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あむあむあむ

○フィンディルの感想

野菜サンドのレッスン/浅黄幻影 への感想

野菜サンドのレッスン/浅黄幻影
http://text-poi.net/vote/135/5/
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
キャラクター・構成・文章に課題がある作品。シンプルな構成である本作には複数の磨き残しが見受けられる。


●登場人物の行動と機微に頷きにくい

本作はシンプルなストーリー進行を取っている作品です。
洗濯屋を営むバルバラはひょんなことで大学講師アンドルーと出会う。元々知識への憧れがあったバルバラはこの出会いにより自身の生き方に疑問を抱き、アンドルーに近付き、恋仲になり、洗濯屋を辞める。しかし知識欲が抑えられないバルバラは身分を偽り大学に潜入、別の大学講師ウイリアムにそのことを知られて脅迫される。思い悩んだバルバラはアンドルーの前から姿を消すが、経緯を知ったアンドルーは大学講師の職を辞してバルバラのもとへ、二人は洗濯屋になり幸せに暮らした。
現状に不満を持つ→環境を変えるも色々ある→やっぱり自分にはここが一番、という古き良きを感じるシンプルな流れで、流れ自体はいいものだと思います。
しかし話の進ませ方の精度が低いように感じます。それは各登場人物の行動の動機、行動の機微に頷きにくい箇所が幾つかあるからです。

まずバルバラがアンドルーと同棲を始めるという箇所。
知識の香りからアンドルーに積極的にアプローチをかけ、二人は恋仲になります。二人が恋仲になる理由についてアンドルーの心情が欠如していますが、これについては特に疑問に感じません。恋仲になる理由なんて、恋仲にならない理由がないからということで事足りますから。
頷けなかったのが、二人が同棲したところです。一体どうして同棲したのでしょうか。
バルバラが住んでいた丘の上の家と大学は、大学の鐘が聞こえる程度の距離しか離れていません。またアンドルーが汚れたシャツを持ってくることができる距離でもあります。自身の家に帰れば替えのシャツは何枚かあるのに、わざわざ初めてのところへ洗濯を頼みに訪れるような距離です。
アンドルーが住んでいる家は当然アンドルーが勤める大学から近い場所にあるでしょう。双方の家が大学から見て逆の方角にあったとしても、およそ同じ町内であろうと思われます。恋仲になったからといって、わざわざ同棲をするような距離ではありません。
勿論同棲の理由は距離ではないでしょう。距離が近いから同棲するのではなく、同棲したいから同棲する。バルバラとしては、洗濯屋は自分には相応しくないから辞めたいがそれでは生活ができないから同棲という形で収入面をアンドルーに頼りたい、より日常的に知識の香りを濃く感じていたいといった理由もあったでしょう。
しかしバルバラは同棲をするにあたって大きいはずの決断をしています。老犬ラーチャを預けるという決断です。
アンドルーが住む家は「部屋」という語彙を用いているところからアパートか何かなのでしょう。ペット不可、あるいは犬を飼える環境ではないと判断できます。そのためバルバラはラーチャを誰かに預けますが、アンドルーと結婚して犬を飼える家に転居すればラーチャを戻せるよう約束したから大丈夫だ、としています。
しかし、そもそも同棲をしなければよかったのです。同棲をせず、バルバラは丘の上の家に住み続ければラーチャを預ける必要はなかったのです。知識の香りは、同棲をせずとも交際を続ければ感じることができます。大学に通うということに同棲如何は関係ありません。洗濯屋を辞めても生活をするために同棲というのはバルバラにとって自然な打算かもしれませんが、そのような理由で愛犬をあっさり預けてしまったバルバラに、フィンディルは違和感を覚えます。

更に違和感があるのが、アンドルーと結婚して犬を飼える家に転居すればラーチャを戻せるよう約束したから大丈夫だというバルバラの判断。フィンディルは頷けません。
ラーチャは老犬です。およそ数年の寿命と考えていいでしょう。ラーチャを戻すつもりならば猶予はありません。しかしアンドルーは描写から察するに収入はあまり多くありません。バルバラは洗濯屋を辞めました。現実的に、今後数年以内に結婚をして犬を飼える家に転居するのは難しいだろうと判断できます。にも関わらずバルバラがそこに気を向けている素振りが一切ありません。自分も稼いで少しでも結婚・転居を達成しようという行動を起こしていませんし、そのことについて急がねばならないなどと考えている様子も一切ありません。老い先短いであろうラーチャと再び暮らそうという考えが一切ないのです。
これでは体よくラーチャを処分したという印象さえ受けます。いずれにせよバルバラにとってラーチャは取るに足らない存在であり、自分の自己実現欲求を満たすためにラーチャを蔑ろにしたのは明らかでしょう。

自分の理想と打算のためにわざわざラーチャを預けてまで同棲した行動、まるでラーチャを処分したかったかのようなバルバラの言い訳じみた思考。いずれも「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」という本作のバルバラ表現から逸脱してしまっています。「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」の表現は、一度客として会っただけのアンドルーのもとに突然押しかけて恋仲になり洗濯屋を辞めたという箇所で十分なされています。愛犬のラーチャを半ば処分する形で預けて言い訳の思考を重ねるのみで後は知らぬ存ぜぬの態度を取るというのは「身勝手な行動で他者を蔑ろにしつつも、自分を正当化して忘れる人間」という域に達しています。そのようなバルバラの表現が本作でなされているようには見えず、少なくともフィンディルのバルバラ認識とは大きく乖離しています。

しかしバルバラの一連の行動と思考には作品的な理由があります。それは結局ラーチャはバルバラのもとに帰ってくるからです。バルバラは結局丘の上の家に戻り、ラーチャも戻り、洗濯屋を再開するからです。
ラーチャという登場人物の存在意義は、丘の上の洗濯屋というバルバラの当初の居場所の補強です。丘の上で爽やかな風が吹いて、物干し竿にかかった白い洗濯物が靡き、そこに女性と犬がいる。という綺麗な画を見せるためにあります。ラーチャは丘の上の家とセットで存在しているのです。
本作の構成は、現状に不満を持つ→環境を変えるも色々ある→やっぱり自分にはここが一番、というものです。ラーチャは丘の上の家の象徴のひとつですから、丘の上の家を離れてアンドルーの家で同棲しているバルバラの隣にラーチャがいてはいけないのです。また最後の丘の上の家の場面ではラーチャは戻ってきてバルバラの隣にいないといけません。
そういう作品構成を満たすために、バルバラは身勝手と思われようとラーチャを手元から離さなければなりませんでしたし、そこに整合性を持たせるために老犬であることを無視した言い訳じみた思考を浮かべなければなりませんでした。そしてバルバラがラーチャを戻すために努力をする必要は、作品的に見れば一切ありません。このときのラーチャの意思に関わらず、結果的にラーチャはバルバラのもとに帰ってくるような物語になっているからです。
あれこれあってラーチャが帰ってくることが前もってわかっているから、バルバラは簡単にラーチャを手放しますし、戻すための努力も一切しなかったのです。
つまりバルバラは物語に動かされているのです。ラーチャを手元から離した判断、ラーチャを手元に戻すために行動しない判断、ともにバルバラの意思ではなく物語の都合に従わされた結果です。
それはキャラクター表現を半ば放棄しているとフィンディルは判断していますがいかがでしょうか。

