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あむあむあむ

○フィンディルの感想

鵺と私/F。  への感想

鵺と私/F。
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
ジャンルの組み合わせ、構成、対比と数多くの魅力を備えた作品。ただし見せ方の問題でその魅力が十分に届けられていない。


●時代で着膨れした文章

本作はどういうお話であるのか、本作の終盤にまとめられています。
―――――――――――――――――――
これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。
―――――――――――――――――――
この文の「だけの」というのが印象的ですが、よくよく見ると確かにそれだけの物語です。しかし読み終わった読者はこの「だけの」に対して「いやいや」という印象を抱くでしょう。
本作にはもっと多くの要素が詰め込められているように感じられるからです。
しかしこの印象を抱いた先の直感的な評価は二種類存在します。
「この話は濃い物語だ」「この話は大きい物語だ」の二つです。勿論この二つを同時に感じられた方もいらっしゃるかと思います。
そしてフィンディルは「この話は濃い物語だ」には好印象を、「この話は大きい物語だ」には悪印象を抱いています。

「濃い物語だ」は「私」の行動と「鵺」の存在、そして「私」が「鵺」を殺そうとしたこととそれが原因で「妖」になったこと、それらに込められた含意を指しています。
対して「大きい物語だ」とは明治の日本の動きや昭和の終戦など、物語の背中を通っている社会の動きのことを指しています。

「濃い物語だ」は「これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。」と密接な繋がりがあります。「妖」の血を浴びたのは「私」が「鵺」を殺そうとしたからですし、込められた含意も全て「私」の行動が起点となっています。この文を骨とするならば「濃い物語だ」が示すものは肉でしょうか。話の骨を引っ張ったときに、この「濃い物語だ」という肉が一緒についてきます。そしてこの肉は、F。さんの手により作られ育てられたものです。
対して「大きい物語だ」は「これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。」とは直接関係ありません。明治の社会の動きや昭和の終戦については飽くまで本作とは別のラインで進行していく事象ですから。例えるなら服です。話の骨を引っ張ったときに、この「大きい物語だ」という服は一緒についてきません。そしてこの服は実在の日本の近現代史ですので、既製品を持ってきたものです。

本作は話の骨に構成や含意を貼り付けて深みを持たせ、更にその上に明治・昭和という時代のワイヤーが通った厚い服を着せることによって濃くて大きい物語を生み出しているのです。
読者が肉に着目したのか服に着目したのか、肉に着目すればいい評価ですが、服に着目すれば改善点を思うのかもしれません。肉に着目した方なら「シンプルなストーリーなのに、すごく奥深いものを感じる」と思われるでしょうし、服に着目した方ならば「シンプルなストーリーなのに、関係ない要素でバランスの悪さや文章の薄さを感じる」と思われるかもしれません。

しかし話に直接関係ない時代のラインがあること自体は何ら問題はないはずです。明治及び昭和という時代を示すことができますからね。話に関係のない要素は余計だ、というのは暴論でしょう。
では何故フィンディルは「大きい物語だ」、つまり明治・昭和の時代を感じさせる部分に対して悪印象を抱いているのか。

F。さんが本作に明治・昭和の時代を示す文章を入れた意図は、別の方の感想への返信でも仰られていましたが、キーワードによって時代を連想させるという意図があります。また雰囲気を出すためという意図もあるのかもしれません。作中に太い背景を通して、同時に作中に雰囲気を出す。
しかし「時代を連想させる」という目標については、達成しすぎているように映ります。100%どころか、200%くらい達成してしまっている。過ぎたるは及ばざるがごとしとあるように、過達成は未達成と同義です。
過達成になっている原因は、言葉の質と出し方にあります。
本作において明治を示すものは「フロックコート」「文明開化」「何でも、今度の戦~広島に置かれた議会。」、昭和を示すものは「八月十五日。」「玉音放送」「満州」が見当たります。
「フロックコート」という明治の示し方は上手いと思います。服装というのは文化ですから、「フロックコート」が明治~大正の男性服装として着られていたという情報を知ると、ふわっと明治の香りがします。明治の連想のキーワードとしてとても上手いと思います。

しかし「何でも、今度の戦~広島に置かれた議会。」という件は日清戦争を指していますが、こちらは力が強すぎるキーワードです。日清戦争というキーワードは明治を連想させるどころか、その先の色々な情報や情景すら連想させてしまう情報だからです。
ただし後の項目で触れますが、日清戦争は人が戦争をするという要素を持つ重要なキーワードですので、出すこと自体は必要なことです。
ただ出し方がよくないと思います。F。さんは明治を連想させて同時に人が戦争をする要素も出すという二つの目的を満たす日清戦争を、文章を割いて強めに示しています。広島に議会を置いたという情報を添える辺りによく表れていますね。
更に「鵺」の発言が日清戦争を指しているということを読者にはっきりと把握させるために「私」に「今度の清との戦争。広島に置かれた議会。」「明治に入って、初めての対外戦争。」と独白させ、読者用の解説までさせています。
複数の役割を持ち、しかも作品構成にとって重要な意味合いもある日清戦争を、抜かりなくきちんと強調して示しておきたい。そういうF。さんの意図を窺うことができます。
しかし先にも述べましたが日清戦争というキーワードは明治を連想させるには強すぎて不適です。また人が戦争をする要素を印象付ける場合は広島議会など具体的な情報でなくても、抽象的な言い回しでも十分可能です。日清戦争とはっきりといわず「今度は大陸と戦をするようだ」程度の情報に抑えても、人が戦争をするという概念自体は問題なく十分伝わるのです。また時代が明治ということを把握していれば、大陸との初戦争=日清戦争であることは問題なく理解できます。
広島議会という情報や読者向けの解説まで添えて日清戦争に文章を深く厚く使うことは、明治を連想させるという目的には過達成で不適切ですし、人が戦争をする要素を印象付けるには必ずしも必要でない作業です。
日清戦争が強いキーワードであることを自覚して、明治を連想させすぎないように薄く抽象的にしても、人が戦争をする要素を印象付ける目的の邪魔をしません。
勿論読者にそれが日清戦争であることを把握してもらうのは必要ですが、本作のように「これは日清戦争だ」とはっきり解説するのと、示唆により読者に「日清戦争のことだな」と気付かせるのは大きな違いがあります。前者は作中の文章ですが、後者は作中から読み取れる情報なので、読者の連想の伸びしろが全く変わります。作中に「日清戦争」と書けば読者は日清戦争をスタートにしてあれこれ連想してしまいますが、作中に日清戦争を示唆する文を書けば読者は日清戦争をゴールにした連想を行い、その先までは連想をしません。
「明治を連想」させるという目標を達成させすぎない工夫が求められていたように思います。

強いキーワードを用いたことによって連想が大きくなり、結果話自体も大きくなっています。しかもこの大きくなった部分は本作が求める連想の程度を超えてしまっているため、その先は無駄な領域です。しかもこれは実在の近現代史なので作品としてはみなされません。歴史物などは実在の歴史と話を密接に絡ませることで歴史と話を融合させてますからね。「時代を連想」で達成しすぎた部分によって話自体が不必要に大きく見えているので、作品のバランスが歪に感じられて、またその「時代を連想」に圧迫されて他の文章が薄く感じられ、フィンディルは悪印象を得ているのです。
「時代を連想」という目標を100%達成したならば時代のジャケットを一枚羽織る程度で済むので作品の格好がついてバランスは崩れませんが、200%達成しているのでワイヤーの通ったしっかりした衣装を着て着膨れしているように見えるのです。1500字には1500字が着る服のサイズというものがあるのでしょう。
結果、
―――――――――――――――――――
これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。
―――――――――――――――――――
を見たときに得た余韻の質が、フィンディルは低く感じました。
「濃い物語だ」から感じた作品の深みと「大きい物語だ」から感じた作品の贅肉で、なんとも中途半端な読後感となってしまいました。


