FC2ブログ

あむあむあむ

プロフィール

フィンディル

Author:フィンディル

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR

お引越し

フィンディルの感想ですが、こちらに活動場所を移したいと思います。
https://www.pixiv.net/fanbox/creator/46839483
FC2からフィンディルの感想に興味を持ってくださっている方は、引っ越し先でもよろしくお願いします!

ただここが廃墟になるわけではありません。
今後新しく書かれた感想を、こちらにて公開する構想もあります。
しかししばらくの間は、引っ越し先でよろしくお願いします!

野菜サンドのレッスン/浅黄幻影 への感想

野菜サンドのレッスン/浅黄幻影
http://text-poi.net/vote/135/5/
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
キャラクター・構成・文章に課題がある作品。シンプルな構成である本作には複数の磨き残しが見受けられる。


●登場人物の行動と機微に頷きにくい

本作はシンプルなストーリー進行を取っている作品です。
洗濯屋を営むバルバラはひょんなことで大学講師アンドルーと出会う。元々知識への憧れがあったバルバラはこの出会いにより自身の生き方に疑問を抱き、アンドルーに近付き、恋仲になり、洗濯屋を辞める。しかし知識欲が抑えられないバルバラは身分を偽り大学に潜入、別の大学講師ウイリアムにそのことを知られて脅迫される。思い悩んだバルバラはアンドルーの前から姿を消すが、経緯を知ったアンドルーは大学講師の職を辞してバルバラのもとへ、二人は洗濯屋になり幸せに暮らした。
現状に不満を持つ→環境を変えるも色々ある→やっぱり自分にはここが一番、という古き良きを感じるシンプルな流れで、流れ自体はいいものだと思います。
しかし話の進ませ方の精度が低いように感じます。それは各登場人物の行動の動機、行動の機微に頷きにくい箇所が幾つかあるからです。

まずバルバラがアンドルーと同棲を始めるという箇所。
知識の香りからアンドルーに積極的にアプローチをかけ、二人は恋仲になります。二人が恋仲になる理由についてアンドルーの心情が欠如していますが、これについては特に疑問に感じません。恋仲になる理由なんて、恋仲にならない理由がないからということで事足りますから。
頷けなかったのが、二人が同棲したところです。一体どうして同棲したのでしょうか。
バルバラが住んでいた丘の上の家と大学は、大学の鐘が聞こえる程度の距離しか離れていません。またアンドルーが汚れたシャツを持ってくることができる距離でもあります。自身の家に帰れば替えのシャツは何枚かあるのに、わざわざ初めてのところへ洗濯を頼みに訪れるような距離です。
アンドルーが住んでいる家は当然アンドルーが勤める大学から近い場所にあるでしょう。双方の家が大学から見て逆の方角にあったとしても、およそ同じ町内であろうと思われます。恋仲になったからといって、わざわざ同棲をするような距離ではありません。
勿論同棲の理由は距離ではないでしょう。距離が近いから同棲するのではなく、同棲したいから同棲する。バルバラとしては、洗濯屋は自分には相応しくないから辞めたいがそれでは生活ができないから同棲という形で収入面をアンドルーに頼りたい、より日常的に知識の香りを濃く感じていたいといった理由もあったでしょう。
しかしバルバラは同棲をするにあたって大きいはずの決断をしています。老犬ラーチャを預けるという決断です。
アンドルーが住む家は「部屋」という語彙を用いているところからアパートか何かなのでしょう。ペット不可、あるいは犬を飼える環境ではないと判断できます。そのためバルバラはラーチャを誰かに預けますが、アンドルーと結婚して犬を飼える家に転居すればラーチャを戻せるよう約束したから大丈夫だ、としています。
しかし、そもそも同棲をしなければよかったのです。同棲をせず、バルバラは丘の上の家に住み続ければラーチャを預ける必要はなかったのです。知識の香りは、同棲をせずとも交際を続ければ感じることができます。大学に通うということに同棲如何は関係ありません。洗濯屋を辞めても生活をするために同棲というのはバルバラにとって自然な打算かもしれませんが、そのような理由で愛犬をあっさり預けてしまったバルバラに、フィンディルは違和感を覚えます。

更に違和感があるのが、アンドルーと結婚して犬を飼える家に転居すればラーチャを戻せるよう約束したから大丈夫だというバルバラの判断。フィンディルは頷けません。
ラーチャは老犬です。およそ数年の寿命と考えていいでしょう。ラーチャを戻すつもりならば猶予はありません。しかしアンドルーは描写から察するに収入はあまり多くありません。バルバラは洗濯屋を辞めました。現実的に、今後数年以内に結婚をして犬を飼える家に転居するのは難しいだろうと判断できます。にも関わらずバルバラがそこに気を向けている素振りが一切ありません。自分も稼いで少しでも結婚・転居を達成しようという行動を起こしていませんし、そのことについて急がねばならないなどと考えている様子も一切ありません。老い先短いであろうラーチャと再び暮らそうという考えが一切ないのです。
これでは体よくラーチャを処分したという印象さえ受けます。いずれにせよバルバラにとってラーチャは取るに足らない存在であり、自分の自己実現欲求を満たすためにラーチャを蔑ろにしたのは明らかでしょう。

自分の理想と打算のためにわざわざラーチャを預けてまで同棲した行動、まるでラーチャを処分したかったかのようなバルバラの言い訳じみた思考。いずれも「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」という本作のバルバラ表現から逸脱してしまっています。「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」の表現は、一度客として会っただけのアンドルーのもとに突然押しかけて恋仲になり洗濯屋を辞めたという箇所で十分なされています。愛犬のラーチャを半ば処分する形で預けて言い訳の思考を重ねるのみで後は知らぬ存ぜぬの態度を取るというのは「身勝手な行動で他者を蔑ろにしつつも、自分を正当化して忘れる人間」という域に達しています。そのようなバルバラの表現が本作でなされているようには見えず、少なくともフィンディルのバルバラ認識とは大きく乖離しています。

しかしバルバラの一連の行動と思考には作品的な理由があります。それは結局ラーチャはバルバラのもとに帰ってくるからです。バルバラは結局丘の上の家に戻り、ラーチャも戻り、洗濯屋を再開するからです。
ラーチャという登場人物の存在意義は、丘の上の洗濯屋というバルバラの当初の居場所の補強です。丘の上で爽やかな風が吹いて、物干し竿にかかった白い洗濯物が靡き、そこに女性と犬がいる。という綺麗な画を見せるためにあります。ラーチャは丘の上の家とセットで存在しているのです。
本作の構成は、現状に不満を持つ→環境を変えるも色々ある→やっぱり自分にはここが一番、というものです。ラーチャは丘の上の家の象徴のひとつですから、丘の上の家を離れてアンドルーの家で同棲しているバルバラの隣にラーチャがいてはいけないのです。また最後の丘の上の家の場面ではラーチャは戻ってきてバルバラの隣にいないといけません。
そういう作品構成を満たすために、バルバラは身勝手と思われようとラーチャを手元から離さなければなりませんでしたし、そこに整合性を持たせるために老犬であることを無視した言い訳じみた思考を浮かべなければなりませんでした。そしてバルバラがラーチャを戻すために努力をする必要は、作品的に見れば一切ありません。このときのラーチャの意思に関わらず、結果的にラーチャはバルバラのもとに帰ってくるような物語になっているからです。
あれこれあってラーチャが帰ってくることが前もってわかっているから、バルバラは簡単にラーチャを手放しますし、戻すための努力も一切しなかったのです。
つまりバルバラは物語に動かされているのです。ラーチャを手元から離した判断、ラーチャを手元に戻すために行動しない判断、ともにバルバラの意思ではなく物語の都合に従わされた結果です。
それはキャラクター表現を半ば放棄しているとフィンディルは判断していますがいかがでしょうか。

また一連のバルバラの行動と思考をフォローする意図があったのか
―――――――――――――――――――
永遠に預けられると覚悟していたラーチャだったから、久しぶりにご主人様に会えたことは幸せだった。
―――――――――――――――――――
という文章が終盤に差し込まれています。この場面は大団円ですから、バルバラの身勝手な行動についてあまりネガティブに書き記すことは難しいです。そもそも本作はバルバラを「自分の理想に惹かれるままに行動してしまった人間」と表現していますので「身勝手な行動で他者を蔑ろにしつつも、自分を正当化して忘れる人間」の部分であるラーチャに対する行動については、あまりしっかり触れることはできません。そのためバルバラ視点で本件に触れることは難しいです。
ということでここについてはラーチャ視点になっています。「ラーチャはもう会えないと覚悟していたが、また会えて幸せだった」ということで締めていますが、ここが非常に苦しいです。
そもそも本作はバルバラの心情に寄った文体であり、主要人物のアンドルーですらほとんど心情の描写がなされていません。にも関わらず犬のラーチャの心情については「覚悟」や「幸せ」と具体的な心情描写がなされているのです。犬のラーチャがご主人様と会えて幸せなのは想像に難しくありませんが、犬のラーチャにもう会えないと覚悟をさせるのは可能なのでしょうか。若干ファンタジーを帯びているように感じられます。
またバルバラがラーチャに対する自身の行動を正当化しようとしたのに加え、ラーチャ側にも「全てわかったうえで受け入れていたし、また会えたから幸せ」という形で正当化の補助をさせようとしているのはいささか横暴です。ラーチャが覚悟していたんだから問題ないだろうという意識を感じますが、忠実な犬であることを利用してラーチャの意思を作品が操作しているように感じられます。
作品上の無理をフォローするためにバルバラの人間性を歪め、バルバラの人間性をフォローするために文体と現実味とラーチャの意思を歪めているのです。

次の箇所です。登場人物の行動の動機に頷きにくい箇所。
アンドルーです。本作においてアンドルーがしたことといえば、洗濯屋に洗濯を頼みにきた、突然押しかけてきたバルバラを受け入れて恋仲になった、バルバラと同棲してバルバラの生活資金を受け持った、バルバラが大学に通えるように公開講座の応募用紙を持ってきた、バルバラに起きたことを知って大学講師の職を辞し洗濯屋になった、というあたりでしょうか。
洗濯屋に洗濯を頼んだことに特別な動機は必要ありません。自分の家に帰って替えのシャツを持ってきてもいいじゃないかとは思いましたが、洗濯屋に洗濯を頼んだっていいですから。
突然押しかけてきたバルバラを受け入れて恋仲になったことにも特別な動機は必要ありません。拒む理由がなかっただけのことでしょう。同棲した理由にも特別な動機は必要ありません。拒む理由がなかっただけのことでしょう。公開講座の応募用紙を持ってきたのも、大学講師として無理なくできることをバルバラのためにしてあげただけです、理由はバルバラが喜ぶからで十分です。
しかし、バルバラに起きたことを知って大学講師の職を辞したこと。これは特別な動機が必要です。大学講師になるためにアンドルーが苦労を重ねたことは想像に難くありません、大学講師を辞めるということは自分の人生を大きく変えることを意味します。誰と恋仲になろうと誰と同棲しようとアンドルーのそれまでの人生は大きく変わりませんでしたが、大学講師を辞めることでアンドルーの人生は大きく変わりました。そこに対しては当然きちんとした動機が必要です。その動機は「そこまでするほどバルバラが好きだったから」でも構いません。
しかし本作の文体は、バルバラの心情に寄った三人称視点です。アンドルーの心情についてはほとんど描かれていません。ほとんど描かれていないため、突然押しかけたバルバラを受け入れた理由も「拒む理由がなかったのだろう」という程度の推察しかすることができません。バルバラのどこが、あるいはどうして、あるいはどのくらい好きなのかという部分についての描写はおよそないのです。
バルバラの心情に寄った三人称視点をチョイスしたことによりアンドルーの心情描写が不十分になり、大学講師を辞めるアンドルーの動機に頷きにくくなってしまいました。
交際を続ける中で自然と愛情は培われていくものでしょう。しかしそこだけに頼っても、作品としてキャラの行動に説得力が生まれるわけもありません。

バルバラの心情に寄った三人称視点をチョイスしてアンドルーの心情がきちんと描けない結果、アンドルーの心情が見えてこないのは仕方のないことなのでしょうか。いいえそんなことはありません。「きちんと描写できない」=「行動に説得力が出ない」という等式は成り立ちません。きちんと描写できなくとも行動に説得力を出すことは可能です。そこがキャラ描写の技術です。心情をそのまま描写させればその人の思いを表現することは簡単ですが、心情をそのまま描写させずともその人の思いを表現することは可能です。
フィンディルにはむしろ、バルバラの心情に寄った三人称視点を選んだことで、アンドルーの行動動機には目を瞑ってもらおうと浅黄さんが考えておられるのではないかと感じられます。しかし、バルバラの心情に寄った三人称視点を選んだのならば、なおさらアンドルーの行動動機に説得力が生まれるようアンドルーのキャラ描写に力を注ぐべきだろうと考えます。大学講師を辞めるという大きな決断をさせる以上、アンドルーの心情描写はバルバラの心情描写以上に大事です。あるいはアンドルーの心情を意図的にシャットアウトすることで、アンドルーの行動に意外性を生む狙いもあったのかもしれません。しかし本作のストーリーはシンプルであり、アンドルーが大学講師を辞める行動自体に意外性は一切ありません。むしろアンドルーが大学講師を続けて離れ離れになる方が意外です。アンドルーの行動に意外性は一切ありませんが、説得力や納得感もありません。ならば求められるのは意外性の強化ではなく、説得力の強化でしょう。
大学講師を辞める決断をさせるには「アンドルーはバルバラをとても愛している」ことを十分表現する必要があります。本作の物語上文体上それをアンドルーの直接の心情描写なしで表現するのは、相応の表現技術が求められます。ですが、必要なことだと考えます。