また一連のバルバラの行動と思考をフォローする意図があったのか
―――――――――――――――――――
永遠に預けられると覚悟していたラーチャだったから、久しぶりにご主人様に会えたことは幸せだった。
―――――――――――――――――――
という文章が終盤に差し込まれています。この場面は大団円ですから、バルバラの身勝手な行動についてあまりネガティブに書き記すことは難しいです。そもそも本作はバルバラを「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」と表現していますので「身勝手な行動で他者を蔑ろにしつつも、自分を正当化して忘れる人間」の部分であるラーチャに対する行動については、あまりしっかり触れることはできません。そのためバルバラ視点で本件に触れることは難しいです。
ということでここについてはラーチャ視点になっています。「ラーチャはもう会えないと覚悟していたが、また会えて幸せだった」ということで締めていますが、ここが非常に苦しいです。
そもそも本作はバルバラの心情に寄った文体であり、主要人物のアンドルーですらほとんど心情の描写がなされていません。にも関わらず犬のラーチャの心情については「覚悟」や「幸せ」と具体的な心情描写がなされているのです。犬のラーチャがご主人様と会えて幸せなのは想像に難しくありませんが、犬のラーチャにもう会えないと覚悟をさせるのは可能なのでしょうか。若干ファンタジーを帯びているように感じられます。
またバルバラがラーチャに対する自身の行動を正当化しようとしたのに加え、ラーチャ側にも「全てわかったうえで受け入れていたし、また会えたから幸せ」という形で正当化の補助をさせようとしているのはいささか横暴です。ラーチャが覚悟していたんだから問題ないだろうという意識を感じますが、忠実な犬であることを利用してラーチャの意思を作品が操作しているように感じられます。
作品上の無理をフォローするためにバルバラの人間性を歪め、バルバラの人間性をフォローするために文体と現実味とラーチャの意思を歪めているのです。

次の箇所です。登場人物の行動の動機に頷きにくい箇所。
アンドルーです。本作においてアンドルーがしたことといえば、洗濯屋に洗濯を頼みにきた、突然押しかけてきたバルバラを受け入れて恋仲になった、バルバラと同棲してバルバラの生活資金を受け持った、バルバラが大学に通えるように公開講座の応募用紙を持ってきた、バルバラに起きたことを知って大学講師の職を辞し洗濯屋になった、というあたりでしょうか。
洗濯屋に洗濯を頼んだことに特別な動機は必要ありません。自分の家に帰って替えのシャツを持ってきてもいいじゃないかとは思いましたが、洗濯屋に洗濯を頼んだっていいですから。
突然押しかけてきたバルバラを受け入れて恋仲になったことにも特別な動機は必要ありません。拒む理由がなかっただけのことでしょう。同棲した理由にも特別な動機は必要ありません。拒む理由がなかっただけのことでしょう。公開講座の応募用紙を持ってきたのも、大学講師として無理なくできることをバルバラのためにしてあげただけです、理由はバルバラが喜ぶからで十分です。
しかし、バルバラに起きたことを知って大学講師の職を辞したこと。これは特別な動機が必要です。大学講師になるためにアンドルーが苦労を重ねたことは想像に難くありません、大学講師を辞めるということは自分の人生を大きく変えることを意味します。誰と恋仲になろうと誰と同棲しようとアンドルーのそれまでの人生は大きく変わりませんでしたが、大学講師を辞めることでアンドルーの人生は大きく変わりました。そこに対しては当然きちんとした動機が必要です。その動機は「そこまでするほどバルバラが好きだったから」でも構いません。
しかし本作の文体は、バルバラの心情に寄った三人称視点です。アンドルーの心情についてはほとんど描かれていません。ほとんど描かれていないため、突然押しかけたバルバラを受け入れた理由も「拒む理由がなかったのだろう」という程度の推察しかすることができません。バルバラのどこが、あるいはどうして、あるいはどのくらい好きなのかという部分についての描写はおよそないのです。
バルバラの心情に寄った三人称視点をチョイスしたことによりアンドルーの心情描写が不十分になり、大学講師を辞めるアンドルーの動機に頷きにくくなってしまいました。
交際を続ける中で自然と愛情は培われていくものでしょう。しかしそこだけに頼っても、作品としてキャラの行動に説得力が生まれるわけもありません。

バルバラの心情に寄った三人称視点をチョイスしてアンドルーの心情がきちんと描けない結果、アンドルーの心情が見えてこないのは仕方のないことなのでしょうか。いいえそんなことはありません。「きちんと描写できない」=「行動に説得力が出ない」という等式は成り立ちません。きちんと描写できなくとも行動に説得力を出すことは可能です。そこがキャラ描写の技術です。心情をそのまま描写させればその人の思いを表現することは簡単ですが、心情をそのまま描写させずともその人の思いを表現することは可能です。
フィンディルにはむしろ、バルバラの心情に寄った三人称視点を選んだことで、アンドルーの行動動機には目を瞑ってもらおうと浅黄さんが考えておられるのではないかと感じられます。しかし、バルバラの心情に寄った三人称視点を選んだのならば、なおさらアンドルーの行動動機に説得力が生まれるようアンドルーのキャラ描写に力を注ぐべきだろうと考えます。大学講師を辞めるという大きな決断をさせる以上、アンドルーの心情描写はバルバラの心情描写以上に大事です。あるいはアンドルーの心情を意図的にシャットアウトすることで、アンドルーの行動に意外性を生む狙いもあったのかもしれません。しかし本作のストーリーはシンプルであり、アンドルーが大学講師を辞める行動自体に意外性は一切ありません。むしろアンドルーが大学講師を続けて離れ離れになる方が意外です。アンドルーの行動に意外性は一切ありませんが、説得力や納得感もありません。ならば求められるのは意外性の強化ではなく、説得力の強化でしょう。
大学講師を辞める決断をさせるには「アンドルーはバルバラをとても愛している」ことを十分表現する必要があります。本作の物語上文体上それをアンドルーの直接の心情描写なしで表現するのは、相応の表現技術が求められます。ですが、必要なことだと考えます。