●語彙を置くだけでは、雰囲気出しは足りない

時代のキーワードを出す意図としてフィンディルが予想しているのが「時代を連想させる」「雰囲気を出す」の二点ですが、この「雰囲気を出す」というところは実は不足しているのではないかと思います。
F。さんは本作の雰囲気出しについて語彙を用いることで対応しています。先にも出した「フロックコート」を始めとして「竹林」「蔓帯紋の着物」「高下駄」「鵺」「細君」「匕首」といった語彙を用いて雰囲気を出しています。
なお日清戦争などのように時代性の強いキーワードは本作が求める雰囲気とは異質な雰囲気を出しています。この雰囲気により多層的な色合いが出てはいるのですが、パワーバランスとして理想は本作の雰囲気勝ちで日清戦争の雰囲気は控えめがいいのに対し、現状では日清戦争の雰囲気勝ちになっているので、そういう点でも日清戦争をもっと抑えめに書き出すのがいいのではないかと思っています。飽くまで本作の本筋の雰囲気が主で、ですね。

話を戻しますが、本作の雰囲気出しは語彙を用いて行われていますが、実はこの方法では雰囲気出しが不足しているのではないかとフィンディルは見ています。
文章全体で見た場合、語彙は点のようなものです。点では作品という立体の雰囲気を出すには力不足です。また語彙というものは、造語は別ですが、ほとんどは作者が作ったものではなく既製のものを使います。ですので語彙をそのまま置くだけではその作品のその作者の雰囲気を出すということは十分にはできないのです。
例えば冒頭で「竹林」という語彙を出しいかにも伝奇という雰囲気を出したのはいいのですが、最初に描写を入れただけで後は「竹林」という語を出すばかりで「竹林」という語彙に頼りきりになっている印象があります。
また「蔓帯紋の着物」「高下駄」も最初に「鵺」の容貌描写として出したっきりで、その後「鵺」が着物を着ていると感じさせる文章は一切ありません。
「匕首」もそうですね。「私」が使う武器として「匕首」を持ってきましたが、武器を「匕首」にしただけでこれも語彙頼りです。
多くの箇所で語彙をそのまま置いているだけで、その語彙そのものが持つ雰囲気に頼りきりになっているというのが文章を読んだ印象です。そのため雰囲気の出方にムラがあり、また力不足を感じます。
語彙という点で雰囲気を出すのではなく、文章という線や場面という面で雰囲気を出すことで作品全体に雰囲気が満ちるようになるのではないかと思います。
既製品の語彙ではなくF。さんご自身が作り出す文章を主としないと、その作品のその作者の雰囲気というものは出ません。

例えば「竹林」ならば「鵺」を斬り付けて血が噴き出して倒れた場面で鵺の血が落ちた笹を染めていくという一文を入れるでもいいですし、「私」が逃げる場面で竹を避けていく一文を入れるでもいいです。
「蔓帯紋の着物」「高下駄」ならば「鵺」が動作をするときにちらりとこれらを入れた文節を混ぜたり、倒れたときにも文を入れてもいいです。
「匕首」はなかなか活かすのは難しいですが、逆にこちらは使用回数を減らして雰囲気出しを頼らなかったりなどですね。現状は「匕首」を使いすぎでしょう。

別に気合を入れた描写をしろということではないのです。雰囲気のためだけの厚い描写は本作にはかえって逆効果になるかもしれません。ですが「鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。」を「鮮血が迸る。彼? はそのまま落ち笹の上に倒れた。」にしたり「私は凍りつく。奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。」の後に「フロックコートが脈打ちながら膨らむ。」を入れたりなど。短くも効果的な、気が利いた文節や一文をちりばめるということが、本作の雰囲気出しに貢献するのではないかと思います。
他にも「私は話を切り出す。」「私は彼? の顔をのぞき見る。」「私はもう一度尋ねる。」というなんでもない文章には工夫が見られません。こういった何でもない文章にも神経を通して工夫を施して、ちょっとした香りが出るような文章にされるといいのではないかと思います。
本作が中編や長編ならば全ての文章を凝るというのは読み疲れてしまいますが、1500字ですから読み疲れる前に読み終わりますからね。それにこういった小さな工夫は描写を凝るとはまた別のお話です。
描写を足して文字数を足していこうということではありません。また設定や情報を足していこうということでもありません。ひとつひとつの文章にも工夫を施して磨いて、あらゆる方向から雰囲気を出していこうということです。

なお本文章中で本作の文に例示としてフィンディルの描写を足させていただきましたが、それらはフィンディルが即興で考えたものであり、決してこのようにするといいという例示ではありませんのでご注意ください。もし文章向上に着手されるならば全く別の言い回しに挑戦することをオススメします。

(誤字誤用の修正という範囲を逸脱した文章加工をしたのは、大仰な描写を入れるのではなく小さな工夫を施すということを示すためにいたしたものです。そのような意図はありますが、作者様の文章に対して無断で度を越した加工を施してしまったことを謝罪いたします。申し訳ありません)


●「明治→昭和もの」と「不老もの」の面白さ

本作の面白いところ、及び本作のオリジナリティです。
読者の中には本作を「明治もの」と捉えられている方もいらっしゃるかもしれませんが、本作は「明治もの」ではなく「明治→昭和もの」です。
明治から始まり昭和で終わる作品です。私はここに面白さを感じました。

作中の時間の範囲は事実上明記されていまして、日清戦争の1894年から第二次世界大戦終戦の1945年までの約50年です。
思えば日清戦争が始まって第二次世界大戦が終わるのがほぼ50年というのも新しい気付きで、ここ自体にも面白さを感じます。
しかし50年です。人間の寿命はおよそ50年を超えますので、著名人物の一代記でも描けば「明治→昭和もの」というのはありますでしょう。
そしてもうひとつが「不老もの」です。主人公などがとある事情で不老になってしまい、年月を無為に過ごしてしまう。友人や家族などとは死に別れてしまい、老いず死なずの運命に苦悩する。こちらはまあ氾濫している作品設定ですね。

しかしこの「明治→昭和もの」と「不老もの」が掛け合わされるととても面白い読み味を発揮します。
通常「明治→昭和もの」というのは人物の一代記になることが多く、その時代時代の様相に強く影響を受けます。時代を反映した生き方、あるいは時代に影響を与える生き方と、とにかく時代を強く生き抜き時代に影響を与えた人物を骨太に描きます。
一方「不老もの」の登場人物は年月を無為に過ごします。そして本作の「私」も不老ゆえに家族に先立たれ、終戦の玉音放送を遠くで聞いています。時代の大きな変換点であっても不老を有したものは時代を無為に生きるのです。これがとても面白いですね。通常ならば人生の大きなこととなる終戦が、人生がどこまでも続く「私」には響かない。
「明治→昭和もの」が通常掲げる「激動の数十年」が「不老もの」と掛け合わされることにより「ただの数十年」になるのです。

