渡した洗練を求めたい。


●誤字の伏線と終盤への繋ぎ、メタの処理

本作でもっとも印象的な場面といえばやはり、「宝田」の誤字を「畑間」が指摘するところでしょう。
序盤から抜かることなく続けられる「宝田」の誤字を我慢できなくなった「畑間」が雰囲気を台無しにすることを覚悟の上で大指摘します。
敢えての誤字というのは手法として珍しくはありますが、斬新な手ではありません。衒いたがりの作者ならば一度は試したくなる手だと思います。
本作はタイトルが「ごじの肝だめし」、そして書き出しは「12月27日、朝5時。」です。ここを見るだけで「ごじ」「5時」と表記が異なるのでここにダブルミーニングが仕掛けられていることは容易に想像できます。
そして「ごじ」のダブルミーニングといえば「5時」でなければ「誤字」が有名。ある程度察しのよい読者ならば、敢えての誤字が仕掛けられているのではと身構えることができます。そして案の定わかりやすすぎる誤字が散見されます。そして回収。

フィンディルは途中まで読んでいて正直「これはどうしたものか」と思いました。あまりにもわかりやすすぎるのではと。誤字の伏線が回収されたときも「ですよね」としか思いませんでした。
が箒星さんは、解説でも仰っている通り、この誤字の伏線を見せたくて誤字の伏線を仕掛けたわけではありませんでした。本作の肝は誤字にはありません。
それは
―――――――――――――――――――
アフレコするなら「いや気になってたけど……気になってたけどさぁ……」と言ったところだろうか。
―――――――――――――――――――
という文章からも読み取ることができます。

解説にもある通り、この作品の肝は「呪いの館」の設定及び展開にあります。「ピーター・パン」の設定を活かした顛末です。
本作の構成は「呪いの館」の設定と展開を最初に見せて、中盤でその空気を台無しにして読者を笑わせ油断させた後で、再び「呪いの館」の展開を復活させて締めるというところにあります。
つまり中盤の誤字の伏線の目的は、それまでの空気を一旦壊すというところにあります。
その役割を果たすうえで、誤字の伏線というのはとても効果的です。作中の人物が誤字を取り扱うということはメタを取り扱うということになります。登場人物のいい間違いではなく文章上の誤字であるということは、察してくれと言わんばかりの「懐中電灯を日本」からも読み取ることができます。
メタというのは空気を一変させる効果としては、全ての展開の中でも一、二を争います。作中の空気どころか作品の構造すら簡単に崩壊させることができますから。
現に読者の中でもこの誤字の件に入ると「これまでの呪いの館とかは全部前振りかー。全く笑わせるなあ」などとそれまでの「呪いの館」や「千瑠」と「風奈」についてなどを頭の中から追い出した方もいらっしゃるでしょう。
このメタによって弛緩した空気を引き伸ばしながら、終盤に再び「呪いの館」の展開を忍ばせて、最後にホラーで締める。という本作の構成は一定以上の成功を収めているといえるのではないでしょうか。

誤字を敢えて使うこと自体は斬新ではありませんが、誤字を空気の弛緩に用いて締めの演出に利用するということは構成において斬新で意欲的な試みだと思います。
「ホラー→メタ」はままありますが「ホラー→メタ→ホラー」はなかなかお目にかかれない。本作、及び箒星さんの個性として十分認められます。
「小説のジャンルは一定であるべき」「小説で変なことをしてはいけない」などという考えを有した読者でない限り、箒星さんの試みは好意的に受け入れられるはずです。

またこの構成を組み立てるうえで、箒星さんは巧みなバランス感覚を披露します。
「畑間」は「宝田」の誤字を指摘する際に「雰囲気ぶち壊し」と独白していますが、実際は雰囲気ぶち壊しにはなりません。本当に雰囲気ぶち壊しになったら締めを組み立てることができませんからね。メタで終わってしまいます。
これは箒星さんが完全に雰囲気をぶち壊さないように工夫を施しているからです。
というのもメタに相当する誤字の件は、「畑間」と「宝田」の二人によってのみ進行していきます。「千瑠」「風奈」「久我野」は一言も発さずにその場にいるだけに徹します。誤字の件に一切の関わりを示さないのです。
これが非常に上手いバランス感覚でして、メタを扱う際にはメタを扱うキャラを限定することで、作品全体をメタに支配されることを防ぐことができます。全員がメタを扱えばそれはメタ作品ですが、少数がメタを扱えばそれはメタキャラに留まるのです。

メタの展開があっても、その後にメタを扱わないキャラにメタ以外の言動をさせることで話を元に戻すことが可能です。
誤字の件があった後、
―――――――――――――――――――
 館を出た俺たち五人は、ほぼ同時に大きく背伸びをした。