次の箇所です。次は登場人物の機微の箇所。
バルバラがアンドルーに残したメモです。
―――――――――――――――――――
「私はいなかったことにして! あなたは私のことを知らない! 誰に聞かれても私なんて知らないと言って! でないと身の破滅よ!」
―――――――――――――――――――
ウイリアムに脅迫されたバルバラは「バルバラが存在せず、またアンドルーも口を閉じてしまえば、ウイリアムには証拠になるものは何もなかった。」と考え、その考えのもとにメモを残します。実際ウイリアムの脅迫からバルバラもアンドルーも逃れるためにこの考えは有効ですし、この考えが有効であるか否かは重要ではありません。バルバラがそう考えたのですからそこに正解はありません。
問題は伝え方です。バルバラはアンドルーに大学講師を続けてほしいのでアンドルーの前から姿を消したのです。「バルバラは、もう二度と彼には会えないと思いながら、それでも愛する人のために一番いいと思える方法で去っていった。」という記述からも、アンドルーには大学講師を続けてほしいというバルバラの思いが読み取れます。この出来事をアンドルーが知ると、もう大学には近付けないバルバラと今後も一緒にいるには自分も大学から離れるしかないと、アンドルーがバルバラのために自ら大学講師を辞す可能性がある。自分が蒔いた種で、アンドルーには大きな行動をしてほしくない。自分の存在を忘れることは指示しないといけないが、それ以上の行動は起こしてほしくない。何も考えずただ指示にだけ従ってほしい。
しかしこの伝え方、感嘆符をいくつも並べて「でないと身の破滅よ!」とまで添えており、「自分の身に大変なことが起き、それがアンドルーにも降りかかりそうだから止む無く姿を消します」と伝えているようなものです。非常事態が起きたことを露骨に伝える内容です。これではアンドルーが「何かがバルバラの身に起きたんだ」と考えてしまうのは当然です。
仮に「誰に聞かれても私なんて知らないと言ってください。」という静かなメモを残しても、バルバラの指示をアンドルーに伝えることは可能なのです。何もあんなに大げさに伝える必要はありません。
とはいえどちらのメモでも結果は変わらないでしょう。「私はいなかったことにして! あなたは私のことを知らない! 誰に聞かれても私なんて知らないと言って! でないと身の破滅よ!」というメモでも「誰に聞かれても私なんて知らないと言ってください。」というメモでも、アンドルーが何かに気付き、詮索し、大学講師を辞めるという結果はおそらく変わらないでしょう。しかし結果が変わらないなら伝え方はどのようなものでもいいというのは怠慢です。
例え結果が変わらないことが予想できたとしても、少しでもアンドルーに勘付かれる可能性を下げるために、バルバラは伝え方にもう少し配慮を施すのが自然ではないでしょうか。最小限で伝えてもアンドルーは勘付いてしまうでしょう、しかしそれでも最小限で伝えるのです。どうせ勘付くなら最大限で伝えようという思考にはなりません。
ここにも作品の都合というものを感じます。物語としてはアンドルーには事情に勘付いてもらう必要があります。そのためには若干の察しが必要な静かなメッセージよりも、容易に勘付くことができる大仰なメッセージの方が進行は無難です。バルバラに寄った三人称視点の文体もあり、大仰なメッセージの方がアンドルーの勘付きの表現が容易だと判断されたのかもしれません。メッセージを出すだけでその後のアンドルーの行動までカバーできますから。しかしバルバラの心情としては、勘付いてもらいたくないと考えるのが自然です。物語の進行のために、バルバラの思いとは真逆のメッセージの残し方になってしまっている、と考えます。
あるいはバルバラは本心ではアンドルーに大学講師を辞めて自分を追いかけてもらいたいと考えていたのでしょうか。「バルバラは、もう二度と彼には会えないと思いながら、それでも愛する人のために一番いいと思える方法で去っていった。」と思いつつ、深層面では追いかけてほしいから無意識にそういう書き方になったのでしょうか。もしそういう心理があったのなら、このようなメッセージの残し方にも納得はできます。しかしその場合、本作は全く違った余韻を生みます。その余韻は本作が想定しているものではないでしょう。少なくとも、決してめでたしめでたしで読み終えられるものではないでしょう。

以上三つの箇所が、フィンディルが本作で特に感じた、キャラの行動や機微について頷きにくい箇所です。
いずれも物語や文体といった作品の都合に、登場人物が従わされているような形になっています。しかしそれではキャラクターを表現しているとはいえません。
物語の都合にキャラクターを従わせて作品を作るのではなく、キャラクター自身で考えて動いた結果が物語になり作品になる、という方針が本作には相応しいのではないかとフィンディルは考えます。


●「野菜サンドのレッスン」が弱い

上記の項目で申し上げたキャラの表現を向上させて物語進行の精度を上げた場合、本作はシンプルな構成とストーリーで小さくまとまった作品になるのではないかと思います。
しかし本作の面白いところはそこではないのではないかとフィンディルは考えています。本作の読み味深いところはまさにタイトルの「野菜サンドのレッスン」にあるのではないかと思います。

丘の上の家で洗濯屋をしていたバルバラは学問への強い興味を持っています。そして彼女が学問を見出しているのは洗濯物を干している間に読み耽る学術書と、遠くで鐘を鳴らす大学の講義の場です。
しかしバルバラは自身が憧れた大学において様々なことに巻き込まれ、結果的に丘の上の家に戻ります。そしてアンドルーと二人で洗濯屋を再開し、学問の象徴であった大学講師アンドルーは「毎日、洗濯をして、ときどき雨に降られることもあるけど、ここはとてもいい場所だ。風が吹く素晴らしい丘だ」と丘の上の家を賞賛。またそこで彼女は以前は見向きもしなかった家庭菜園を好むようになり、元農業大学講師アンドルーの直接の指導を受け、その指導により育てた野菜で作った野菜サンドをアンドルーに出すのです。本や講義からではなく、実践と愛から学問を見出すようになるのです。

というバルバラの価値観の変化、そして学問とは何かという点が本作の面白いところであり、タイトル「野菜サンドのレッスン」が指し示すものだろうと思います。本作の余韻を醸す箇所もここですね。

しかしこの箇所に割かれた浅黄さんのエネルギーが非常に小さいように感じます。バルバラはどうなったのか、アンドルーとの仲はどうなるのか、というストーリーの顛末ばかりにエネルギーが割かれ、バルバラの価値観の変化についてはおまけとばかりに終盤に回収・説明されて終わりという形になってしまっています。存在感がほぼありません。
勿論本作の中心を走るストーリーラインはバルバラとアンドルーの顛末なのですから、文字数的にそちらに多く割かれるのは当然のことです。しかし文字数が少なくてもきちんと構成を組むことで「野菜サンドのレッスン」について表現をするのは可能です。むしろここを御座なりにしていては「野菜サンドのレッスン」という作品は成立しないでしょう。

まずバルバラは本から菜園へと学問の源泉を移します。当然菜園というのは本作においてとても重要なキーワードです。しかし序盤の洗濯屋のパートにおいて菜園の存在が一切出てきません。序盤の洗濯屋のパートでは洗濯の工程についてかなりの文字数を割いて説明がなされますが、洗濯屋の工程はさして重要ではありません。菜園こそが重要なのです。
洗濯物の番をしている間、バルバラは本を読んだ。庭には放棄されて久しい菜園があった。土いじりをして野菜を育ててもよかったが、土がついた手で洗濯物を触って汚してはいけないからとバルバラは菜園をそのままにした。しかしそれは建前で、本を読んで学問に触れることに比べると家庭菜園など取るに足らない行為であると感じていた。
などのような叙述を入れておけば、終盤で本を読まずに家庭菜園を行ったという流れで、シンプルでわかりやすい対比ができていたでしょう。本>菜園が菜園>本に変わったという。このような構成を組むか否かは別にしても、序盤で菜園の存在すら出さなかったのはやや理解に苦しみます。終盤でいきなり「実は庭には放棄された菜園がありました」などと後出しで紹介されても面食らうだけです。

