FC2ブログ

あむあむあむ

○フィンディルの感想

想うこと、その憤り/ふわ ゆー  への感想

想うこと、その憤り/ふわ ゆー
https://ncode.syosetu.com/n2197m/10/
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
作者の悪癖である文章細部の無頓着と、本作のジャンルとの相性が致命的に悪い作品。しかし非作品的な「僕」の語りには複数の工夫が見られ、上質。


●わかりにくい物語こそ、わかりやすい文章で

本作は内容の理解や解釈に労を要する「わかりにくい作品」です。
この文章は一体何を伝えようとしているのだろうか、どういう構成になっているのだろうか、どういう作品として読み取っていけばいいのだろうか。何となくはわかるがなかなか掴めない、そういう輪郭を持った作品です。特に初読時にそう感じやすく、何回か読み返す内にある程度の内容を把握していけるはずです。
なぜ「わかりにくい作品」なのか。その理由は大きく二つあって、抽象的な文章と、非作品的な構成にあります。この二つによって本作は「わかりにくい作品」となっています。この内、非作品的な構成については後の項目で。

本作では抽象的な文章が頻繁に綴られます。
「僕」だけが理解しておけばいい心情描写と心情説明、「僕」だけが何となくわかっておけばいい「ハル」の心情描写。
およそ読者にとって理解しやすい心情描写をという意識は見受けられません。本作は、「僕」の半生を物語にした小説ではなく、「僕」の半生に付随する心情を述懐した小説といえるでしょう。

読み解くのにある程度の労が必要で、「読みにくい」と判断する読者も多いでしょうが、フィンディルはこの小説を好意的に捉えています。
好意的に捉えるといいますか、こういうジャンルだろうと思います。このジャンルに既に言葉が与えられているのかどうか、フィンディルは無知なのでわかりませんが、確かに存在するジャンルと認識しています。
画期的とも思いませんが、荒唐無稽・奇抜とも思わず、既に確立しているジャンルを真っ当に書き上げた。そんな印象です。

小説としてわかりやすい構成を敷いたわけではなく、キャラの心情をわかりやすく描き上げたわけでもない。どこに山があるのかも不明瞭、時系列の並べ方も統一性がない。ただただ「僕」の人生における重要点を並べて、そこに感じた心情と、そこから得たテーマを綴っていく。
作品的な性格を廃することにより、生々しい人間というものを描き出す。わかりにくいからこそ感情移入は捗り、わかりにくいからこそ痛いほどに共感する。「作品のキャラクターが登場している」のではなく「ただの人間が作品に出ている」。
本作はそういうジャンルの列に並ぶ作品だと思います。並んでいると思いますし、とてもいいと思います。ジャンルとして王道です。ジャンルの名前は知りません。

しかしこういう「わかりにくい作品」には求められる基本技術があります。それは、文章がわかりやすいことです。
わかりやすい文章はどんな作品にも求められますが、こと本作のような作品には特に求められます。
何故かというと、内容がわかりにくいからです。内容がわかりにくいのに更に文章がわかりにくいとなると、わかりにくいが重なってしまうので、なかなか読めたものではなくなってしまいます。
文章上の情報は100%だがそこに込められた意味が120%ある場合、読者は想像したり行間を読んだりしてこの20%を補完します。読書技術は求められますが、この補完はまあできます。読書の醍醐味でもありますからね。
しかしわかりにくい文章だと、文章上の情報が80%しか提示されていないことがあります。これで通常の作品ならば、読者は情報を20%補完して100%にすればいいだけなのですが、込められた意味が120%ある場合、更にそこから行間を読んで20%補完しなくてはなりません。
20%+20%で40%の補完が必要になり、こうなると読書には苦痛が伴います。
またそのわかりにくさが、行間を読んで補完することを作者が想定したわかりにくさなのか、作者が示すべき情報を示せていないためのわかりにくさなのか、読者はひとつひとつ識別していかなければなりません。作品を深く楽しんでいる補完なのか、作者の未熟さの尻拭いをしている補完なのか。
読者にはかなりストレスが溜まります。
そのため「わかりにくい作品」には「わかりやすい文章」が必要なのです。

ということで本作を見てみます。内容のわかりにくい本作ですが、文章はどうなのか。
単刀直入に言うならば、わかりにくいです。本作の文章はわかりにくい文章です。

おそらく意図的なものではないでしょう。以前私が感想を掲載させていただいたふわゆーさんの作品「悪魔は再び舞い戻る【ハイファンタジー】」においても、本作と同傾向の読みにくさが見受けられるからです。なお語彙の散らばりとは別の部分です。

まず、ふわゆーさんの文章の癖としまして、一文を読点で繋げて長くしてしまうというものがあります。
その癖が本作においても複数箇所見受けられます。

―――――――――――――――――――
彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。
―――――――――――――――――――
この文章ですが、一文の中で文章が示す事柄が二つ存在します。
「彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、」ではハルの母親に対する「僕」の印象を記していますが、「そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。」ではハルの母親が「僕」にした行動を記しています。
文章の事柄は全く違うにも関わらず読点で結んで一文にて示しているため、一文の中に要素が渋滞しており、読者は複数の事柄を一度に処理しなくてはなりません。
またこの一文は「彼女は片親で育ち、」までは主語はハルであるのに対し「その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。」の主語はハルの母親です。
このように一文において主語が二つ存在することも、読みにくさを生んでいます。読者はこの一文がどの視点に立って記されたことなのか、理解しにくくなるからです。ハルが視点の文章なのか、ハルの母親が視点の文章なのか。
読点で繋げて文を書いていったため、文章の事柄が複数に渡ったり、「彼女は片親で育ち、」と不用意にハルを主語にしてしまったりというミスが発生しています。

―――――――――――――――――――
海岸沿いの通りを歩く僕に、じゃれ掛かってきたその小犬が、そのままだと車に引かれそうになると心配して、海へ降りる階段に腰かけて、僕は小犬のまとわりつくままにした。
―――――――――――――――――――
この文ですが、主語と述語が上手く噛み合っていません。この文だと「そのままだと車に引かれそうになると心配して」の主語が「子犬」であるように書かれているからです。
海岸沿いの通りを歩いていた僕を見て「僕がこのままだと車にひかれるかもしれない」と思った子犬がじゃれかかる振りをして階段に腰かけた。と解釈できるのです。むしろ文をそのまま受け取ればそうとしか解釈できません。常識に照らしてそんなことはない、と読者が補完しないといけないのです。
この文も闇雲に読点で繋げてしまうがゆえに文の構成を見失ったことによって生まれたミスです。

基本的に、ひとつの文が示す事柄はひとつです。またひとつの文に入る主語はひとつです。
読点は、ひとつの文で事柄をどんどん繋げていけるアイテムではありません。ひとつの事柄の、意味の理解を補助するアイテムです。
読者は一文単位で意味を嚥下します。句点で締められるまで、読者は意味を嚥下せず口の中に頬張ったまま我慢するのです。一文が一口なのです。読点によって意味が区切られたとしても、句点で締められるまでは頬張ったままなのです。読点で嚥下することはありません。読点で区切ったからといって一文に事柄をどんどん繋げていくと、読者の口内は情報でパンパンになってしまいます。それはつまり、読みにくい文章なのです。
一文が長くとも読みやすい文章を書かれる方はこれを理解されています。一文は長いが事柄はひとつだけにまとめてあったり、読点であっても嚥下させる工夫をされていたりと、読みやすい長文になるような工夫がされています。しかしふわゆーさんが書かれる長文にはそのような工夫や技術が見当たりません。
文章の読みにくさが大きく響く本作では、一文に入れる情報量や書き方について、洗練が求められます。読点を打つのを意識的に抑えてみることをオススメします。

またもうひとつの癖として見受けられるのですが、指示語を多用されています。こそあど言葉ですね。

―――――――――――――――――――
だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。
―――――――――――――――――――
この文では「その」が二度用いられています。
「その当時は」はハルと出会った十三歳当時を、「その気持ち」はハルと出会うことで「僕」が抱いた気持ちを指しています。
いずれの「その」もそれが何を指しているのか把握することは難しくありません。難しくありませんが、少しの作業を要します。指示語というものは、その指示先の把握が簡単であっても、「その」が何を指しているのかを把握するための僅かな労が発生します。多くの場合、読者は指示先の把握を無意識に行えますが、本作のように内容理解の作業を必要とする作品では、この些細な指示先の把握というものが重たくのしかかってきます。
この文ならば「だから当時は、自分の気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。」でも全く問題がありません。無闇につけられた「その」を消すことで、都度発生してしまう指示先の把握作業を省くことができるのです。

―――――――――――――――――――
僕の高校一年生が終わる春休みまで、その散歩は果てしなく淡い喜びの気配に満ちたものだった。
―――――――――――――――――――
それは音のない激しい震えと怒りのような涙だった。
―――――――――――――――――――
この「その」と「それは」も似たようなものです。「その散歩」は「僕」とハルと犬の散歩、「それは」はハルの涙を指すものです。これらは「その」が本来持つ指示という意味ではなく、文章のリズムを整えるために使われる演出としての「その」「それは」です。
文章の意味としては必ずしも必要のない指示語というものが本作には非常に多く見られますが、やはりこういう指示語が出る度に文章の意味を理解するために読者が払う作業量はかさんでいきます。
本作に関しては、必要性の低い指示語については潰していくことをオススメします。文章のリズムを整えるならば、様々な方法を取り入れるべきでしょう。指示語の多用は、本作においては文章の理解を煩雑にする悪効果が目立ってしまっています。

というように内容がわかりにくい本作において、わかりにくい文章というのは読者への大きな負担になってしまいます。内容理解で読者への負担が発生する本作のような作品では、文章というのはわかりやすく把握がしやすいものにする方がいいでしょう。文章はわかりやすく、その分内容はわかりにくく。そうすることで読者は、内容やテーマの理解に力を注ぐことができるのです。
とはいえわかりやすい文章というのはどのジャンルでも求められますけどね。敢えてわかりにくい文章を書かれる作者もいますが、その作者はわかりやすい文章が書けたうえでわかりにくい文章を書いているので、わかりにくさに心地よさが生まれるのですね。
ただふわゆーさんはそういうことを狙ってこうしているのではなく、ただ単に文章の細部に神経を巡らせることに無頓着であるのだろうと判断できます。一回読み返せば見つけられるような単純誤字も見受けられますし。過去作もそうでしたし。