また日清戦争から第二次世界大戦終戦までは五十年あります。通常人間というのは50年あれば人生のライフステージは大きく変わり、人生観や考え方も大きく変わります。
日清戦争で0歳なら終戦では50歳、日清戦争で10歳なら終戦では60歳、日清戦争で20歳なら終戦では70歳……とどういう場合に照らし合わせてみても、日清戦争時点と終戦時点では老いも考えも様々なことが変わってきます。若くして体験した日清戦争と年老いて体験した第二次世界大戦と、見え方が違ってくるのは当たり前だろうと思います。
しかしここに「不老もの」が入ると日清戦争も終戦も同じ年で迎えることになります。同じ容貌で迎えますし、考え方は変わるでしょうがそれは年による考え方の変化ではなく不老による考え方の変化です。通常の「明治→昭和もの」では有り得ないような視点観点で、日清戦争と終戦の両出来事が迎えられるのです。
「私」は変わらないのに時代は変わっていく。日清戦争と終戦を同じ姿で見る。そこに妙を強く感じます。

また逆に「不老もの」から見た場合でも面白さがあります。通常「不老もの」は1000年や10000年が軽率に経過するほど、年月というものが軽んじられます。経過年数は重要ではなく、すごく長い間というのが重要ですからね。
しかし本作では経過する50年に通常の「不老もの」にはない余韻が含まれます。読者は「明治から終戦までのあの50年なのか」と強く認識することができますからね。「私」にとってこの50年が「ただの50年」であったとしても、読者にとってはこれは「ただの50年」ではありません。明治からいきなり終戦に飛んで驚きを覚えた方も多かろうと思います。

「明治→昭和もの」単体でも「不老もの」単体では得られない読み味が、掛け合わされることによって生み出されているのです。とても面白いと思います。上手く合わせたなと思いますね。
そもそも「不老もの」でもない限り「明治→昭和もの」という厚い題材を1500字で扱うことはほぼ不可能ですからね。「不老もの」のお陰で「明治→昭和」を「ただの50年」にすることができたのです。

またもうひとつ面白い点があります。
通常戦争を扱う際は、満州事変や日中戦争など1930年代を始めとして1945年まで描きます。しかし本作では1890年代の日清戦争を始めとして1945年まで描きます。
単純にこの切り取り方が目新しいなと思いましたし、第二次世界大戦だけを指して戦争を表現するよりも、日清戦争から含めて戦争を表現する方がより人間普遍の業というものが際立ちます。「鵺」の人に対しての見方とも合致しますね。
また「不老」という設定が持つ「時代を広く長く見る」という特徴を上手く活かし表現した工夫だと思います。
面白いです。
ここの面白みがありますので、「明治を連想」させるにおいて日清戦争が強いキーワードであっても、日清戦争自体は作中に示す必要性があったとフィンディルは見ています。先述の通り、出し方は向上の余地ありだと思いますが。


●何故「明治→昭和もの」ではなく「明治もの」と捉えられるのか

上の項目で「明治→昭和もの」と「不老もの」の組み合わせの面白さを話させていただきました。
しかし他の方の感想を見ると、本作を「明治もの」と捉えられている方が散見されます。ですが本作は終戦の時点で話が終わっているので「明治→昭和もの」と見るのが正しいはずです。
何故「明治もの」と捉えられるのでしょうか。

それは本作において明治のイメージが強すぎるからです。
「私」と「鵺」が出会い「私」が「妖」になるきっかけを描いたのは明治のシーンだから明治のイメージが強くなるのは仕方ないと思いがちですが、実はそうではありません。「私」が「妖」になるシーンは明治とは直接関係ありませんからね。このシーンは江戸時代でも戦国時代でも成立する場面であり、シーンが長いから明治が強いというのは誤りではないにしても的確ではありません。
要は明治を印象付ける文章が多いのに対し、昭和を印象付ける文章が少ないというのが理由でしょう。
明治を印象付ける文章というのは上の項目でもお話した日清戦争の件などが特にそうです。明治より先を連想させる語なので、当然明治自体も強く印象付けられます。
更に「フロックコート」や「竹林」「蔓帯紋の着物」「高下駄」「匕首」といった語彙も昭和よりも明治に寄った語彙です。
反対に昭和を印象付ける語彙は「八月十五日。」「玉音放送」「満州」の三つのみです。しかもこれは昭和というよりも第二次世界大戦の終戦をイメージするものであり、昭和のイメージとしてはややベクトルが違う印象があります。
結果、強い明治のイメージと、やや弱い終戦のイメージということで「明治もの」という印象が定着してしまうのでしょう。

もしかしたらF。さんの認識としても「明治→昭和もの」ではなく「明治もの」のつもりなのかもしれません。
しかしフィンディルは「明治もの」よりも「明治→昭和もの」ということを認識して印象付けた方が格段に作品が面白くなると考えています。
「明治もの」と「不老もの」を足してもそれはまま見かける「伝奇もの」でしかないからです。明治の雰囲気の中で妖怪に出会うお話というのはどこにでもあり、そこにオリジナリティはありません。
しかし上の項目でもお話させていただいた通り、「明治→昭和もの」と「不老もの」には新鮮な読み味がありそこにはオリジナリティが存在しているのです。
勿論オリジナリティはあった方が絶対お得、ということではありません。しかし本作は確かなオリジナリティがちらついておきながら、明治と昭和のバランスの見せ方によってそのオリジナリティを印象付けられていないという中途半端な状態にあります。
そしてこの中途半端な状態を単なる「明治もの」に矯正することは逆に難しいです。明治に不老になった「私」が大正や昭和を全く感じさせずに生き続けるのはとても不自然ですからね。
ならば「明治→昭和もの」というオリジナリティ溢れる方に導くことの方が自然です。現在の中途半端な状態を改善するなら「明治→昭和もの」ということを強めるのが自然。しかもそこには本作のオリジナリティがあり、読み味や余韻も面白いものがある。ならばそちらの方に進まない手はないでしょう。
本作は現状、オリジナリティがそこにありながら、見せ方の問題でそのオリジナリティを十分に届けられていないという状態にあるのです。読者の「明治もの」という認識のされ方が証拠です。ならば届けるのが自然ですし、届けた方が面白いです。

ではどのようにすれば、明治と昭和の印象を均等に近付けられるか。フィンディルには幾つか策があります。
そもそも上の項目にて、本作は「明治を連想させる」を200%達成して着膨れしているので100%に落としましょうという指摘をさせていただきました。日清戦争を具体的にではなく抽象的に示した方がよいという解決策も出させていただきました。
この時点で明治を薄くするということはある程度できていると思います。現実問題、場面に割く文字数や話の構成上のこともあるので、昭和よりも明治の方が若干強くなるのはおよそ必至です。ただ明治と昭和のイメージをイーブンにするのが目的ではなく、読者に「明治→昭和もの」という印象を持たせればいいので、多少の差はあまり気にしなくていいです。