次の箇所です。次は登場人物の機微の箇所。
バルバラがアンドルーに残したメモです。
―――――――――――――――――――
「私はいなかったことにして! あなたは私のことを知らない! 誰に聞かれても私なんて知らないと言って! でないと身の破滅よ!」
―――――――――――――――――――
ウイリアムに脅迫されたバルバラは「バルバラが存在せず、またアンドルーも口を閉じてしまえば、ウイリアムには証拠になるものは何もなかった。」と考え、その考えのもとにメモを残します。実際ウイリアムの脅迫からバルバラもアンドルーも逃れるためにこの考えは有効ですし、この考えが有効であるか否かは重要ではありません。バルバラがそう考えたのですからそこに正解はありません。
問題は伝え方です。バルバラはアンドルーに大学講師を続けてほしいのでアンドルーの前から姿を消したのです。「バルバラは、もう二度と彼には会えないと思いながら、それでも愛する人のために一番いいと思える方法で去っていった。」という記述からも、アンドルーには大学講師を続けてほしいというバルバラの思いが読み取れます。この出来事をアンドルーが知ると、もう大学には近付けないバルバラと今後も一緒にいるには自分も大学から離れるしかないと、アンドルーがバルバラのために自ら大学講師を辞す可能性がある。自分が蒔いた種で、アンドルーには大きな行動をしてほしくない。自分の存在を忘れることは指示しないといけないが、それ以上の行動は起こしてほしくない。何も考えずただ指示にだけ従ってほしい。
しかしこの伝え方、感嘆符をいくつも並べて「でないと身の破滅よ!」とまで添えており、「自分の身に大変なことが起き、それがアンドルーにも降りかかりそうだから止む無く姿を消します」と伝えているようなものです。非常事態が起きたことを露骨に伝える内容です。これではアンドルーが「何かがバルバラの身に起きたんだ」と考えてしまうのは当然です。
仮に「誰に聞かれても私なんて知らないと言ってください。」という静かなメモを残しても、バルバラの指示をアンドルーに伝えることは可能なのです。何もあんなに大げさに伝える必要はありません。
とはいえどちらのメモでも結果は変わらないでしょう。「私はいなかったことにして! あなたは私のことを知らない! 誰に聞かれても私なんて知らないと言って! でないと身の破滅よ!」というメモでも「誰に聞かれても私なんて知らないと言ってください。」というメモでも、アンドルーが何かに気付き、詮索し、大学講師を辞めるという結果はおそらく変わらないでしょう。しかし結果が変わらないなら伝え方はどのようなものでもいいというのは怠慢です。
例え結果が変わらないことが予想できたとしても、少しでもアンドルーに勘付かれる可能性を下げるために、バルバラは伝え方にもう少し配慮を施すのが自然ではないでしょうか。最小限で伝えてもアンドルーは勘付いてしまうでしょう、しかしそれでも最小限で伝えるのです。どうせ勘付くなら最大限で伝えようという思考にはなりません。
ここにも作品の都合というものを感じます。物語としてはアンドルーには事情に勘付いてもらう必要があります。そのためには若干の察しが必要な静かなメッセージよりも、容易に勘付くことができる大仰なメッセージの方が進行は無難です。バルバラに寄った三人称視点の文体もあり、大仰なメッセージの方がアンドルーの勘付きの表現が容易だと判断されたのかもしれません。メッセージを出すだけでその後のアンドルーの行動までカバーできますから。しかしバルバラの心情としては、勘付いてもらいたくないと考えるのが自然です。物語の進行のために、バルバラの思いとは真逆のメッセージの残し方になってしまっている、と考えます。
あるいはバルバラは本心ではアンドルーに大学講師を辞めて自分を追いかけてもらいたいと考えていたのでしょうか。「バルバラは、もう二度と彼には会えないと思いながら、それでも愛する人のために一番いいと思える方法で去っていった。」と思いつつ、深層面では追いかけてほしいから無意識にそういう書き方になったのでしょうか。もしそういう心理があったのなら、このようなメッセージの残し方にも納得はできます。しかしその場合、本作は全く違った余韻を生みます。その余韻は本作が想定しているものではないでしょう。少なくとも、決してめでたしめでたしで読み終えられるものではないでしょう。

以上三つの箇所が、フィンディルが本作で特に感じた、キャラの行動や機微について頷きにくい箇所です。
いずれも物語や文体といった作品の都合に、登場人物が従わされているような形になっています。しかしそれではキャラクターを表現しているとはいえません。
物語の都合にキャラクターを従わせて作品を作るのではなく、キャラクター自身で考えて動いた結果が物語になり作品になる、という方針が本作には相応しいのではないかとフィンディルは考えます。


●「野菜サンドのレッスン」が弱い

上記の項目で申し上げたキャラの表現を向上させて物語進行の精度を上げた場合、本作はシンプルな構成とストーリーで小さくまとまった作品になるのではないかと思います。
しかし本作の面白いところはそこではないのではないかとフィンディルは考えています。本作の読み味深いところはまさにタイトルの「野菜サンドのレッスン」にあるのではないかと思います。

丘の上の家で洗濯屋をしていたバルバラは学問への強い興味を持っています。そして彼女が学問を見出しているのは洗濯物を干している間に読み耽る学術書と、遠くで鐘を鳴らす大学の講義の場です。
しかしバルバラは自身が憧れた大学において様々なことに巻き込まれ、結果的に丘の上の家に戻ります。そしてアンドルーと二人で洗濯屋を再開し、学問の象徴であった大学講師アンドルーは「毎日、洗濯をして、ときどき雨に降られることもあるけど、ここはとてもいい場所だ。風が吹く素晴らしい丘だ」と丘の上の家を賞賛。またそこで彼女は以前は見向きもしなかった家庭菜園を好むようになり、元農業大学講師アンドルーの直接の指導を受け、その指導により育てた野菜で作った野菜サンドをアンドルーに出すのです。本や講義からではなく、実践と愛から学問を見出すようになるのです。

というバルバラの価値観の変化、そして学問とは何かという点が本作の面白いところであり、タイトル「野菜サンドのレッスン」が指し示すものだろうと思います。本作の余韻を醸す箇所もここですね。

しかしこの箇所に割かれた浅黄さんのエネルギーが非常に小さいように感じます。バルバラはどうなったのか、アンドルーとの仲はどうなるのか、というストーリーの顛末ばかりにエネルギーが割かれ、バルバラの価値観の変化についてはおまけとばかりに終盤に回収・説明されて終わりという形になってしまっています。存在感がほぼありません。
勿論本作の中心を走るストーリーラインはバルバラとアンドルーの顛末なのですから、文字数的にそちらに多く割かれるのは当然のことです。しかし文字数が少なくてもきちんと構成を組むことで「野菜サンドのレッスン」について表現をするのは可能です。むしろここを御座なりにしていては「野菜サンドのレッスン」という作品は成立しないでしょう。

まずバルバラは本から菜園へと学問の源泉を移します。当然菜園というのは本作においてとても重要なキーワードです。しかし序盤の洗濯屋のパートにおいて菜園の存在が一切出てきません。序盤の洗濯屋のパートでは洗濯の工程についてかなりの文字数を割いて説明がなされますが、洗濯屋の工程はさして重要ではありません。菜園こそが重要なのです。
洗濯物の番をしている間、バルバラは本を読んだ。庭には放棄されて久しい菜園があった。土いじりをして野菜を育ててもよかったが、土がついた手で洗濯物を触って汚してはいけないからとバルバラは菜園をそのままにした。しかしそれは建前で、本を読んで学問に触れることに比べると家庭菜園など取るに足らない行為であると感じていた。
などのような叙述を入れておけば、終盤で本を読まずに家庭菜園を行ったという流れで、シンプルでわかりやすい対比ができていたでしょう。本>菜園が菜園>本に変わったという。このような構成を組むか否かは別にしても、序盤で菜園の存在すら出さなかったのはやや理解に苦しみます。終盤でいきなり「実は庭には放棄された菜園がありました」などと後出しで紹介されても面食らうだけです。

野菜サンドも非常に重要なキーワードです。学問を見出す菜園から生産されて愛するアンドルーに食べてもらう野菜サンドはまさしく学問と愛の結晶です。これこそバルバラが夢見ていたものです。
そして野菜サンドは途中で出てきます。アンドルーの家で同棲したときにバルバラは毎日ランチとして野菜サンドを作り、アンドルーに持たせて見送っていました。姿を消すメモを挟んだランチボックスに入っているパンもおそらく野菜サンドでしょう。
しかしこれらの場面で野菜サンドを登場させたことの意味が一切活かされていません。本当にただただランチとして野菜サンドを作っていただけです。そこに何か作品的な価値を乗せることをしていないので、読者の印象に一切残りません。
アンドルーの家で同棲していたときの野菜サンド、勿論野菜は市販の野菜です。アンドルーの指導により生産された菜園の野菜ではありませんから、バルバラは勿論野菜サンドに学問を感じません。またこの時点でバルバラがアンドルーに近付いたのはアンドルー自身を愛していたからではなく、知識の香りを感じたからでしょう。少なくとも終盤の丘の上の家の場面に比べると、アンドルーに抱いている愛情は浅いでしょう。つまりこの時点での野菜サンドは、学問も愛も内包していないのです。
学問も愛も内包していない野菜サンドと、学問と愛の結晶である野菜サンド。当然何らかの違いはあるでしょう。少なくともバルバラは両者の野菜サンドに大きな違いを感じているでしょう。そしてバルバラが両者の野菜サンドに感じる違いこそが、そのままバルバラの価値観の変化を表すのです。野菜サンドは本来超重要なキーワードでありアイテムです。
しかし本作では野菜サンドはそれぞれで登場しますが、その違いについて一切描写されていません。瑞々しいでもいいですし、青々としているでもいいです。そんな単純な差異すら描写されていないので、野菜サンドというキーワードに本作を語らせるだけの力が入っていないのです。「野菜サンドのレッスン」であるのに、野菜サンドに作品的な力を感じません。

以上のような構成的な向上は全て、あまり文字数を必要とはしません。ストーリーラインを守りつつ強化することは難しくないでしょう。これら構成の下支えがあれば「野菜サンドのレッスン」は今以上に存在感を見せるのではないかと考えます。
これは何も「野菜サンドのレッスン」というタイトルをつけた以上は存在感を見せるべきだというわけではありません。タイトルのつけ方が誤っているのではありません。むしろこのタイトルは本作の面白いところを的確に表現した良いタイトルです。しかしそんなタイトルとは裏腹に、本文が本作の面白いところを御座なりに描いてしまっているのです。
本作の面白い箇所を本作の核心として構成的に強化することで、本作はより見映えのよい作品になるのではないかとフィンディルは考えます。

なお、終盤のアンドルーの発言
―――――――――――――――――――
「僕も同じだよ。いいじゃないか。毎日、洗濯をして、ときどき雨に降られることもあるけど、ここはとてもいい場所だ。風が吹く素晴らしい丘だ」
―――――――――――――――――――
は良い発言です。
丘の上の家での生活にバルバラは不満を覚え学問を日常に置く生活に憧れますが、その学問の象徴ともいえる大学講師アンドルーが大学を離れて丘の上の家にやってきて、この生活を強く肯定する発言をする。
「やっぱり今までの生活が一番」という本作のシンプルな構成を強く補強する発言であり、この発言自体がバルバラのハッピーエンドであるようにさえ思えます。
またそれと同時にアンドルー自体の気付き、価値観の変化にも繋がるのではないかと思われます。おそらくアンドルーは学問漬けの日々を送っていたでしょうから、バルバラとは違う視点で、違う気付きを得て、違う価値観の変化をアンドルーにもたらすのではないかと。この発言はバルバラを肯定するためだけの発言ではなく、アンドルー自身の変化を示す発言であると、より一層本作に深みが生まれるなと思います。
そういう意図があるならば、洗濯屋に馴染んでいくアンドルーの、その心情の変化が垣間見える一文があるとより素晴らしいなとも考えますが。


●平易な文章の磨きが足りない

本作の文章は平易な文章と呼べるものです。バルバラの心情に寄った三人称視点ですが、淡々と事実や経過を並べて話を進めていきます。難しい語彙も使いませんし、修飾についても最小限です。

しかし文章の磨きが足りないように感じます。というのもフィンディルの感想では文章のミスは勿論細かい言い回しや語彙にも着目するのですが、本作の文章では細かい言い回しなどで引っかかる点が多数あったからです。おそらく推敲などによる文章のブラッシュアップが不足しているのではないだろうかと想像されます。
どのような文体でもブラッシュアップは必須ですが、平易な文章というのは誰でも簡単に読めて理解できるというのが大事なところです。そのなかにあって細かいささくれを複数感じてしまう本作の文章は、平易で読みやすいはずなのに読みにくい、そんな歪な読み味になってしまっていると感じました。
平易な文章ということで力を抜いて書かれているのでしょうか。しかし力を抜いたというよりも気を抜いたという表現の方が相応しい印象を覚えます。平易な文章は誰でも簡単に読めて理解しやすいように、細かいところにまで神経を巡らせることが必要な、高度な文章です。
より多くの作業量を文章の推敲に注ぐことをオススメします。

具体的な指摘箇所はこの後の「●細かいところ」で羅列いたします。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。

・けれど、その死が突然のもので、また事業に奔走していた最中だったため、彼女にはいくつも借金が残され重荷になっていた。
「事業に奔走していた」のは誰なのでしょうか。おそらく両親なのかなと思いますが、バルバラである可能性も有り得ますので、やや把握がしにくいです。
また「いくつも借金」だと借り入れ先が複数あるという解釈ができてしまいます。実際そうかもしれませんが。
借金の額が大きいということならば「いくつもの借金」「多額の借金」といった言い回しがより適切であろうと考えます。

・そこで無一文になる覚悟をしながら、バルバラは潔く財産の清算した。
「財産の清算した」→「財産の清算をした」「財産を清算した」

・ところが、当初は硬貨一枚の価値もないと思ったものが高く売れたりして、
「当初は」は余計ですね。「硬貨一枚の価値もないと思ったものが高く売れたりして」で何一つ差し支えがありませんし、ここに「当初は」を入れることで余計な時系列を付加してしまっており、わずかな読みにくさを生んでいます。

・残された家の庭は、バルバラの生活に大いに役立っていた。
「役立っていた」→「役立った」の方が自然な文通りでしょうか。

・異邦人のバルバラに冷たい世間が許す小さな仕事を、庭は約束したからだ。
まどろっこしい物言いで、平易な文章にしてはこねすぎな印象があります。
「異邦人のバルバラでも行える小さな仕事には、庭が不可欠だったからだ」などでしょうか。

・それは仕事に忙しい男たちや一部の女の洗濯の仕事だった。
「洗濯」とあるのだから勿論衣服を洗濯するのだという固定観念による、文章の気の抜けを感じます。
勿論衣服を洗濯するのですし、これが「それは洗濯の仕事だった。」ならば何一つ問題はありません。しかし「仕事に忙しい男たちや一部の女の」という枕があると、ここには「衣服の洗濯」という説明の補強がほしくなります。
また「男」は複数形であるのに「女」は単数形であるのも気になります。数の違いからなのでしょうか当然「一部の女」も複数人いますでしょうから。
「仕事に忙しい者たちの衣服を代わりに洗濯する仕事だった。」などがシンプルでいいのではないかと思います。
男と女の数の違いを重視したいならば別の文で補足するなりがいいでしょうか。

・洗濯機で洗いとすすぎを繰り返し、その合間に物干し台とを往復する。
これも文章の通りがよくありません。「物干し台とを往復する」というのが洗濯機と物干し台とを往復するのは常識として理解できますが、文章としては理解できない形になっています。
「洗濯機は洗いとすすぎを繰り返し、バルバラは洗濯機と物干し台を慌しく往復する」など、素直に読ませるような改善は必要かと思います。

・女たちの衣類には特別に、洗面器で手洗いもしなければならない。
「衣類には」→「衣類は」

・洗濯物がたまった雨の翌日には、早朝から昼まで、そんな風にしなければならなかった。
「洗濯物がたまった雨の翌日には」という言い回しがわかりにくいです。今日は雨なのか天気なのか。「洗濯物がたまった」が「翌日」にかかっているのか「雨の翌日」にかかっているのかが不明瞭であるのが原因でしょう。勿論少し時間をかければ「翌日」にかかっていることがわかり、前日が雨で今日は晴れであることはわかります。しかしそんなことに数秒の時間をかけさせてしまうのは悪文でしょう。
単純に「雨の翌日には洗濯物がたまり、早朝から昼まで、そんな風にしなければならなかった」ならばそのような理解のしにくさが解消されます。

・本当なら甘い菓子にでもたとえられる年なのに、
「年」→「歳」
用法としてはどちらでも問題はないとは思いますが、ニュアンスとして「歳」の方がよりバルバラの年齢を指していると伝わりやすいのではないかと考えます。

・彼女は雑誌も恋物語もサスペンスも、ほとんど読まなかった。
「雑誌」は刊行物のジャンルですが「恋物語」「サスペンス」は小説のジャンルです。
階層のズレがありますので「雑誌も小説も」でいいかと思います。

・車に泥をはねられ、持っていた替えのシャツを汚されたと言った。
一体どういう状況であれば、車がはねた泥が持っていた替えのシャツだけを汚すのだろうかとやや疑問に思いました。アンドルーはどういった理由で、替えのシャツをそのまま持って道を歩いていたのだろうかと。勿論それはアンドルーの自由ですが。
車がはねた泥に着ていた服を汚され、替えのシャツに着替えたので、着ていた服を洗ってほしい。の方がずっと自然だなと考えます。