文章の細部に十分神経を巡らせないと、本作を読者に意欲的に読ませることはおよそ不可能であろうと判断します。勿論読者に、本作を読み返させる意欲を湧かせることも。

各文章の細かいところは後述の「●細かいところ」で取り上げます。


●非作品的な作品、リアルとリアリティー

この項目では、前項目について触れた非作品的な構成について取り上げます。
繰り返しになりますが、本作のジャンルというのは、作品らしい構成を踏襲しないところが最大の特徴です。わかりやすい構成を用いず、時系列を素直にせず、テーマを複数ちりばめることで山場や作品の意義を簡単に掴ませない。
ただただ「僕」の人生に深く関わり跡を残したハルについて、「僕」が知っていることと感じたことを並べていくという話の進行。作品らしさを廃することで、「僕」やハルという人間の生々しさが浮かび上がってくるのです。

本作の流れをフィンディルの解釈で綴っていきたいと思います。

本作は「僕」による女性への考察から始まります。
印象としてはこの冒頭こそ、一番わかりにくい部分とも思います。この冒頭の件自体はまとまりのある言説ではなく「僕」が思考を漂わせているだけのような、そんな印象を受けます。
女性引いては人に対する「僕」の俗的だが一歩引いた見方、人とのやり取りに見える「僕」の空虚さ。物語を知れば、この空虚さはハルに対する存在感と喪失感、そして自分や何かへの言葉にしがたい憤りから発せられているのだろうと考えることができます。
物語を読むと、ここの件で「僕」が述べようとしていることはあまり重要ではないと知ることができます。作品の雰囲気や語り手としての特性、または「僕」の人間性と現在地を知らせるのが一番の目的でしょうか。本作が「わかりにくい作品」であると読者に知らせるには最適であるとも思います。
しかしひとつ指摘をさせていただくならば、「わかりにくい作品」であるのを伝える際に「例えば」や「つまり」という語彙は用いない方がいいのではないかと考えます。「例えば」や「つまり」は読者に文章を理解させようと試みる語彙ですので、読者は「例えば」や「つまり」があると文章をきちんと理解しないといけないと考えてしまいます。
しかしこの冒頭の重要度は高くありませんし、書かれている内容は不親切による難解さを有しています(不親切自体は本作においてはいいことです)。ならばここでは、「僕」の徒然な思考と空虚な人間性を示す程度に抑えておくのが適切だったのではないかと思います。
「わかりにくい作品」を理解させようとアクションを起こすのは読者には負担になってしまいます。理解しなくてもいい箇所ならば、理解しなくてもいいことをそれとなく知らせるのがよりよいのではないでしょうか。「例えば」や「つまり」は本作においては読者に負担を強いる語彙です。

この冒頭の件ですがフィンディルは素晴らしい一文を見つけています。
この後から「僕」とハルの物語が始まるわけですが、「僕」は
―――――――――――――――――――
つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。
―――――――――――――――――――
と独白しています。
リアルとリアリティー。リアルが現実、リアリティーが現実っぽいと感じることです。
何故ここで「僕」はこのようなことを独白したのか。
フィンディルはこれを、「僕」がこれから語るハルとの話でもリアルとリアリティーが混在している、という風に解釈しました。リアルだけを話そうと思っても、誰かの脳を経由して言葉にされる以上そこにはリアリティーが纏われてしまう。ハルとの出来事の中で「僕」が都合よく解釈してしまったり、ハルとの出来事の中で「僕」が感じたことなど。どうしても現実っぽいが現実ではないリアリティーが発生してしまう。「僕」はそのことを前書きとして示しておきたかったのではないか、と解釈しました。
ここがとても面白いと思います。何故かというと、本作が創作である以上、原則としてリアルは存在しないからです。作者はふわゆーさんですから、作品にリアリティーを纏わせることはできても、創作である以上リアルは存在しないのです。ですが「僕」はリアルとリアリティーは切り離せないと独白し、ハルとの話にリアルが存在しているかのように表現しています。勿論「僕」にとってはリアルですが。
作品の中にはフィクションでありながら「これは実際にあった話」といった枕詞を使われているものがあります。この話はリアルであるとアピールすることでリアリティーを纏わせる手法です。ですが本作は、どうしてもリアリティーが混ざってしまうとアピールすることで、逆に強いリアルを感じさせるのです。リアルを感じさせるのはリアリティーですが、これにより生まれるリアリティーは「これは実際にあった話」で付加されるリアリティーよりもずっとリアルを濃く感じます。
「これは本当の話」と言われると作り話に感じますが、「ちょっとフェイクが混ざるけども」と言われると実話っぽく感じるようなものです。
本作はリアルに立ってリアリティーを呟いているので、強いリアリティーが出ています。リアリティーに立ってリアルをアピールするのとは大きな違いです。

小説にはリアルが存在するジャンルがあります。私小説です。
本作がふわゆーさんの私小説であるかどうかはわかりませんが、私小説ではないと仮定しておいて。
私小説は基本的にリアルを綴りますが、作品として成立させるうえで、それ以前に言葉にするうえでリアリティーが発生します。
この私小説におけるリアルとリアリティーの塩梅、とても本作に似たものを感じます。
つまり本作はまるで、「僕」がこれから自身の私小説を綴るかのような印象を覚えるのです。私小説風とでも呼びましょうか。
私小説の雰囲気を持たせる私小説風、これにより、本作の非作品的な空気感が一気に醸成されます。

「僕」がここから始まる物語にリアルとリアリティーが存在すると独白したことで、本作にはリアルが生まれ、キャラクターの生々しさが加速度的に作り出されていくのです。
「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という「僕」の発言がこれから語られるハルとの出来事を指しているという私の解釈を前提にしたうえで、この工夫は本作のリアリティーをぐっと引き上げる素晴らしい手です。

ただし卓袱台を返すようですが、冒頭のわかりにくい話の中にこの一文が埋没してしまっているので、今まで長々と述べた効果はほとんどが失われていると感じます。「意味がよくわからない文」としてだけ読者の頭を過ぎ去っていっているだろうと。
フィンディルが上で申した意図がふわゆーさんにあったのならば、「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という一文はもっと上手く見せた方がよかっただろうと思います。意図がなかったとしても、より活かす示し方をした方がよかったのではないかなとフィンディルは考えます。

物語を進めます。
冷蔵庫の前にいる「僕」とハルの葬式に出る「僕」とハルの骨を摂取する「僕」と砂浜のハルと「僕」と。
ここまでで区切りますが、ここでは時系列が不規則にいったりきたりするのが印象的です。
(現在→)現在→ハル死去当時→現在→ハルと交流当時、という流れになっており、不規則な時系列進行になっています。
これが作品然とした作品ならば、冒頭において「僕がこれから語る話」と示して「*」が挟まれたら、そこからはハルとの出会いを語りだすでしょう。(現在→)ハルとの出会い当時→ハルとの交流当時→……という流れになっていくはずです。
しかし本作はそうはしませんでした。そもそも冒頭において「僕がこれから語る話」と示して「*」を挟んだ後もしばらく現在の話が続くのです。(現在→)現在→、なのです。
定石を守らない進行、言い換えれば「僕」の語り手としての不完全な務めがとても非作品的であり、だからこそ「僕」という人間による述懐という色合いを濃く感じられるのです。
また「僕」がゆっくりとハルとの出来事に浸っていっている、そういうグラデーションも感じられてとてもいいと思います。すぐにハルとの出来事を語りだすのではなく、「僕」にとって最近の出来事から斑にハルとの出来事を語りだし、そして脳内が全てハルとの出来事に浸かりきってから、改めてハルとの出会いから語りだす。
「僕」という一人の人間がハルとの出来事を思い出していっている。そういうような表現が、この不規則な時系列によって上手くなされています。語り手の職務を全うする「僕」ではなく、一人の「僕」という人間が「僕」の思うのままに自身の過去を振り返っていく。
読者としては不規則な時系列進行により、ここまでを読んでいても概要を上手く掴めません。ハルという人物がどういう人物なのか、断片的でランダムな説明がなされるからです。しかしそれはこの後しっかりと説明され理解できますので問題ありません。ここの段階では「僕」が思い出していっている、その記憶のたゆたいを楽しめる箇所なのです。いいと思います。

またここでは作品上の小道具が登場します。冷蔵庫です。
本作はBGMのない小説です。
邦画などではよく目にします。人の内面や人生をテーマにした映画では、BGMのない場面がよく出てきます。一人か二人の登場人物がくすんだ日常風景の中に佇んだり言葉少なのやり取りをしたり、そういう場面です。こういう場面ではBGMがあるより、BGMがない方がより感情移入ができます。まるでそこに本当の人生があるかのようにすら感じます。思えばそういう作品も「わかりにくい作品」と呼べるでしょう。場面場面が断片的に並べられて、わかりやすい構成やテーマを持たず、しかしそこに強い人生観や人間観を感じて感情移入をしてしまう。
BGMをなくした方が感情移入ができるというわけではありません。基本的にBGMは見る人の感情を盛り立てるためにあるので、BGMがある方が感情移入ができます。しかし非作品的で人間の内面や人生を生々しく描く作品においては、作品的なBGMを廃する方が見る人の感情移入は促進されます。BGMがない方が感情移入できるというより、BGMがない方が感情移入できる作品ジャンルがあるということですね。そして本作もこれに該当するとフィンディルは考えます。
冷蔵庫のコンプレッサー音は、そんな作品ジャンルとの相性がいいです。ブーンというあの音は、脚色のない生活脚色のない人生を表現する小道具として非常に優れた効果を発揮します。
本作において冷蔵庫にスポットが当てられているのは、そういう小道具としての相性のよさを買っている面があるのではないかとフィンディルは推測しています。

物語を進めます。
ハルと出会い交流していく「僕」から、犬を失った夜まで。次の「*」までですね。
ハルとの出来事に浸った「僕」はここからは、時系列通りに述懐していきます。ハルとの出会い、ハルとの交流の仕方、お互いに成長して関係性は深まりますし、その間に起きた印象的な出来事。