明治を薄くしたならば次は昭和を濃くします。しかし本作の締めということもあるので、場面を追加するのはよくありません。
フィンディルは昭和を強くする幾つかの小さな工夫を持っています。
まず、夏という印象を強くする。終戦は八月十五日ですから夏です。ドラマなどでは終戦のシーンは夏の印象が非常に強いです。
何か夏というイメージを感じる簡単かつ効果的な文章を入れるといいのではないかと思います。その際に明治のシーンの「竹林」とギャップを感じられるものがいいと思います。
青空や蝉、あるいは野原などでもいいのではないかと思います。明治の「竹林」とは全く場面が変わったということを印象付け、読者に終戦のあの情景を強く想起させましょう。

また「玉音放送」ではなく「ラジオの肉声」などでもいいのではないかと思います。「玉音放送」は終戦を強くイメージさせる語彙ですが、「ラジオ」は昭和をイメージさせる語彙です。
「八月十五日。」が終戦を強くイメージさせる語彙なので、「玉音放送」で再び終戦をイメージさせる必要はあまりありません。ならばここは昭和の雰囲気を出すのを優先して「ラジオ」としてもいいのではないかと考えます。「八月十五日。」「ラジオの肉声」とあれば玉音放送であることは十分示せます。

そして最後ですが、「鵺」に昭和の格好をさせてそれを描写することがとても大事だと思います。
冒頭の「そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。」という文章はとても明治を感じさせる文です。「着物」「フロックコート」「高下駄」という組み合わせは明治の香りをとても感じます。単純に明治を連想させる文章としてとても優秀な一文だと思います。冒頭に据えたのもいいですね。そしてこれは長命な「鵺」が流行に乗る性格であることを示し、つまり世の流れを見ているということを裏付ける描写でもあります。「鵺」のキャラ付けにもなっています。
この「鵺」の容貌描写を昭和の場面にも挟みこむことはとても効果的だと思います。明治期に明治の格好をしていた「鵺」が昭和期に昭和の格好をしていないわけがありません。また「鵺」は国民服を着ないでしょう。戦争が激化する前の昭和に流行った服装をしていると考えるのが自然でしょう。
「鵺」にそのような格好をさせてそれを描写するということが、「鵺」のキャラをより深める一文になります。
そして冒頭の文が優れた明治の香りを漂わせるのと同時に、優れた昭和の香りを漂わせる文にもなるでしょう。

勿論これらはフィンディルが即興で考えただけの案であり、F。さんが採用するか採用しないか、そもそも昭和を濃くするかどうかもF。さんの自由です。
しかし明治を薄め、そして昭和を濃くすることによって読者に「明治→昭和もの」という印象が付いて、本作のオリジナリティがよりしっかりと認識されるのではないかと思います。
上の「雰囲気出し」の項目でもお伝えしましたが、気合を入れた描写を厚く入れる必要はないです。ただそのような雰囲気出しの文節や一文を入れて空気を調節することで、本作の魅力をよりきちんと届けられるのではないかとフィンディルは考えています。


●「私」の行動と、人が戦争をすることの対比

本作には二つのラインがあります。「私」が妻の病気を治すために「鵺」を殺そうとした結果自身が不老になったという本筋のラインと、明治に人が外国へ戦争を仕掛けて昭和の戦争で多くの人が死んで終戦したという脇のラインです。
この脇のラインを強く見せすぎましたねという指摘をさせていただきましたが、この脇のラインはとても大事な役割を担っています。

本作の明治のシーン、「私」と「鵺」が対するシーンに二箇所、気になる点があります。フィンディルが含意を感じ、優れていると考えている二点です。

まず「私」が「鵺」のことを「彼?」と何度も呼称していた点。「私」は「鵺」の容貌を見てその性別を判断できずにいます。そして「彼?」と「鵺」の性別がどちらであるのかをわからないことを幾度となく示しています。
ここに意味を見出すことができます。
性別を気にするということで、その相手を人間と認識しているということを表現しているからです。勿論相手が「鵺」ではないかと勘付いているのですが、「鵺」だと勘付いたうえで人間相応の認識をしている。相手が犬や猫という動物、あるいは妖怪ならば性別がオスであるかメスであるかというのは大して気になならない情報です。わからないならわからないでいい。呼称する際も性別が関係ない「犬」や「猫」「獣」「妖怪」「こやつ」などといったものを用いるでしょう。
「私」が「鵺」に対し「彼?」と何度も用いていることは、「鵺」のことを人間とみなしているということを如実に示す言葉なのです。
(人間相手なのだから性別を気にするということの是非は別です。人間を見たらまず性別を気にすることに対してフィンディルは批判的ですし、改めていくべきだと思います。しかし人間は他の人間の性別を気にしたがるという風習を持っていますし、その風習をもって相手を人間とみなしているという表現は成立すると考えます)

ただしその後、「私」は上記に矛盾する行動を取ります。
―――――――――――――――――――
 私はもう一度尋ねる。

「本当に、鵺はいないのですか?」
「少なくとも、某は知らぬよ。そんなことよりも、細君は医者に診せたのかえ?」
「医者には匙を投げられました。肺の病です」
「そうか。気の毒なことよ」

 彼? は目を伏せた。

 私の懐の匕首が彼? の首を掻っ切る。
―――――――――――――――――――
あまりにも一方的な殺傷行為です。
「鵺はいないか?」と「私」が尋ね「鵺」が「知らない」と答えた。しかし「私」は目の前の者を「鵺」だと思っている。「鵺」が嘘を吐いたのならば血を分け与えるつもりはないのだろう。じゃあ殺してしまえ。
随分と一方的な考えです。交渉しようという素振りすらありません。「私」の目的を達成できなさそうだったらすぐさま実力行使。「少しでもいいから血を分け与えてもらえないだろうか」と何度も頼み込むのが、最低限の行動ではないでしょうか。
更に、
―――――――――――――――――――
 やはり、彼? は鵺なのか。
―――――――――――――――――――
とあるように「鵺」が「鵺」であるという確証も持たぬまま殺傷行為をしています。
しかし「私」にはそれをする動機があります。妻の病気を治すためです。この動機のもとでは「鵺」は妻の病気を治す手段なのです。手段とは物であり、このとき「私」は「鵺」を物と見ている。物と見ているからおよそ人相手とは思えない身勝手で非人道な言動に及んでいるのです。

つまりこの場面の「私」の行動とそこに見える考えです。
「鵺」のことを人あるいは人相応と認識しています。しかし同時に妻の病気を治す手段つまり物とも認識しています。人に対しての対応を表面的には取りつつも、切羽詰った目標を達成できそうにない気配を感じるや否や、物としての対応で身勝手な言動を取る。
この「私」の考え方を端的に表現している「彼?」と、交渉のない唐突な殺傷行為。いずれも「私」を示す素晴らしい表現であるとフィンディルは考えています。素晴らしい矛盾です。

そしてこの「私」の言動は、戦争を行う人に重ねて見ることができます。
外国の人のことを人と認識しているが、物資の困窮打破や領土拡大など目標を達するためならば、武力を行使して殺戮することを厭わない人という存在。
「私」の行動はそのまま人の行動に繋がります。「鵺」を殺そうとした「私」と、戦争を起こそうとする人はおよそ同じ行動原理を持っているのです。
「鵺」は「私」の行動にそれを見たのでしょう。
―――――――――――――――――――
「人の子よ、やはりおぬしらは遠からず死に絶える! 某が手を下すまでもないわ。せいぜい、足掻いてみるがいい!」
―――――――――――――――――――
「人の子」は「私」個人を指しますが、「おぬしら」は人全体を指しています。
これは言葉を使い間違えたわけでもなんでもなく、「私」が行った行動は人が行う行動であるということを明確に示す発言なのです。「鵺」は「私」の言動に、人の行動の凝縮を見たのですね。