野菜サンドも非常に重要なキーワードです。学問を見出す菜園から生産されて愛するアンドルーに食べてもらう野菜サンドはまさしく学問と愛の結晶です。これこそバルバラが夢見ていたものです。
そして野菜サンドは途中で出てきます。アンドルーの家で同棲したときにバルバラは毎日ランチとして野菜サンドを作り、アンドルーに持たせて見送っていました。姿を消すメモを挟んだランチボックスに入っているパンもおそらく野菜サンドでしょう。
しかしこれらの場面で野菜サンドを登場させたことの意味が一切活かされていません。本当にただただランチとして野菜サンドを作っていただけです。そこに何か作品的な価値を乗せることをしていないので、読者の印象に一切残りません。
アンドルーの家で同棲していたときの野菜サンド、勿論野菜は市販の野菜です。アンドルーの指導により生産された菜園の野菜ではありませんから、バルバラは勿論野菜サンドに学問を感じません。またこの時点でバルバラがアンドルーに近付いたのはアンドルー自身を愛していたからではなく、知識の香りを感じたからでしょう。少なくとも終盤の丘の上の家の場面に比べると、アンドルーに抱いている愛情は浅いでしょう。つまりこの時点での野菜サンドは、学問も愛も内包していないのです。
学問も愛も内包していない野菜サンドと、学問と愛の結晶である野菜サンド。当然何らかの違いはあるでしょう。少なくともバルバラは両者の野菜サンドに大きな違いを感じているでしょう。そしてバルバラが両者の野菜サンドに感じる違いこそが、そのままバルバラの価値観の変化を表すのです。野菜サンドは本来超重要なキーワードでありアイテムです。
しかし本作では野菜サンドはそれぞれで登場しますが、その違いについて一切描写されていません。瑞々しいでもいいですし、青々としているでもいいです。そんな単純な差異すら描写されていないので、野菜サンドというキーワードに本作を語らせるだけの力が入っていないのです。「野菜サンドのレッスン」であるのに、野菜サンドに作品的な力を感じません。

以上のような構成的な向上は全て、あまり文字数を必要とはしません。ストーリーラインを守りつつ強化することは難しくないでしょう。これら構成の下支えがあれば「野菜サンドのレッスン」は今以上に存在感を見せるのではないかと考えます。
これは何も「野菜サンドのレッスン」というタイトルをつけた以上は存在感を見せるべきだというわけではありません。タイトルのつけ方が誤っているのではありません。むしろこのタイトルは本作の面白いところを的確に表現した良いタイトルです。しかしそんなタイトルとは裏腹に、本文が本作の面白いところを御座なりに描いてしまっているのです。
本作の面白い箇所を本作の核心として構成的に強化することで、本作はより見映えのよい作品になるのではないかとフィンディルは考えます。

なお、終盤のアンドルーの発言
―――――――――――――――――――
「僕も同じだよ。いいじゃないか。毎日、洗濯をして、ときどき雨に降られることもあるけど、ここはとてもいい場所だ。風が吹く素晴らしい丘だ」
―――――――――――――――――――
は良い発言です。
丘の上の家での生活にバルバラは不満を覚え学問を日常に置く生活に憧れますが、その学問の象徴ともいえる大学講師アンドルーが大学を離れて丘の上の家にやってきて、この生活を強く肯定する発言をする。
「やっぱり今までの生活が一番」という本作のシンプルな構成を強く補強する発言であり、この発言自体がバルバラのハッピーエンドであるようにさえ思えます。
またそれと同時にアンドルー自体の気付き、価値観の変化にも繋がるのではないかと思われます。おそらくアンドルーは学問漬けの日々を送っていたでしょうから、バルバラとは違う視点で、違う気付きを得て、違う価値観の変化をアンドルーにもたらすのではないかと。この発言はバルバラを肯定するためだけの発言ではなく、アンドルー自身の変化を示す発言であると、より一層本作に深みが生まれるなと思います。
そういう意図があるならば、洗濯屋に馴染んでいくアンドルーの、その心情の変化が垣間見える一文があるとより素晴らしいなとも考えますが。


●平易な文章の磨きが足りない

本作の文章は平易な文章と呼べるものです。バルバラの心情に寄った三人称視点ですが、淡々と事実や経過を並べて話を進めていきます。難しい語彙も使いませんし、修飾についても最小限です。

しかし文章の磨きが足りないように感じます。というのもフィンディルの感想では文章のミスは勿論細かい言い回しや語彙にも着目するのですが、本作の文章では細かい言い回しなどで引っかかる点が多数あったからです。おそらく推敲などによる文章のブラッシュアップが不足しているのではないだろうかと想像されます。
どのような文体でもブラッシュアップは必須ですが、平易な文章というのは誰でも簡単に読めて理解できるというのが大事なところです。そのなかにあって細かいささくれを複数感じてしまう本作の文章は、平易で読みやすいはずなのに読みにくい、そんな歪な読み味になってしまっていると感じました。
平易な文章ということで力を抜いて書かれているのでしょうか。しかし力を抜いたというよりも気を抜いたという表現の方が相応しい印象を覚えます。平易な文章は誰でも簡単に読めて理解しやすいように、細かいところにまで神経を巡らせることが必要な、高度な文章です。
より多くの作業量を文章の推敲に注ぐことをオススメします。

具体的な指摘箇所はこの後の「●細かいところ」で羅列いたします。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。

・けれど、その死が突然のもので、また事業に奔走していた最中だったため、彼女にはいくつも借金が残され重荷になっていた。
「事業に奔走していた」のは誰なのでしょうか。おそらく両親なのかなと思いますが、バルバラである可能性も有り得ますので、やや把握がしにくいです。
また「いくつも借金」だと借り入れ先が複数あるという解釈ができてしまいます。実際そうかもしれませんが。
借金の額が大きいということならば「いくつもの借金」「多額の借金」といった言い回しがより適切であろうと考えます。

・そこで無一文になる覚悟をしながら、バルバラは潔く財産の清算した。
「財産の清算した」→「財産の清算をした」「財産を清算した」

・ところが、当初は硬貨一枚の価値もないと思ったものが高く売れたりして、
「当初は」は余計ですね。「硬貨一枚の価値もないと思ったものが高く売れたりして」で何一つ差し支えがありませんし、ここに「当初は」を入れることで余計な時系列を付加してしまっており、わずかな読みにくさを生んでいます。

・残された家の庭は、バルバラの生活に大いに役立っていた。
「役立っていた」→「役立った」の方が自然な文通りでしょうか。

・異邦人のバルバラに冷たい世間が許す小さな仕事を、庭は約束したからだ。
まどろっこしい物言いで、平易な文章にしてはこねすぎな印象があります。
「異邦人のバルバラでも行える小さな仕事には、庭が不可欠だったからだ」などでしょうか。