本作はBGMのない小説ですが、声のない小説でもあります。ハルは声を出すことができませんから。それにより「僕」とハルは声によらないコミュニケーション、そして言葉によらないコミュニケーションを取ります。
当然登場人物の発言は減り、地の文がほとんどを占めるようになります。砂浜に二人と犬でただいる、という日常。それはただいるだけではなく、言葉によらず交流し、互いの仲を深めていくのです。文章的にも場面的にも本作には静かな時間が流れ、砂浜の環境音がとても印象的に感じ取られます。砂浜の環境音の描写を丁寧にされているのもありますが、この作品に感情移入すると、砂浜の音が読者の脳内に流れます。
冷蔵庫のコンプレッサー音と、砂浜の環境音。BGMのない本作において、この両者の音がとても印象的に聴こえてきます。しかしこの二つの音が指し示すものは対照的です。「僕」が空虚に人生を流していく冷蔵庫のコンプレッサー音と、当時ハルと言葉でなく満たされていた砂浜の環境音。違うニュアンスを持った二つの音が、BGMのない本作に印象的に響きます。そしてこの二つの音はともに、「僕」にとってハルを強く感じさせる音でもあります。ハルの骨を保存している冷蔵庫と、ハルとの思い出を感じさせる砂浜とで。どちらも「僕」にとって最大の存在感を有し、ハルを感じさせ、しかしそこに込められている感情は異なる。印象的な二つの音であり、対比がとてもきいていると思います。
また、「僕」とハルは言葉によらないコミュニケーションにより仲を深めてきた、という事実は後の「僕」とハルの人生に大きな影響を与えることになります。「僕」は言葉によらない高次のコミュニケーションを当たり前のように行ってきすぎてしまったのでしょう。歳を重ねるとその事実に苦しめられます。

ハルが「僕」に、父からの暴力の痕を見せるシーン。ハルが、既に離婚した父親から暴力を受けていたことが明らかになる場面です。
「僕」はハルがかつて父親から暴力を受けていたことを知りますが、それについてハルに何かを言ったり、また「僕」が何かを思ったりという文章が入りません。
しかしそれは「僕」が、ハルがかつて受けた暴力に対して無関心であるということではありません。「僕」が今語っているハルの話は、ハルと交流していくなかで「僕」が強く印象に残っている場面だからです。そして若い男女がお互いに裸になる場面において、それ自体よりも、ハルが暴力を受けていたことの方に文章が割かれています。
この場面を取り上げた主旨は、お互いに裸になったことよりも、ハルの暴力痕に寄っています。ハルがかつて父親から暴力を受けていたという事実は、とても強く「僕」の頭に残ることであったと判断できます。
では何故「僕」は、ハルがかつて父親から暴力を受けていたことに対し、これといったことを言ったり思ったりしていないのか。
それは「僕」にできることがないからです。あるいは何かをすべきと考えなかった。
ハルの両親が既に離婚して暴力が過去になっていたことや、「僕」が何かをすることをハルが望んでいなかったから、そして「僕」自身が何かをできるとは思えなかったから、といった理由があがるでしょう。
ハルはただ、自分のことを「僕」に伝えておきたかったのでしょう。それによって何かをしてほしいや、何かを思ってほしいということではなく。それだけの信頼があったのでしょう。何をしてほしいわけではないが伝えておきたいというのは、その人をとても信頼している証ですからね。
ハルがかつて父親から暴力を受けていたことに対して「僕」が特別に言及や述懐をしていないのは、「僕」とハルの距離感と信頼を物語る部分といえるでしょう。とてもいいと思います。

主要人物がかつて親に暴力を受けていたというのは設定としてとても重く、通常の作品ならばそれを中心に話を綴るほどのものです。文章を割いて、丁寧に心情を描くでしょう。「僕」もただ事実を受け止めるだけでなく、もっと多くのアクションを起こすでしょう。
しかし本作ではそれをしません。そして現実世界でもおそらくアクションは起こしません。ただ事実を受け止めて、今までと変わらず交流を続ける。それが「僕」とハルの関係性でできる最も誠意のある対応だからです。
ハルがかつて父親に暴力を受けていたことを、作品の中心にせず、「僕」に過剰なアクションを取らせない。これが本作の非作品的な構成と、生々しいキャラ形成の一助になっていると考えます。

しかし作品の構成の中心にはせず、また「僕」にアクションを取らせませんでしたが、それで片付けることはしません。ハルがかつて父親から暴力を受けていたことは、本作の物語に強い影響を与えるのです。
ハルの母親です。ハルの母親は強いアクションを起こすのです。
ハルの母親は、ハルが父親から暴力を受けたことにより、ハルが暴力に晒されることにとても過敏に反応するようになります。
「僕」にとってハルが父親から暴力を受けていたことは過去の事実ですが、ハルの母親にとってハルが父親から暴力を受けていたことは目の前の記憶としてこびりついて忘れることができない光景です。
ハルが犬に腕を噛み付かれて庭を引きずりまわされたときに、有無を言わさずに犬を処分したのは、そこから来ているのでしょう。
そしてハルの死後、ハルの母親は
―――――――――――――――――――
「で、あたしが間違っていたのかなぁ……。あの子はやさしい子だから、あたしには何一つわがままなんて言ったことがないから」
―――――――――――――――――――
と、このときの対応を後悔しているようなことを漏らします。おそらくハルに、犬をどうしたいか聞かずに処分したのでしょうから。

そしてこの事件について「僕」は直接的なアクションを何も取りません。ハルの隣にいたことが「僕」が取った行動です。この話は「僕」を経由して語られ、「僕」が主人公なのですが、起こった出来事全てに対して「僕」が何かをすることはありません。勿論、ただ隣にいるという行動がハルの支えになったことは言うまでもありません。
おそらくこの出来事について、ハルの母親には様々な想いと行動と後悔などが渦巻いたでしょう。「僕」の視点でしか書かれていませんが、もしハルの母親の視点があれば、とても濃い心情とそれに付随する場面があったはずです。この事件の中心はハルの母親なのでしょう。勿論ハル自身にも様々な感情が渦巻き「悔シイ……、色々ト……」という言葉のみを発させた。
この出来事について、隣にいることだけができた「僕」の視点によって、出来事の中心であるハルの母親やハルについての文章が書かれる。
ここもとても非作品的であると感じさせます。とてもリアリティーがある描き方です。一人の半分当事者半分部外者の視点でのみ振り返られ、当事者の視点は得られない。しかし端々に当事者の心情を窺い知れる。本当に未成年の頃に体験した、親友や恋人の家庭の事情のような。

とはいえさすがに、腕に噛み付いて庭を引きずりまわしていたら誰でもそういう対応を取るのではないかという気もします。ハルの母親が、ハルが暴力を受けることに過敏になるがゆえの対応という印象はあまり受けませんでした。
ハルの母親が、ハルが暴力を受けることに過敏になっていることを表現したいのならば、もう少し犬の暴走はマイルドにした方がいいかなと思います。
犬を飼っている人ならば一度は起こり得るような事件にするとか。あるいは犬が暴走した理由を記述して、犬の暴走に納得感を持たせるとか。
現在では突然暴れた以上の情報がありませんので、どうしてもそこからしか印象を得ることができません。ならば処分されるのも仕方ないのではないか、とも。腕に噛み付いて引きずり回されるって、恐怖と危険を植え付けられるには十分ですからね。

また、ハルがかつて父親から暴力を受けていたことを「僕」が知る場面と、犬から暴力を受けて犬が処分されるシーンが続くことに、やや作品的な印象を受けました。
ハルはかつて父親から暴力を受けていました→それにより過敏になったハルの母親が犬を処分しました、と段階が踏まれていますので、作品的な事情を少し感じます。
当時の対応についてハルの母親が後悔めいたものを感じているのは、それよりもずっと前になされていてこれはいいと思います。
ですのでここのシーンは続けずに、何か別のシーンを挟んだりしてもいいかなと感じました。

もうひとつ気になったのはハルの怪我についての言及が一切ないことです。犬に腕を噛まれて庭を引きずりまわされた。となるとまず心配するのはハルの怪我であることが自然です。
病院にも行っていないことから、おそらく怪我らしい怪我はしなかったのでしょう。まずハルからその旨が伝えられ「僕」は安心したので、ハルの怪我についての言及がなされなかった。そう解釈すると言及なしに納得することはできます。
とはいえ短い一文でも言及しておいてもいいとは思うのです。「怪我はなかった。」これだけでいいですし、この一文を入れるのは何も難しくありません。更にこの一文を入れることで上記で指摘させていただいた、犬の暴走をマイルドにするという改善を満たすことができます。怪我をしなかったのならば、犬はじゃれていただけかもしれない、母親の反応が過敏だったのかもしれない、と。
ここについて言及しなかったのは、ふわゆーさんが油断をしていたのではないかとフィンディルは推測します。この出来事は母親に犬を処分させ、母親の心情と、その後の「僕」とハルの場面に繋げるための舞台装置という意識が強かったのでは、と。そのため最も自然に注目されるべきハルの怪我について全くスルーしてしまったのでは、と。

話は移りますが、この出来事に際して「僕」はハルの強さを知ります。ハルが様々なことを考え、自分の立場を考え、それでも生きようとしていることを知ります。

物語を進めます。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」の話、そしてハルの学校の文化祭、ハルの死と「僕」の話、最後まで。

「本当に大切なことは誰も教えてくれない」について気になることがあります。これはハルが通う学校の先生の言葉とのことですが、この場面以前では「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」という文章で出てきています。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」と「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」は非常に似通っています。
読み解けばニュアンスが違うことは伝わります。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」は伝えられる側として、誰かのアクションを待つのではなく、自分から探しに行くことが大事であるという主旨が読み取れます。実際「本当に大切なことは誰も教えてくれない」のブロックでは、その大切さを話していましたから。
一方「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」は伝える側として、自分の大事にしていることや自分の想いについて、人に言葉で伝えることは不可能であるという主旨が読み取れます。だからこそ態度や行動、時間などを使って示していかなければならない、と。
というように両者のニュアンスはきちんと読み解けば違うことがわかりますが、一見すると同じようなことを語っているようであり、読者としてはダブって映ってしまいます。これら二つを区別して把握するのはやや難しく、無駄にややこしくなってしまいます。
更にそれぞれ「彼女が教えてくれた一つの言葉。」「たどたどしい手話の語学力の僕に、ハルが繰り返し懸命に伝えたその言葉。」という文もあり、そもそも本当に別々の教えなのだろうか? 同じ教えだが言い回しが変わっているだけではないだろうか? という疑念もあります。(この辺りはふわゆーさんの文章細部の無頓着から発生した疑念ですね。)
どちらかに統合するのがいいと思います。