よくよく対比のきいた、素晴らしい構成だと思います。

そして対比はここで終わりではありません。
そのような行動を行った「私」、そして人はどうなったのか。
人は戦争を行い、目的を達成するどころか多くの人が死にました。対して「私」は妻を救えず、代わりに自分は不老つまり不死になりました。
どちらも目的を達成することはできず、代わりに大きな代償を得たのです。ただ代償の種類は違います。
人は死を、「私」は不死を。およそ対義関係とも思える代償を得ました。
しかしどちらも苦しんでいる。死の苦しみと、不死の苦しみ。どちらもとても苦しく、そしてそれはどちらも自らの行動の報いです。
死と不死という真反対のそれぞれが、しかしどちらも似たような苦しみをもたらしている。
とても余韻のある結末、とても面白い対比だと思います。

「私」は妻の病気を治すために「鵺」に対し身勝手な殺傷行為をし、しかし妻の病気は治せずに自分は不老(不死)という重い苦しみを受ける。
人は物資を得るためや領土拡大のために外国に対し身勝手な殺戮行為をし、しかし目的は果たせずに多くの人が死に重い苦しみを受けた。
(この「人」は特定の国を指すものではありません。かつて戦争を行った全ての国であり、目的達成の有無は些末なことです)

終盤で「鵺」が「私」に話しかけたのは、「私」が行動による報いを受けたという認識をしたからなのではないかと推測しています。
自分を殺そうとした「私」に対して「こちらへ来ないか?」と優しく誘ったのは何故だろうと思ったのですが、不老(不死)という報いを十分受けたと「鵺」が感じたからではないかと思います。もう「鵺」自身が罰を下す必要はないと感じたのかもしれません。ならば「鵺」ができる慈悲を与えようと。
またそれが終戦という、人が報いを受けた象徴的なタイミングであることも意味が深いです。


●序盤のテンポのよさで、霞む「私」の行動

前項で「私」の行動と人との対比など褒めさせていただきましたが、やはり見せ方がどうも、という箇所があります。
本作は全体的に、作品の構成や含意は素晴らしいのですが、その見せ方で魅力を軽減させてしまっている印象があります。

本作の序盤の竹林のシーンなのですが、テンポが速いです。
小見出し?で「私は竹林に入った。」「得体の知れぬ叫声が鳴り響く。」「日の光が笹に防がれ、暗がりとなった竹林の奥。」と、竹林に入って、すぐに何者かの気配を示して、すぐに竹林の奥まで進みます。そしてすぐに「鵺」が登場、すぐに「私」が妻の病気のことを話し日清戦争のことで文を取りますが、妻の病気のことに戻るとすぐに殺傷、すぐに血を採取してすぐに立ち去り、すぐに鵺が復活?しすぐに竹林から外に逃げます。
と、非常にテンポが速いのです。
かなりのスピード感をもってこのシーンが進んでいきます。

それ自体は全然構わないのです。ひとつひとつの動作に文章を割く必要なんてありませんから。話に必要な動作だけを示せば作品としては十分なのです。
雰囲気出しは別ですよ。ただこのテンポ感を守って雰囲気を出すことも可能でしょう。

ただしこの中にとても大事な行動があります。前項でもお話した通りですが、「私」が「鵺」を殺傷する場面です。
先ほど私はろくな交渉もない非常に唐突な殺傷行為に注目し、そこに見て取れる含意を褒めさせていただきました。この唐突な殺傷行為こそ、人が持つ業を端的に示す箇所なのです。
が、如何せん場面全体のテンポが速い。「私」の全ての行動、竹林に入る、竹林の奥に進む、「鵺」に話し掛ける、「鵺」を斬る、血を採取する、竹林から逃げるという全ての行動のテンポが速くて、この「鵺」を唐突に斬るというとても大事な行動が埋もれてしまっているのです。
「鵺」を唐突に斬るも、テンポが速いの一行動の中に数えられてしまっているのです。全ての行動が唐突なので当たり前です。「鵺」を唐突に斬る行動にはとても大事な意味が込められているのに。少なくともフィンディルが見る「私」の言動の肝はここです。「鵺」を殺そうとしたことも大事ですが、それ以上に躊躇も交渉もなく唐突に「鵺」を殺そうとしたことにこそ意味があるのです。そこにこそ、「鵺」を人かつ物として見ているという表現が込められています。
しかし場面全体のテンポが速いので、この行動もテンポが速いのひとつになってしまっている。埋もれてしまっている、霞んでしまっている。

F。さんが「私」が「鵺」を唐突に殺そうとした行動が重要であると認識しておられるのならば、竹林の場面全体のテンポを速くしてしまったのは非常にまずい手だったと思います。
ここに関しては文字数を膨らませてもいいので丁寧に見せるべき場面だと思います。他は丁寧に見せて、しかし殺傷の場面だけは唐突に見せる。こうすることで「私」が唐突に「鵺」を殺そうとしたことが映えて、そこに込められた意味や全体の構成・対比が読者に届きやすくなると思います。

「何でこの人はこうも急に鵺を殺そうと」と読者に引っ掛からせることがとても大切だと思います。しかし現段階では「テンポ速いな」という印象しか得られない可能性が高いです。

F。さんが「私」が「鵺」を唐突に殺そうとした行動が重要であると認識しておられるならば、竹林の場面のテンポを改善すべきだと思います。
もし重要であると認識しておられないならば、とても重要であるとだけ申させていただきます。理由は上述です。


●鵺へのこだわりが、あるようなないような

本作には、実際に伝承が残る妖怪「鵺」が登場しています。
一般的に「鵺」というとどのような妖怪をイメージするでしょうか。
ウィキペディアには「『平家物語』などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾は狐になっている。さらに頭が猫で胴は鶏と書かれた資料もある」とあるように、キマイラのような見た目をイメージする方が多いと思います。
しかし本作の「鵺」には上記のようなキマイラを思わせる描写はありません。むしろ鳥の妖怪を思わせる描写が印象的になされていると思います。

実は『平家物語』に登場する時点では、この妖怪が鵺であるとは記述されていません。
「猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇で、鵺のような声で鳴く」というような記述がされているとのことです。つまりこのキマイラの鵺は当初鵺ではありませんでした。元々の鵺は、姿が見えずどこからか鳴き、その寂しげな鳴き声で凶兆を知らせる怪鳥であるとされていたようです。キマイラの鵺は怪鳥鵺のような声で鳴いていた名のない化物でしたが、いつの間にかその化物のことを鵺と呼ぶようになったらしいです。キマイラの鵺がどう見ても鳥には見えないのに「鵺」という漢字が充てられているのはそのような経緯があるのでしょう。
鵺には怪鳥鵺とキマイラ鵺の二種類存在すると考えてもいいでしょう。一般的にイメージされる鵺はキマイラ鵺ですが、元々の鵺は怪鳥鵺なのです。