「ちぇっ……ここもハズレかぁ。いい雰囲気ビンビン来てたんだけどなぁ」

「あはは、千瑠ちゃんのオカルトレーダーとやらもアテにならへんなぁ!でも何もなくてホンマに良かった……」
―――――――――――――――――――
とまず発言させたのは「畑間」と「宝田」ではなく「千瑠」と「久我野」です。しかもその発言内容は、誤字や弛緩した空気に触れるものではなく、冒頭に示されていた「千瑠」のレーダーの件と「久我野」のビビリの件です。ここで話を、たとえ形式上であっても「呪いの館」に戻すことに成功しています。
しかし「畑間」と「宝田」は相変わらず誤字のやり取りをしており、完全に戻るわけではありません。話のラインは「呪いの館」に戻すも誤字のやり取りは継続する。読者の読む気分を誤字のままにしておくが、しかしストーリーや文章で「呪いの館」の展開を繰り出すことも可能な塩梅。
箒星さんは「千瑠」と「久我野」、「畑間」と「宝田」にそれぞれ役割を持たせることで空気を以上のように調節することを行っています。このバランス感覚が非常にいいですね。
このバランス感覚を心得ていないと性格的に「千瑠」にも誤字のツッコミをさせてしまっていたのではないかと思います。しかしそうなると軌道修正がいよいよ利かなくなって終盤に繋ぎにくくなってしまうでしょう。
また作品中であまり役割を担っていないように見える「久我野」が、この空気調節に非常に役立っています。「千瑠」「風奈」の件にも「誤字」にも直接関わっていない「久我野」を間に挟むことで空気の調節を非常に上手く行えるのです。関西弁ということで色も強めですし。
思えば「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」と、「千瑠」「風奈」の件から肝試しに軌道を修正したのも「久我野」の役割でした。箒星さんの中で「久我野」は非常に重宝するキャラだったろうと思います。
勿論「千瑠」「風奈」の件にも「誤字」にも関わっていないので物語への絡みがないことにも配慮して、最後に「畑間」に抱きとめられて「千瑠」との因縁を植えておくという補強も忘れていません。

更に付け加えるならば、「千瑠」「風奈」「久我野」に誤字の件で黙らせていたのは、「風奈」の存在を消す意味もあります。
「風奈」を消すときに、「風奈」だけを消すのではなく「千瑠」「風奈」「久我野」の三人全てを消してから「千瑠」「久我野」を復活させるというのは消し方としては大胆な手です。
「風奈」を巧みにフェードアウトさせるのではなく、空気を一変させて読者の頭も一変させて、かつ出すキャラを絞っておく。大胆で面白い手だと思います。

フィンディルとしては、誤字の伏線を持ってきたことよりも、誤字の伏線をどう機能させたかということと誤字の伏線で巻き起こったメタの処理の仕方の二点を評価しています。
あのわかりやすい誤字のちりばめ方にも納得です。


●誤字

「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」
「畑中」→「畑間」
(「風奈さんは問題ないから、」が「風奈さんは問題ないだから、」となっていましたがこちらは後で確認したところ修正されたようですね)

この発言は「久我野」の発言です。「久我野」の発言に誤字があります。
誤字を扱う作品では、意図外の誤字は禁物です。通常の作品よりもずっと。何故かというと誤字によって成立している構成に大きな影響が考えられるからです。場合によっては作品全体を揺るがしかねない。
そして本作においては、誤字は「宝田」が行う、というキャラ付けに大きな影響を与えてしまっています。
この「久我野」の誤字に気付いた人は「宝田だけでなく久我野も誤字をしたから久我野にも何か仕掛けがあるかもしれない」と思うでしょう。しかし「久我野」はただの誤字なので当然「久我野」に仕掛けはなく、肩透かしを味わうということになります。
また「久我野」の誤字により、誤字は「宝田」のキャラ付けというわけではないと考える読者もいるかもしれません。そうなると「宝田」のキャラ付けは失敗してしまうことになります。
現にフィンディルは読んだときは「畑間」の「風奈さんは問題ないだから、」にも気付いたので、「宝田だけだと思っていたが、もしやこれは全員にかかってる仕掛けなのか?」とも思いました。結果「宝田」だけですからやはり肩透かしですね。
誤字を扱うなら誤字には人一倍慎重に、というのは基本で大事なことですね。


●メタの使い方

前項にてメタの処理の仕方を褒めさせていただきましたが、一点気になるところがあります。

「ホントもう台無しだよ。せっかく“呪いの館”とか言われてるのにお前の誤字脱字が気になって何にも怖くなくなっちまったよ。つか“呪いの館”って何だよ!!安直すぎるだろ!!今どきのオカルトなんだから、もっと捻れよ!!」