・それは仕事に忙しい男たちや一部の女の洗濯の仕事だった。
「洗濯」とあるのだから勿論衣服を洗濯するのだという固定観念による、文章の気の抜けを感じます。
勿論衣服を洗濯するのですし、これが「それは洗濯の仕事だった。」ならば何一つ問題はありません。しかし「仕事に忙しい男たちや一部の女の」という枕があると、ここには「衣服の洗濯」という説明の補強がほしくなります。
また「男」は複数形であるのに「女」は単数形であるのも気になります。数の違いからなのでしょうか当然「一部の女」も複数人いますでしょうから。
「仕事に忙しい者たちの衣服を代わりに洗濯する仕事だった。」などがシンプルでいいのではないかと思います。
男と女の数の違いを重視したいならば別の文で補足するなりがいいでしょうか。

・洗濯機で洗いとすすぎを繰り返し、その合間に物干し台とを往復する。
これも文章の通りがよくありません。「物干し台とを往復する」というのが洗濯機と物干し台とを往復するのは常識として理解できますが、文章としては理解できない形になっています。
「洗濯機は洗いとすすぎを繰り返し、バルバラは洗濯機と物干し台を慌しく往復する」など、素直に読ませるような改善は必要かと思います。

・女たちの衣類には特別に、洗面器で手洗いもしなければならない。
「衣類には」→「衣類は」

・洗濯物がたまった雨の翌日には、早朝から昼まで、そんな風にしなければならなかった。
「洗濯物がたまった雨の翌日には」という言い回しがわかりにくいです。今日は雨なのか天気なのか。「洗濯物がたまった」が「翌日」にかかっているのか「雨の翌日」にかかっているのかが不明瞭であるのが原因でしょう。勿論少し時間をかければ「翌日」にかかっていることがわかり、前日が雨で今日は晴れであることはわかります。しかしそんなことに数秒の時間をかけさせてしまうのは悪文でしょう。
単純に「雨の翌日には洗濯物がたまり、早朝から昼まで、そんな風にしなければならなかった」ならばそのような理解のしにくさが解消されます。

・本当なら甘い菓子にでもたとえられる年なのに、
「年」→「歳」
用法としてはどちらでも問題はないとは思いますが、ニュアンスとして「歳」の方がよりバルバラの年齢を指していると伝わりやすいのではないかと考えます。

・彼女は雑誌も恋物語もサスペンスも、ほとんど読まなかった。
「雑誌」は刊行物のジャンルですが「恋物語」「サスペンス」は小説のジャンルです。
階層のズレがありますので「雑誌も小説も」でいいかと思います。

・車に泥をはねられ、持っていた替えのシャツを汚されたと言った。
一体どういう状況であれば、車がはねた泥が持っていた替えのシャツだけを汚すのだろうかとやや疑問に思いました。アンドルーはどういった理由で、替えのシャツをそのまま持って道を歩いていたのだろうかと。勿論それはアンドルーの自由ですが。
車がはねた泥に着ていた服を汚され、替えのシャツに着替えたので、着ていた服を洗ってほしい。の方がずっと自然だなと考えます。

・それは前日の雨が嘘のように晴れた休日の正午のことで、
「休日」というのは誰の視点なのでしょうか。洗濯物を干している時点でバルバラにとっての休日ではないのは明らかです。
「週末」などに言い換えるのが適切であろうと考えます。

・「そうか……いや、参ったな。明日の講義にシャツがどうしても必要なんだ。新しいのを買うほどでもないんだ。家にも何枚かあるからさ」
どうしてアンドルーは家に帰って何枚かあるシャツを取りにいかなかったのか、やや疑問が残ります。
明日の講義なのですから、家に帰ってしまえばいいのではないかという想像を働かせるのは当然のことでしょう。
家に帰る時間がない、泊り込みなんだ、そういう補足がほしいところです。

・バルバラは男が渡そうとしたシャツの襟元に、どこか見覚えのある大学のピンバッチがついていることに気づいた。
「どこか見覚えのある大学のピンバッチ」だと「見覚えのある」は「大学のピンバッチ」にかかってしまいます。その場合、バルバラは大学のバッジを複数把握したうえで、この大学のバッジはどこどこ大学のバッジだと認識したという解釈ができてしまいます。
しかし「見覚えのある」がかかるべきなのは「ピンバッチ」であり、そこから大学のピンバッジであることにバルバラは気付くべきです。
ですので「大学の」を削り「どこか見覚えのあるピンバッチ」とするのが適切だと考えます。
また「バッチ」は別の意味の単語ですのでここは「バッジ」が正しいです。「どこか見覚えのあるピンバッジ」ですね。

・バルバラは相手の顔をこのときになってやっとしっかり見た。
バルバラが「このときになってやっとしっかり見た」理由はおそらく、アンドルーが洗濯物が終わった段階でシャツ一枚を頼みに来る迷惑な客だからでしょう。適当に断ってさっさと立ち去ってほしいと思っていたのでしょう。
終盤に「客の顔を覚えるのも難しかった」とあるように、普段のバルバラは客の顔を覚える程度の接客は行っていると考えられます。アンドルーへの対応が特別に雑だったのでしょう。
しかしこの文章だと、バルバラは客に対していつも雑な対応を取る人という印象を与えかねません。相手が大学講師などでなければ、客の顔をきちんと確認しない洗濯屋と読み取ることが可能です。
アンドルーが迷惑な客だったからきちんと顔を見ていなかったのだ、という簡単な補足がほしいところです。「バルバラはこの面倒な客の顔を、このときになって(やっと)しっかり見た」などでもいいので。

・本当なら甘い菓子にでもたとえられる年なのに、彼女はフランスパンのような姿をしていた。
・こうしてバルバラは、州の大学の講師アンドルーと出会った。
非常に細かいところなのですが、「フランスパン」という例えが出ることで本作の舞台は欧州であるような誘導がなされます。
しかし「州の大学の講師」という言葉から本作の舞台はアメリカであるような誘導がなされます。
ここの誘導の不一致が気になりました。

・シャツを二枚しか持っていない男もいるのだから、それはとても大変なことだ。
アンドルーのことを指していると思われますが、アンドルーはシャツを二枚しか持っていないのではなく、シャツを二枚携帯(一枚は着用)していたのです。家にならば何枚かシャツはあります。替えのシャツを持ち歩いているアンドルーは、とても準備ができていると判断できます。
本文の「シャツを二枚しか持っていない男」というのは物を持っていない準備が足りないという印象を与えますが、この文章は全く見当違いです。
皮肉のつもりの文章なのかもしれませんが、バルバラに寄っているとはいえ三人称の文章ですから、この皮肉は行き過ぎた物言いです。

・激しい風と雨音を聞いて、
「激しい」は「風」「雨音」にかかっているとして、「聞いて」の対象は「風」「雨音」であると判断できます。
つまり本文は「激しい風を聞いて」「激しい雨音を聞いて」に分けることができるわけですが、「激しい雨音を聞いて」は通りますが「激しい風を聞いて」は通りにくいです。
「激しい風と雨の音を聞いて」などがいいでしょうか。