・それは前日の雨が嘘のように晴れた休日の正午のことで、
「休日」というのは誰の視点なのでしょうか。洗濯物を干している時点でバルバラにとっての休日ではないのは明らかです。
「週末」などに言い換えるのが適切であろうと考えます。

・「そうか……いや、参ったな。明日の講義にシャツがどうしても必要なんだ。新しいのを買うほどでもないんだ。家にも何枚かあるからさ」
どうしてアンドルーは家に帰って何枚かあるシャツを取りにいかなかったのか、やや疑問が残ります。
明日の講義なのですから、家に帰ってしまえばいいのではないかという想像を働かせるのは当然のことでしょう。
家に帰る時間がない、泊り込みなんだ、そういう補足がほしいところです。

・バルバラは男が渡そうとしたシャツの襟元に、どこか見覚えのある大学のピンバッチがついていることに気づいた。
「どこか見覚えのある大学のピンバッチ」だと「見覚えのある」は「大学のピンバッチ」にかかってしまいます。その場合、バルバラは大学のバッジを複数把握したうえで、この大学のバッジはどこどこ大学のバッジだと認識したという解釈ができてしまいます。
しかし「見覚えのある」がかかるべきなのは「ピンバッチ」であり、そこから大学のピンバッジであることにバルバラは気付くべきです。
ですので「大学の」を削り「どこか見覚えのあるピンバッチ」とするのが適切だと考えます。
また「バッチ」は別の意味の単語ですのでここは「バッジ」が正しいです。「どこか見覚えのあるピンバッジ」ですね。

・バルバラは相手の顔をこのときになってやっとしっかり見た。
バルバラが「このときになってやっとしっかり見た」理由はおそらく、アンドルーが洗濯物が終わった段階でシャツ一枚を頼みに来る迷惑な客だからでしょう。適当に断ってさっさと立ち去ってほしいと思っていたのでしょう。
終盤に「客の顔を覚えるのも難しかった」とあるように、普段のバルバラは客の顔を覚える程度の接客は行っていると考えられます。アンドルーへの対応が特別に雑だったのでしょう。
しかしこの文章だと、バルバラは客に対していつも雑な対応を取る人という印象を与えかねません。相手が大学講師などでなければ、客の顔をきちんと確認しない洗濯屋と読み取ることが可能です。
アンドルーが迷惑な客だったからきちんと顔を見ていなかったのだ、という簡単な補足がほしいところです。「バルバラはこの面倒な客の顔を、このときになって(やっと)しっかり見た」などでもいいので。

・本当なら甘い菓子にでもたとえられる年なのに、彼女はフランスパンのような姿をしていた。
・こうしてバルバラは、州の大学の講師アンドルーと出会った。
非常に細かいところなのですが、「フランスパン」という例えが出ることで本作の舞台は欧州であるような誘導がなされます。
しかし「州の大学の講師」という言葉から本作の舞台はアメリカであるような誘導がなされます。
ここの誘導の不一致が気になりました。

・シャツを二枚しか持っていない男もいるのだから、それはとても大変なことだ。
アンドルーのことを指していると思われますが、アンドルーはシャツを二枚しか持っていないのではなく、シャツを二枚携帯(一枚は着用)していたのです。家にならば何枚かシャツはあります。替えのシャツを持ち歩いているアンドルーは、とても準備ができていると判断できます。
本文の「シャツを二枚しか持っていない男」というのは物を持っていない準備が足りないという印象を与えますが、この文章は全く見当違いです。
皮肉のつもりの文章なのかもしれませんが、バルバラに寄っているとはいえ三人称の文章ですから、この皮肉は行き過ぎた物言いです。

・激しい風と雨音を聞いて、
「激しい」は「風」「雨音」にかかっているとして、「聞いて」の対象は「風」「雨音」であると判断できます。
つまり本文は「激しい風を聞いて」「激しい雨音を聞いて」に分けることができるわけですが、「激しい雨音を聞いて」は通りますが「激しい風を聞いて」は通りにくいです。
「激しい風と雨の音を聞いて」などがいいでしょうか。

・洗濯は嫌いではないけれど、厄介ごとは嫌いだった。
「厄介ごとは嫌い」だから洗濯屋を離れたバルバラでしたが、その後突然の嵐など比ではない「厄介ごと」にバルバラは傷付けられてしまいます。
そのことを示した良い文章であると思います。

・それから何度かバルバラがアンドルーの部屋に通い、
この「部屋」は大学で割り当てられたアンドルーの研究室ではなく、アンドルーが住む家のことを指していると思われます。アンドルーはおそらくアパート暮らしなのでしょうが、その場合「家」とは呼ばず「部屋」と呼ぶのはよくある呼称です。
しかし大学講師アンドルーの場合には紛らわしい呼称であるに違いはありませんので、ここは「アンドルーの部屋」ではなく「アンドルーが住むアパート」などがすんなり理解させる物言いであろうと判断します。

・またあるときは早くもベッドで一緒になったりして、
この「早くも」は余計であるように感じます。二人が恋仲になってどの程度の期間が過ぎているのかもわかりませんし、その期間が早いかどうかという判断を地の文が下すのは余計なお世話です。

・やがて二人は簡素ではあるが共同生活を始めた。
「簡素」と「質素」は意味が似ていますが、「簡素」は無駄なものを削ぎ落としたシンプルさ、「質素」はお金をかけない慎ましやかな生活、というニュアンスがそれぞれあります。
本文で「簡素」と使っても誤りではないでしょうが、アンドルーの収入面、また学問に触れる生活などを考えると「簡素」よりも「質素」の方が打ち出したいニュアンスには沿っているように感じられます。

・よく油の馴染んだこの小さなフライパンは、せいぜい二人分の目玉焼きを焼くことしかできなかったけれど、それが実に生活に馴染んだ。
「せいぜい二人分の目玉焼きを焼くことしかできなかったけれど、それが実に生活に馴染んだ。」という言い回しはオシャレでいいですね。必要十分を満たしているのだ、というのを表現した文章です。
ただ「馴染む」が二つ続いているのがやや気になります。意図的に重ねた可能性も高いのですが、そう見た場合あまり上手く効いていない。「馴染む」を続けることのオシャレさより、「馴染む」が続くことの野暮ったさの方が強く出ているように感じます。
また「目玉焼きを焼く」は「目玉焼きを作る」の方がより自然です。

・二人きりの生活に、彼女はとりあえず満足した。
「二人きり」という語彙は一般的に、今まで三人以上の人間がいる場所にいた前提があったうえで使われる語彙です。三人以上の人間が二人に減った場合に「二人きり」といいます。
しかし本文の場合、一人が二人に増えたのでここで「二人きり」を使うのは違和感があります。一人の生活が二人きりの生活になった、とはいわないでしょう。
「二人で送る生活」などが合致するでしょうか。

・バルバラは、朝には目玉焼きを用意し、ランチボックスにもパンに芥子と野菜や肉を挟んだものを入れて、アンドルーに笑顔で渡した。
若干細かい点ですが「朝には目玉焼きを用意し」とありますが「ランチボックスにもパンに芥子と野菜や肉を挟んだものを入れて」も目玉焼きと同様朝に用意したものです。「朝(食)には目玉焼きを用意し」ということなのでしょうが「朝食には目玉焼きを用意し」でいいと思います。
また「パンに芥子と野菜や肉を挟んだもの」とありますが「芥子」「野菜」「肉」が同列に並べられているのは違和感があります。「芥子」は具材というよりも調味料ですから。「パンに野菜や肉を挟んで芥子を塗ったもの」という叙述の方が野菜サンドであると理解されやすいのではないかと思います。

・バルバラはガリガリの身体を太らせる生活をしたりもしなかったので
「生活をしたりもしなかった」→「生活はしなかった」

・新しい街の散策や読書だけで終わるにはもったいなかった。
バルバラが丘の上の家にいたころでも、街の散策をするならば同じ街の散策をしていたのではないかと思います。「新しい」は削っていいでしょう。

・それというのも、バルバラは大学の講義を見にいきたいとアンドルーによく話していたのに、彼は正式な書類がないとだめだ、と当然のことを言い、いつまでも彼女を待たせていたためだった。
「正式な書類」というのは「公開講座の募集用紙」のことでしょう。そしてアンドルーは大学の公開講座について
―――――――――――――――――――
「君が正式に大学へ入るには、ちょっと長い時間がかかるからね。毎年こういうのをやっているから、次回からでも受けられるように手続きしておくよ、どう?」
―――――――――――――――――――
という発言をしています。アンドルーは少し調べれば今年の公開講座がいつ開かれるのかわかるはずです。
そこで疑問なのですがどうしてアンドルーは「正式な書類がないとだめだ」ではなく「何月に公開講座が開かれるからそれまで待っていてくれ」という伝え方をしなかったのでしょうか。バルバラは大学の講義を見たいとアンドルーに何度も訴えていたのですから、公開講座の時期を伝えるのがアンドルーができる自然で誠意のある返答のはずです。
結局バルバラはアンドルーの煮え切らない回答を受けて大学に潜入し、結果的に脅迫されてしまいました。アンドルーが公開講座の時期を伝えていれば、バルバラは大人しくその日を待っていたかもしれません。多分待っていなかったでしょうが、その結果は重要ではありません。

・しかし彼女はまだ若かく、大学に侵入しても何の違和感もなかっただろう。
「若かく」→「若く」
またこの「しかし」は何に対しての「しかし」なのでしょうか。
おそらくバルバラは大学に通う資格がないに対しての「しかし」なのではないでしょう。バルバラは大学に通う資格がない。しかし、潜入しても違和感がない。
となるとその前の文章でそれに合致するのは「彼は正式な書類がないとだめだ、と当然のことを言い」ということになりますが、これを「しかし」で直接結んでしまうのは文章的に強引ではないだろうかという印象があります。
文章を「しかし」で繋げているのではなく、文脈を「しかし」で繋げてしまっており、文章として綺麗に流れていません。

・そして学問へのバイタリティーや自立心の強さなどに表れる彼女のやる気から、実際にそれを実行した。
「などに表れる」は「などから表(現)れる」の方が自然でしょうか。

・出席をしても不法侵入とばれない講義を選んで忍び込んだ。
大学に対して「不法侵入」というのは頷きにくい言い回しなので「不正受講」などがいいかと思います。

・それでもときどき、入ってから学生の顔ぶれが少数で固定であると気づいて、クラスを間違えた風にして退席することも、何回かあった。
ややまどろっこしい文章です。
「それでもときどき、入ってから学生数の少なさからそこが固定ゼミであることに気づいて、講義を間違えた風にして退席することも、何回かあった。」などにすると、簡単ではありますが読みやすさがあがるでしょうか。

・彼女が得た知識は学術のなかでもごく一部だった。
繋ぎの文章ですがこの文はまるまる削除しても十分前後が繋がります。むしろ同内容が重なっているのでテンポの悪さを感じます。

・入ってみて気づいたのだけれど、ここは産業(主に農業)に関する大学だった!
口語的な言い回しになっています。
「入ってみてバルバラは気づいたが、」などでしょうか。

・そうしてバルバラは野心に燃え、講師の顔に熱い視線を注ぎノートを取った。
「野心」とは胸に抱える大きな望みという意味ですが、バルバラは何か望みを叶えたいとは思っていないはずです。ただ学問に触れたいという意欲だけがバルバラを突き動かしていますので。
「野心」には新しいことに取り組もうとする気持ちという意味もあるようですが、ここは「野心」ではなく「情熱」などが相応しい語彙でしょうか。

・この講師に下心がないことも、バルバラはわかっていた。
実際講師には下心がありました。この段階では薬剤会社のスパイだろうから呼び出して問い詰めようという下心ですが。
ですので「下心がないこともわかっていた」とさも事実のように書くのではなく、バルバラとしては下心がないと判断していたというニュアンスを強めるのが適切です。

・けれど、案内された部屋は研究室の奥まった部屋で、何かわからない機材が詰め込まれた、機密性の高いところだった。
「研究室の奥まった部屋で」→「研究棟の奥にある部屋」など
「機密性」→「気密性」など

・バルバラは自分がさきほど褒められたような優等生とはかけ離れた扱いをされているような気がした。
「自分が」の後に読点がほしいです。
「自分が」は「扱いをされている」と繋がりますが、この文章だと「自分が」と「さきほど褒められた」を誤って繋げてしまうからです。

・振り返った講師は、さっきまでのように優しい態度は取らなかった。
講師が「振り返った」のは扉に鍵をかけるために扉側を向いていたからでしょうが、外から鍵をかけるならまだしも内から鍵をかけるのにわざわざ扉側を向く必要があるのだろうかという疑問があります。内側から鍵をかけるくらい、後ろ手にできそうなものです。
特にバルバラを薬剤会社のスパイと考えているなら、講師はバルバラから視線を外さないようにしようと考えるのが自然ですから。仮にバルバラがスパイなら、鍵をかけるために背を向けるのは危険です。

・君は少々、年が上だから普通の学生じゃないと思うんだ。
その前に「しかし彼女はまだ若かく、大学に侵入しても何の違和感もなかっただろう。」という叙述があるなかで、講師がバルバラを「君は少々、年が上」と断言できてしまうのは違和感があります。
年で判断するよりも、バルバラが異邦人であることの方が講師は違和感を持ちやすいのではないかとも考えます。この講師は思い込みが強めのようですし。またバルバラが異邦人という設定はバルバラ本人が気にしている以外の意味が出ていませんので、ここで講師が「君は異邦人のようだし」と違和感の根拠に挙げることで、作中における異邦人への偏見の表現の一端になれるのではとも考えます。

・講師は何も処罰するわけではないと言ったけれど、
「と言ったけれど」→「とも言ったが」「と付け足したが」「と言い添えたが」など
こちらの方が自然です。

・もう嘘はつけず、本当のことを話した。
・自分がアンドルーの妻で、大学に憧れてつい紛れ込んでしまったと言った。
明確な叙述はないので推測ではあるのですが、この段階でバルバラとアンドルーは結婚をしていないはずです。のであれば「自分がアンドルーの妻」というのは嘘ということになります。ならば「もう嘘はつけず、本当のことを話した。」という叙述は嘘ということになります。
勿論「もう嘘はつけず、本当のことを話した。」というのは、自分は正規の学生ではありません、ということです。
ですがこういった細かい語彙の選び方ひとつで、読者は引っかかってしまうものです。
「もう学生であると誤魔化すことはできず、正直に話した。」などがいいでしょうか。妻であると嘘をつくならば、そこのフォローもほしいところです。

・信じてもらう最後のチャンスだと思った。
一連のやり取りの中で、他に信じてもらうチャンスがあったようには見受けられませんので「信じてもらう最初で最後のチャンス」とするのが適切でしょうか。

・バルバラは締め付けられた胸に居心地のよさを少しばかり感じ、口元に笑みさえ浮かびそうになった。
「締め付けられた胸に居心地のよさを少しばかり感じ」ですと、締め付けられた胸の居心地が良い、つまり現状はそのままだがバルバラが慣れたというような解釈ができてしまいます。胸が締め付けられる、だがそれがいい! みたいな。
そうではなく、現状が改善したのを察知して「締め付けられた胸」の締め付けが緩くなったために居心地が良くなったので、そのように叙述するのが適切であると考えます。
また「浮かびそうになった」→「浮かべそうになった」が自然でしょうか。