という「畑間」のセリフですが、ここの後半。
この場面では誤字指摘が繰り広げられますが、このセリフの後半では「呪いの館」についてツッコミがなされています。
この部分についてフィンディルは首をひねっています。
好意的に考えるとここで「呪いの館」についてツッコミがなされたので、
―――――――――――――――――――
 二階と三階も結局はもぬけの殻。

 もしやと思って入り口に戻り、再度ガチャガチャと扉を動かしてみたら、建て付けが悪かっただけらしく普通に開いた。もうイヤだ。
―――――――――――――――――――
と、「呪いの館」はなんでもないただの館でしたー、という流れに繋げやすくはなっています。
なっていますが、これは何も「呪いの館」へのツッコミをせずとも、メタの空気感さえあれば誘導できる流れだろうとは思います。弛緩した空気のまま割愛のように流してしまえば問題なくこなせる場面です。
むしろここで「呪いの館」にメタ的なツッコミをしてしまったことで、「呪いの館」には実はきちんとした呪いがありましたという説得力が若干削がれてしまっています。この「畑間」のセリフは「畑間」のセリフであって「畑間」のセリフではありません。メタ的な発言がされた以上、そこには作品としてのそして作者としての息がかかっているのです。見ようによっては作者からのツッコミともいえます。それは「呪いの館」への否定の仕方としては非常に強力なものがあります。
「呪いの館」には呪いがありますし、空気はメタによって弛緩されているのに、ここでメタ的に「呪いの館」を否定することにメリットがあるようには思えません。むしろデメリットのみ。

更に本作の「呪いの館があります。ホラーです」→「誤字指摘でメタ的に弛緩」→「でも呪いの館が否定されたわけではなくそこにはピーター・パン的な顛末がありました」という構成がこのセリフにより乱されてしまっています。
本作は空気感の操作ジャンルの操作によって構成が組み立てられ、読者を巧みに誘導しているのですが、ここで「呪いの館」へメタ的な言及メタ的な否定が入ることで折角の構成の主旨と美しさを大きく害する結果になってしまっています。

フィンディルにはこのセリフが、オチの邪魔及び構成の邪魔にしか見えません。
折角のメタ展開なのだからと箒星さんが欲張ってしまったのでしょうか、あるいはきちんとした意図があってなされたのでしょうか。
疑問が大きく残るセリフです。


●作品から独立してしまい、叙述出題と設定講釈となった終盤

本作の肝は「ピーター・パン」の設定に則った「呪いの館」の顛末です。
この内、終盤で初出になった材料としては「行方不明になった人が別人に代わっており、その事実を周囲の人は認識できない。そしてその代わった人は影が出ない」ということのみです。
一応12/27である理由も示されていますが、これは作品にはほとんど関係ない趣味の領域です。
一方中盤までで出された材料が「行方不明になったのは大人のみであり、千瑠は風奈を確かに憎んでおり、その理由は二人とも畑間のことが好きである」ということです。
こちらは読者に推理させるわけでもなく、「畑間」と「風奈」のやり取りで明言に近い形で出されています。「確かに行方不明になったのは、成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」という文はかなり核心をついた文章ですね。
そして読者が推理するのは、「この五人の中で風奈だけが成人だから、風奈だけが行方不明になるのではないか」「風奈を憎んでいる千瑠は行方不明にさせることを狙って風奈を呼んだのではないか」ということ。この推理、非常に簡単です。材料が丁寧に揃えられており、後は電子レンジでチンするだけというくらい簡単です。

そして本作を読むにあたって読者が気になっていたのは「本当に人が行方不明になるのか」「行方不明になるのはどういう人か」「千瑠は風奈を本当に憎んでいるのか」「憎んでいるならどうして憎んでいるのか」「千瑠は何故風奈を呼んだのか」「この五人はどうなるのか」といった点です。
これら全ての謎が、中盤まででわかってしまうのです。人は行方不明になるし、成人のみが行方不明になるし、千瑠は風奈を憎んでいたし、二人とも畑間が好きだから憎んでいたし、行方不明にさせるために呼んだし、五人の内風奈だけが行方不明になるのです。これら全て中盤まででわかってしまいます。
「行方不明になるときはどういう形で行方不明になるのか」という要素が終盤で明らかになりますが、そんなことは読者は大して気にしません。
なお中盤までの推理時に「風奈は千瑠の思惑を知っていながらどうしてついてきたのか」という謎が残りますが、これは読者の想像次第になってしまいました。