そして本作に登場する「鵺」はキマイラ鵺ではなく、怪鳥鵺をモチーフにされているように感じます。ここにF。さんのこだわりを感じます。特にこだわりがなければ、一般にイメージされて文章映えするキマイラ鵺の描写を入れるのが自然ですからね。描写材料にも事欠きません。しかしそうはせず、鳥を印象付ける描写に絞っています。
また怪鳥鵺は姿を見せずどこからか鳴き声を響かせる存在です。「それは私にははっきり見えなかったけれど、のちに私はその生き物が鵺であることを知る。」という一文は、その怪鳥鵺を尊重した一文なのではないかと思います。怪鳥鵺ならば鳥の姿の鵺を細かに描写するのはおかしい話ですからね。

キマイラ鵺ではなく怪鳥鵺にこだわった。ここにはひとつ意味があるのではないかとフィンディルは推測しています。
キマイラ鵺はその姿が印象的な怪物にすぎませんが、怪鳥鵺は凶兆を知らせる存在です。そして本作では竹林の場面で「鵺」は怪鳥鵺として鳥のシルエットを見せて存在感を示した。これはおよそ凶兆としては十分です。
実際そこから月日は流れ、「私」は不死・人は死と報いを受けます。怪鳥鵺が凶兆を知らせたのならば、それはこのことを指すのでしょう。
またこれを凶兆と捉えた場合、面白い考察を入れることもできます。通常凶兆とは何の前触れもなく訪れるものでありますが、本作は怪鳥鵺が凶兆を知らせるきっかけが明確に示されています。「私」が唐突に「鵺」を殺そうとしたことを受け、「鵺」は人の愚かな行動を見定め怪鳥として凶兆を知らせるのです。凶兆を知らせるには確かな根拠があるのだ、ということを読み取ることができる部分ではないでしょうか。ならば凶兆とは単なる未来の予言ではなく、未来への警鐘と解釈することも可能です。
凶兆を知らせる怪鳥鵺という言い伝えを上手く利用した箇所なのではないかとフィンディルは見ています。

が、一方こだわりを感じない箇所もあります。
怪鳥鵺はその鳴き声によって凶兆を知らせるのですが、本作で「鵺」が怪鳥になったとき鳴き声は上げませんでした。冒頭に「得体の知れぬ叫声が鳴り響く。」と怪鳥鵺が鳴いていることを思わせる文が入りますが、このタイミングではなく「鵺」が怪鳥になったタイミングに鳴くのが適切なのではないかと思います。
また、
―――――――――――――――――――
「くけけけけ!」

 私は凍りつく。奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。
―――――――――――――――――――
の場面でも鳴き声を上げていると見えますが、ここでは「奇妙な獣の声」と怪鳥鵺ではなくキマイラ鵺を思わせるような言い回しになっています。
そして何より、怪鳥鵺は「くけけけけ!」とは鳴きません。
怪鳥鵺の正体は山林に棲むスズメ目ツグミ科の鳥トラツグミであるとされています。このトラツグミの鳴き声に昔の人々は凶兆の訪れを感じたのだろうというのが定説です。
そしてこのトラツグミは「ヒョー、ヒョー」や「キーン」といった金属質な口笛のような声で鳴くようです。このような鳴き声が夜に響いたら確かに不気味に感じるでしょう。YouTubeで確認しましたが確かにそのような鳴き声で、とても「くけけけけ!」とは似ても似つきません。
本作の「鵺」が怪鳥鵺であるとこだわるのならば、ここの鳴き声は「ヒョー、ヒョー」と金属質な口笛という風にするのがいいのではないかと思います。
怪鳥鵺はトラツグミとは別に確かに存在し、トラツグミと鳴き声が似通っているだけということで。

本作の「鵺」は明らかにキマイラ鵺ではなく怪鳥鵺を前提とした描き方をしています。キマイラ鵺でキマイラ的容貌を示さないわけがありませんし、鳥の描写が強いですから。
フィンディルはそこにこだわりを感じて好印象を得ました。しかし怪鳥鵺が鳴き声によって凶兆を知らせる表現、鳴き声がトラツグミ風であるとの表現が見られないため、こだわりは感じるがこだわりが行き届いていないという中途半端なこだわりに終わっているように思えます。好印象もしぼんでしまいます。

また人の姿のときの
―――――――――――――――――――
まだ若そうなのに灰色の髪を持ち、爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
―――――――――――――――――――
は何かをモチーフにしているのか、モチーフにしているなら何なのか、何とも判断がつきません。鳥である雰囲気を感じなくもないですが、瞳孔が縦に細いのは鳥には見られず、やはり猫などの哺乳類に見られます。
人の姿のときなのでこれといった意味がなくても構わないとは思います。ただのデザインなのかもしれません。が、最後に
―――――――――――――――――――
今も私は、灰色の髪をして紅色の目を持つ鵺とともに生きている。
―――――――――――――――――――
と繰り返しているので、このデザインに何か意味があるのではないかと勘繰るのも自然なことでしょう。

どうも、鵺の扱いにこだわりがあるような、こだわりがないような、そんな中途半端な印象です。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。
一部上の項目と被った内容があります。

・得体の知れぬ叫声が鳴り響く。
上の項目でも触れましたが、これは「鵺」が怪鳥鵺であるということを示した文でしょう。
その点ではいいと思うのですが、何故ここで鳴いて「鵺」が怪鳥となった場面で鳴かなかったのか、いまいち腑に落ちません。

・そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。
「蔓帯紋」とは着物の模様のひとつです。その模様が「蔓帯紋」である意味をフィンディルは見つけられませんでしたが、この模様がある着物ということはおよそ女性用の着物であると推察されます。男性用の着物は無地が多いですからね。
一方「フロックコート」とは明治から大正に流行った男性用の服装のことです。
つまり「鵺」は女性用の着物と男性用のコートを着ているということになり、このことを指して「私」は「鵺」の性別を決めあぐねたことが窺えます。「鵺」が中性的であるという「私」の判断のさせ方として無駄がない、スマートで上手い方法だと思います。
また「私」が服装を見て性別を決めあぐねていることを皮肉的に描いていると見ることもできます。服装でしか判断できないのか、そもそも性別に執着するのかと。そのような「鵺」の声が聞こえるような、聞こえないような。
また「高下駄」は鳥の鉤爪を連想することができなくもなく、「鵺」が怪鳥鵺であることをそれとなく知らせている気がします。これはフィンディルの深読みでしょうか。

・そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。
上記も兼ねますが、この一文は明治の香りを濃く漂わせて明治を連想させ、「私」が「鵺」を中性的と判断する根拠となり、長命の「鵺」が明治に明治の格好をすることで「鵺」が世を見つめ続けていることを示唆し、ついで高下駄で怪鳥鵺を連想させるような、様々な意味と意図が込められた一文であると考えます。
素晴らしい一文だと思います。

・爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
「竜眼」とは一体なんでしょうか。検索をかけてみましたがそれらしいものは見つかりませんでした。
これが造語であるならば、この場面で人である「私」が「竜眼」と表現したことには違和感があります。まるで「竜眼」という概念が存在するかのようです。
「竜眼」にどのような意図があるのかよくわかりませんでした。意図がないならば蛇足だと思います。
もし「竜眼」が既製の概念で明治や昔を連想させる語彙のひとつであるならばフィンディルの無知です。お気になさらないでください。

・爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
「両眼」「竜眼」「双眸」と目に関する語彙が並んでおり、非常に読みにくさを感じます。
特に「両眼」「双眸」は意味が全く同じであるにも関わらず短時間で二つ違った語彙で出しているのでまどろっこしさが強いです。
どちらかを省いて、語彙ひとつで済むように改良されることをオススメします。