本作のコンセプトに合っているのは「本当に大切なことは誰も教えてくれない」ではなく「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」であると判断します。
言葉によらない交流をハルと続けてきた「僕」は「僕は彼女といる時間の中で、本当に大切なことをいくつも感じた。」としますが、進学により離れ離れになって手紙で交流すると、何一つ文章に書けないことに気付きます。言葉によらない交流を続けてきたため、言葉による交流ができなかったのです。それを表しているのは「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」です。そちらのニュアンスだと、この場面で綴ることに作品としての意味があります。
逆に「本当に大切なことは誰も教えてくれない」には作品上の繋がりがあまりありません。

また「……あなた達にとって本当に大切なことは、あなた達それぞれ自身にしかわからない。」で始まるブロックでは「本当に大切なことは誰も教えてくれない」ではなく「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」を主旨としても、結びを「本当に大切なこと、あなた達自身だけの本当の本当を、積極的に学び、勝ち得てください。」にすることは十分可能です。
両者の教えはどちらかに統合するのをオススメしますし、「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」を選択することもオススメします。

場面を進めますが、ハルの学校の文化祭をキッカケとして「僕」はハルに嫉妬を覚えます。これは「僕」がハルや障害者のことを下に見ていたということではなく、むしろ自分と同じだと思っていたのが原因でしょう。「僕」が今まで生きて、そしてこの後生きていくなかでは決して体験できない一体感を目の当たりにしたことで、その世界の中で今まで生きてきたハルに対して嫉妬を覚えたのです。
しかしこの感情は突然湧き出たものとは少し違うでしょう。犬の事件の際に、「僕」はハルの強さを知りましたから。自分よりもずっと強く今を生きているハルを目の当たりにしています。おそらく「僕」は無自覚であったでしょうが、この頃から既にハルが眩しく思えていたのではないかと思います。
そして学校を卒業して「僕」とハルの進路が別々になるのも、これらの出来事が原因のひとつになっています。「僕」はそれを明確に述懐することを避けていますが、ハルに対して引け目のようなものは確かに感じていたのでしょう。

ここがとても非作品的で、しかしキャラの心情の移り変わりをわかりやすく示していていいと思います。どうして「僕」とハルは人生を別々に歩むことになったのか。
年単位の間隔が空いた出来事で、「僕」としても明確な自覚はありません。しかし心に残ってはいて、その出来事がハルへの想いの角度を少しだけ変える。これが劇的に、その出来事だけで180度変えてしまうものではないというのがとてもいいと思います。そのひとつの出来事ですれ違うほどではなく、しかし忘れられない出来事として少しだけ変わる。現実でもそういったことは少なくないと思います。特に若い頃は。
本作はそれが自然に示されていますので、「僕」とハルが人生を別々に歩むことについて違和感がありません。きちんとすれ違ったわけでもありませんしね。
関係性は継続したまま、お互いに環境が変わり、ある程度やり取りはするけれども、自然消滅する。ドラマティックでない、現実にある別れ方です。それをきちんと示しているのが、本作の丁寧なところです。
「僕」がハルにどこか引け目を感じているのを、控えめに描写しているのが丁寧でいいですね。
欲を言うならば、別の場面を緩衝材のように入れておけば、この心情変遷がよりマイルドにリアルに感じられたかもしれませんね。

進学により離れ離れになった二人は文通という交流方法を取りますが、先述の通り、言葉によらないコミュニケーションで繋がっていた「僕」は言葉によるコミュニケーションができず、文通は途絶えます。
それに苦しんでいたときに訪れるハルの死。ハルを失った「僕」は何とかハルを埋めようともがき、苦しみます。
「僕はそれを取り戻すために、努力をした。」から始まる文章ですが、「僕」のもがき、混沌を混沌のままに書いていて、しかし共感はできるいい文章だと思います。またここの文章により「僕」はハルとの思い出の保存が真っ当に行われていないことを知ることができます。記憶と思い出を変えないように試みるも、結局はわけのわからないものになってしまう。何が事実で何が「僕」の解釈なのか、その判断すらつけられないようになっている。実際、人が思い出を大事にしすぎた場合はこうなってしまうのでしょう。
そしてこの文章が、先に挙げたリアルとリアリティーの件に繋がります。
「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という「僕」の言葉は、このもがきを経て得られた気付きであり、諦めであるのでしょう。そしてこの「僕」の言葉の通り、今まで綴られてきた「僕」とハルの話の中には「僕」が無意識に脚色してしまったリアリティーが存在する。どれほどリアルが保たれているかも判断できないほどに。
その悲しさを感じます。

実際、今までの「僕」の話からはそれを感じさせるものがあります。
本作は非作品的な構成をとっており、それはテーマ性にも言及できます。非言語コミュニケーションと言語コミュニケーション、父親からの暴力、それにより暴力に過敏になる母親、障害を持つ者の精神的自立、異文化への嫉妬、小さな角度からシームレスに分かたれる両者の人生、思い出話に纏わりつくリアルとリアリティー。本作から取り上げることができるテーマは数多く挙げられます。いずれも作品一作が書けるくらいのテーマです。本作ではこれらがリアルの名の下に淡々と雑然に、作品的な演出と説得力を廃して配置されています。これが人一人の半生を振り返るリアルを生み出しています。
しかし本作はそうでありながら、「非言語コミュニケーションと言語コミュニケーション」「思い出話に纏わりつくリアルとリアリティー」に主眼が置かれているように感じられます。この二つを殊更に持ち上げているわけではないが、どこか印象深く語られる。そしてこの二つは「僕」が現在もなおもがき苦しんでいることでもあります。現在の「僕」を苦しみを通して語られる思い出話には、抑えていてもこの両者のテーマが色濃く出てしまうのでしょう。「僕」という個人が語り手になっているから。これが「僕」が思い出話に封入してしまうリアリティーの最たる物なのかもしれません。
作品性を廃して淡々と並べられる様々な出来事とテーマ、でも「僕」という個人が話す以上紛れ込んでしまう解釈と優先度。それがとてもよく表れていると思います。作者のエゴではなく、「僕」のエゴが。いいですね。
それがこの作品の空気を生み出しているのでしょう。

というのを本項のまとめにしたいと思っていましたが、最後にとても引っ掛かるところを見つけました。

というのも、終わり方がどうにも急に感じるのです。「僕」がハルとの思い出話を語り終え、現在に戻ってくるとすぐに本作は終わります。勿論、思い出話を語るというのはこの作品における「僕」の目的なのですから、それを完遂したのならばそのまま作品を閉じるのは何ら不思議なことではありません。
しかし思い出してほしいのですが、「僕」は語り手として不完全な務めを行っている人物です。今からハルの話を始めますと宣言した後も現在の話を続け、ゆっくりとグラデーションを描きながら思い出に浸る語りを取ってきました。そのような人物が終わりのときだけは「以上思い出話でした」ですっぱりと終わるものでしょうか。むしろ思い出話をした後にこそ、要領を得ない、まとまりのない話を続けそうなものです。振り返った思い出が現在の「僕」の精神に多大な影響を与えるのは必至ですから、思い出話の後に「僕」は長々と心情を零し続けるのが自然というものです。しかし本作はそうしていない。
序盤に提示した「僕」の語り方と、締めに見せている「僕」の語り方は性格が異なっているのです。
ここまで丁寧になされていた「僕」の語りに沿って読み進めていたのにこの締めでは、まるで打ち切りのような読後感を覚えてしまいました。

またきちんと回収がなされていないブロックもあります。
「僕」がハルの遺骨を摂取するシーンです。最後まで読みますと、これは「僕」がなんとかハルの存在を埋めようと試行錯誤した末に得てしまった、苦肉かつ倒錯の手段であることが読み取れます。読み取れますが、ここを回収しないままだと遺骨摂取の場面がインパクトしか残さない結果になってしまいます。この場面はただのインパクトで終わらせるのではなく、きちんと現在の「僕」の地点を明示させるために文章を割いて扱われるのが自然でしょう。
「僕」のもがきの果てとして現在「僕」はハルの遺骨を摂取するという倒錯の地点に置いてきぼりにされている。いつまでも「僕」は過去と決別ができず、むしろこのような地点にいる。それを終盤に表現できちんと言及しないことには、遺骨摂取の場面は完成しません。
遺骨摂取という行為自体のインパクトのみをひけらかすのは、本作の雰囲気には相反するものです。

では何故本作の締めは急であり、回収すべき場面が回収されていないのか。これはフィンディルの推測ですが、おそらく文字数の都合でしょう。
応募時の申告で本作の文字数は10028字です。そして「フィンディルの感想」の応募条件としている文字数が10000字以内(若干超過可)です。つまりギリギリであって、かつ「若干の超過」が具体的に何文字であるのかわからないため、ふわゆーさんはここから幾文字も継ぎ足せない状況であったことが想像できます。
そのため、本作の締めを半ば投げっぱなしの状態に妥協したのではないかと、フィンディルは推測します。

ですがそれは本末転倒です。
作品的な都合を廃して「僕」という個人を浮き上がらせてきた本作の締めが、作品外の都合によって操作されてしまう。本作において、最もしてはならないことだったのではないでしょうか。とんでもない方向から作者ふわゆーさんが顔を出してきてしまいました。
まるで大作映画のラストがスポンサーの意向により変えられてしまったかのようです。
本作を執筆するにあたり、ふわゆーさんは優先すべきものを履き違えたしまったのではないかと、フィンディルは考えます。
勿論これは、作品の締めが急なのは「フィンディルの感想に応募するため」というフィンディルの推測が当たりだった場合です。外れだった場合は、本作の締めは「僕」の性格や構成のバランスを著しく損なうものであるため要改善、とだけ評価を置いておきます。