中盤までで読者の気になること全てが解消されてしまい、では終盤では読者は何を楽しめばいいのかということですが、突然放り込まれた叙述トリックと「ピーター・パン」の設定の二点です。
「風奈」が行方不明になることは中盤まででわかっていますし、終盤をさらっと読むだけで風奈が行方不明になったこともわかっています。
しかし「館を出た俺たち五人」なのに何故「四つの影がぼんやりと照らし出されていた」となっているのか、その場面だけで完結している叙述トリックに読者は取り組まされます。また解説において、「ピーター・パン」を活かした影についての細かい設定を理解させられます。
「つまりどういうことなのか」という全体像は既に見えているのに、その叙述トリックの細かい仕組みと「ピーター・パン」の設定だけが残されて、これを解き明かすという作業。
この楽しみ方は、本作全体を楽しむとは言いがたいものになっています。終盤の叙述トリック及び「ピーター・パン」の影の設定が、作品全体の面白さに寄与していません。その終盤の場面だけで完結しています。
ですので読者もよくよく楽しもうよくよく解こうという気持ちにならない。「つまりどういうことなのか」はわかっているので。ですので完結後すぐさま誘導された解説を見て、「ピーター・パン」の設定と叙述トリックを確認する。
そういう流れになってしまった方、少なくないのではないかと思います。フィンディルはそうでした。フィンディルだけでしょうか?
また解説への誘導の仕方もアピールがきつすぎます。箒星さんの「解説したい! 解説したい!」という気持ちが前に出過ぎているので、尚更独力で解いてみようという気持ちになりません。
そもそも「ピーター・パン」の設定などは解説を読まないとわかりようのない性質でしたし。

中盤までで丁寧に説明しすぎたのです。全体像を把握させすぎた。それによって終盤が作品から独立してしまい、単純に叙述トリックの出題と「ピーター・パン」の設定講釈になってしまっています。
中盤までで説明をある程度抑えて読者の謎を残しておくか、終盤に何か新たな驚きを追加するか。いずれにせよ作品全体を考えた改良が求められるところです。


●「ピーター・パン」を入れるということ

本作の締めはこうなっています。
―――――――――――――――――――
「そうです!きょう、12がつ27にちは、なんとなんと……“ピーター・パンのひ”なのですっ!!」
―――――――――――――――――――
つまり「ピーター・パン」です。「ピーター・パン」こそが本作のキーワードであり、解説にて「ピーター・パン」は成人を殺すこと、「ピーター・パン」には影がないという設定が本作に用いられていることが示されています。
しかし「ピーター・パン」の設定が本作に活かされたことはわかっても、何故本作で「ピーター・パン」の設定通りになったのかという説明はなされていないように思います。
つまり本作に「ピーター・パン」が出てきた必然性です。「ピーター・パンっぽいことはわかった。じゃあ何でピーター・パンなん?」という疑問に答えられていません。
12/27が本作と「ピーター・パン」を繋ぐキーワードらしく出てきますが、解説によると12/27は「ピーター・パン」が初上演された日とのことです。では何故「ピーター・パン」が初上演された日に、「ピーター・パン」とは縁もゆかりもない地にて「ピーター・パン」の設定のような怪奇現象が起こったのでしょうか?
あの「呪いの館」が「ピーター・パン」の住む家だったと仮定しても、12/27は初上演の日ですから「ピーター・パン」本人とは何ら関わりがありません。また「呪いの館」が「ピーター・パン」の住む家だという仮定がそもそも飛躍しすぎています。本文中に、あの「呪いの館」が「ピーター・パン」と関連があるということを強く匂わせる文はありません。

これが「ピーター・パン」ではなく、箒星さんオリジナルの話であればこの辺りはある程度強引にいけるのです。しかし「ピーター・パン」は実在するお話です。実在するお話であるならば、何故それが本作に登場し影響を与えているのかという説得力のある必然性が必要です。「ピーター・パン」という言葉が出てきたときに読者が「なるほどピーター・パンか! 道理で!」と思えるような。しかし実際は「ピーター・パン? 何で?」としか思えません。解説でいくら「ピーター・パン」の設定を利用したことが綴られていても、その設定が本作に活かされる必然性がわからない以上「それで何でピーター・パン?」という疑問は晴れないままです。
箒星さんは「ピーター・パン」の設定を本作に活かすことに執心されているようですが、その前に「ピーター・パン」の存在を本作に馴染ませることに取り組むべきだったのではないでしょうか。