・洗濯は嫌いではないけれど、厄介ごとは嫌いだった。
「厄介ごとは嫌い」だから洗濯屋を離れたバルバラでしたが、その後突然の嵐など比ではない「厄介ごと」にバルバラは傷付けられてしまいます。
そのことを示した良い文章であると思います。

・それから何度かバルバラがアンドルーの部屋に通い、
この「部屋」は大学で割り当てられたアンドルーの研究室ではなく、アンドルーが住む家のことを指していると思われます。アンドルーはおそらくアパート暮らしなのでしょうが、その場合「家」とは呼ばず「部屋」と呼ぶのはよくある呼称です。
しかし大学講師アンドルーの場合には紛らわしい呼称であるに違いはありませんので、ここは「アンドルーの部屋」ではなく「アンドルーが住むアパート」などがすんなり理解させる物言いであろうと判断します。

・またあるときは早くもベッドで一緒になったりして、
この「早くも」は余計であるように感じます。二人が恋仲になってどの程度の期間が過ぎているのかもわかりませんし、その期間が早いかどうかという判断を地の文が下すのは余計なお世話です。

・やがて二人は簡素ではあるが共同生活を始めた。
「簡素」と「質素」は意味が似ていますが、「簡素」は無駄なものを削ぎ落としたシンプルさ、「質素」はお金をかけない慎ましやかな生活、というニュアンスがそれぞれあります。
本文で「簡素」と使っても誤りではないでしょうが、アンドルーの収入面、また学問に触れる生活などを考えると「簡素」よりも「質素」の方が打ち出したいニュアンスには沿っているように感じられます。

・よく油の馴染んだこの小さなフライパンは、せいぜい二人分の目玉焼きを焼くことしかできなかったけれど、それが実に生活に馴染んだ。
「せいぜい二人分の目玉焼きを焼くことしかできなかったけれど、それが実に生活に馴染んだ。」という言い回しはオシャレでいいですね。必要十分を満たしているのだ、というのを表現した文章です。
ただ「馴染む」が二つ続いているのがやや気になります。意図的に重ねた可能性も高いのですが、そう見た場合あまり上手く効いていない。「馴染む」を続けることのオシャレさより、「馴染む」が続くことの野暮ったさの方が強く出ているように感じます。
また「目玉焼きを焼く」は「目玉焼きを作る」の方がより自然です。

・二人きりの生活に、彼女はとりあえず満足した。
「二人きり」という語彙は一般的に、今まで三人以上の人間がいる場所にいた前提があったうえで使われる語彙です。三人以上の人間が二人に減った場合に「二人きり」といいます。
しかし本文の場合、一人が二人に増えたのでここで「二人きり」を使うのは違和感があります。一人の生活が二人きりの生活になった、とはいわないでしょう。
「二人で送る生活」などが合致するでしょうか。

・バルバラは、朝には目玉焼きを用意し、ランチボックスにもパンに芥子と野菜や肉を挟んだものを入れて、アンドルーに笑顔で渡した。
若干細かい点ですが「朝には目玉焼きを用意し」とありますが「ランチボックスにもパンに芥子と野菜や肉を挟んだものを入れて」も目玉焼きと同様朝に用意したものです。「朝(食)には目玉焼きを用意し」ということなのでしょうが「朝食には目玉焼きを用意し」でいいと思います。
また「パンに芥子と野菜や肉を挟んだもの」とありますが「芥子」「野菜」「肉」が同列に並べられているのは違和感があります。「芥子」は具材というよりも調味料ですから。「パンに野菜や肉を挟んで芥子を塗ったもの」という叙述の方が野菜サンドであると理解されやすいのではないかと思います。

・バルバラはガリガリの身体を太らせる生活をしたりもしなかったので
「生活をしたりもしなかった」→「生活はしなかった」

・新しい街の散策や読書だけで終わるにはもったいなかった。
バルバラが丘の上の家にいたころでも、街の散策をするならば同じ街の散策をしていたのではないかと思います。「新しい」は削っていいでしょう。

・それというのも、バルバラは大学の講義を見にいきたいとアンドルーによく話していたのに、彼は正式な書類がないとだめだ、と当然のことを言い、いつまでも彼女を待たせていたためだった。
「正式な書類」というのは「公開講座の募集用紙」のことでしょう。そしてアンドルーは大学の公開講座について
―――――――――――――――――――
「君が正式に大学へ入るには、ちょっと長い時間がかかるからね。毎年こういうのをやっているから、次回からでも受けられるように手続きしておくよ、どう?」
―――――――――――――――――――
という発言をしています。アンドルーは少し調べれば今年の公開講座がいつ開かれるのかわかるはずです。
そこで疑問なのですがどうしてアンドルーは「正式な書類がないとだめだ」ではなく「何月に公開講座が開かれるからそれまで待っていてくれ」という伝え方をしなかったのでしょうか。バルバラは大学の講義を見たいとアンドルーに何度も訴えていたのですから、公開講座の時期を伝えるのがアンドルーができる自然で誠意のある返答のはずです。
結局バルバラはアンドルーの煮え切らない回答を受けて大学に潜入し、結果的に脅迫されてしまいました。アンドルーが公開講座の時期を伝えていれば、バルバラは大人しくその日を待っていたかもしれません。多分待っていなかったでしょうが、その結果は重要ではありません。

・しかし彼女はまだ若かく、大学に侵入しても何の違和感もなかっただろう。
「若かく」→「若く」
またこの「しかし」は何に対しての「しかし」なのでしょうか。
おそらくバルバラは大学に通う資格がないに対しての「しかし」なのではないでしょう。バルバラは大学に通う資格がない。しかし、潜入しても違和感がない。
となるとその前の文章でそれに合致するのは「彼は正式な書類がないとだめだ、と当然のことを言い」ということになりますが、これを「しかし」で直接結んでしまうのは文章的に強引ではないだろうかという印象があります。
文章を「しかし」で繋げているのではなく、文脈を「しかし」で繋げてしまっており、文章として綺麗に流れていません。

・そして学問へのバイタリティーや自立心の強さなどに表れる彼女のやる気から、実際にそれを実行した。
「などに表れる」は「などから表(現)れる」の方が自然でしょうか。

・出席をしても不法侵入とばれない講義を選んで忍び込んだ。
大学に対して「不法侵入」というのは頷きにくい言い回しなので「不正受講」などがいいかと思います。

・それでもときどき、入ってから学生の顔ぶれが少数で固定であると気づいて、クラスを間違えた風にして退席することも、何回かあった。
ややまどろっこしい文章です。
「それでもときどき、入ってから学生数の少なさからそこが固定ゼミであることに気づいて、講義を間違えた風にして退席することも、何回かあった。」などにすると、簡単ではありますが読みやすさがあがるでしょうか。

・彼女が得た知識は学術のなかでもごく一部だった。
繋ぎの文章ですがこの文はまるまる削除しても十分前後が繋がります。むしろ同内容が重なっているのでテンポの悪さを感じます。