●ハルの発言がカタカナ表記なのは何故

本作では少ない箇所ですがハルが話す場面があります。「彼女の声帯が不自由だ」「ハルの喉からは一切の音が出せなかった」ということから、ハルの発言は手話を使って行われていると判断することができます。
―――――――――――――――――――
 父親、シタ。暴力。
 母親、別レタ。
―――――――――――――――――――
「悔シイ……、色々ト……」
―――――――――――――――――――
「イツモ、コウナノ」
―――――――――――――――――――
何故表記がカタカナなのでしょうか?
日本語のカタカナ表記は多くの場合、片言であると表現される場合に用いられます。日本語の習熟度が未熟であることを示す表現です。
フィンディルとしてはこのカタカナ表記自体が相手に失礼であると考えています。母国語が話せるうえで日本語を学習している者に対し、日本語しか話せない者が上から目線で「あなたは未熟だ。可愛らしい。」と笑い飛ばす表現であるからです。
という話は別として、本作の場合はどうでしょうか。ハルはネイティブの日本人です。喉から声を出せないだけで、日本語を巧みに操ります。しかも日本語の手話まで会得しています。日本語の習熟度という点では、我々よりも上です。
であるのにも関わらず、何故表記が日本語が未熟であることを印象付けるカタカナ表記なのでしょうか?
また何故「父親、シタ。暴力。」「母親、別レタ。」というように助詞を省いているのでしょうか。助詞を省くという表現はカタカナ表記同様、日本語の習熟度が未熟であることを示す表現です。手話の構成上助詞を省くのかなとも思いましたが、手話を理解できる「僕」が文意を受け取って助詞を補完すればいいですし、その他の発言では助詞を省いている感じはありません。更に意図はどうであろうと、カタカナ表記とともに出しているため、日本語が未熟であるという間違った印象がなおさら強く打ち出されてしまっています。
ただ喉から声を出せないというだけで、ネイティブの日本人が日本語が未熟であるという扱いを受けてしまっているのです。

こういった表記を「僕」がするとは思えません。「僕」はハルに対して障害者ということで下に見ている節はありませんので。まあこういう箇所に無意識に出ているということは往々にしてありますが、今回の場合は「僕」が無意識に出しているのではなく、ふわゆーさんが無意識に出していると判断します。
よってカタカナ表記をすることによって「僕」のキャラクター形成にも大きな支障を来たしています。丁寧に作られてきた「僕」のキャラクター形成を、ふわゆーさんの不用意な認識が邪魔しているのです。
強く改善を求めたい箇所です。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。

・想うこと、その憤り
タイトルです。このタイトルが何を意味しているのか、本作をある程度読み込まないと解釈が難しいなと感じました。
大まかに考えれば「想えば想うほど上手くいかず、そんな自分に憤りを覚える」ということでしょうか。本作にはそんな場面が数多くあります。
ハルに言葉で想いを伝えようとすればするほど伝えられず、そんな自分に憤りを覚える「僕」。ハルとの思い出を保持しようと想いを馳せれば馳せるほど難しくなり、そんな自分に憤りを覚える「僕」。
自分の立場と周囲に想いを巡らして悔しさを覚えるハル、ハルを想うがゆえの行動を後に後悔してしまうハルの母親など。想いと憤りという組み合わせが複数登場します。
本作のタイトルはそれらを包括的に示したものなのかなと解釈しました。本作を読めば読むほど、いいタイトルだと思います。

・部屋に連れ込んだ女の子の人数もそれなりの数にのぼる。
「女の子の人数もそれなりの数にのぼる」は少しくどいです。
「女の子もそれなりの数にのぼる」でいいと思います。

・恥らうように顔を伏せ、指輪をくるくる回し出す子。
「回し出す」の「出す」はひらがな表記でいいだろうと思います。
無闇な漢字表記は読みにくさに繋がりますので。

・なれた顔つきで無表情を装い、肩に掛かる髪の毛先を整える子。
「なれた顔つきで無表情を装い」というのがまどろっこしい物言いだなと感じます。
「なれた顔つき」も「無表情」も顔の表情を示していますから、「なれた顔つき」の時点でその人の表情は伝わっているんですよね。
「なれた顔つきで平常心を装い」などならばまあ通るかと思います。

・僕を見つめて続けていた子もいた。
「見つめて」→「見つめ」

・それでも僕がある年齢を経たときを境に
「経た」ではなく「越えた」がより自然でしょうか。

・例えば、冷蔵庫の扉を開いて、その薄ら灯りに照らされている横顔。
ここで「例えば」を用いているので、「冷蔵庫の~」が「共通の仕草」の単なる例示であるように印象付けられますが、実は「冷蔵庫の~」は「共通の仕草」よりも重要であることがわかります。他に「共通の仕草」も出てきませんし。
この「例えば」により、読者が意味把握のウェイトを置き間違えることに繋がりかねませんので、この「例えば」は省くことをオススメします。
また厳密にいえば「~照らされている横顔」は「仕草」ではありませんね。

・何て、すっとんきょうに声をあげる。
構わないのですが、一般的には「素っ頓狂な声をあげる」と表記します。
細かい部分なので、「すっとんきょうに」でも構わないと思いますが一応。

・そんな感じの会話を交わしつつ、部屋を訪れた女の子たちが見せた、冷蔵庫の中を覗き込み、中身を調べるという行為には、女の人のリアルな部分を喚起させる。
ふわゆーさんの悪癖ですが、文章を繋げすぎです。前半と後半では主旨も視点も異なっています。
「そんな感じの会話を交わしつつ、」は「そんな感じの会話を交わす。」で区切るのがいいでしょう。最悪でも話題転換の接続詞を使うべきで、「~しつつ」で繋げるのは文章を読みにくくするだけです。
また「冷蔵庫の中を覗き込み、中身を調べるという行為には」の読点は不要ですし、「行為には」は「行為は」とするのがいいでしょう。

・話がそれたので元に戻すと、僕がこれから語る話は
「話がそれた」は「例えば恋愛にとって、結婚詐欺師はリアリティーであり、リアルはストーカー……、って何言い始めてんだろう。」を指すのでしょうが、「元に戻す」というのがよくわかりません。更にその後に「僕がこれから語る話」と今まで出てきていなかった目的が急に現れるため、ここの文章を理解するのが非常に難しいです。
それが「僕」の語りといわれれば確かにそうなのですが、もう少し理解のしやすい誘導があるのではないかと思います。

・つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。つまりはSEXというものが内蔵のような粘膜と、囁きのような微笑みを、切り離して果てることがないように……。
「つまり」が二回続いており、文章構成が悪いです。「つまり」の軽視といいますか、文章を理解させにくい構成になっています。
「つまり」は基本的に一回までですし、そもそもこの段階では文章の内容はいまいち把握できませんので、ここで「つまり」を使って理解させようとするのは悪手であると判断します。
「つまり」は省いた方がいいのではないでしょうか。

・つまりはSEXというものが内蔵のような粘膜と
「内蔵」→「内臓」

・限られたスペースでもあるその直通の廊下に
「スペースでもある」→「スペースである」
「その直通の」も不要ですね。

・限られたスペースでもあるその直通の廊下に、申し訳程度に収まる備え付けのシンク
「申し訳程度に収まる」というのがどういう意味なのか、解釈が難しいです。
「申し訳程度」というのは「ほんの少しばかり」「弁明がやっとできる程度」という意味なので、「ほんの少しばかりに収まる」ということになり、つまりスペースに比してシンクがすごく小さいということになります。廊下のスペースがすごく余っているということになってしまいます。
ですが伝えたいのは「狭いスペースに目一杯に収まっている小さなシンク」ということでしょう。
ならば「申し訳程度のスペースである廊下に収まる、備え付けのシンク」や「~廊下に収まる、申し訳程度のシンク」といった物言いが適切ではないかと考えます。後者の場合「申し訳程度」が「シンク」にかかっているので、「シンクとしての機能をなんとか果たす程度の代物」という意味になりますね。

・そこで絶望的に無視され続ける低い唸りのコンプレッサー音。
「絶望的に無視され続ける」が蛇足のように感じます。というのも本作では冷蔵庫の音にフォーカスを当てている節があり、フォーカスを当てているのは「僕」です。ならば「絶望的に無視」するのは一体誰なのかという話になってしまうからです。

・オレンジ懸かった光に照らされて
「掛かった」「がかった」の方がより適切かなと思います。

・やっと温度を取り戻したかのような僕の横顔。
視点は「僕」なので、「僕」の視点では「僕の横顔」は確認できないはずです。

・ところで、部屋の緑色の小さな冷蔵庫の中身に話を移すと、そこには缶ビールや練りからしや房付きのにんにく……。
「部屋の緑色の小さな」は不要ですね。

・と、貧相で従属的な品々が、がらんどうの白い空間を申し訳程度に座していた。
「白い空間を」→「白い空間に」
これもふわゆーさんの癖ですが、助詞の使い方が雑ですね。

・オレンジ懸かった光に照らされて、やっと温度を取り戻したかのような僕の横顔。
・と、貧相で従属的な品々が、がらんどうの白い空間を申し訳程度に座していた。
これ以前に「オレンジ懸かった光」とされているので「白い空間」と繋がると「まあオレンジがかってるんですけどね」とどうしても思ってしまうんですよね。
「白い空間」ではあるとは思うんですけど、こういう細かいところに意識を向けて、整えてもらいたいなと思いますね。

・手のひらに収まる程度の大きさの人の骨が密かにしまってある。
「手のひらに収まる程度の人骨が」が読みやすいです。「手のひらに収まる」は大きさの表現として有名ですので「大きさ」は不要ですし、「~の人の骨」とすると小人の骨という解釈もできてしまいます。まあしませんが。

・が、答えは曖昧にしておいた……。そう、今までは。
「そう、今までは。」の意味がよくわかりません。これからは曖昧にしないのか、というような描写が一切ありませんので。
もしかしたら終盤で回収する予定の箇所だったのかもしれませんね。