また「ピーター・パン」を登場させるにあたり、本作には強引さと歪みが生まれています。
箒星さんはなんとか「ピーター・パン」という言葉を登場させたいとお考えになったのでしょう。「ピーター・パン」といえば「絵本」だ、「絵本」といえば「幼児」だ、本作において「幼児」といえば「妹(弟)だ」と連想ゲームのような発想を行います。そしてその通りに、本作最後に無理やり妹である「紗菜」を登場させ、強引に「絵本」を読ませようとし、「ピーター・パン」という語を出します。
これが非常に稚拙です。この一連の箒星さんの思惑が手に取るようにわかってしまいます。いくらなんでも意図があからさますぎます。
特に絵本を持ってくるためだけに作り上げた「紗菜」という登場人物。絵本差し出し装置とでも言わんばかりの登場の仕方です。もう少し、キャラを作るにあたって練る必要があったのではないでしょうか。
最低限の最低限、冒頭の自己紹介で「5歳になる妹がいる。最近絵本を読んでくれてとうるさい」などという一文があってもいいのではないかと思います。

更にこの場面を入れることで歪みが生まれています。最後の場面、これは家の場面です。
冒頭を読んでいるときから気になったことが「12/27に特定の場所で人が行方不明になっているという事件が実際に発生しているのに、心霊スポット探検隊という危険な行動を行いそうな部活に所属している子供達を、しかも朝五時に外出させることを何故親が許しているのか」ということです。
この疑問はしかし創作においては野暮なことかとフィンディルは捨てておきました。しかし最後、家のシーンが出てきます。家のシーンが出てきておいて「親のことはまあいいか」とはさすがに思えないです。
「こんな時間にどこに行っていたのか」や「まさかあの館に行ったんじゃないのか」などと親が叱らないのはあまりに不自然です。これが「畑間」一人のことならば家庭の事情があるのかとも思えますが、五人(四世帯の子)が出てますからね。
そしてここについてのフォローが本文中に一切ない。冒頭に「親には友達の家に泊まってくるなどと嘘をついた」の一文があればまだ呑み込める疑問なのですが。

他にも疑問点があります。
解説において「その場にいる俊たちは誰も風奈がいないことに気付いてません」とあります。現に本文では「風奈」が行方不明になっていることを誰も触れていません。つまり、成人が行方不明になったことを周囲の人は把握できないと解釈できます。
ならば何故「雑誌記者やテレビスタッフが、毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている」のか。こちらでは成人が行方不明になっていることが周囲はもとより世間に認知されているのです。
これが何故なのか? 行方不明になっていることが気付けないのは、その場に一緒にいた人だけということなのでしょうか。この疑問についても作品中及び解説にて答えが示されていないように見えます。

更に「雑誌記者やテレビスタッフが、毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている」のにどうして「呪いの館」に簡単に入れる状態になっているのか。
これが噂レベルであるならばそれもそうかと思えますが、実際に「報せも届いている」ならば警察が動いてもおかしくないはずです。それで「呪いの館」が立入り禁止になっていてもおかしくないはずです。
この辺りもモヤモヤが残るのです。これについては事前に「千瑠」が入れそうな抜け道を探しておいた、でクリアできる疑問であります。

この項をまとめますと、「ピーター・パン」という言葉と設定を入れたいのはわかるけど、「ピーター・パン」を入れるための作品の世界観作り・作品への入れ方・入れた際のフォローが全く御座なりになっている、ということです。
「ピーター・パン」という実在のお話を作品に組み込むにあたって、必ず求められる作業だと思います。


●誤字の場面での盛り上げ方

本作で一番盛り上がる場面である誤字指摘の件です。

1 「畑間」が「宝田」に誤字を指摘する。
2 最も目立った「懐中電灯を日本」の誤字を回収する
3 「千瑠の豹変シーン」というメタ的な単語で盛り上げる
4 誤字の誤字を行いそれにツッコミをする
5 「呪いの館」へのメタ的ツッコミをする
6 お経みたいな誤字を行いそれにツッコミをする
7 アフレコするならという件で誤字を締める

という構成で盛り上げていきます。全体的に面白くて上手い構成なのですが(5については上の項目で触れた通り不要だと思います)、6について首をひねります。「お経みたいな誤字を行いそれにツッコミをする」ですね。
端的にいえばツッコミがくどいです。
―――――――――――――――――――
「焦燥を理由に出家すんな!!呪いの館なんかよりお前のその気持ち悪いお経みたいな文の方がよっぽど怖いわ!“そんなこと、僕に言われたって分からないよ”のどこに誤字ポイントがあるんだよ!!わざととしか思えねぇんだけど!!漢字も怖ぇし!!」
―――――――――――――――――――
ツッコミがくどいです。「宝田の誤字の仕方をお経に例える」「ボケの解説を行う」「わざとだろ」「誤字の仕方が漢字で怖い」という四つの要素にて、ひとつのツッコミが構成されていますが、これはひとつの要素で十分です。
箒星さんはおそらく盛り立てよう盛り立てようと思ってツッコミを積んでいかれたのだと思いますが、まず「ボケの解説」は不要です。なんとなく「宝田」が何を言ってるのかわかりますから。ツッコミにおいてボケの解説をするというのは非常にリスキーな行為で、全体を盛り下げることに繋がりやすいです。それほど難解なボケではありませんし、ツッコミで解説をしたいと思った場合でも婉曲的に言及することをオススメします。こんなに真正面から解説してしまうのはよくないです。
また細かいですが、解説しない際の理解のさせ方としては「そんなこと、僕に言われたって分からないよ」ではなく「そんなこと、僕に言われても分からないよ」の方が読者による変換がスムーズに進んだと思います。