・入ってみて気づいたのだけれど、ここは産業(主に農業)に関する大学だった!
口語的な言い回しになっています。
「入ってみてバルバラは気づいたが、」などでしょうか。

・そうしてバルバラは野心に燃え、講師の顔に熱い視線を注ぎノートを取った。
「野心」とは胸に抱える大きな望みという意味ですが、バルバラは何か望みを叶えたいとは思っていないはずです。ただ学問に触れたいという意欲だけがバルバラを突き動かしていますので。
「野心」には新しいことに取り組もうとする気持ちという意味もあるようですが、ここは「野心」ではなく「情熱」などが相応しい語彙でしょうか。

・この講師に下心がないことも、バルバラはわかっていた。
実際講師には下心がありました。この段階では薬剤会社のスパイだろうから呼び出して問い詰めようという下心ですが。
ですので「下心がないこともわかっていた」とさも事実のように書くのではなく、バルバラとしては下心がないと判断していたというニュアンスを強めるのが適切です。

・けれど、案内された部屋は研究室の奥まった部屋で、何かわからない機材が詰め込まれた、機密性の高いところだった。
「研究室の奥まった部屋で」→「研究棟の奥にある部屋」など
「機密性」→「気密性」など

・バルバラは自分がさきほど褒められたような優等生とはかけ離れた扱いをされているような気がした。
「自分が」の後に読点がほしいです。
「自分が」は「扱いをされている」と繋がりますが、この文章だと「自分が」と「さきほど褒められた」を誤って繋げてしまうからです。

・振り返った講師は、さっきまでのように優しい態度は取らなかった。
講師が「振り返った」のは扉に鍵をかけるために扉側を向いていたからでしょうが、外から鍵をかけるならまだしも内から鍵をかけるのにわざわざ扉側を向く必要があるのだろうかという疑問があります。内側から鍵をかけるくらい、後ろ手にできそうなものです。
特にバルバラを薬剤会社のスパイと考えているなら、講師はバルバラから視線を外さないようにしようと考えるのが自然ですから。仮にバルバラがスパイなら、鍵をかけるために背を向けるのは危険です。

・君は少々、年が上だから普通の学生じゃないと思うんだ。
その前に「しかし彼女はまだ若かく、大学に侵入しても何の違和感もなかっただろう。」という叙述があるなかで、講師がバルバラを「君は少々、年が上」と断言できてしまうのは違和感があります。
年で判断するよりも、バルバラが異邦人であることの方が講師は違和感を持ちやすいのではないかとも考えます。この講師は思い込みが強めのようですし。またバルバラが異邦人という設定はバルバラ本人が気にしている以外の意味が出ていませんので、ここで講師が「君は異邦人のようだし」と違和感の根拠に挙げることで、作中における異邦人への偏見の表現の一端になれるのではとも考えます。

・講師は何も処罰するわけではないと言ったけれど、
「と言ったけれど」→「とも言ったが」「と付け足したが」「と言い添えたが」など
こちらの方が自然です。

・もう嘘はつけず、本当のことを話した。
・自分がアンドルーの妻で、大学に憧れてつい紛れ込んでしまったと言った。
明確な叙述はないので推測ではあるのですが、この段階でバルバラとアンドルーは結婚をしていないはずです。のであれば「自分がアンドルーの妻」というのは嘘ということになります。ならば「もう嘘はつけず、本当のことを話した。」という叙述は嘘ということになります。
勿論「もう嘘はつけず、本当のことを話した。」というのは、自分は正規の学生ではありません、ということです。
ですがこういった細かい語彙の選び方ひとつで、読者は引っかかってしまうものです。
「もう学生であると誤魔化すことはできず、正直に話した。」などがいいでしょうか。妻であると嘘をつくならば、そこのフォローもほしいところです。

・信じてもらう最後のチャンスだと思った。
一連のやり取りの中で、他に信じてもらうチャンスがあったようには見受けられませんので「信じてもらう最初で最後のチャンス」とするのが適切でしょうか。

・バルバラは締め付けられた胸に居心地のよさを少しばかり感じ、口元に笑みさえ浮かびそうになった。
「締め付けられた胸に居心地のよさを少しばかり感じ」ですと、締め付けられた胸の居心地が良い、つまり現状はそのままだがバルバラが慣れたというような解釈ができてしまいます。胸が締め付けられる、だがそれがいい! みたいな。
そうではなく、現状が改善したのを察知して「締め付けられた胸」の締め付けが緩くなったために居心地が良くなったので、そのように叙述するのが適切であると考えます。
また「浮かびそうになった」→「浮かべそうになった」が自然でしょうか。

・けれど講師はこう言った。
「こう続けた」の方が自然でしょうか。

・大学講師ウイリアムは部屋の奥で怯えているバルバラに近寄ってきはしたけれど
講師の名前がこの段階で明らかにされます。それまでやり取りはしているので中途半端なタイミングに思えますが、ここで名前を出したのは非常に巧みです。
今までは大学に潜入していたバルバラを問い詰める流れですので、ウイリアムは何もウイリアムである必要はなく、一人の大学講師という立場でバルバラとやり取りをしていました。大学講師Aとしてバルバラと相対していた。
しかしバルバラがアンドルーの妻と聞かされると、ウイリアムはその関係性を利用してバルバラに性的な脅迫を行います。これは大学講師としてではなく、一人の下劣な男ウイリアムとしての言葉であり脅迫です。
大学講師Aが脅迫男ウイリアムに様変わりするタイミングなのです。そしてそのタイミングで表記が「講師」ではなく「ウイリアム」になった。「大学講師ウイリアム」という表記はその橋渡しですね。
人物の呼称をもって、その登場人物の在り方の変化を表現するテクニカルな一手であり、見事です。小さな技ではありますが、とても効いています。

・その唇や身体を執拗に狙うようなことはしなかった。
その後のウイリアムの発言やバルバラの受け取りから、ウイリアムがバルバラに性的な脅迫をしていることは察知することができます。
そういう明言しない言い方でウイリアムが匂わせているにも関わらず、この文章があることでウイリアムが性的な要求をしていることがストレートにわかってしまいます。
ここは少し、キャラの発言と地の文の連携が取れていないなという印象を覚えました。
きちんと匂わせられているか不安ならば、バルバラの受け取り方をもう少しだけわかりやすくするなどで調整する方がいいかなと思います。

・バルバラはその後の化学基礎講義を拝聴するのが恐ろしくてなって、
「恐ろしくてなって」→「恐ろしくなって」

・気分を落ち着けようとお茶の一杯も飲もうと思ったが
「一杯も」→「一杯でも」

・ティーポットに茶葉を入れるだけで手がガタガタいっていたのであきらめ、
「ガタガタいっていた」のはやや口語が強い言い回しでしょうか。
「ガタガタ震えていた」などが無難と思います。

・代わりに精神安定剤に頼ることした。
「頼ることした」→「頼ることにした」
当然のように精神安定剤が出てくるところが、舞台背景を軽く語っていて良いと思います。精神安定剤を持っていることに全く説明がないところがオシャレで、気が利いています。