・大学生になった春の終わり、彼女の訃報を告げられた僕は、海のある故郷の田舎町に飛行機で戻った。
「大学生になった春の終わり」というのは具体的にいつのことでしょうか。素直に解釈すると、大学に入学してすぐという解釈ができます。大学一年の五月や六月くらいでしょうか。
しかしそう解釈すると「上京してからの、三ヵ月間。ハルと僕の間には、数通の手紙のやり取りがあり、すぐに途切れた。」という文章と矛盾が生じます。少なくとも大学生になってからの三ヶ月はハルは生きていたということになりますから。
話の流れから察するに「大学生になった春の終わり」というのは大学一年の終わりの春休み辺りを指すのではないかと思います。もうすぐ大学二年という段階ですね。
とするならば「大学生になった春の終わり」という書き方は誤りです。

・海のある故郷の田舎町に飛行機で戻った。
「海のある」「田舎町」はその地自体の情報、「故郷の」というのはその地と「僕」の関係を表した情報です。
二種類の情報があるのですが、これの順番が悪いです。その地自体の情報→「僕」との関係の情報→その地自体の情報となっており、こういう細かい箇所でも煩雑さが生まれています。
きちんと区別して明示すべきでしょう。

・彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。
上の項目でも述べましたが、非常に読みにくい文章です。
主語が二つになっていますし、ハルの母親に対する「僕」の印象と、ハルの母親が一緒くたになっています。二つか三つに文章を分けましょう。また「でも実際の話」は不要です。

・すべてが片付いた彼女の家は空白を満たしていた。
「空白を満たしていた」→「空白に満たされていた」でしょうか。

・それは晴れた日で、火葬場で燃えつきたあと、残された彼女の壊れた欠片。
これ自体はテンポや情報の示し方がよく、いい文章なのですが、本作の読みにくい文章の中にあると、この文章まで読みにくく感じてしまいます。

・それを長い箸で拾い集めた時のことを話題にして、彼女の母はぼんやりと話しを始めた。
「話しを始めた」→「話し始めた」

・結局、あの犬がいなくなるまで毎日あの子と散歩の相手をしていたしね
「あの子と」→「あの子の」

・僕は視点の定まらぬ自分の思考をごまかすように部屋の畳の模様を数えていた。
「畳の目」がいいと思います。

・声を詰まらせても身動きしないまま、化粧の剥げ落ちた彼女の母親の頬を涙がつぅと流れた。
「声を詰まらせても」→「声を詰まらせて」
「彼女の母親の、化粧の剥げ落ちた頬を~」と繋げるのがいいと思います。
また「彼女の母親」がまどろっこしいですね。その後で「おばさん」とあるので、この件でも「おばさん」と表記してもいいかと思います。

・声の出せないあの子が、いわれのない暴力を受けた。そういうことを想像するだけで身を切られる思いがする。
「いわれのない暴力を受けた」の後を「そういうことを想像する」と繋げることにより、実際には暴力を受けていないのかと受け取れてしまいます。
しかし実際にハルは父親から暴力を受けたので、「想像」ではなく「思い出す」などが適切だろうと思います。

・実際あたしが守るしか、あの子はあの子自身を守れない……。
文の書き方が悪いです。素直に解釈すると「ハルの母親がハルを守るという方法でのみ、ハルは自分自身を守ることができる」となり、おかしなことになってしまいます。ハルが自身の母親を道具か何かに捉えていると解釈することも可能になってしまいます。
伝えたいのは「ハルは自分の身を守れず、ハルの母親が守らないといけない」ということです。「実際あたしが守るしか」「あの子はあの子自身を守れない」で主語が異なっているのがそもそも原因ですね。
「実際あたしが守るしか……あの子はあの子自身を守れない……。」なんて三点リーダを入れるだけでまあ解釈できる形になるとは思います。文章自体を改善する方がいいと思いますが。

・悲鳴も上げられずトラックに軋むようにつぶされたあの小さな頭蓋骨。
本作ではハルの死因について特に取り上げられておりません。それは「僕」の語りを特徴づける工夫のひとつとしていい手だと思います。
ハルの死因についてはここのハルの母親の発言でのみ窺い知ることができますが、ここで「軋むように」としていることで、死因が交通事故なのかどうか確かな判断ができません。
ハルはトラックに轢かれて死んだのか、あるいは別の死因でまるでトラックに撥ねられるように頭蓋骨を潰されたのか。その前に「暴力を受けた」というのもあり、後者で解釈することが可能になっています。
ここで解釈を分かれさせる必要性は薄いので、こういう箇所をしっかりと記述しておく必要があるだろうと思います。

・あの春、とてもたおやかな海。
「あの春」だけ現在の視点に立っており、やや浮いています。「あの」は省いていいかと思います。

・そんなささやかな暮らしのためにおばさんの喉は、夜の街で酔っぱらった男たちの慰めため、濁った酒を流し込み、乾いた笑い声を立て続けた。
「慰めため」→「慰めるため」
「ため」が二つ続いているため、読みにくくなっています。
「夜の街で酔っぱらった男たちを慰め」などがいいでしょう。

・そこから絞り出された嗄れた声は、悲しみ、という一言の意味を、不謹慎だけど、言葉にできないほど味わい深い崇高さで、実感のもてない他人事のような装いに変えていた。
この文章も読みにくいのですが、この読みにくさはいいと思います。
この文章はふわゆーさんの文章が読みにくいのではなく、「僕」の文章が読みにくいからです。
文章構成におかしなところが(一応)ないのも大事なところですね。

・毎日通う駅の階段で一段一段数を数えながら上ったり
「数を」不要ですね。同時に「階段で」は「階段を」が自然になります。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
読みにくいです。順序が素直でないからですね。
コップにミネラルウォーターを注ぐ→骨炭を入れる→指先で回す、という順序ですが、文章ではその通りになっていません。
そのため強引で読みにくい文になっています。きちんと順序通り記しましょう。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
コップにもよりますが、五分目ほどに注がれた水を指先でくるくる回せますかね? コップと指によっては届かない、あるいは上手く混ぜられないと思います。
まあこのコップと指は届いたんだといわれればそれまでですが。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
「つけ込み」という語彙が気になります。骨炭をミネラルウォーターに浸したということなのでしょうが、これを「つけ込む」とするのは馴染みがないです。
「つけこむ」という字面は「漬け込む」と変換しやすくて、「漬け込む」は水や液体に浸して一定時間置いておくというニュアンスになります。
しかしこの場合はただ骨炭をミネラルウォーターに浸しただけなので、素直に「ミネラルウォーターに浸し」でいいのではないかと思います。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
「回す」でいいと思います。

・唇を大きくを開き、舌の上に乗せるようにそれを優しく口に含む。
「大きくを」→「大きく」

・水と砂と大気が柔らかく繰り返す揺らぎ。
それまでで「くり返す」という表記があったので表記揺れですね。
表記揺れは読者の没入を阻害するので、潰した方が無難です。

・整った作りの瓜実顔で、黒目がちの瞳と細く尖った鼻梁は笑っても、少し泣いているような哀しさが漂っていた。
読点がややおかしいですね。
「黒目がちの瞳と細く尖った鼻梁は、笑っても少し泣いているような哀しさが漂っていた」とするのが自然です。

・公平に見て、僕は変態的な資質をもつ人間と言える。
「言える」は「いえる」がいいというのは、過去作の感想でも述べたことでしょうか。

・同時代に住む人々と緯度や経度は変わらなくても、水域が違うのかもしれない。
「水域」とは水がある地帯、水没した地帯のことなので、緯度や経度とは関係ありません。
おそらく「水深」などの語彙を用いたかったのではないかと思います。

・日の光の当たらない深海でしかぼくは人を愛せない
「ぼく」表記揺れ

・僕が人を恋しく思う領域は~僕は他人を認知し共感することがない。
ここを読んでいる段階では「僕」の性格的な特徴なのかと思いましたが、読み進めるとそれはハルと言葉によらないコミュニケーションを取り、深い親交を続けていたからであると知ることができます。
そしてそれが現在の「僕」にも続いているということも。
読み返すと読み味の変わる、いい件だと思います。

・さらに標高三千メートルを越える岩肌に漂着してしまった、ありふれた雑草かもしれない。
・強風に身をさらしながら根を張り続けるしかない。
細かいことなのですが、標高3000mを超えるところには、ありふれた雑草が根付くことはできないと思います。
勿論標高3000m以上にも植物は自生しているでしょうが「ありふれた雑草」というと平地で普通に見かける植物という印象があります。それら平地に自生している草類が、標高3000m以上に根付くことができるのか。できる種類もあるのかもしれませんが、考えにくい話だとは思います。
「僕」の心情の吐露なので野暮な話ではあるのですが、その後に「強風に身をさらしながら根を張り続けるしかない」と続いているのも違和感ですね。まず根を張ることが困難だと思うので、比喩として用いるのならば「根を張り続ける」ことではなく「根を張る」ことの困難にズームするのが自然だと考えます。

・さらに標高三千メートルを越える岩肌に漂着してしまった、ありふれた雑草かもしれない。
「越える」→「超える」

・どこにもたどり着けないままそこで呼吸を繰り替えし
「操り替えし」→「くり返し」

・顔に当たる風の微かな渦までをも知覚できた。轟火の中でハルの身体は炙られ、溶け出した。
ここの繋がりがいいと思います。ハルと過ごした砂浜の景色から、ハルの火葬へと一気に飛ぶ文章。
「僕」の語りが思い出に浸っていく途中であることがわかりますし、同時に現在の「僕」の精神が不安定であることを窺うことができます。
砂浜→火葬という場面自体の飛び方も、程よい突飛さがあると思います。

・たとえば、十三才にして出会った相手が、その後の人生全てを支配することもあるなんて思い付きもできなかった。
「たとえば」は「例えば」の表記揺れですし、そもそもこの「たとえば」は必要なのだろうかと思います。
ふわゆーさんの文章のひとつの癖として、単純にリズムを整えるために「例えば」を使う傾向があります。
更にいえばリズムを整えるためだけに、接続詞や助詞を無闇に用いているとも感じます。
しかし「例えば」には例示という役割がありますので、リズムを整えるのであればどういう接続詞や助詞を使うかなど、心得たうえで用いることをオススメします。