・けれど講師はこう言った。
「こう続けた」の方が自然でしょうか。

・大学講師ウイリアムは部屋の奥で怯えているバルバラに近寄ってきはしたけれど
講師の名前がこの段階で明らかにされます。それまでやり取りはしているので中途半端なタイミングに思えますが、ここで名前を出したのは非常に巧みです。
今までは大学に潜入していたバルバラを問い詰める流れですので、ウイリアムは何もウイリアムである必要はなく、一人の大学講師という立場でバルバラとやり取りをしていました。大学講師Aとしてバルバラと相対していた。
しかしバルバラがアンドルーの妻と聞かされると、ウイリアムはその関係性を利用してバルバラに性的な脅迫を行います。これは大学講師としてではなく、一人の下劣な男ウイリアムとしての言葉であり脅迫です。
大学講師Aが脅迫男ウイリアムに様変わりするタイミングなのです。そしてそのタイミングで表記が「講師」ではなく「ウイリアム」になった。「大学講師ウイリアム」という表記はその橋渡しですね。
人物の呼称をもって、その登場人物の在り方の変化を表現するテクニカルな一手であり、見事です。小さな技ではありますが、とても効いています。

・その唇や身体を執拗に狙うようなことはしなかった。
その後のウイリアムの発言やバルバラの受け取りから、ウイリアムがバルバラに性的な脅迫をしていることは察知することができます。
そういう明言しない言い方でウイリアムが匂わせているにも関わらず、この文章があることでウイリアムが性的な要求をしていることがストレートにわかってしまいます。
ここは少し、キャラの発言と地の文の連携が取れていないなという印象を覚えました。
きちんと匂わせられているか不安ならば、バルバラの受け取り方をもう少しだけわかりやすくするなどで調整する方がいいかなと思います。

・バルバラはその後の化学基礎講義を拝聴するのが恐ろしくてなって、
「恐ろしくてなって」→「恐ろしくなって」

・気分を落ち着けようとお茶の一杯も飲もうと思ったが
「一杯も」→「一杯でも」

・ティーポットに茶葉を入れるだけで手がガタガタいっていたのであきらめ、
「ガタガタいっていた」のはやや口語が強い言い回しでしょうか。
「ガタガタ震えていた」などが無難と思います。

・代わりに精神安定剤に頼ることした。
「頼ることした」→「頼ることにした」
当然のように精神安定剤が出てくるところが、舞台背景を軽く語っていて良いと思います。精神安定剤を持っていることに全く説明がないところがオシャレで、気が利いています。

・知らない土地での生活が続いてきっと疲れが出たのだろうとそっとして、
丘の上の家とアンドルーのアパートはおそらく同じ町内ですので「知らない土地」というのは違和感があります。
「慣れない環境」が無難でしょうか。

・猶予として与えられた週末の一日目を、バルバラはほとんど眠って過ごした。
この文章から察するに、今日は土曜日なのでしょう。ウイリアムに呼び出されたのは月曜日です。ということは脅迫されたのは金曜日でしょうか。
曜日の情報は全く重要ではないのですが、以上のように無用な推理をさせてしまうくらいならば曜日を明記した方がいいかと思います。「三.」の最初に「金曜日」などと情報を入れておけば済む話です。

・夢というものは――もう一人の自分が行動する舞台と言っても過言ではなく
「舞台と言っても」ですがここの「言っても」は発言の「言う」ではないので、平仮名の「といっても」をオススメします。平仮名にできるところは平仮名で表記する方が読みやすさに繋がるという判断です。

・(別に寝ている彼女が本当に顔を叩いたわけではなかったし、誰かが叩いたわけでもなかった)。
明晰夢についてはそれなりに有名ですし、ここの補足は不要かと思います。

・以前のバルバラは、悪夢を見たときでも「これは夢なんだ!」と気づきさえすれば、夢のなかで顔を叩いたりしてそのまま目を覚ましたりすることもできた。
夢であるとわかりながらも夢を操作できないという体験は、今回だけの特別な体験であると考えられるので「以前の」という語彙は不適切であると考えます。「以前の」となると今後ずっと夢を操作できないと解釈できますので。
「普段の」が無難でしょう。

・追跡する魔の手を焼き払おうと思ったけれど、やはり自分にはそんなことができるわけもないと思うと、炎は弱々しくなって消え、手はただの手に戻った。
「魔の手」と「手はただの手に戻った」が表記上若干ですがややこしいので「手はただの手に戻った」は「二度と魔法は出せなかった」などが無難だと考えます。

・ほかの講義の講師陣も、今ではもう彼女を追いかけてきている気がした。
「ほかの講義の講師陣」というのがやや野暮ったいというか規模が小さいように感じますので「大学にいる全ての人」などの方がもう少しスマートで、夢の内容と合っているかなと思います。

・アンドルーは何不自由ない手で紅茶を入れてくれた。
アンドルーの「何不自由ない手で」というのはバルバラの「茶葉を入れるだけで手がガタガタいっていた」の対比で、事情を知る者と事情を知らない者を表現しているのだろうと思います。
それ自体はいい対比だと思うのですが「何不自由ない手」というのがピンときにくいので、「手を震わせることなく」などの方がわかりやすく対比ができるのではないかと考えます。

・なかを見ると、大学の公開講座の募集用紙が入っていた。
「募集用紙」よりも「応募用紙」の方が適当ではないかと思います。
一応「募集用紙」のなかに応募欄がある場合もあるでしょうから、間違いではないのだろうとは思います。
ですがどちらかというと「応募用紙」の方が無難かなと。

・今までのバルバラなら喜んだだろうが、素直に喜ぶことはできなかった。
「今までの」という言い回しは成長や心境の変化というようなニュアンスが強いように感じます。
今回の場合そうではなく衝撃的な出来事ですので「今まで」ではなく、もっと具体的な言い回しの方が合っているのではないかと思います。
「一昨日までの」などですかね。
そして「素直に」の前に「今の」や「今日の」をつけると文の繋がりも自然になるでしょう。

・そうか、とアンドルーは肩を落とした。
ここから想像するに、アンドルーは公開講座のことを敢えて内緒にしておいてバルバラを驚かせて喜ばせようと思ったのでしょうか。
もしそうならば、悲しいすれ違いですね。

・バルバラには悲しいことに、こうして距離が近づくほどに二人の破滅が近づいてきていた。
「近づいてきていた」の後に「感じられた」がほしいですね。
「近づいてきているように感じられた」など。

・ただ、すべて自分が悪い、すべて自分が悪い……。
ここの「ただ」が、条件付けの「ただ」なのかひたすらを意味する「ただ」なのか、やや判別が難しいです。
おそらく後者でしょうからそうならば「ただただ」と並べると後者であることがわかりやすいです。

・そう思っていたところで、彼女は真実に目が覚めた。そして、自分のするべきことがわかった。
この「真実」とは結局、自分が姿を消してアンドルーに口を閉ざしてもらうことでウイリアムの手から自分もアンドルーも逃れられるという行動方針のことを指すのでしょうか。
それ以外に学問とは何かであったり自分はどう生きるべきかといったことも内包するのであれば、それを「真実」とするにはバルバラの心情描写が不足しているように感じられます。
また行動方針のことだけを指すのならば「真実」という語彙は合っていないように思います。

・それからメモにメッセージを書き込んでランチボックスの上に挟み、
「メモをランチボックスの上に挟み」だけで、何かメッセージを書き込んでいることは伝わるので「メッセージを書き込んで」は削っていいでしょう。

・バルバラがアンドルーの住む街に戻ることはなかった。
この文章、初見時には「バルバラとアンドルーはもう二度と会わなかった」ことの比喩と思わせて実は「アンドルーはバルバラと暮らすから街に出る必要はなくなった」という簡単な叙述トリックです。
しかしこの叙述トリックは不要だろうと思います。こういう叙述トリックを敷くような作品ではありませんし、すぐ後で明かしますし、効きが弱く、どうにも浮いているような感じがします。


―――――――――――――――――――
数年後のこと。
アンドルーはバルバラが出ていってからすぐに彼女のところへやってきて、一緒に洗濯屋になっていた。
―――――――――――――――――――
「数年後のこと。」で時系列を数年後にさせておきながら、「アンドルーは~」でバルバラが去った当時に時系列を戻すのは、無駄な時系列の往復ではなかろうかと思います。無意味に振り回される感じです。
「数年後のこと。」は「それから。」などとし、数年後の経過を知らせるのはまだ後でいいのではないかと思います。ここからしばらく「数年後」の叙述には移りませんし。

・バルバラのメモを見た後、ウイリアムと二言、三言口を利いたとき、彼はおおよそのことを悟った。
どうしてアンドルーはウイリアムと会話をしたのか、そこのフォローがあると親切だと思います。

・学者肌のアンドルーには、洗濯屋の仕事は不慣れだった。
「不慣れ」→「大変」が無難でしょうか。
「洗濯屋」の前に「慣れない」をつけてもいいでしょう。

・客の顔を覚えるのも難しかったし、
細かい話ですが、学生の顔をつぶさに覚えていたのでバルバラを問い詰めることができたウイリアムとは対照的に、アンドルーは大学でも学生の顔を覚えるのが苦手だったのでしょうか。
苦手だった、で何も問題ありませんが。

・庭園は見違えるように豊かになり
「庭園」→「菜園」

想うこと、その憤り/ふわ ゆー  への感想

想うこと、その憤り/ふわ ゆー
https://ncode.syosetu.com/n2197m/10/
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
作者の悪癖である文章細部の無頓着と、本作のジャンルとの相性が致命的に悪い作品。しかし非作品的な「僕」の語りには複数の工夫が見られ、上質。


●わかりにくい物語こそ、わかりやすい文章で

本作は内容の理解や解釈に労を要する「わかりにくい作品」です。
この文章は一体何を伝えようとしているのだろうか、どういう構成になっているのだろうか、どういう作品として読み取っていけばいいのだろうか。何となくはわかるがなかなか掴めない、そういう輪郭を持った作品です。特に初読時にそう感じやすく、何回か読み返す内にある程度の内容を把握していけるはずです。
なぜ「わかりにくい作品」なのか。その理由は大きく二つあって、抽象的な文章と、非作品的な構成にあります。この二つによって本作は「わかりにくい作品」となっています。この内、非作品的な構成については後の項目で。

本作では抽象的な文章が頻繁に綴られます。
「僕」だけが理解しておけばいい心情描写と心情説明、「僕」だけが何となくわかっておけばいい「ハル」の心情描写。
およそ読者にとって理解しやすい心情描写をという意識は見受けられません。本作は、「僕」の半生を物語にした小説ではなく、「僕」の半生に付随する心情を述懐した小説といえるでしょう。

読み解くのにある程度の労が必要で、「読みにくい」と判断する読者も多いでしょうが、フィンディルはこの小説を好意的に捉えています。
好意的に捉えるといいますか、こういうジャンルだろうと思います。このジャンルに既に言葉が与えられているのかどうか、フィンディルは無知なのでわかりませんが、確かに存在するジャンルと認識しています。
画期的とも思いませんが、荒唐無稽・奇抜とも思わず、既に確立しているジャンルを真っ当に書き上げた。そんな印象です。

小説としてわかりやすい構成を敷いたわけではなく、キャラの心情をわかりやすく描き上げたわけでもない。どこに山があるのかも不明瞭、時系列の並べ方も統一性がない。ただただ「僕」の人生における重要点を並べて、そこに感じた心情と、そこから得たテーマを綴っていく。
作品的な性格を廃することにより、生々しい人間というものを描き出す。わかりにくいからこそ感情移入は捗り、わかりにくいからこそ痛いほどに共感する。「作品のキャラクターが登場している」のではなく「ただの人間が作品に出ている」。
本作はそういうジャンルの列に並ぶ作品だと思います。並んでいると思いますし、とてもいいと思います。ジャンルとして王道です。ジャンルの名前は知りません。

しかしこういう「わかりにくい作品」には求められる基本技術があります。それは、文章がわかりやすいことです。
わかりやすい文章はどんな作品にも求められますが、こと本作のような作品には特に求められます。
何故かというと、内容がわかりにくいからです。内容がわかりにくいのに更に文章がわかりにくいとなると、わかりにくいが重なってしまうので、なかなか読めたものではなくなってしまいます。
文章上の情報は100%だがそこに込められた意味が120%ある場合、読者は想像したり行間を読んだりしてこの20%を補完します。読書技術は求められますが、この補完はまあできます。読書の醍醐味でもありますからね。
しかしわかりにくい文章だと、文章上の情報が80%しか提示されていないことがあります。これで通常の作品ならば、読者は情報を20%補完して100%にすればいいだけなのですが、込められた意味が120%ある場合、更にそこから行間を読んで20%補完しなくてはなりません。
20%+20%で40%の補完が必要になり、こうなると読書には苦痛が伴います。
またそのわかりにくさが、行間を読んで補完することを作者が想定したわかりにくさなのか、作者が示すべき情報を示せていないためのわかりにくさなのか、読者はひとつひとつ識別していかなければなりません。作品を深く楽しんでいる補完なのか、作者の未熟さの尻拭いをしている補完なのか。
読者にはかなりストレスが溜まります。
そのため「わかりにくい作品」には「わかりやすい文章」が必要なのです。

ということで本作を見てみます。内容のわかりにくい本作ですが、文章はどうなのか。
単刀直入に言うならば、わかりにくいです。本作の文章はわかりにくい文章です。

おそらく意図的なものではないでしょう。以前私が感想を掲載させていただいたふわゆーさんの作品「悪魔は再び舞い戻る【ハイファンタジー】」においても、本作と同傾向の読みにくさが見受けられるからです。なお語彙の散らばりとは別の部分です。

まず、ふわゆーさんの文章の癖としまして、一文を読点で繋げて長くしてしまうというものがあります。
その癖が本作においても複数箇所見受けられます。

―――――――――――――――――――
彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。
―――――――――――――――――――
この文章ですが、一文の中で文章が示す事柄が二つ存在します。
「彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、」ではハルの母親に対する「僕」の印象を記していますが、「そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。」ではハルの母親が「僕」にした行動を記しています。
文章の事柄は全く違うにも関わらず読点で結んで一文にて示しているため、一文の中に要素が渋滞しており、読者は複数の事柄を一度に処理しなくてはなりません。
またこの一文は「彼女は片親で育ち、」までは主語はハルであるのに対し「その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。」の主語はハルの母親です。
このように一文において主語が二つ存在することも、読みにくさを生んでいます。読者はこの一文がどの視点に立って記されたことなのか、理解しにくくなるからです。ハルが視点の文章なのか、ハルの母親が視点の文章なのか。
読点で繋げて文を書いていったため、文章の事柄が複数に渡ったり、「彼女は片親で育ち、」と不用意にハルを主語にしてしまったりというミスが発生しています。

―――――――――――――――――――
海岸沿いの通りを歩く僕に、じゃれ掛かってきたその小犬が、そのままだと車に引かれそうになると心配して、海へ降りる階段に腰かけて、僕は小犬のまとわりつくままにした。
―――――――――――――――――――
この文ですが、主語と述語が上手く噛み合っていません。この文だと「そのままだと車に引かれそうになると心配して」の主語が「子犬」であるように書かれているからです。
海岸沿いの通りを歩いていた僕を見て「僕がこのままだと車にひかれるかもしれない」と思った子犬がじゃれかかる振りをして階段に腰かけた。と解釈できるのです。むしろ文をそのまま受け取ればそうとしか解釈できません。常識に照らしてそんなことはない、と読者が補完しないといけないのです。
この文も闇雲に読点で繋げてしまうがゆえに文の構成を見失ったことによって生まれたミスです。