・知らない土地での生活が続いてきっと疲れが出たのだろうとそっとして、
丘の上の家とアンドルーのアパートはおそらく同じ町内ですので「知らない土地」というのは違和感があります。
「慣れない環境」が無難でしょうか。

・猶予として与えられた週末の一日目を、バルバラはほとんど眠って過ごした。
この文章から察するに、今日は土曜日なのでしょう。ウイリアムに呼び出されたのは月曜日です。ということは脅迫されたのは金曜日でしょうか。
曜日の情報は全く重要ではないのですが、以上のように無用な推理をさせてしまうくらいならば曜日を明記した方がいいかと思います。「三.」の最初に「金曜日」などと情報を入れておけば済む話です。

・夢というものは――もう一人の自分が行動する舞台と言っても過言ではなく
「舞台と言っても」ですがここの「言っても」は発言の「言う」ではないので、平仮名の「といっても」をオススメします。平仮名にできるところは平仮名で表記する方が読みやすさに繋がるという判断です。

・(別に寝ている彼女が本当に顔を叩いたわけではなかったし、誰かが叩いたわけでもなかった)。
明晰夢についてはそれなりに有名ですし、ここの補足は不要かと思います。

・以前のバルバラは、悪夢を見たときでも「これは夢なんだ!」と気づきさえすれば、夢のなかで顔を叩いたりしてそのまま目を覚ましたりすることもできた。
夢であるとわかりながらも夢を操作できないという体験は、今回だけの特別な体験であると考えられるので「以前の」という語彙は不適切であると考えます。「以前の」となると今後ずっと夢を操作できないと解釈できますので。
「普段の」が無難でしょう。

・追跡する魔の手を焼き払おうと思ったけれど、やはり自分にはそんなことができるわけもないと思うと、炎は弱々しくなって消え、手はただの手に戻った。
「魔の手」と「手はただの手に戻った」が表記上若干ですがややこしいので「手はただの手に戻った」は「二度と魔法は出せなかった」などが無難だと考えます。

・ほかの講義の講師陣も、今ではもう彼女を追いかけてきている気がした。
「ほかの講義の講師陣」というのがやや野暮ったいというか規模が小さいように感じますので「大学にいる全ての人」などの方がもう少しスマートで、夢の内容と合っているかなと思います。

・アンドルーは何不自由ない手で紅茶を入れてくれた。
アンドルーの「何不自由ない手で」というのはバルバラの「茶葉を入れるだけで手がガタガタいっていた」の対比で、事情を知る者と事情を知らない者を表現しているのだろうと思います。
それ自体はいい対比だと思うのですが「何不自由ない手」というのがピンときにくいので、「手を震わせることなく」などの方がわかりやすく対比ができるのではないかと考えます。

・なかを見ると、大学の公開講座の募集用紙が入っていた。
「募集用紙」よりも「応募用紙」の方が適当ではないかと思います。
一応「募集用紙」のなかに応募欄がある場合もあるでしょうから、間違いではないのだろうとは思います。
ですがどちらかというと「応募用紙」の方が無難かなと。

・今までのバルバラなら喜んだだろうが、素直に喜ぶことはできなかった。
「今までの」という言い回しは成長や心境の変化というようなニュアンスが強いように感じます。
今回の場合そうではなく衝撃的な出来事ですので「今まで」ではなく、もっと具体的な言い回しの方が合っているのではないかと思います。
「一昨日までの」などですかね。
そして「素直に」の前に「今の」や「今日の」をつけると文の繋がりも自然になるでしょう。

・そうか、とアンドルーは肩を落とした。
ここから想像するに、アンドルーは公開講座のことを敢えて内緒にしておいてバルバラを驚かせて喜ばせようと思ったのでしょうか。
もしそうならば、悲しいすれ違いですね。

・バルバラには悲しいことに、こうして距離が近づくほどに二人の破滅が近づいてきていた。
「近づいてきていた」の後に「感じられた」がほしいですね。
「近づいてきているように感じられた」など。

・ただ、すべて自分が悪い、すべて自分が悪い……。
ここの「ただ」が、条件付けの「ただ」なのかひたすらを意味する「ただ」なのか、やや判別が難しいです。
おそらく後者でしょうからそうならば「ただただ」と並べると後者であることがわかりやすいです。

・そう思っていたところで、彼女は真実に目が覚めた。そして、自分のするべきことがわかった。
この「真実」とは結局、自分が姿を消してアンドルーに口を閉ざしてもらうことでウイリアムの手から自分もアンドルーも逃れられるという行動方針のことを指すのでしょうか。
それ以外に学問とは何かであったり自分はどう生きるべきかといったことも内包するのであれば、それを「真実」とするにはバルバラの心情描写が不足しているように感じられます。
また行動方針のことだけを指すのならば「真実」という語彙は合っていないように思います。

・それからメモにメッセージを書き込んでランチボックスの上に挟み、
「メモをランチボックスの上に挟み」だけで、何かメッセージを書き込んでいることは伝わるので「メッセージを書き込んで」は削っていいでしょう。

・バルバラがアンドルーの住む街に戻ることはなかった。
この文章、初見時には「バルバラとアンドルーはもう二度と会わなかった」ことの比喩と思わせて実は「アンドルーはバルバラと暮らすから街に出る必要はなくなった」という簡単な叙述トリックです。
しかしこの叙述トリックは不要だろうと思います。こういう叙述トリックを敷くような作品ではありませんし、すぐ後で明かしますし、効きが弱く、どうにも浮いているような感じがします。


―――――――――――――――――――
数年後のこと。
アンドルーはバルバラが出ていってからすぐに彼女のところへやってきて、一緒に洗濯屋になっていた。
―――――――――――――――――――
「数年後のこと。」で時系列を数年後にさせておきながら、「アンドルーは~」でバルバラが去った当時に時系列を戻すのは、無駄な時系列の往復ではなかろうかと思います。無意味に振り回される感じです。
「数年後のこと。」は「それから。」などとし、数年後の経過を知らせるのはまだ後でいいのではないかと思います。ここからしばらく「数年後」の叙述には移りませんし。

・バルバラのメモを見た後、ウイリアムと二言、三言口を利いたとき、彼はおおよそのことを悟った。
どうしてアンドルーはウイリアムと会話をしたのか、そこのフォローがあると親切だと思います。

・学者肌のアンドルーには、洗濯屋の仕事は不慣れだった。
「不慣れ」→「大変」が無難でしょうか。
「洗濯屋」の前に「慣れない」をつけてもいいでしょう。

・客の顔を覚えるのも難しかったし、
細かい話ですが、学生の顔をつぶさに覚えていたのでバルバラを問い詰めることができたウイリアムとは対照的に、アンドルーは大学でも学生の顔を覚えるのが苦手だったのでしょうか。
苦手だった、で何も問題ありませんが。

・庭園は見違えるように豊かになり
「庭園」→「菜園」
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Date:2019/12/28
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