・たとえば、十三才にして出会った相手が、
年齢を表す際には「才」ではなく「歳」の方がより適切といわれています。
ただ年齢を表す際でも一般的に「才」を使うこともありますし、「僕」の一人称視点ですので、「才」の方がしっくりくると判断されるのであれば、こちらでもいいかなとは思います。

・だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。
上でも申しましたが、あまり意味のない指示語が多いです。「その」です。
ただリズムを整えるだけの「その」であるのに、指示語があることで文章把握に手間を増やしているというのは、本作のジャンルには適当ではない手と判断しています。

・だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。ただその春は、不思議と奇跡に満ちあふれた春ではあった。学校の帰り道、海岸沿いの道を歩くと、彼女を見つけた。
文章の視点を時系列で並べると、現在→ハルと出会った後→ハルと出会う前というような並びになっています。
「現在の視点で十三歳を振り返る」「ハルと出会って奇跡に満ち溢れていた」「ハルと出会う」という並びです。
「僕」の語りの特徴として時系列が混沌としていても問題ないというのはありますが、こちらの文章に関しては文の通りの悪さを少し感じます。
文章の順番を少し調整するだけで、読みやすくなりそうだと感じます。

・学校の帰り道、海岸沿いの道を歩くと、彼女を見つけた。
「学校の帰り道」ではなくて「学校の帰り」の方が自然ですね。
また「歩くと」よりも「歩いていると」でしょうか。

・彼女が最近、家の近くに越してきていたことは知っていた。彼女の声帯が不自由だということも知っていた。彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること、犬の散歩のために、夕方になると砂浜にやってくることにも気づいていた。
この内「家の近くに越してきたこと」「声帯が不自由なこと」「隣の市の養護学校に通っていること」は「僕」が情報として知っていることです。「犬の散歩で夕方に砂浜に来ること」は「僕」が見かけるなどして気付いていることです。
しかし文章構成では「家の近くに越してきたこと」「声帯が不自由なこと」を知っていること、「隣の市の養護学校に通っていること」「犬の散歩で夕方に砂浜に来ること」を気付いていることとなっています。
隣の市の養護学校に通っていると気付いている、というのは不自然です。
「知っていた」「知っていた」と並べるのであれば「彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること」についてもきちんと「知っていた」と結ぶのが適切だと判断します。

・海岸沿いの通りを歩く僕に、じゃれ掛かってきたその小犬が、そのままだと車に引かれそうになると心配して、海へ降りる階段に腰かけて、僕は小犬のまとわりつくままにした。
上で申した通りですね。
主語をきちんと把握してらっしゃらない。

・彼女は横に立ち止まった僕を上目使いで少しうかがうように見て、
細かいところですが、初対面でやり取りをするなら「横」ではなく「前」に立ち止まるのが自然ではないかと思いました。
初対面の二人が横に並んでやり取りするというのは、あまり想像できません。

・手話の手振りで答えようとした。
「手振りで」は余計です。
あるいは「僕」がそれを手話と確かに認識できなかったことを表現したいのならば、「手話のような」とするのが適切でしょうか。

・それでしばらくハルの名前を使って犬を褒めたり、呼んでじゃれたりしていた。
主旨は十分伝わりますが、ややまどろっこしさを感じます。
「犬をハルと呼んで褒めたりじゃれたりしていた」などの方がすんなり通っているのでは、と思います。

・彼女はそれを見て声も立てずに笑っていた。
ハルは声が出せないのですから「声も立てずに」というは当たり前ではないかと思います。
この文の書き方では、声を出せる人が「声を出さずに笑う」という笑い方をしているという表現に受け取れます。声を出さないということに笑い方の特徴を付与している感じですね。
しかしハルは声を立てて笑うことができないはずですので、「声を出さずに笑う」ということに笑い方の特徴を付与できないはずです。
特別なアクションを示すでもなく笑っていた、ということを表現したいのなら「ただ笑っていた」などが適切ではないかと思います。

・おかしかったのでっそのままにしておいた
「おかしかったのでっ」→「おかしかったので」

・その日陽が暮れて彼女を家に送り届けたとき、
邪推に近いですが、「日が暮れて」とすると「その日日が暮れて」と重なってしまうので「その日陽が暮れて」という表記にしたのかなと思いました。
だから何、というわけではないですが。

・時に灯台や松林を探索した岩場を冒険したりもした。
「探索した」→「探索したり」


―――――――――――――――――――
その浜辺は声のない世界だった。
 穏やかな潮騒の織り成すうねりや時折訪れるかもめの鳴き声、でも僕たちの耳は日差しの醸し出す波長や、砂粒のざわめき、そして犬の呼吸と、お互いの表情を正確に聞き取れていた気がする。
―――――――――――――――――――
「声のない世界」だけれども「かもめの鳴き声」はするというところで、細かなモヤモヤを感じました。
正確さを取るのであれば「人の声のない世界」とするのがいいのかなと思います。若干歯切れは悪くなりますが。
あるいは文章上「かもめの鳴き声」をカットするというのも手かなと思います。

・中学、高校と自分自身の置かれている状況や、周りの友人たちの顔ぶれが変わっても、
「僕」とハルが出会ったのは「僕」が十三歳の頃ですから、通常の進学状況だと「僕」は当時中学一年生となります。
しかし「中学、高校と自分自身の置かれている状況や~」という書き方は一般的に「中学に進学し、高校に進学し」という主旨で用いられるものです。
最初から中学一年生だったので「中学」だけでは状況の変化はないと考えられます。
「受験、高校と」など、中学一年生当初からの変化を示す語彙を並べるのが適切ではないかと考えます。

・同じ共通の経験をもつ人間に、パスワードとしての観念的な虚言を付与し、その深層心理を揺らして、表面的な感情に微細な影響を与えることは可能かもしれない。
ここの文章の意味把握は難しいのですが(それ自体はいいと思います)、ここの「虚言」というのは虚言で正しいのだろうか、という疑惑があります。
「虚言」は嘘という意味ですが、この文章では「言葉とはいえないもの、言葉未満のもの」という意味合いで「虚言」を用いてしまっているのではないかと推測しています。
少なくともこの流れで虚言=嘘を言うのは不自然ですからね。観念的な嘘、というのもよくわからない言葉です。
もしそうならば、別の語彙を使うべきでしょう。

・ハルの通っていた聾学校の先生から学んだ言葉。
「学んだ」→「学んだという」

・会話を終えると、ハルは当たり前の一連の動作で砂浜から腰を上げ、犬を呼んだ。
「当たり前の一連の動作」というのがよくわからないです。素直に受け取るならば「人間が起立するときに通常取られる動作」ということになりますが、ここでそんなことを伝える必要はありません。
想像ですが「二人が話し終わった後、ハルはいつも立ち上がって犬を呼ぶ」ということを伝えたいのではないかと思います。
ならば「当たり前」ではなく「いつも通り」が適切でしょうか。

・彼女は犬を飼っていて、僕らは毎日二人と一匹で散歩した。
「彼女は犬を飼っていて」という情報はさすがに不要です。

・当時はまだ小犬で人を襲うような心配は全くなかったし、それ以降も誰も咎めやしなかった……。
・犬はハルが八才のとき、それは両親が離婚してすぐの頃、拾ってきたもので、すでに喉を手術されており鳴けなかった。
「僕」とハルはほぼ同い年であると推測されます。
「結局ハルが十六才の春にその犬と別れることになるまで」「僕の高校一年生が終わる春休みまで、その散歩は果てしなく淡い喜びの気配に満ちたものだった。でも、その春は突然人が変わったように荒々しい態度を取る。」は同年の春を表していますが、この春でハルは十六歳、「僕」は高校一年の終わりであるからです。また高校卒業も同時期であると推察されます。
そして「犬」はハルが八歳の頃に拾ってきたもので、「僕」とハルが出会ったのは「僕」が十三歳の頃です。ですので出会った当時で「犬」は四、五歳であったと推測できます。
「当時はまだ小犬」とありますが、四、五歳の犬は立派な成犬ですね。ですので「当時はまだ小犬で人を襲うような心配は全くなかったし」と「僕」の視点で判断することはおよそ不可能ですので、この文章は変更することをオススメします。

・犬はハルが八才のとき、それは両親が離婚してすぐの頃、拾ってきたもので、すでに喉を手術されており鳴けなかった。
この「すでに喉を手術されており鳴けなかった」で手術を受けたのは「犬」ということで間違いないのでしょうか。
拾ってきたときに犬に手術を受けさせたということでいいのでしょうか。
それならばそれでいいのですが、ふわゆーさんの文章細部への無頓着の弊害を感じます。全ての記述に対して「文章に無頓着だから、文章通りに受け取ってはいけないかもしれない」と疑念を向ける作業が必要になります。

・でも僕たちの耳は日差しの醸し出す波長や、
・窓の外では無言のまま、水色模様のガラスの風鈴が、まぶしい夏の陽射しに照り付けられていた。
「日差し」「陽射し」表記揺れ。

・窓の外では無言のまま、水色模様のガラスの風鈴が、
「模様」というのは「そのものの表面に表れた図や形、絵のこと」ですので、「水色」という色と付けるのは違和感があります。「水色」は色ではあって模様ではないですからね。

・じりじりと、焼けるアスファルトと陽炎に眩む大気。
「陽炎に眩む大気」とありますが、「陽炎」とは「大気の密度が異なることにより大気が揺れて見える現象」のことです。
この書き方では陽炎を原因として大気が眩んでいるように見えますが、眩む大気こそが陽炎です。結果が陽炎なのです。
「に眩む大気」は省くか、文の構成を調整することをオススメします。

・夏休みの僕の部屋の白いシーツの中で、ハルは当たり前のように手の平を突き出し、僕の身体中を触り確認していった、どちらかといえば、僕のほうが動じ、たじろいでいた。
「確認していった」で句点を打った方がいいと思います。
また最初の「夏休みの」は不要に感じます。どうしても「僕」が夏休みであることを伝えたいのなら、別の文にて示すのがいいのではないでしょうか。