・彼? は言った。
「私」は「鵺」のことを「彼?」と呼称します。「彼?」と呼称することは上の項目でも触れた通り、「私」が「鵺」を人間として認識している裏付けとなるため重要です。
しかし気になるのは「彼? は言った。」とあるように、疑問符の後のスペースです。とてもリズムが悪く、読みにくさを感じます。
「疑問符、感嘆符の後にはスペースを入れましょう」というのは小説を書く人ならば誰でも知っているルールだと思います。しかし何故スペースを入れなければならないのかについてきちんとした解説は見られず、おそらく慣習的にそうなっているのではないかと思います。
ですのでここからはフィンディルの持論にすぎませんが疑問符感嘆符の後のスペースは文章の区切りを示す機能があると考えています。通常文章の区切りを示すのは「、」「。」ですがこれらはサイズが非常に小さく一文字上でのスペースが非常に多いです。「今日は晴れ。いい天気」と視覚的に空白があることで文章の区切りを機能させています。しかしこれが「今日は晴れ?いい天気」となると視覚的な空白がないため文章の区切りがわかりにくい。そこで手動でスペースを入れ「今日は晴れ? いい天気」と視覚的な空白を確保しているのではないかと思います。「今日は晴れ。いい天気?」のように台詞の最後ではスペースを入れなくてもいいのは鍵括弧が文章の区切りとして機能しているので手動スペースの必要がないとすれば筋が通ります。
つまり疑問符感嘆符の後のスペースは文章の区切りを視覚的に示すためというのがフィンディルの持論です。
その持論に基づけば「今日は晴れだよいい天気だよ」と捲し立てるために敢えて句点を省く技術と同様「今日は晴れだよ!いい天気だよ」と捲し立てるという文章の要請に従って感嘆符後の手動スペースも省いていいだろうと考えています。句点や読点を敢えて省くことは度々あるのに、疑問符感嘆符後のスペースは省いてはいけないという方がよっぽど理に沿わないルールに感じます。
それを踏まえて本文を見た場合「彼? は言った。」というのはそもそも「彼?」と「は言った。」の間に区切りを設ける必要がない場面です。区切りを設ける必要がないのにルールとされているからスペースを設けているように感じます。
このように文章の区切りがそもそもない場面では「彼?は言った」としても何一つ問題がないのではないかとフィンディルは考えています。少なくとも理由すら定かでない文章ルールを守って文章リズムを損ねる必要はないと判断します。
勿論疑問符感嘆符後のスペースを入れる理由やその扱い方についてはフィンディルの持論にすぎませんので、実際このスペースをどうするかはF。さんの考え方を優先するようにお願いいたします。

・「おや、珍しいのう。人の子がここまで来るとは」
テンポが速いのもあるのでしょうが、この竹林の奥に対して「人の子がここまで来るとは」というのは違和感があります。この場に対して人がほとんど踏み入れないという印象がないからです。近隣の人が日常的に立ち入っていても特におかしさを感じません。
冒頭にこの竹林には人がほとんど立ち入らないということを入れておいてもいいのではないかと思います。
あるいはテンポのために敢えて省いたのでしょうか。そういう意図があるならばこのままでもさして問題はないですが、上の項目でも触れた通りこの場面のテンポが速いこと自体を改善すべきだとも考えています。

・「それはそれは。文明開化のこのご時世に、治せぬ病があるとは」
現代から見れば明治は昔で技術も乏しいものですが、当時からすれば西欧の技術・文化が入った最先端です。この発言はそれを感じさせるいい発言だと思います。
また発言者は長命の「鵺」ですからね。およそ日本の歴史をずっと眺め続けていた「鵺」にはこの明治の世がとても先進的に映っているのでしょう。それをとても感じさせる優れた発言だと思います。

・「それはそれは。文明開化のこのご時世に、治せぬ病があるとは」
「文明開化」とは福澤諭吉が1875年に使ったものを始めとする言葉で、明治初期に日本が西欧の文化を積極的に取り入れることを指しています。
この「文明開化」がいつからいつまでのことを指すのか厳密な区切りはないようですが、おおよそ1870年代を指すと考えています。
しかし本作は日清戦争間際の1894年です。文明開化が1870年代を指すのならば「文明開化」は本作時点では時代遅れの語彙であるように感じます。
まして発言者は世情に詳しい「鵺」ですから、この「鵺」が1894年に「文明開化」という語彙を使うのは考えにくいです。
単純に「明治」であったり「19世紀も終わる」などの言い回しが適切ではないかと思います。

・不思議な竜眼の双眸は、まるでこの世のものとは思えない。縦に割れた瞳孔は猫の目のように細くなり、私を値踏みするかのように見つめていた。
「まるでこの世ものとは思えない」の後に「猫の目のように」と続けるのはいかがなものかと思います。
一応「双眸」と「瞳孔」で対象は違いますが、それでも「この世のものとは思えない」ものをこの世のものに例えるのはあまりいい手とは思えません。
しかも目を目で例えてますからね。「この世のものとは思えない」に説得力が感じられません。

・縦に割れた瞳孔は猫の目のように細くなり、私を値踏みするかのように見つめていた。
「縦に割れた瞳孔」では瞳孔自体が縦に割れていることを指します。つまり瞳孔が縦に二重になっていることになる。
実際そう描写しているのかもしれませんが「猫の目のように細くなり」とあるので、おそらく瞳孔が眼を縦に割っているように見えるほど細いということを示しているのではないかと思います。
もしそうであるならば「縦に割れた瞳孔」は表現を間違えておりますので修正されることをオススメします。

・今度の清との戦争。広島に置かれた議会。
・明治に入って、初めての対外戦争。
上の項目でも触れましたが、ここの部分がとても解説的です。しかも明らかに読者に向けての解説です。
「鵺」にややわかりにくい言い回しをさせたので独白にて解説させたのでしょうが、雰囲気を損ねるうえに二度手間という印象が強いです。
上の項目でも触れましたが、印象付け自体これほど厚くしないで大丈夫でしょう。

・彼? は何をどこまで知っているのだろうか。
・いや、私はなすべきことがある。
日清戦争の件から「鵺」と妻の病に話を戻す場面ですが、さすがにこれは戻し方が強引すぎます。何の工夫もなく戻してしまっている。
上の項目にて日清戦争の件自体を改善するよう指摘させていただきましたが、それとは別にここの話の戻し方にももう一捻りほしいところです。

・私はもう一度尋ねる。
その前に「鵺」が「生憎だが、某は鵺など知らぬ。」と答えてはいますが、これは「私」が「この竹林に鵺がいると聞きました」と発言したのを受けて「鵺」が自主的に話し出したことです。
「私はもう一度尋ねる」とありますが「この竹林に鵺がいると聞きました」は尋ねているとはいえません。ここは「もう一度尋ねる」ではなく「改めて尋ねる」などにするのが適切だと思います。

・そんなことよりも、細君は医者に診せたのかえ?
「細君」とは自分の妻をへりくだっていう語、あるいは目下の者の妻を指していう語です。本作では後者ですね。
およそ人間全ては「鵺」よりも年下であると推測され、「鵺」にはその自覚が強くあるようです。人の子は全て若造、くらいに考えているかもしれません。
ここで「鵺」が「細君」を用いることで会ったばかりの「私」をナチュラルに目下と捉えていることが表現できており、「鵺」の人物造形の一助になっていると思います。
いい語彙です。

・鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。
上の項目でも触れましたが、竹林にあって「そのまま地に倒れた」とは気が利かない文章です。「地」ではただの土の地面であるように感じられるからです。
何かここが竹林であることを感じさせる言い回しがほしいところです。

・私の足下には、彼の血が広がっている。
「足下」とは「足の真下やごく近い距離」を指します。一方「足元」は「立っている周辺」を指します。「足下」の方が範囲が狭く、「足元」の方が広いです。血を広がらせるには「足元」の方が使い勝手がいいのではないかと思います。
「匕首」は「鍔のない短刀」のことを指すので、これで殺傷したということは「私」と「鵺」は非常に近い距離にいるのでしょう。ですので「足下」を使っても誤りではない距離感だろうとは思うのですが、ここは「足元」と表記しておいた方がより無難ではないかと考えます。

・私は匕首を捨て、懐から取り出した小さな瓶に彼? の血を注ぐ。
「注ぐ」とは「液体を容器などに流し込む」という意味です。これでは問題ないように思えますが、「注ぐ」には一定量以上の液体が蓄えられた容器などから別の容器に移し替えるというニュアンスがあります。急須から湯呑に注いだり、川から滝で滝壺に注いだりなどですね。
この場面では血を噴き出して倒れる「鵺」から「瓶」に液体を移動させるのですが、血を噴き出して倒れる「鵺」を一定量以上の液体が蓄えられた容器とみなすのはやや無理があります。およそ「注ぐ」という語が充てられるような液体の移動のさせ方はできないでしょう。
「血溜まりに瓶を浸す」など表現自体から改善するのがいいのではないかと思います。

・私の懐の匕首が彼? の首を掻っ切る。
・鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。
・私の足下には、彼の血が広がっている。
・私は匕首を捨て、懐から取り出した小さな瓶に彼? の血を注ぐ。
「私」が「鵺」を殺傷する場面ですが、この文章中に大事な要素が抜け落ちていることがわかります。
「私」が「鵺」の血を浴びたという文です。本作において「私」が「妖」となり不老となることはとても重要なのですが、そのために必要な「鵺の血を浴びる」という手順が何故か文中から省かれています。
状況的に「私」が「鵺」の血を浴びたのはおよそ間違いないでしょうが、本作においてキーとなる部分なので「鵺の血を浴びる」というのが明らかにそうとわかるように記述されるのはおよそ必須ではないでしょうか。

・奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。
「遺骸」とは「死体」のことですがおおよそ人間には用いず、動物に用いることが多い場面です。
それまで「彼?」と「鵺」を人として認識していた「私」ですが、唐突な殺傷を行って「鵺」を物として認識した後は「鵺」の死体を「遺骸」とする認識の豹変を表現しています。
いい表現だと思います。

・やはり、彼? は鵺なのか。
・ではこの血も、病を払うに違いない。
上の項目でも触れましたが、「やはり、彼? は鵺なのか。」と「彼?」が「鵺」であるという確証もないなかで殺傷したという「私」の非人道がよく表れています。
そしてその次には「ではこの血も、病を払うに違いない。」と「鵺」のことを「妻の病を治す手段」つまり物としか捉えていないことがよく示されています。
この二文とも、流れも含めて優れた文だと思います。

・人の子よ、やはりおぬしらは遠からず死に絶える!
上の項目でも触れましたが「人の子」が単数形であるにも関わらず、「おぬしら」と複数形である場面です。
これは前者が「私」、後者が人全体を指しており、「鵺」が「私」の言動に人の業を見定めたことがよくわかるいい箇所だと思います。
「私」が不老になったことを「鵺」は悟ったのでしょうから、そこで「死に絶える」という言葉を用いるのも印象的です。人が戦争を死ぬことを指しているのか、あるいは「私」が「妖」になることで人として死に絶えることを指しているのでしょうか。両方でしょうか。

・八月十五日。
いい切り替えです。「八月十五日。」は1945年であることを明瞭に示すのですが、ここで「1945年」とせずに「八月十五日。」とするところにセンスを感じます。
「1945年」ならば読者は「え、あれから50年?」という驚きを得ますが、「八月十五日。」としたことで「え、1945年? え、50年経ったの!?」という風にステップを設けた驚きを得ることができるのです。
上手いと思います。

・妻の墓前にいた私は、遠くの玉音放送を聞いた。
上の項目でも触れましたが「八月十五日。」の時点で今が1945年の終戦であることはわかるので「玉音放送」を重ねる必要性はあまりないように思います。
「玉音放送」も終戦を連想させる強いワードのため「八月十五日。」の上手さを邪魔している印象すらあります。「玉音放送」は別の言い回しにしてもいいのではないかと思います。

・妻の墓前にいた私は、遠くの玉音放送を聞いた。
戦争ドラマなどでよく見ますが「玉音放送」を聞く場面では皆がラジオの前に正座して……という場面をイメージします。
しかし本作では「遠くの玉音放送」と「私」が「玉音放送」及び終戦にそれほどの注意を向けていないことがわかります。
つまり「私」が不老となり「妖」となり、人の世から離れた存在になってしまったことを「遠くの玉音放送」が示唆しているのです。
さり気なく、とても上手い優れた表現だと思います。

・まるで、鵺の鳴き声のようだ。
この文章は「玉音放送」にかかっている文章のように見えますが、意味がよくわかりませんでした。「玉音放送」がどうして「鵺の鳴き声のよう」なのでしょうか。「鵺の鳴き声」とかかるような要素はあまり感じられません。
どうも「私」に無理やり「鵺」を想起させたような感じがします。そうであるならば「鵺のあの言葉が蘇っていた」や「鵺の鳴き声が頭の中に響いている」といった文章でも十分目的は達成するように思います。
無理やり「玉音放送」と「鵺」「鵺の鳴き声」を繋げる意図がわかりませんでした。

・「あの後、妻は死にました。私と一人娘を遺して」
「妻」のその後を示す場面ですが、「妻」の病気が治らなかったということを察することができます。「あの後」「遺して」という文章がよくきいていると思います。
しかし「私」は「鵺」の血を浴びて不老になったにも関わらず、どうして「妻」は「鵺」の血を飲んでも不老にならなかったのかという疑問が残ります。病気には効かないということなのでしょうか。
ただこれらの疑問を解説する必要はありません。しかし「何故か私だけ不老になり妻は死んでしまった」というように、この疑問への言及はほしいところです。作中で言及があればそれは謎ですが、作中で言及がなければそれは疑問になります。
文筋をうるさくしない程度に、「私」と「妻」の結果の違いについて何らかの言及がほしいところです。

・「その一人娘も、私よりも先に逝ってしまいました。遺った孫も満州で死んだと言われました。私だけがこうして生き残り、無様に死にきれずにいます。私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」
「その一人娘も、私よりも先に逝ってしまいました。遺った孫も満州で死んだと言われました。私だけがこうして生き残り、無様に死にきれずにいます。」と「私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」の順番は逆がいいのではないかと思います。時系列が逆になっているのでやや読みにくいです。繋がりを調整する必要は勿論ありますが。
あるいは順番はそのままに「私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」の「娘や孫とともに」を省くとかですね。
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Date:2019/02/06
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