基本的に、ひとつの文が示す事柄はひとつです。またひとつの文に入る主語はひとつです。
読点は、ひとつの文で事柄をどんどん繋げていけるアイテムではありません。ひとつの事柄の、意味の理解を補助するアイテムです。
読者は一文単位で意味を嚥下します。句点で締められるまで、読者は意味を嚥下せず口の中に頬張ったまま我慢するのです。一文が一口なのです。読点によって意味が区切られたとしても、句点で締められるまでは頬張ったままなのです。読点で嚥下することはありません。読点で区切ったからといって一文に事柄をどんどん繋げていくと、読者の口内は情報でパンパンになってしまいます。それはつまり、読みにくい文章なのです。
一文が長くとも読みやすい文章を書かれる方はこれを理解されています。一文は長いが事柄はひとつだけにまとめてあったり、読点であっても嚥下させる工夫をされていたりと、読みやすい長文になるような工夫がされています。しかしふわゆーさんが書かれる長文にはそのような工夫や技術が見当たりません。
文章の読みにくさが大きく響く本作では、一文に入れる情報量や書き方について、洗練が求められます。読点を打つのを意識的に抑えてみることをオススメします。

またもうひとつの癖として見受けられるのですが、指示語を多用されています。こそあど言葉ですね。

―――――――――――――――――――
だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。
―――――――――――――――――――
この文では「その」が二度用いられています。
「その当時は」はハルと出会った十三歳当時を、「その気持ち」はハルと出会うことで「僕」が抱いた気持ちを指しています。
いずれの「その」もそれが何を指しているのか把握することは難しくありません。難しくありませんが、少しの作業を要します。指示語というものは、その指示先の把握が簡単であっても、「その」が何を指しているのかを把握するための僅かな労が発生します。多くの場合、読者は指示先の把握を無意識に行えますが、本作のように内容理解の作業を必要とする作品では、この些細な指示先の把握というものが重たくのしかかってきます。
この文ならば「だから当時は、自分の気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。」でも全く問題がありません。無闇につけられた「その」を消すことで、都度発生してしまう指示先の把握作業を省くことができるのです。

―――――――――――――――――――
僕の高校一年生が終わる春休みまで、その散歩は果てしなく淡い喜びの気配に満ちたものだった。
―――――――――――――――――――
それは音のない激しい震えと怒りのような涙だった。
―――――――――――――――――――
この「その」と「それは」も似たようなものです。「その散歩」は「僕」とハルと犬の散歩、「それは」はハルの涙を指すものです。これらは「その」が本来持つ指示という意味ではなく、文章のリズムを整えるために使われる演出としての「その」「それは」です。
文章の意味としては必ずしも必要のない指示語というものが本作には非常に多く見られますが、やはりこういう指示語が出る度に文章の意味を理解するために読者が払う作業量はかさんでいきます。
本作に関しては、必要性の低い指示語については潰していくことをオススメします。文章のリズムを整えるならば、様々な方法を取り入れるべきでしょう。指示語の多用は、本作においては文章の理解を煩雑にする悪効果が目立ってしまっています。

というように内容がわかりにくい本作において、わかりにくい文章というのは読者への大きな負担になってしまいます。内容理解で読者への負担が発生する本作のような作品では、文章というのはわかりやすく把握がしやすいものにする方がいいでしょう。文章はわかりやすく、その分内容はわかりにくく。そうすることで読者は、内容やテーマの理解に力を注ぐことができるのです。
とはいえわかりやすい文章というのはどのジャンルでも求められますけどね。敢えてわかりにくい文章を書かれる作者もいますが、その作者はわかりやすい文章が書けたうえでわかりにくい文章を書いているので、わかりにくさに心地よさが生まれるのですね。
ただふわゆーさんはそういうことを狙ってこうしているのではなく、ただ単に文章の細部に神経を巡らせることに無頓着であるのだろうと判断できます。一回読み返せば見つけられるような単純誤字も見受けられますし。過去作もそうでしたし。

文章の細部に十分神経を巡らせないと、本作を読者に意欲的に読ませることはおよそ不可能であろうと判断します。勿論読者に、本作を読み返させる意欲を湧かせることも。

各文章の細かいところは後述の「●細かいところ」で取り上げます。


●非作品的な作品、リアルとリアリティー

この項目では、前項目について触れた非作品的な構成について取り上げます。
繰り返しになりますが、本作のジャンルというのは、作品らしい構成を踏襲しないところが最大の特徴です。わかりやすい構成を用いず、時系列を素直にせず、テーマを複数ちりばめることで山場や作品の意義を簡単に掴ませない。
ただただ「僕」の人生に深く関わり跡を残したハルについて、「僕」が知っていることと感じたことを並べていくという話の進行。作品らしさを廃することで、「僕」やハルという人間の生々しさが浮かび上がってくるのです。

本作の流れをフィンディルの解釈で綴っていきたいと思います。

本作は「僕」による女性への考察から始まります。
印象としてはこの冒頭こそ、一番わかりにくい部分とも思います。この冒頭の件自体はまとまりのある言説ではなく「僕」が思考を漂わせているだけのような、そんな印象を受けます。
女性引いては人に対する「僕」の俗的だが一歩引いた見方、人とのやり取りに見える「僕」の空虚さ。物語を知れば、この空虚さはハルに対する存在感と喪失感、そして自分や何かへの言葉にしがたい憤りから発せられているのだろうと考えることができます。
物語を読むと、ここの件で「僕」が述べようとしていることはあまり重要ではないと知ることができます。作品の雰囲気や語り手としての特性、または「僕」の人間性と現在地を知らせるのが一番の目的でしょうか。本作が「わかりにくい作品」であると読者に知らせるには最適であるとも思います。
しかしひとつ指摘をさせていただくならば、「わかりにくい作品」であるのを伝える際に「例えば」や「つまり」という語彙は用いない方がいいのではないかと考えます。「例えば」や「つまり」は読者に文章を理解させようと試みる語彙ですので、読者は「例えば」や「つまり」があると文章をきちんと理解しないといけないと考えてしまいます。
しかしこの冒頭の重要度は高くありませんし、書かれている内容は不親切による難解さを有しています(不親切自体は本作においてはいいことです)。ならばここでは、「僕」の徒然な思考と空虚な人間性を示す程度に抑えておくのが適切だったのではないかと思います。
「わかりにくい作品」を理解させようとアクションを起こすのは読者には負担になってしまいます。理解しなくてもいい箇所ならば、理解しなくてもいいことをそれとなく知らせるのがよりよいのではないでしょうか。「例えば」や「つまり」は本作においては読者に負担を強いる語彙です。

この冒頭の件ですがフィンディルは素晴らしい一文を見つけています。
この後から「僕」とハルの物語が始まるわけですが、「僕」は
―――――――――――――――――――
つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。
―――――――――――――――――――
と独白しています。
リアルとリアリティー。リアルが現実、リアリティーが現実っぽいと感じることです。
何故ここで「僕」はこのようなことを独白したのか。
フィンディルはこれを、「僕」がこれから語るハルとの話でもリアルとリアリティーが混在している、という風に解釈しました。リアルだけを話そうと思っても、誰かの脳を経由して言葉にされる以上そこにはリアリティーが纏われてしまう。ハルとの出来事の中で「僕」が都合よく解釈してしまったり、ハルとの出来事の中で「僕」が感じたことなど。どうしても現実っぽいが現実ではないリアリティーが発生してしまう。「僕」はそのことを前書きとして示しておきたかったのではないか、と解釈しました。
ここがとても面白いと思います。何故かというと、本作が創作である以上、原則としてリアルは存在しないからです。作者はふわゆーさんですから、作品にリアリティーを纏わせることはできても、創作である以上リアルは存在しないのです。ですが「僕」はリアルとリアリティーは切り離せないと独白し、ハルとの話にリアルが存在しているかのように表現しています。勿論「僕」にとってはリアルですが。
作品の中にはフィクションでありながら「これは実際にあった話」といった枕詞を使われているものがあります。この話はリアルであるとアピールすることでリアリティーを纏わせる手法です。ですが本作は、どうしてもリアリティーが混ざってしまうとアピールすることで、逆に強いリアルを感じさせるのです。リアルを感じさせるのはリアリティーですが、これにより生まれるリアリティーは「これは実際にあった話」で付加されるリアリティーよりもずっとリアルを濃く感じます。
「これは本当の話」と言われると作り話に感じますが、「ちょっとフェイクが混ざるけども」と言われると実話っぽく感じるようなものです。
本作はリアルに立ってリアリティーを呟いているので、強いリアリティーが出ています。リアリティーに立ってリアルをアピールするのとは大きな違いです。

小説にはリアルが存在するジャンルがあります。私小説です。
本作がふわゆーさんの私小説であるかどうかはわかりませんが、私小説ではないと仮定しておいて。
私小説は基本的にリアルを綴りますが、作品として成立させるうえで、それ以前に言葉にするうえでリアリティーが発生します。
この私小説におけるリアルとリアリティーの塩梅、とても本作に似たものを感じます。
つまり本作はまるで、「僕」がこれから自身の私小説を綴るかのような印象を覚えるのです。私小説風とでも呼びましょうか。
私小説の雰囲気を持たせる私小説風、これにより、本作の非作品的な空気感が一気に醸成されます。

「僕」がここから始まる物語にリアルとリアリティーが存在すると独白したことで、本作にはリアルが生まれ、キャラクターの生々しさが加速度的に作り出されていくのです。
「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という「僕」の発言がこれから語られるハルとの出来事を指しているという私の解釈を前提にしたうえで、この工夫は本作のリアリティーをぐっと引き上げる素晴らしい手です。

ただし卓袱台を返すようですが、冒頭のわかりにくい話の中にこの一文が埋没してしまっているので、今まで長々と述べた効果はほとんどが失われていると感じます。「意味がよくわからない文」としてだけ読者の頭を過ぎ去っていっているだろうと。
フィンディルが上で申した意図がふわゆーさんにあったのならば、「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という一文はもっと上手く見せた方がよかっただろうと思います。意図がなかったとしても、より活かす示し方をした方がよかったのではないかなとフィンディルは考えます。

物語を進めます。
冷蔵庫の前にいる「僕」とハルの葬式に出る「僕」とハルの骨を摂取する「僕」と砂浜のハルと「僕」と。
ここまでで区切りますが、ここでは時系列が不規則にいったりきたりするのが印象的です。
(現在→)現在→ハル死去当時→現在→ハルと交流当時、という流れになっており、不規則な時系列進行になっています。
これが作品然とした作品ならば、冒頭において「僕がこれから語る話」と示して「*」が挟まれたら、そこからはハルとの出会いを語りだすでしょう。(現在→)ハルとの出会い当時→ハルとの交流当時→……という流れになっていくはずです。
しかし本作はそうはしませんでした。そもそも冒頭において「僕がこれから語る話」と示して「*」を挟んだ後もしばらく現在の話が続くのです。(現在→)現在→、なのです。
定石を守らない進行、言い換えれば「僕」の語り手としての不完全な務めがとても非作品的であり、だからこそ「僕」という人間による述懐という色合いを濃く感じられるのです。
また「僕」がゆっくりとハルとの出来事に浸っていっている、そういうグラデーションも感じられてとてもいいと思います。すぐにハルとの出来事を語りだすのではなく、「僕」にとって最近の出来事から斑にハルとの出来事を語りだし、そして脳内が全てハルとの出来事に浸かりきってから、改めてハルとの出会いから語りだす。
「僕」という一人の人間がハルとの出来事を思い出していっている。そういうような表現が、この不規則な時系列によって上手くなされています。語り手の職務を全うする「僕」ではなく、一人の「僕」という人間が「僕」の思うのままに自身の過去を振り返っていく。
読者としては不規則な時系列進行により、ここまでを読んでいても概要を上手く掴めません。ハルという人物がどういう人物なのか、断片的でランダムな説明がなされるからです。しかしそれはこの後しっかりと説明され理解できますので問題ありません。ここの段階では「僕」が思い出していっている、その記憶のたゆたいを楽しめる箇所なのです。いいと思います。

またここでは作品上の小道具が登場します。冷蔵庫です。
本作はBGMのない小説です。
邦画などではよく目にします。人の内面や人生をテーマにした映画では、BGMのない場面がよく出てきます。一人か二人の登場人物がくすんだ日常風景の中に佇んだり言葉少なのやり取りをしたり、そういう場面です。こういう場面ではBGMがあるより、BGMがない方がより感情移入ができます。まるでそこに本当の人生があるかのようにすら感じます。思えばそういう作品も「わかりにくい作品」と呼べるでしょう。場面場面が断片的に並べられて、わかりやすい構成やテーマを持たず、しかしそこに強い人生観や人間観を感じて感情移入をしてしまう。
BGMをなくした方が感情移入ができるというわけではありません。基本的にBGMは見る人の感情を盛り立てるためにあるので、BGMがある方が感情移入ができます。しかし非作品的で人間の内面や人生を生々しく描く作品においては、作品的なBGMを廃する方が見る人の感情移入は促進されます。BGMがない方が感情移入できるというより、BGMがない方が感情移入できる作品ジャンルがあるということですね。そして本作もこれに該当するとフィンディルは考えます。
冷蔵庫のコンプレッサー音は、そんな作品ジャンルとの相性がいいです。ブーンというあの音は、脚色のない生活脚色のない人生を表現する小道具として非常に優れた効果を発揮します。
本作において冷蔵庫にスポットが当てられているのは、そういう小道具としての相性のよさを買っている面があるのではないかとフィンディルは推測しています。

物語を進めます。
ハルと出会い交流していく「僕」から、犬を失った夜まで。次の「*」までですね。
ハルとの出来事に浸った「僕」はここからは、時系列通りに述懐していきます。ハルとの出会い、ハルとの交流の仕方、お互いに成長して関係性は深まりますし、その間に起きた印象的な出来事。

本作はBGMのない小説ですが、声のない小説でもあります。ハルは声を出すことができませんから。それにより「僕」とハルは声によらないコミュニケーション、そして言葉によらないコミュニケーションを取ります。
当然登場人物の発言は減り、地の文がほとんどを占めるようになります。砂浜に二人と犬でただいる、という日常。それはただいるだけではなく、言葉によらず交流し、互いの仲を深めていくのです。文章的にも場面的にも本作には静かな時間が流れ、砂浜の環境音がとても印象的に感じ取られます。砂浜の環境音の描写を丁寧にされているのもありますが、この作品に感情移入すると、砂浜の音が読者の脳内に流れます。
冷蔵庫のコンプレッサー音と、砂浜の環境音。BGMのない本作において、この両者の音がとても印象的に聴こえてきます。しかしこの二つの音が指し示すものは対照的です。「僕」が空虚に人生を流していく冷蔵庫のコンプレッサー音と、当時ハルと言葉でなく満たされていた砂浜の環境音。違うニュアンスを持った二つの音が、BGMのない本作に印象的に響きます。そしてこの二つの音はともに、「僕」にとってハルを強く感じさせる音でもあります。ハルの骨を保存している冷蔵庫と、ハルとの思い出を感じさせる砂浜とで。どちらも「僕」にとって最大の存在感を有し、ハルを感じさせ、しかしそこに込められている感情は異なる。印象的な二つの音であり、対比がとてもきいていると思います。
また、「僕」とハルは言葉によらないコミュニケーションにより仲を深めてきた、という事実は後の「僕」とハルの人生に大きな影響を与えることになります。「僕」は言葉によらない高次のコミュニケーションを当たり前のように行ってきすぎてしまったのでしょう。歳を重ねるとその事実に苦しめられます。