またこのボケなのですが、これは他のボケに比べて構造が単純です。1は最初のツッコミですし、2と3は前の内容への言及なので仕掛けがあります。誤字の誤字は、誤字のさせ方としてはウィットに富んでおり「宝田」の誤字のさせ方として一番捻っているとも思います。
しかし「そ、そんな児頭、朴煮岩霊竜手輪火羅南鋳夜!!」は誤字を羅列しており、字面のインパクトこそ強いですが、ボケの性質としてはただ単に暴走させただけのものです。こういったボケというのはテクニカルなものではないので、文章多くツッコミを入れることが向かないです。入れれば入れるほど盛り下がってしまう。
このボケについてのツッコミは「わざととしか思えねぇんだけど!!」だけに抑えるのがよいのではないかと思います。

ツッコミのさせ方なんて自由では? 好みでは? と思われるかもしれませんけども、小説中にあってはボケもツッコミも修辞のひとつです。望まれた場面でないところで必要以上に長い描写を綴っていれば「描写がくどい」という指摘は当然受けるでしょう。ツッコミであってもそれは同様です。
またこの誤字の件では7は締めですので、実質6が最も盛り上げるところ。場面の盛り上げという点で見ると重要な部分だと判断し、このように言及をさせていただきました。

テクニカルなボケならばその面白さを全て出すためにツッコミの要素を増やすということはいいと思うのですが、「そ、そんな児頭、朴煮岩霊竜手輪火羅南鋳夜!!」についてはいっぱい誤字しましたという以上の要素がありませんので、そこに沢山ツッコミをしても暖簾に腕押しでダレるだけだ、ということです。


●細かいところ
ここからは文章の細かいところを取り上げます。

・「分かる」「要る」「居る」「凄く」など
これは本作の本文中全体にいえることなのですが、例に挙げているような漢字表記がやや散見されます。
例に挙げているような「平仮名表記にしても問題ない言葉」というのは基本的に平仮名表記にすることをオススメします。
こういった言葉を漢字表記にすると文章がぎこちなくなりますし、若干の読みにくさも生んでしまいますからね。

・自らを“世界一オカルトを愛する者”と称する彼女が、年に一度のそのチャンスを逃すはずもなく。
何故去年はそのチャンスを逃したのか。「毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている。」のならば去年の段階でその「呪いの館」の話は当然「千瑠」にも届いているはずです。
その理由は明確で、去年は「風奈」が成人していないからです。去年訪れても「風奈」は行方不明にはなりません。
「風奈」が二十歳と成人したばかりの歳に訪れるというのは、「千瑠」の憎しみが長年積もり積もったものであるということがとても伝わりますね。待ちに待った年なのでしょう。
が当然ですが、そんな「千瑠」の思惑を「畑間」は知りません。「畑間」は「毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている。」のにも関わらず、なぜ「千瑠」が去年のチャンスを逃したのか疑問に思う必要があります。年に一度のチャンスを逃すはずもない「彼女」が去年はチャンスを逃している、ここに「畑間」が引っ掛かりを覚えないのはあまりにも不自然。
「心霊スポット探検隊」の体制がまだ十分に整っていなかったからでも構いません。「畑間」は違和感を覚えつつも一定の回答を有して強い疑問までは持っていない、という状態を作っておく必要があったでしょう。

・例のスポ探部長であり俺の幼馴染みである甘峰 千瑠
「例の」が「スポ探」にかかっているのか「部長であり俺の幼馴染み」にかかっているのかがわかりにくいです。
「スポ探」にかかっているならば「例の」は不要ですし、「部長であり俺の幼馴染み」にかかっているならば別の言い回しで強調した方が自然です。

・ついに呪いの館と対面できた喜びで、俺の隣で小さい体をピョンコピョンコと弾ませている。ジャンプする度に、肩に届かないくらいの茶髪が軽快に揺れる。よほど嬉しいんだろう。
文章の流れとして、「飛び跳ねている」→「髪が揺れる」→「嬉しいんだろう」となっていますが、やや稚拙です。これでは「髪が揺れる」ことを見て「嬉しいんだろう」と判断したように読めてしまいます。
文章構成を改良することをオススメします。