・そのようしてハルはハル自身が秘めてた、
「そのようして」→「そのようにして」

・そのようしてハルはハル自身が秘めてた
「秘めてた」よりも「秘めていた」の方がいいかなと思います。
語りとはいえ「秘めてた」は口語的な印象の強い言い方ですので。

・その犬がハルの腕に噛みつき、庭を引きずり廻しているのを目撃したのは、ハルの母親が仕事に出かけようと、迎えの車を待っていた時だった。
この文章だと目撃のタイミングを伝えるものになっています。
しかし大事なのは誰が目撃したのかということです。
「その犬がハルの腕に噛みつき、庭を引きずり廻しているのをハルの母親が目撃したのは、仕事に出かけようと迎えの車を待っていた時だった。」などの方が主旨が伝わりやすいと思います。

・母親の店の従業員が白い乗用車で迎えに来たとき、口と両足を縛られた犬はトランクにほうり込まれ、ハルのもとから連れ去られた。
「母親の店の従業員が白い乗用車で迎えに来たとき、」は不要かなと思います。「口と両足を縛られた犬は迎えの車のトランクに放り込まれ」などで。
「僕」の視点の話ですし、「僕」が見ておらず重要でない情報は削除するのが自然だと思います。

・受話器の側で鈴の音を鳴らす合図でハルからの電話があり、
この書き方だと、「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をもってハルが電話をかけるということになりますが、「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をしても電話をかけることはできません。
伝えたいのは「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をもってその電話がハルからのものであると示すということだろうと思います。
ならば「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図でハルから電話で呼ばれ」などがいいだろうと思います。その場合文章が長くなるので、一旦句点で区切るなどしてもいいと思います。

・僕とハルは一緒に彼女の部屋のベットの中にいた。
「ベット」→「ベッド」

・窓の外には、静かに夜の雨が降っていた。
「窓の外には」→「窓の外では」

・誰かにもたれかかって楽をすることを幸せだとは結して思えない。
「結して」→「けして」「決して」
その前に「けして」とあるので「けして」の方が適切。

・僕らは何もしないでベッドの中にいた。服を着たままベッドの中にいた。触れることもなく温もりを伝えることもなく、視線を交わすことさえなく。
・僕はハルの震える体を抱きしめてはいたが、実際はハルの崇高さに包まれ身を委ねて弱かった。
その前では「触れることもなく」とありますがここでは「震える体を抱きしめてはいたが」と矛盾しています。
時間が経ってから抱きしめるようになったと解釈することも一応可能ですが、文脈から見て何か動作があった風でもないので、ここは前の記述に倣っておくのが無難かと思います。

・実際はハルの崇高さに包まれ身を委ねて弱かった。
ここは読点がほしくなりますね。「実際はハルの崇高さに包まれ、身を委ねて、弱かった。」など。

・母親は当然、犬を処分し終えていて、ハルの部屋に入るとおもむろにベットの上の彼女を抱きしめ、泣き崩れた。結局僕はクローゼットの中で朝を迎えた。
「僕」がハルの部屋にいる時点では、ハルの母親が犬を処分したかどうかはわかりません。
過去を振り返る話ですし時系列の混沌が「僕」の語りの特徴ではありますが、ここの場面に関しては些末なところでもありますので、視点の認識に従っておくのが無難だろうと思います。
犬を処分したことは、これらの件の後に差し込んでおくのが自然と考えます。

・ハルの部屋に入るとおもむろにベットの上の彼女を抱きしめ
「ベット」→「ベッド」

・たどたどしい手話の語学力の僕に、ハルが繰り返し懸命に伝えたその言葉。
「たどたどしい」とは「技能が未熟であるため、その物事を行うのが危なっかしい様子」のことを指します。ここでは手話のことを指します。
しかしこの書き方だと「たどたどしい」は「手話の語学力」を指してしまいます。よって「語学力を行うのが危なっかしい」となってしまい、不自然です。
「たどたどしい手話」「手話が未熟な」などが適切かと思います。

・ハルの学校の先生から学んだその言葉。
これでは「僕」が直接「ハルの学校の先生」から学んだように解釈できてしまいます。
「ハルの」→「ハルが」


「たち」「達」の表記揺れ。

・且つ時間をかけ形を作ってきたものです。
・それはどんなに表現しても、このカタチのまま、
どうして「形」「カタチ」と二つの表記があるのかいまいちわかりませんでした。
どちらも同じ意味合いで用いられているように見えます。

・文字や映像や音楽、言葉や手話や笑顔や光の下での行動、
聾学校の先生が「言葉」と「手話」を区別して用いることに違和感があります。
おそらく「言葉」とは音声言語のことを指しているのでしょうが、聾学校の先生が音声言語だけを指して「言葉」と表現し、「言葉」以外であるとして「手話」と表現するでしょうか。
「言葉」ではなく「肉声」など、それが音声言語であると理解できる形で表現するのが適切であると考えます。

・そこから染み込みんできたそれに、
「染み込みんで」→「染み込んで」

・あなたの世界にとってそれが本当に大切なこととなるのです。
それまで「あなた達」としているのでここも「あなた達」とするのが適切です。

・時間は限りなく過ぎていきます。
言いたいことはわかるのですが、「どうか受け身にならないでください。」というのは時間に限りがあるからという側面もあるでしょう。そこで「時間は限りなく」としてしまうと、主旨と噛み合わせが悪いです。
「時間は止まることなく過ぎていきます」などが無難でしょうか。

・いままでのように回りの人が佳くしてくれる環境を
「回り」→「周り」、「佳く」→「良く」がそれぞれ無難でしょうか。

・それでも僕がハルの笑顔を思い出すとき、同時に軽い目眩のような嫉妬が喚起される。
「僕が」→「僕は」

・それでも僕がハルの笑顔を思い出すとき、同時に軽い目眩のような嫉妬が喚起される。
ここで「それでも」とするのはやや面白く感じます。
この「それでも」が何にかかっているのか、やや難しいところがあります。ですが敢えて考えるならば、ここまで語ってきたハルとの思い出の数々となるでしょうか。つまり今までの文章全体です。
今までの文章全体に繋げての「それでも」ということで、荒唐無稽な繋ぎながらもそれが「僕」の語りらしく、ここについては好意的に見ています。

・冬枯れのバス停でバスを待つ。
大体の場合、バス停で待つのはバスですので「バスを」は削ってもいい情報かなと思います。文脈で補完する方がスマートです。

・その記憶は冬場に行われるハルの学校の学園際のものだった。
「学園際」→「学園祭」

・彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること、
・ハルの通っていた聾学校の先生から学んだ言葉。
簡単に調べたのですが、視覚障害を持つ生徒が通う学校を「盲学校」、聴覚障害を持つ生徒が通う学校を「聾学校」、それ以外の心身障害を持つ生徒が通う学校を「養護学校」と呼ぶようです。
ハルは聴覚障害はなく発声に障害を持っており、どの学校に通うのかは調べが足りずにわかりませんでしたが、手話によるコミュニケーションを取るのでおそらく「聾学校」に該当するのだろうと思います。
しかし同級生の様子を見ると「聾学校」というよりも「養護学校」の生徒であるような印象を受けます。とはいえ聴覚障害を持つ生徒とそれ以外の心身障害を持つ生徒が一緒に通う学校もあるみたいですので、それは十分有り得ることです。
そして「盲学校」「聾学校」「養護学校」は2007年に「特別支援学校」として一本化されたそうです。
本作は「僕」が振り返る思い出の話ですので、この当時が2007年以降なのか以前なのかというのは非常に微妙です。それに「僕」が正確に認識していないということもあるでしょう。ですので「僕」の語りの中で「養護学校」「聾学校」と呼称が統一されていないのは、「僕」の認識や記憶が定かではないということで片付けることはできます。
ですので誤りということではないのですが、フィンディルが何を言いたいのかというともう少し「僕」の認識を正確にさせておいた方がいいのではないかということです。ハルの通っていた学校が「聾学校」だったのか「養護学校」だったのか「特別支援学校」だったのか。
ここの「僕」の認識が粗雑であるのは、引いてはふわゆーさんの認識が粗雑であるようにも感じられます。
その辺りの「僕」の認識が希薄であるのは、「僕」のハルへの関心の薄さを感じさせてしまいますしね。

・彼らは誰しもが、喉から不思議な音を出しながら大きな手振りではっきりと表現する。
声を出せないハルが通っている学校ならば、ハルと同じように声を出せない人が他にもいるはずです。
また聴覚障害を持つ人の発声を「喉から不思議な音を出しながら」とするのは不適切です。

・僕の周りをハルの友達たちが取り囲み、
「友達」というのは本来複数形であるのですが、いつしか単数としても用いられるようになった語彙です。
ですので「友達たち」という表現もまま出てくるのですが、まどろっこしい表現であるのも確か。
こういうときは「友だち」と表現すると、複数形であると表現することが可能です。「取り囲み」とあるので「友達」でも構わないと思いますが。

・けれども、そこではどんなに実力のあるバンドも、
「バンドでも」の方が少しだけ通りがよくなるかなと思います。この文全体を構成を見直した方がより良い気もしますが。

・僕は弱さをさらけ出すことを平然とやってのけるこの集団の中で妙な疎外感を感じた。
文の通りですが「疎外感を覚えた」の方がいいかなと思います。少しだけですが。


―――――――――――――――――――
女の子達はみな同様にいくつかのトラブルや渇きのようなものをかかえ、それに目を反らし依存し続けることが難しくなる年齢を迎えていた。
 彼女達はそれに共感してくれ、且つ、すがることのできる人間を一様に求めていた。そして、男達の幾人かは、そんな女の子達の後追いをすることに意義を見出し、幾人かは全く反発していた。
―――――――――――――――――――
ここの文章、何となく言いたいことはわかるのですが、書き方が非常にわかりにくいです。
書き方がわかりにくいのは「僕」の語りの性質上いいのですが、問題なのは本作にとって意味のほとんどない件であるということです。
本作にとってほとんど意味がないのならば、省略するか、あるいはもっとわかりやすい書き方をするのがいいのではないかと思います。

・時の中でかすれて行く記憶を鮮やかなままでしておくために、
「かすれて行く」→「かすれていく」、「鮮やかなままで」→「鮮やかなままに」がそれぞれ自然でしょうか。

・それも結局自分であると言う限界に都合よく言い含められ、
「あると言う」→「あるという」
スポンサーサイト




*    *    *

Information

Date:2019/10/03
Comment:0

Comment

コメントの投稿








 ブログ管理者以外には秘密にする