ハルが「僕」に、父からの暴力の痕を見せるシーン。ハルが、既に離婚した父親から暴力を受けていたことが明らかになる場面です。
「僕」はハルがかつて父親から暴力を受けていたことを知りますが、それについてハルに何かを言ったり、また「僕」が何かを思ったりという文章が入りません。
しかしそれは「僕」が、ハルがかつて受けた暴力に対して無関心であるということではありません。「僕」が今語っているハルの話は、ハルと交流していくなかで「僕」が強く印象に残っている場面だからです。そして若い男女がお互いに裸になる場面において、それ自体よりも、ハルが暴力を受けていたことの方に文章が割かれています。
この場面を取り上げた主旨は、お互いに裸になったことよりも、ハルの暴力痕に寄っています。ハルがかつて父親から暴力を受けていたという事実は、とても強く「僕」の頭に残ることであったと判断できます。
では何故「僕」は、ハルがかつて父親から暴力を受けていたことに対し、これといったことを言ったり思ったりしていないのか。
それは「僕」にできることがないからです。あるいは何かをすべきと考えなかった。
ハルの両親が既に離婚して暴力が過去になっていたことや、「僕」が何かをすることをハルが望んでいなかったから、そして「僕」自身が何かをできるとは思えなかったから、といった理由があがるでしょう。
ハルはただ、自分のことを「僕」に伝えておきたかったのでしょう。それによって何かをしてほしいや、何かを思ってほしいということではなく。それだけの信頼があったのでしょう。何をしてほしいわけではないが伝えておきたいというのは、その人をとても信頼している証ですからね。
ハルがかつて父親から暴力を受けていたことに対して「僕」が特別に言及や述懐をしていないのは、「僕」とハルの距離感と信頼を物語る部分といえるでしょう。とてもいいと思います。

主要人物がかつて親に暴力を受けていたというのは設定としてとても重く、通常の作品ならばそれを中心に話を綴るほどのものです。文章を割いて、丁寧に心情を描くでしょう。「僕」もただ事実を受け止めるだけでなく、もっと多くのアクションを起こすでしょう。
しかし本作ではそれをしません。そして現実世界でもおそらくアクションは起こしません。ただ事実を受け止めて、今までと変わらず交流を続ける。それが「僕」とハルの関係性でできる最も誠意のある対応だからです。
ハルがかつて父親に暴力を受けていたことを、作品の中心にせず、「僕」に過剰なアクションを取らせない。これが本作の非作品的な構成と、生々しいキャラ形成の一助になっていると考えます。

しかし作品の構成の中心にはせず、また「僕」にアクションを取らせませんでしたが、それで片付けることはしません。ハルがかつて父親から暴力を受けていたことは、本作の物語に強い影響を与えるのです。
ハルの母親です。ハルの母親は強いアクションを起こすのです。
ハルの母親は、ハルが父親から暴力を受けたことにより、ハルが暴力に晒されることにとても過敏に反応するようになります。
「僕」にとってハルが父親から暴力を受けていたことは過去の事実ですが、ハルの母親にとってハルが父親から暴力を受けていたことは目の前の記憶としてこびりついて忘れることができない光景です。
ハルが犬に腕を噛み付かれて庭を引きずりまわされたときに、有無を言わさずに犬を処分したのは、そこから来ているのでしょう。
そしてハルの死後、ハルの母親は
―――――――――――――――――――
「で、あたしが間違っていたのかなぁ……。あの子はやさしい子だから、あたしには何一つわがままなんて言ったことがないから」
―――――――――――――――――――
と、このときの対応を後悔しているようなことを漏らします。おそらくハルに、犬をどうしたいか聞かずに処分したのでしょうから。

そしてこの事件について「僕」は直接的なアクションを何も取りません。ハルの隣にいたことが「僕」が取った行動です。この話は「僕」を経由して語られ、「僕」が主人公なのですが、起こった出来事全てに対して「僕」が何かをすることはありません。勿論、ただ隣にいるという行動がハルの支えになったことは言うまでもありません。
おそらくこの出来事について、ハルの母親には様々な想いと行動と後悔などが渦巻いたでしょう。「僕」の視点でしか書かれていませんが、もしハルの母親の視点があれば、とても濃い心情とそれに付随する場面があったはずです。この事件の中心はハルの母親なのでしょう。勿論ハル自身にも様々な感情が渦巻き「悔シイ……、色々ト……」という言葉のみを発させた。
この出来事について、隣にいることだけができた「僕」の視点によって、出来事の中心であるハルの母親やハルについての文章が書かれる。
ここもとても非作品的であると感じさせます。とてもリアリティーがある描き方です。一人の半分当事者半分部外者の視点でのみ振り返られ、当事者の視点は得られない。しかし端々に当事者の心情を窺い知れる。本当に未成年の頃に体験した、親友や恋人の家庭の事情のような。

とはいえさすがに、腕に噛み付いて庭を引きずりまわしていたら誰でもそういう対応を取るのではないかという気もします。ハルの母親が、ハルが暴力を受けることに過敏になるがゆえの対応という印象はあまり受けませんでした。
ハルの母親が、ハルが暴力を受けることに過敏になっていることを表現したいのならば、もう少し犬の暴走はマイルドにした方がいいかなと思います。
犬を飼っている人ならば一度は起こり得るような事件にするとか。あるいは犬が暴走した理由を記述して、犬の暴走に納得感を持たせるとか。
現在では突然暴れた以上の情報がありませんので、どうしてもそこからしか印象を得ることができません。ならば処分されるのも仕方ないのではないか、とも。腕に噛み付いて引きずり回されるって、恐怖と危険を植え付けられるには十分ですからね。

また、ハルがかつて父親から暴力を受けていたことを「僕」が知る場面と、犬から暴力を受けて犬が処分されるシーンが続くことに、やや作品的な印象を受けました。
ハルはかつて父親から暴力を受けていました→それにより過敏になったハルの母親が犬を処分しました、と段階が踏まれていますので、作品的な事情を少し感じます。
当時の対応についてハルの母親が後悔めいたものを感じているのは、それよりもずっと前になされていてこれはいいと思います。
ですのでここのシーンは続けずに、何か別のシーンを挟んだりしてもいいかなと感じました。

もうひとつ気になったのはハルの怪我についての言及が一切ないことです。犬に腕を噛まれて庭を引きずりまわされた。となるとまず心配するのはハルの怪我であることが自然です。
病院にも行っていないことから、おそらく怪我らしい怪我はしなかったのでしょう。まずハルからその旨が伝えられ「僕」は安心したので、ハルの怪我についての言及がなされなかった。そう解釈すると言及なしに納得することはできます。
とはいえ短い一文でも言及しておいてもいいとは思うのです。「怪我はなかった。」これだけでいいですし、この一文を入れるのは何も難しくありません。更にこの一文を入れることで上記で指摘させていただいた、犬の暴走をマイルドにするという改善を満たすことができます。怪我をしなかったのならば、犬はじゃれていただけかもしれない、母親の反応が過敏だったのかもしれない、と。
ここについて言及しなかったのは、ふわゆーさんが油断をしていたのではないかとフィンディルは推測します。この出来事は母親に犬を処分させ、母親の心情と、その後の「僕」とハルの場面に繋げるための舞台装置という意識が強かったのでは、と。そのため最も自然に注目されるべきハルの怪我について全くスルーしてしまったのでは、と。

話は移りますが、この出来事に際して「僕」はハルの強さを知ります。ハルが様々なことを考え、自分の立場を考え、それでも生きようとしていることを知ります。

物語を進めます。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」の話、そしてハルの学校の文化祭、ハルの死と「僕」の話、最後まで。

「本当に大切なことは誰も教えてくれない」について気になることがあります。これはハルが通う学校の先生の言葉とのことですが、この場面以前では「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」という文章で出てきています。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」と「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」は非常に似通っています。
読み解けばニュアンスが違うことは伝わります。
「本当に大切なことは誰も教えてくれない」は伝えられる側として、誰かのアクションを待つのではなく、自分から探しに行くことが大事であるという主旨が読み取れます。実際「本当に大切なことは誰も教えてくれない」のブロックでは、その大切さを話していましたから。
一方「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」は伝える側として、自分の大事にしていることや自分の想いについて、人に言葉で伝えることは不可能であるという主旨が読み取れます。だからこそ態度や行動、時間などを使って示していかなければならない、と。
というように両者のニュアンスはきちんと読み解けば違うことがわかりますが、一見すると同じようなことを語っているようであり、読者としてはダブって映ってしまいます。これら二つを区別して把握するのはやや難しく、無駄にややこしくなってしまいます。
更にそれぞれ「彼女が教えてくれた一つの言葉。」「たどたどしい手話の語学力の僕に、ハルが繰り返し懸命に伝えたその言葉。」という文もあり、そもそも本当に別々の教えなのだろうか? 同じ教えだが言い回しが変わっているだけではないだろうか? という疑念もあります。(この辺りはふわゆーさんの文章細部の無頓着から発生した疑念ですね。)
どちらかに統合するのがいいと思います。

本作のコンセプトに合っているのは「本当に大切なことは誰も教えてくれない」ではなく「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」であると判断します。
言葉によらない交流をハルと続けてきた「僕」は「僕は彼女といる時間の中で、本当に大切なことをいくつも感じた。」としますが、進学により離れ離れになって手紙で交流すると、何一つ文章に書けないことに気付きます。言葉によらない交流を続けてきたため、言葉による交流ができなかったのです。それを表しているのは「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」です。そちらのニュアンスだと、この場面で綴ることに作品としての意味があります。
逆に「本当に大切なことは誰も教えてくれない」には作品上の繋がりがあまりありません。

また「……あなた達にとって本当に大切なことは、あなた達それぞれ自身にしかわからない。」で始まるブロックでは「本当に大切なことは誰も教えてくれない」ではなく「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」を主旨としても、結びを「本当に大切なこと、あなた達自身だけの本当の本当を、積極的に学び、勝ち得てください。」にすることは十分可能です。
両者の教えはどちらかに統合するのをオススメしますし、「本当に大切なことは誰かに伝えることはできない。」を選択することもオススメします。

場面を進めますが、ハルの学校の文化祭をキッカケとして「僕」はハルに嫉妬を覚えます。これは「僕」がハルや障害者のことを下に見ていたということではなく、むしろ自分と同じだと思っていたのが原因でしょう。「僕」が今まで生きて、そしてこの後生きていくなかでは決して体験できない一体感を目の当たりにしたことで、その世界の中で今まで生きてきたハルに対して嫉妬を覚えたのです。
しかしこの感情は突然湧き出たものとは少し違うでしょう。犬の事件の際に、「僕」はハルの強さを知りましたから。自分よりもずっと強く今を生きているハルを目の当たりにしています。おそらく「僕」は無自覚であったでしょうが、この頃から既にハルが眩しく思えていたのではないかと思います。
そして学校を卒業して「僕」とハルの進路が別々になるのも、これらの出来事が原因のひとつになっています。「僕」はそれを明確に述懐することを避けていますが、ハルに対して引け目のようなものは確かに感じていたのでしょう。

ここがとても非作品的で、しかしキャラの心情の移り変わりをわかりやすく示していていいと思います。どうして「僕」とハルは人生を別々に歩むことになったのか。
年単位の間隔が空いた出来事で、「僕」としても明確な自覚はありません。しかし心に残ってはいて、その出来事がハルへの想いの角度を少しだけ変える。これが劇的に、その出来事だけで180度変えてしまうものではないというのがとてもいいと思います。そのひとつの出来事ですれ違うほどではなく、しかし忘れられない出来事として少しだけ変わる。現実でもそういったことは少なくないと思います。特に若い頃は。
本作はそれが自然に示されていますので、「僕」とハルが人生を別々に歩むことについて違和感がありません。きちんとすれ違ったわけでもありませんしね。
関係性は継続したまま、お互いに環境が変わり、ある程度やり取りはするけれども、自然消滅する。ドラマティックでない、現実にある別れ方です。それをきちんと示しているのが、本作の丁寧なところです。
「僕」がハルにどこか引け目を感じているのを、控えめに描写しているのが丁寧でいいですね。
欲を言うならば、別の場面を緩衝材のように入れておけば、この心情変遷がよりマイルドにリアルに感じられたかもしれませんね。

進学により離れ離れになった二人は文通という交流方法を取りますが、先述の通り、言葉によらないコミュニケーションで繋がっていた「僕」は言葉によるコミュニケーションができず、文通は途絶えます。
それに苦しんでいたときに訪れるハルの死。ハルを失った「僕」は何とかハルを埋めようともがき、苦しみます。
「僕はそれを取り戻すために、努力をした。」から始まる文章ですが、「僕」のもがき、混沌を混沌のままに書いていて、しかし共感はできるいい文章だと思います。またここの文章により「僕」はハルとの思い出の保存が真っ当に行われていないことを知ることができます。記憶と思い出を変えないように試みるも、結局はわけのわからないものになってしまう。何が事実で何が「僕」の解釈なのか、その判断すらつけられないようになっている。実際、人が思い出を大事にしすぎた場合はこうなってしまうのでしょう。
そしてこの文章が、先に挙げたリアルとリアリティーの件に繋がります。
「つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。」という「僕」の言葉は、このもがきを経て得られた気付きであり、諦めであるのでしょう。そしてこの「僕」の言葉の通り、今まで綴られてきた「僕」とハルの話の中には「僕」が無意識に脚色してしまったリアリティーが存在する。どれほどリアルが保たれているかも判断できないほどに。
その悲しさを感じます。

実際、今までの「僕」の話からはそれを感じさせるものがあります。
本作は非作品的な構成をとっており、それはテーマ性にも言及できます。非言語コミュニケーションと言語コミュニケーション、父親からの暴力、それにより暴力に過敏になる母親、障害を持つ者の精神的自立、異文化への嫉妬、小さな角度からシームレスに分かたれる両者の人生、思い出話に纏わりつくリアルとリアリティー。本作から取り上げることができるテーマは数多く挙げられます。いずれも作品一作が書けるくらいのテーマです。本作ではこれらがリアルの名の下に淡々と雑然に、作品的な演出と説得力を廃して配置されています。これが人一人の半生を振り返るリアルを生み出しています。
しかし本作はそうでありながら、「非言語コミュニケーションと言語コミュニケーション」「思い出話に纏わりつくリアルとリアリティー」に主眼が置かれているように感じられます。この二つを殊更に持ち上げているわけではないが、どこか印象深く語られる。そしてこの二つは「僕」が現在もなおもがき苦しんでいることでもあります。現在の「僕」を苦しみを通して語られる思い出話には、抑えていてもこの両者のテーマが色濃く出てしまうのでしょう。「僕」という個人が語り手になっているから。これが「僕」が思い出話に封入してしまうリアリティーの最たる物なのかもしれません。
作品性を廃して淡々と並べられる様々な出来事とテーマ、でも「僕」という個人が話す以上紛れ込んでしまう解釈と優先度。それがとてもよく表れていると思います。作者のエゴではなく、「僕」のエゴが。いいですね。
それがこの作品の空気を生み出しているのでしょう。