・黒フレームのメガネをクイッと上げて館の外観を分析している。
最近の加筆修正により「呪いの館」の外観の描写が、この前に付け加えられましたね。
しかしその描写のせいで、「宝田」の分析がやや滑稽に映ってしまいました。「畑間」が一人称で細かく分析していましたので。「もう畑間がさっきやってるから」と読者が思ってしまえば、現状の「宝田」の頭脳明晰なキャラ付けにほんの少しマイナスが働いてしまいます。

・屋敷探索
「屋敷」→「館」が適切ですね。
「館」というのをキーワードにして語彙はブレさせない方がいいと思います。

・千瑠が隣に立った女性
「立った」→「立っている」が適切ですね。
「風奈」は少し前から「千瑠」の隣にいるはずですから、「立った」という表現だと今隣に立ったという印象が強くなってしまいます。

・普段は風奈さんは、俺たちの同伴はしない。今回が初めてだ。
「今回が初めて」なら「普段は」という物言いはやや不親切です。
「今まで風奈さんが俺たちの同伴をしたことはない」などの方が自然でしょう。

・時刻は朝の4時58分。
館に到着してからの感じを見るに、館に到着したのは五時少し前といった印象があります。
ならば館に向かうとき「早くしないと五時になっちゃうよぉ!」などのような「千瑠」の催促があれば、「千瑠」に無理やり連れてこられた感がより強くなっていいかな、と思いました。
ギリギリなのに急ぐ描写が見られないです。

・踵を返して帰ろうとする久我野の首根っこを鷲掴みにして、千瑠が意気揚々と扉を開けた。
・俺たち五人は呪いの館に足を踏み入れた。
・扉が勢いよく閉まる。全員が戦慄した。
ここの描写が雑に見えました。まるで三コマ漫画のように、静止画の連続で「扉を開ける」→「皆が入る」→「扉が閉まる」といった感じです。それまでの文章が滑らかに進行していただけに、ここの動きの固さが気になります。洗練した方がいい箇所かと思います。

・ホラーの定番だ。半ば諦めながら、俺は取っ手を何回か押し引きする。
入ると扉が閉まるというのはホラーの定番ではありますが、実際に起こればとんでもないことであり、すぐさま理解が追いつくというのは考えにくいです。
しかし「畑間」はそれがホラーの定番であることを瞬時に察知し、「半ば諦めながら」と事態を理解し受け入れるのも早すぎる印象があります。
作品のホラーと、実際の事態とで区別する方が望ましいと思います。

・中は当然ながら電気も通っておらず
おそらく「館」には電気が通っていないのでしょうが、この時点で電気が通っていないと断定することはおよそ不可能だと思います。
灯りがないことを示したかったのでしょうが、初めて入った館で電灯を点けるスイッチの場所などはわかりません。
「おそらく電気は通っておらず」など推測に留めておく方がいいと思います。

・屋敷の探索
「屋敷」→「館」

・「俺の頭を優しく撫でた。柔らかく、温かい手だった」
頭を撫でられて手の体温がわかるのでしょうか。わからないこともないですが、毛髪越しでは感知の精度は低いはずです。
「畑間」が坊主である可能性もありますが。

・去年この館にね……俊くんたちと同じ高校生の、三人の男の子が立ち入ったの。
「去年の12月27日、この館」あるいは「去年の同じ日、この館」などにした方がいいです。
本文だと去年の別の日という解釈もできてしまうからです。その解釈のされ方は意図せぬ推理に導くおそれがあります。

・去年この館にね……俊くんたちと同じ高校生の、三人の男の子が立ち入ったの。
この「俊くんたちと同じ」というのがやや、ややこしいです。
高校生であることが同じなだけならば「俊くんたちと同じ」はまどろっこしい物言いですし、この書き方では通っている高校が同じという印象も受けます。
おそらく「畑間」達も同じく高校生=未成年ということを印象づけたかったのかなとは思いますが、そのすぐ後で「成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」という文章が入るので、あまり効果的には感じません。
(というか上の項でも触れた通り、「成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」が核心をつきすぎているんですけどね)

・全てを悟ったかのように俺に向き直った。
「畑間」の一人称なので「全てを悟ったかのように」という表現で間違いはないのですが、事実「風奈」は全てを悟っているのでここで「全てを悟ったかのように」という比喩を用いるのは収まりの悪さを感じます。
「覚悟を決めたように」などならば、まあ通るかと思います。

・「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」
上の項目でも触れましたが、「畑中」→「畑間」

・あのさ…………シリアスの中で喋るにしては…………誤字脱字がありすぎる
「誤字脱字」ですが、実際「宝田」は誤字脱字だけでなく衍字を多くしています。
勿論ここで「誤字脱字衍字がありすぎる」とするのはくどすぎますが、実際に脱字だけでなく衍字もしているのでここは「誤字がありすぎる」とするのが自然なのではないかと思います。
タイトルとの兼ね合い上でも「誤字脱字」より「誤字」の方がスマートですし。