というのを本項のまとめにしたいと思っていましたが、最後にとても引っ掛かるところを見つけました。

というのも、終わり方がどうにも急に感じるのです。「僕」がハルとの思い出話を語り終え、現在に戻ってくるとすぐに本作は終わります。勿論、思い出話を語るというのはこの作品における「僕」の目的なのですから、それを完遂したのならばそのまま作品を閉じるのは何ら不思議なことではありません。
しかし思い出してほしいのですが、「僕」は語り手として不完全な務めを行っている人物です。今からハルの話を始めますと宣言した後も現在の話を続け、ゆっくりとグラデーションを描きながら思い出に浸る語りを取ってきました。そのような人物が終わりのときだけは「以上思い出話でした」ですっぱりと終わるものでしょうか。むしろ思い出話をした後にこそ、要領を得ない、まとまりのない話を続けそうなものです。振り返った思い出が現在の「僕」の精神に多大な影響を与えるのは必至ですから、思い出話の後に「僕」は長々と心情を零し続けるのが自然というものです。しかし本作はそうしていない。
序盤に提示した「僕」の語り方と、締めに見せている「僕」の語り方は性格が異なっているのです。
ここまで丁寧になされていた「僕」の語りに沿って読み進めていたのにこの締めでは、まるで打ち切りのような読後感を覚えてしまいました。

またきちんと回収がなされていないブロックもあります。
「僕」がハルの遺骨を摂取するシーンです。最後まで読みますと、これは「僕」がなんとかハルの存在を埋めようと試行錯誤した末に得てしまった、苦肉かつ倒錯の手段であることが読み取れます。読み取れますが、ここを回収しないままだと遺骨摂取の場面がインパクトしか残さない結果になってしまいます。この場面はただのインパクトで終わらせるのではなく、きちんと現在の「僕」の地点を明示させるために文章を割いて扱われるのが自然でしょう。
「僕」のもがきの果てとして現在「僕」はハルの遺骨を摂取するという倒錯の地点に置いてきぼりにされている。いつまでも「僕」は過去と決別ができず、むしろこのような地点にいる。それを終盤に表現できちんと言及しないことには、遺骨摂取の場面は完成しません。
遺骨摂取という行為自体のインパクトのみをひけらかすのは、本作の雰囲気には相反するものです。

では何故本作の締めは急であり、回収すべき場面が回収されていないのか。これはフィンディルの推測ですが、おそらく文字数の都合でしょう。
応募時の申告で本作の文字数は10028字です。そして「フィンディルの感想」の応募条件としている文字数が10000字以内(若干超過可)です。つまりギリギリであって、かつ「若干の超過」が具体的に何文字であるのかわからないため、ふわゆーさんはここから幾文字も継ぎ足せない状況であったことが想像できます。
そのため、本作の締めを半ば投げっぱなしの状態に妥協したのではないかと、フィンディルは推測します。

ですがそれは本末転倒です。
作品的な都合を廃して「僕」という個人を浮き上がらせてきた本作の締めが、作品外の都合によって操作されてしまう。本作において、最もしてはならないことだったのではないでしょうか。とんでもない方向から作者ふわゆーさんが顔を出してきてしまいました。
まるで大作映画のラストがスポンサーの意向により変えられてしまったかのようです。
本作を執筆するにあたり、ふわゆーさんは優先すべきものを履き違えたしまったのではないかと、フィンディルは考えます。
勿論これは、作品の締めが急なのは「フィンディルの感想に応募するため」というフィンディルの推測が当たりだった場合です。外れだった場合は、本作の締めは「僕」の性格や構成のバランスを著しく損なうものであるため要改善、とだけ評価を置いておきます。


●ハルの発言がカタカナ表記なのは何故

本作では少ない箇所ですがハルが話す場面があります。「彼女の声帯が不自由だ」「ハルの喉からは一切の音が出せなかった」ということから、ハルの発言は手話を使って行われていると判断することができます。
―――――――――――――――――――
 父親、シタ。暴力。
 母親、別レタ。
―――――――――――――――――――
「悔シイ……、色々ト……」
―――――――――――――――――――
「イツモ、コウナノ」
―――――――――――――――――――
何故表記がカタカナなのでしょうか?
日本語のカタカナ表記は多くの場合、片言であると表現される場合に用いられます。日本語の習熟度が未熟であることを示す表現です。
フィンディルとしてはこのカタカナ表記自体が相手に失礼であると考えています。母国語が話せるうえで日本語を学習している者に対し、日本語しか話せない者が上から目線で「あなたは未熟だ。可愛らしい。」と笑い飛ばす表現であるからです。
という話は別として、本作の場合はどうでしょうか。ハルはネイティブの日本人です。喉から声を出せないだけで、日本語を巧みに操ります。しかも日本語の手話まで会得しています。日本語の習熟度という点では、我々よりも上です。
であるのにも関わらず、何故表記が日本語が未熟であることを印象付けるカタカナ表記なのでしょうか?
また何故「父親、シタ。暴力。」「母親、別レタ。」というように助詞を省いているのでしょうか。助詞を省くという表現はカタカナ表記同様、日本語の習熟度が未熟であることを示す表現です。手話の構成上助詞を省くのかなとも思いましたが、手話を理解できる「僕」が文意を受け取って助詞を補完すればいいですし、その他の発言では助詞を省いている感じはありません。更に意図はどうであろうと、カタカナ表記とともに出しているため、日本語が未熟であるという間違った印象がなおさら強く打ち出されてしまっています。
ただ喉から声を出せないというだけで、ネイティブの日本人が日本語が未熟であるという扱いを受けてしまっているのです。

こういった表記を「僕」がするとは思えません。「僕」はハルに対して障害者ということで下に見ている節はありませんので。まあこういう箇所に無意識に出ているということは往々にしてありますが、今回の場合は「僕」が無意識に出しているのではなく、ふわゆーさんが無意識に出していると判断します。
よってカタカナ表記をすることによって「僕」のキャラクター形成にも大きな支障を来たしています。丁寧に作られてきた「僕」のキャラクター形成を、ふわゆーさんの不用意な認識が邪魔しているのです。
強く改善を求めたい箇所です。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。

・想うこと、その憤り
タイトルです。このタイトルが何を意味しているのか、本作をある程度読み込まないと解釈が難しいなと感じました。
大まかに考えれば「想えば想うほど上手くいかず、そんな自分に憤りを覚える」ということでしょうか。本作にはそんな場面が数多くあります。
ハルに言葉で想いを伝えようとすればするほど伝えられず、そんな自分に憤りを覚える「僕」。ハルとの思い出を保持しようと想いを馳せれば馳せるほど難しくなり、そんな自分に憤りを覚える「僕」。
自分の立場と周囲に想いを巡らして悔しさを覚えるハル、ハルを想うがゆえの行動を後に後悔してしまうハルの母親など。想いと憤りという組み合わせが複数登場します。
本作のタイトルはそれらを包括的に示したものなのかなと解釈しました。本作を読めば読むほど、いいタイトルだと思います。

・部屋に連れ込んだ女の子の人数もそれなりの数にのぼる。
「女の子の人数もそれなりの数にのぼる」は少しくどいです。
「女の子もそれなりの数にのぼる」でいいと思います。

・恥らうように顔を伏せ、指輪をくるくる回し出す子。
「回し出す」の「出す」はひらがな表記でいいだろうと思います。
無闇な漢字表記は読みにくさに繋がりますので。

・なれた顔つきで無表情を装い、肩に掛かる髪の毛先を整える子。
「なれた顔つきで無表情を装い」というのがまどろっこしい物言いだなと感じます。
「なれた顔つき」も「無表情」も顔の表情を示していますから、「なれた顔つき」の時点でその人の表情は伝わっているんですよね。
「なれた顔つきで平常心を装い」などならばまあ通るかと思います。

・僕を見つめて続けていた子もいた。
「見つめて」→「見つめ」

・それでも僕がある年齢を経たときを境に
「経た」ではなく「越えた」がより自然でしょうか。

・例えば、冷蔵庫の扉を開いて、その薄ら灯りに照らされている横顔。
ここで「例えば」を用いているので、「冷蔵庫の~」が「共通の仕草」の単なる例示であるように印象付けられますが、実は「冷蔵庫の~」は「共通の仕草」よりも重要であることがわかります。他に「共通の仕草」も出てきませんし。
この「例えば」により、読者が意味把握のウェイトを置き間違えることに繋がりかねませんので、この「例えば」は省くことをオススメします。
また厳密にいえば「~照らされている横顔」は「仕草」ではありませんね。

・何て、すっとんきょうに声をあげる。
構わないのですが、一般的には「素っ頓狂な声をあげる」と表記します。
細かい部分なので、「すっとんきょうに」でも構わないと思いますが一応。

・そんな感じの会話を交わしつつ、部屋を訪れた女の子たちが見せた、冷蔵庫の中を覗き込み、中身を調べるという行為には、女の人のリアルな部分を喚起させる。
ふわゆーさんの悪癖ですが、文章を繋げすぎです。前半と後半では主旨も視点も異なっています。
「そんな感じの会話を交わしつつ、」は「そんな感じの会話を交わす。」で区切るのがいいでしょう。最悪でも話題転換の接続詞を使うべきで、「~しつつ」で繋げるのは文章を読みにくくするだけです。
また「冷蔵庫の中を覗き込み、中身を調べるという行為には」の読点は不要ですし、「行為には」は「行為は」とするのがいいでしょう。

・話がそれたので元に戻すと、僕がこれから語る話は
「話がそれた」は「例えば恋愛にとって、結婚詐欺師はリアリティーであり、リアルはストーカー……、って何言い始めてんだろう。」を指すのでしょうが、「元に戻す」というのがよくわかりません。更にその後に「僕がこれから語る話」と今まで出てきていなかった目的が急に現れるため、ここの文章を理解するのが非常に難しいです。
それが「僕」の語りといわれれば確かにそうなのですが、もう少し理解のしやすい誘導があるのではないかと思います。

・つまり、表現というものは、どんなに意思を抑えてもリアルとリアリティーを切り離しては成り立たないと思う。つまりはSEXというものが内蔵のような粘膜と、囁きのような微笑みを、切り離して果てることがないように……。
「つまり」が二回続いており、文章構成が悪いです。「つまり」の軽視といいますか、文章を理解させにくい構成になっています。
「つまり」は基本的に一回までですし、そもそもこの段階では文章の内容はいまいち把握できませんので、ここで「つまり」を使って理解させようとするのは悪手であると判断します。
「つまり」は省いた方がいいのではないでしょうか。

・つまりはSEXというものが内蔵のような粘膜と
「内蔵」→「内臓」

・限られたスペースでもあるその直通の廊下に
「スペースでもある」→「スペースである」
「その直通の」も不要ですね。

・限られたスペースでもあるその直通の廊下に、申し訳程度に収まる備え付けのシンク
「申し訳程度に収まる」というのがどういう意味なのか、解釈が難しいです。
「申し訳程度」というのは「ほんの少しばかり」「弁明がやっとできる程度」という意味なので、「ほんの少しばかりに収まる」ということになり、つまりスペースに比してシンクがすごく小さいということになります。廊下のスペースがすごく余っているということになってしまいます。
ですが伝えたいのは「狭いスペースに目一杯に収まっている小さなシンク」ということでしょう。
ならば「申し訳程度のスペースである廊下に収まる、備え付けのシンク」や「~廊下に収まる、申し訳程度のシンク」といった物言いが適切ではないかと考えます。後者の場合「申し訳程度」が「シンク」にかかっているので、「シンクとしての機能をなんとか果たす程度の代物」という意味になりますね。

・そこで絶望的に無視され続ける低い唸りのコンプレッサー音。
「絶望的に無視され続ける」が蛇足のように感じます。というのも本作では冷蔵庫の音にフォーカスを当てている節があり、フォーカスを当てているのは「僕」です。ならば「絶望的に無視」するのは一体誰なのかという話になってしまうからです。

・オレンジ懸かった光に照らされて
「掛かった」「がかった」の方がより適切かなと思います。

・やっと温度を取り戻したかのような僕の横顔。
視点は「僕」なので、「僕」の視点では「僕の横顔」は確認できないはずです。

・ところで、部屋の緑色の小さな冷蔵庫の中身に話を移すと、そこには缶ビールや練りからしや房付きのにんにく……。
「部屋の緑色の小さな」は不要ですね。

・と、貧相で従属的な品々が、がらんどうの白い空間を申し訳程度に座していた。
「白い空間を」→「白い空間に」
これもふわゆーさんの癖ですが、助詞の使い方が雑ですね。

・オレンジ懸かった光に照らされて、やっと温度を取り戻したかのような僕の横顔。
・と、貧相で従属的な品々が、がらんどうの白い空間を申し訳程度に座していた。
これ以前に「オレンジ懸かった光」とされているので「白い空間」と繋がると「まあオレンジがかってるんですけどね」とどうしても思ってしまうんですよね。
「白い空間」ではあるとは思うんですけど、こういう細かいところに意識を向けて、整えてもらいたいなと思いますね。

・手のひらに収まる程度の大きさの人の骨が密かにしまってある。
「手のひらに収まる程度の人骨が」が読みやすいです。「手のひらに収まる」は大きさの表現として有名ですので「大きさ」は不要ですし、「~の人の骨」とすると小人の骨という解釈もできてしまいます。まあしませんが。

・が、答えは曖昧にしておいた……。そう、今までは。
「そう、今までは。」の意味がよくわかりません。これからは曖昧にしないのか、というような描写が一切ありませんので。
もしかしたら終盤で回収する予定の箇所だったのかもしれませんね。

・大学生になった春の終わり、彼女の訃報を告げられた僕は、海のある故郷の田舎町に飛行機で戻った。
「大学生になった春の終わり」というのは具体的にいつのことでしょうか。素直に解釈すると、大学に入学してすぐという解釈ができます。大学一年の五月や六月くらいでしょうか。
しかしそう解釈すると「上京してからの、三ヵ月間。ハルと僕の間には、数通の手紙のやり取りがあり、すぐに途切れた。」という文章と矛盾が生じます。少なくとも大学生になってからの三ヶ月はハルは生きていたということになりますから。
話の流れから察するに「大学生になった春の終わり」というのは大学一年の終わりの春休み辺りを指すのではないかと思います。もうすぐ大学二年という段階ですね。
とするならば「大学生になった春の終わり」という書き方は誤りです。

・海のある故郷の田舎町に飛行機で戻った。
「海のある」「田舎町」はその地自体の情報、「故郷の」というのはその地と「僕」の関係を表した情報です。
二種類の情報があるのですが、これの順番が悪いです。その地自体の情報→「僕」との関係の情報→その地自体の情報となっており、こういう細かい箇所でも煩雑さが生まれています。
きちんと区別して明示すべきでしょう。

・彼女は片親で育ち、その気丈な母親はときにがさつに思え、でも実際の話、根は親切で誠実であり、そして葬儀のあと大学に戻る僕に、そっとその白い骨炭を贈ってくれた。
上の項目でも述べましたが、非常に読みにくい文章です。
主語が二つになっていますし、ハルの母親に対する「僕」の印象と、ハルの母親が一緒くたになっています。二つか三つに文章を分けましょう。また「でも実際の話」は不要です。

・すべてが片付いた彼女の家は空白を満たしていた。
「空白を満たしていた」→「空白に満たされていた」でしょうか。

・それは晴れた日で、火葬場で燃えつきたあと、残された彼女の壊れた欠片。
これ自体はテンポや情報の示し方がよく、いい文章なのですが、本作の読みにくい文章の中にあると、この文章まで読みにくく感じてしまいます。

・それを長い箸で拾い集めた時のことを話題にして、彼女の母はぼんやりと話しを始めた。
「話しを始めた」→「話し始めた」

・結局、あの犬がいなくなるまで毎日あの子と散歩の相手をしていたしね
「あの子と」→「あの子の」

・僕は視点の定まらぬ自分の思考をごまかすように部屋の畳の模様を数えていた。
「畳の目」がいいと思います。

・声を詰まらせても身動きしないまま、化粧の剥げ落ちた彼女の母親の頬を涙がつぅと流れた。
「声を詰まらせても」→「声を詰まらせて」
「彼女の母親の、化粧の剥げ落ちた頬を~」と繋げるのがいいと思います。
また「彼女の母親」がまどろっこしいですね。その後で「おばさん」とあるので、この件でも「おばさん」と表記してもいいかと思います。