・せっかくこれから怖いこと起こる感じジワジワ来てるのにさ、お前のセリフだけ特に酷いんだよ。
「特に」は不要ですね。誤字的な意味で酷いのは「宝田」だけという体なので。
あるいはこれは「久我野」の誤字は意図的であることを示唆しているのでしょうか。「久我野」は単純に怖さで名前を呼び間違えた、と。
仮にそうならばそれは不要な仕掛けです。「畑間」が指摘しないのもおかしいですしね。

・だから言ったんだ……“これを言ったら全てが終わる”って。
言ってはないですね。「畑間」の独白なので。
メタの展開なので「言った」でも通用しないこともありませんが、ここでメタを出す必要も薄いので修正するのが無難かと思います。
あるいはメタでいくなら「だから独白しておいただろ」とかにするとかですかね。

・懐中電灯で俺たちをリードすることに徹底しろ!!
「懐中電灯で俺たちをリードすることを徹底しろ!!」か「懐中電灯で俺たちをリードすることに徹しろ!!」のいずれかの方が文通りがいいですね。

・アフレコするなら「いや気になってたけど……気になってたけどさぁ……」と言ったところだろうか。
アフレコとは「アフターレコード」の略で、既に出来上がった映像などに声をあてることを指します。
アテレコとは「あててレコーディングする」の略で、他者の演技などに別個で声をあてることを指します。
両者にはそのような意味の違いがありますが、アテレコをする場合は大概アフレコなので、現在では統一してアフレコと呼ぶことが多いです。
ですのでアフレコ=アテレコと考えてもよいのですが、意味の違いを考えた場合、この文でアフレコというのは違和感が残ります。
三人の現在進行形の動作に対して声をあてているわけですから。アフターではない。
ですので今回の場合は「アテレコ」と表記した方がより正確なのではないか、と考えます。

・もしやと思って入り口に戻り、再度ガチャガチャと扉を動かしてみたら、建て付けが悪かっただけらしく普通に開いた。
では何故扉がひとりでに閉まったのかという疑問が残ります。
そもそも扉がひとりでに閉まり、しかも開けようとしても開かなかった理由について明かす必要性は高くありません。
ギャグの空気もありますので「再び開けようとしたら開いた」でも問題のない場面です。
しかしここで開けようとしても開かなかった理由について説明してしまった以上、扉がひとりでに閉まった理由についても説明する必要が生じます。
「風が強かった」でもなんでもいいので、こちらの説明もほしいところです。

・ほぼ同時に大きく背伸びをした。
「背伸び」→「伸び」
伸びをする場合に多くは背伸びを伴いますが、背伸びをしたからといって伸びをするとは限りません。「伸び」がより適切でしょう。

・「まあまあ、そんなに怒らなくてもいいじゃん、俊くん!五人で生きて帰れるんだからさ!はぁ、おなかすいた!」
叙述トリックの答えとなる、当初の五人以外の、いるはずのない一人。それがこのセリフの主でしょう。
この話し方をしそうなのは「千瑠」ですが、「千瑠」は「畑間」を無視してますからね。「千瑠」でないならこれは誰だ? となります。
が、私だけなのかもしれませんがここがわかりづらかったです。この話し方をしそうなのは「千瑠」だが、「千瑠」は無視しているから有り得ない、という理屈。理屈が若干理屈として強くて、直感的な気付きを得にくいような……。
勿論叙述トリックなのでわかりやすすぎても駄目なのですが、「そういえばあのときなんか変だったな」という引っ掛かりが若干足りないような気がいたしました。
ただしこれはフィンディルが個人的に感じただけかもしれません。ですのでこれについては読者一人のサンプルとしてお受け取りください。
構造として特別わかりにくい何かがある、というわけではありません。個人的な感覚です。

・「イェスノーすらも!?あと漢字怖いんだってば!!あぁもういい!!とっとと帰んぞ!こんな寒いところいたら、マジで風邪引いちまう!」
「イェスノーすらも!?」というツッコミは面白いです。いいと思います。
しかしその後の「あと漢字怖いんだってば!!」は余計に映りますね。
箒星さんのツッコミはひとつひとつの言い回しは面白いのですが、それを積んで積んでしまうため面白さが損なわれているように感じます。
中級小説書きさんにありがちな、全ての文章を張り切って描写してしまうことのツッコミ版のような感じです。

・そして俺の顔の目の前にそれを突き出し
くどいので、「俺の目の前」か「俺の顔の前」のどちらかがいいと思います。
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Date:2019/01/17
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