・声の出せないあの子が、いわれのない暴力を受けた。そういうことを想像するだけで身を切られる思いがする。
「いわれのない暴力を受けた」の後を「そういうことを想像する」と繋げることにより、実際には暴力を受けていないのかと受け取れてしまいます。
しかし実際にハルは父親から暴力を受けたので、「想像」ではなく「思い出す」などが適切だろうと思います。

・実際あたしが守るしか、あの子はあの子自身を守れない……。
文の書き方が悪いです。素直に解釈すると「ハルの母親がハルを守るという方法でのみ、ハルは自分自身を守ることができる」となり、おかしなことになってしまいます。ハルが自身の母親を道具か何かに捉えていると解釈することも可能になってしまいます。
伝えたいのは「ハルは自分の身を守れず、ハルの母親が守らないといけない」ということです。「実際あたしが守るしか」「あの子はあの子自身を守れない」で主語が異なっているのがそもそも原因ですね。
「実際あたしが守るしか……あの子はあの子自身を守れない……。」なんて三点リーダを入れるだけでまあ解釈できる形になるとは思います。文章自体を改善する方がいいと思いますが。

・悲鳴も上げられずトラックに軋むようにつぶされたあの小さな頭蓋骨。
本作ではハルの死因について特に取り上げられておりません。それは「僕」の語りを特徴づける工夫のひとつとしていい手だと思います。
ハルの死因についてはここのハルの母親の発言でのみ窺い知ることができますが、ここで「軋むように」としていることで、死因が交通事故なのかどうか確かな判断ができません。
ハルはトラックに轢かれて死んだのか、あるいは別の死因でまるでトラックに撥ねられるように頭蓋骨を潰されたのか。その前に「暴力を受けた」というのもあり、後者で解釈することが可能になっています。
ここで解釈を分かれさせる必要性は薄いので、こういう箇所をしっかりと記述しておく必要があるだろうと思います。

・あの春、とてもたおやかな海。
「あの春」だけ現在の視点に立っており、やや浮いています。「あの」は省いていいかと思います。

・そんなささやかな暮らしのためにおばさんの喉は、夜の街で酔っぱらった男たちの慰めため、濁った酒を流し込み、乾いた笑い声を立て続けた。
「慰めため」→「慰めるため」
「ため」が二つ続いているため、読みにくくなっています。
「夜の街で酔っぱらった男たちを慰め」などがいいでしょう。

・そこから絞り出された嗄れた声は、悲しみ、という一言の意味を、不謹慎だけど、言葉にできないほど味わい深い崇高さで、実感のもてない他人事のような装いに変えていた。
この文章も読みにくいのですが、この読みにくさはいいと思います。
この文章はふわゆーさんの文章が読みにくいのではなく、「僕」の文章が読みにくいからです。
文章構成におかしなところが(一応)ないのも大事なところですね。

・毎日通う駅の階段で一段一段数を数えながら上ったり
「数を」不要ですね。同時に「階段で」は「階段を」が自然になります。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
読みにくいです。順序が素直でないからですね。
コップにミネラルウォーターを注ぐ→骨炭を入れる→指先で回す、という順序ですが、文章ではその通りになっていません。
そのため強引で読みにくい文になっています。きちんと順序通り記しましょう。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
コップにもよりますが、五分目ほどに注がれた水を指先でくるくる回せますかね? コップと指によっては届かない、あるいは上手く混ぜられないと思います。
まあこのコップと指は届いたんだといわれればそれまでですが。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
「つけ込み」という語彙が気になります。骨炭をミネラルウォーターに浸したということなのでしょうが、これを「つけ込む」とするのは馴染みがないです。
「つけこむ」という字面は「漬け込む」と変換しやすくて、「漬け込む」は水や液体に浸して一定時間置いておくというニュアンスになります。
しかしこの場合はただ骨炭をミネラルウォーターに浸しただけなので、素直に「ミネラルウォーターに浸し」でいいのではないかと思います。

・少し力を加えると壊れてしまいそうなそれを、コップに五分目ほど注いだよく冷えたミネラルウォーターにつけ込み、指先でくるくると廻す。
「回す」でいいと思います。

・唇を大きくを開き、舌の上に乗せるようにそれを優しく口に含む。
「大きくを」→「大きく」

・水と砂と大気が柔らかく繰り返す揺らぎ。
それまでで「くり返す」という表記があったので表記揺れですね。
表記揺れは読者の没入を阻害するので、潰した方が無難です。

・整った作りの瓜実顔で、黒目がちの瞳と細く尖った鼻梁は笑っても、少し泣いているような哀しさが漂っていた。
読点がややおかしいですね。
「黒目がちの瞳と細く尖った鼻梁は、笑っても少し泣いているような哀しさが漂っていた」とするのが自然です。

・公平に見て、僕は変態的な資質をもつ人間と言える。
「言える」は「いえる」がいいというのは、過去作の感想でも述べたことでしょうか。

・同時代に住む人々と緯度や経度は変わらなくても、水域が違うのかもしれない。
「水域」とは水がある地帯、水没した地帯のことなので、緯度や経度とは関係ありません。
おそらく「水深」などの語彙を用いたかったのではないかと思います。

・日の光の当たらない深海でしかぼくは人を愛せない
「ぼく」表記揺れ

・僕が人を恋しく思う領域は~僕は他人を認知し共感することがない。
ここを読んでいる段階では「僕」の性格的な特徴なのかと思いましたが、読み進めるとそれはハルと言葉によらないコミュニケーションを取り、深い親交を続けていたからであると知ることができます。
そしてそれが現在の「僕」にも続いているということも。
読み返すと読み味の変わる、いい件だと思います。

・さらに標高三千メートルを越える岩肌に漂着してしまった、ありふれた雑草かもしれない。
・強風に身をさらしながら根を張り続けるしかない。
細かいことなのですが、標高3000mを超えるところには、ありふれた雑草が根付くことはできないと思います。
勿論標高3000m以上にも植物は自生しているでしょうが「ありふれた雑草」というと平地で普通に見かける植物という印象があります。それら平地に自生している草類が、標高3000m以上に根付くことができるのか。できる種類もあるのかもしれませんが、考えにくい話だとは思います。
「僕」の心情の吐露なので野暮な話ではあるのですが、その後に「強風に身をさらしながら根を張り続けるしかない」と続いているのも違和感ですね。まず根を張ることが困難だと思うので、比喩として用いるのならば「根を張り続ける」ことではなく「根を張る」ことの困難にズームするのが自然だと考えます。

・さらに標高三千メートルを越える岩肌に漂着してしまった、ありふれた雑草かもしれない。
「越える」→「超える」

・どこにもたどり着けないままそこで呼吸を繰り替えし
「操り替えし」→「くり返し」

・顔に当たる風の微かな渦までをも知覚できた。轟火の中でハルの身体は炙られ、溶け出した。
ここの繋がりがいいと思います。ハルと過ごした砂浜の景色から、ハルの火葬へと一気に飛ぶ文章。
「僕」の語りが思い出に浸っていく途中であることがわかりますし、同時に現在の「僕」の精神が不安定であることを窺うことができます。
砂浜→火葬という場面自体の飛び方も、程よい突飛さがあると思います。

・たとえば、十三才にして出会った相手が、その後の人生全てを支配することもあるなんて思い付きもできなかった。
「たとえば」は「例えば」の表記揺れですし、そもそもこの「たとえば」は必要なのだろうかと思います。
ふわゆーさんの文章のひとつの癖として、単純にリズムを整えるために「例えば」を使う傾向があります。
更にいえばリズムを整えるためだけに、接続詞や助詞を無闇に用いているとも感じます。
しかし「例えば」には例示という役割がありますので、リズムを整えるのであればどういう接続詞や助詞を使うかなど、心得たうえで用いることをオススメします。

・たとえば、十三才にして出会った相手が、
年齢を表す際には「才」ではなく「歳」の方がより適切といわれています。
ただ年齢を表す際でも一般的に「才」を使うこともありますし、「僕」の一人称視点ですので、「才」の方がしっくりくると判断されるのであれば、こちらでもいいかなとは思います。

・だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。
上でも申しましたが、あまり意味のない指示語が多いです。「その」です。
ただリズムを整えるだけの「その」であるのに、指示語があることで文章把握に手間を増やしているというのは、本作のジャンルには適当ではない手と判断しています。

・だからその当時は、その気持ちを、一目ぼれとか初恋とか、そんな感情で認識していた。ただその春は、不思議と奇跡に満ちあふれた春ではあった。学校の帰り道、海岸沿いの道を歩くと、彼女を見つけた。
文章の視点を時系列で並べると、現在→ハルと出会った後→ハルと出会う前というような並びになっています。
「現在の視点で十三歳を振り返る」「ハルと出会って奇跡に満ち溢れていた」「ハルと出会う」という並びです。
「僕」の語りの特徴として時系列が混沌としていても問題ないというのはありますが、こちらの文章に関しては文の通りの悪さを少し感じます。
文章の順番を少し調整するだけで、読みやすくなりそうだと感じます。

・学校の帰り道、海岸沿いの道を歩くと、彼女を見つけた。
「学校の帰り道」ではなくて「学校の帰り」の方が自然ですね。
また「歩くと」よりも「歩いていると」でしょうか。

・彼女が最近、家の近くに越してきていたことは知っていた。彼女の声帯が不自由だということも知っていた。彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること、犬の散歩のために、夕方になると砂浜にやってくることにも気づいていた。
この内「家の近くに越してきたこと」「声帯が不自由なこと」「隣の市の養護学校に通っていること」は「僕」が情報として知っていることです。「犬の散歩で夕方に砂浜に来ること」は「僕」が見かけるなどして気付いていることです。
しかし文章構成では「家の近くに越してきたこと」「声帯が不自由なこと」を知っていること、「隣の市の養護学校に通っていること」「犬の散歩で夕方に砂浜に来ること」を気付いていることとなっています。
隣の市の養護学校に通っていると気付いている、というのは不自然です。
「知っていた」「知っていた」と並べるのであれば「彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること」についてもきちんと「知っていた」と結ぶのが適切だと判断します。

・海岸沿いの通りを歩く僕に、じゃれ掛かってきたその小犬が、そのままだと車に引かれそうになると心配して、海へ降りる階段に腰かけて、僕は小犬のまとわりつくままにした。
上で申した通りですね。
主語をきちんと把握してらっしゃらない。

・彼女は横に立ち止まった僕を上目使いで少しうかがうように見て、
細かいところですが、初対面でやり取りをするなら「横」ではなく「前」に立ち止まるのが自然ではないかと思いました。
初対面の二人が横に並んでやり取りするというのは、あまり想像できません。

・手話の手振りで答えようとした。
「手振りで」は余計です。
あるいは「僕」がそれを手話と確かに認識できなかったことを表現したいのならば、「手話のような」とするのが適切でしょうか。

・それでしばらくハルの名前を使って犬を褒めたり、呼んでじゃれたりしていた。
主旨は十分伝わりますが、ややまどろっこしさを感じます。
「犬をハルと呼んで褒めたりじゃれたりしていた」などの方がすんなり通っているのでは、と思います。

・彼女はそれを見て声も立てずに笑っていた。
ハルは声が出せないのですから「声も立てずに」というは当たり前ではないかと思います。
この文の書き方では、声を出せる人が「声を出さずに笑う」という笑い方をしているという表現に受け取れます。声を出さないということに笑い方の特徴を付与している感じですね。
しかしハルは声を立てて笑うことができないはずですので、「声を出さずに笑う」ということに笑い方の特徴を付与できないはずです。
特別なアクションを示すでもなく笑っていた、ということを表現したいのなら「ただ笑っていた」などが適切ではないかと思います。

・おかしかったのでっそのままにしておいた
「おかしかったのでっ」→「おかしかったので」

・その日陽が暮れて彼女を家に送り届けたとき、
邪推に近いですが、「日が暮れて」とすると「その日日が暮れて」と重なってしまうので「その日陽が暮れて」という表記にしたのかなと思いました。
だから何、というわけではないですが。

・時に灯台や松林を探索した岩場を冒険したりもした。
「探索した」→「探索したり」


―――――――――――――――――――
その浜辺は声のない世界だった。
 穏やかな潮騒の織り成すうねりや時折訪れるかもめの鳴き声、でも僕たちの耳は日差しの醸し出す波長や、砂粒のざわめき、そして犬の呼吸と、お互いの表情を正確に聞き取れていた気がする。
―――――――――――――――――――
「声のない世界」だけれども「かもめの鳴き声」はするというところで、細かなモヤモヤを感じました。
正確さを取るのであれば「人の声のない世界」とするのがいいのかなと思います。若干歯切れは悪くなりますが。
あるいは文章上「かもめの鳴き声」をカットするというのも手かなと思います。

・中学、高校と自分自身の置かれている状況や、周りの友人たちの顔ぶれが変わっても、
「僕」とハルが出会ったのは「僕」が十三歳の頃ですから、通常の進学状況だと「僕」は当時中学一年生となります。
しかし「中学、高校と自分自身の置かれている状況や~」という書き方は一般的に「中学に進学し、高校に進学し」という主旨で用いられるものです。
最初から中学一年生だったので「中学」だけでは状況の変化はないと考えられます。
「受験、高校と」など、中学一年生当初からの変化を示す語彙を並べるのが適切ではないかと考えます。

・同じ共通の経験をもつ人間に、パスワードとしての観念的な虚言を付与し、その深層心理を揺らして、表面的な感情に微細な影響を与えることは可能かもしれない。
ここの文章の意味把握は難しいのですが(それ自体はいいと思います)、ここの「虚言」というのは虚言で正しいのだろうか、という疑惑があります。
「虚言」は嘘という意味ですが、この文章では「言葉とはいえないもの、言葉未満のもの」という意味合いで「虚言」を用いてしまっているのではないかと推測しています。
少なくともこの流れで虚言=嘘を言うのは不自然ですからね。観念的な嘘、というのもよくわからない言葉です。
もしそうならば、別の語彙を使うべきでしょう。

・ハルの通っていた聾学校の先生から学んだ言葉。
「学んだ」→「学んだという」

・会話を終えると、ハルは当たり前の一連の動作で砂浜から腰を上げ、犬を呼んだ。
「当たり前の一連の動作」というのがよくわからないです。素直に受け取るならば「人間が起立するときに通常取られる動作」ということになりますが、ここでそんなことを伝える必要はありません。
想像ですが「二人が話し終わった後、ハルはいつも立ち上がって犬を呼ぶ」ということを伝えたいのではないかと思います。
ならば「当たり前」ではなく「いつも通り」が適切でしょうか。

・彼女は犬を飼っていて、僕らは毎日二人と一匹で散歩した。
「彼女は犬を飼っていて」という情報はさすがに不要です。

・当時はまだ小犬で人を襲うような心配は全くなかったし、それ以降も誰も咎めやしなかった……。
・犬はハルが八才のとき、それは両親が離婚してすぐの頃、拾ってきたもので、すでに喉を手術されており鳴けなかった。
「僕」とハルはほぼ同い年であると推測されます。
「結局ハルが十六才の春にその犬と別れることになるまで」「僕の高校一年生が終わる春休みまで、その散歩は果てしなく淡い喜びの気配に満ちたものだった。でも、その春は突然人が変わったように荒々しい態度を取る。」は同年の春を表していますが、この春でハルは十六歳、「僕」は高校一年の終わりであるからです。また高校卒業も同時期であると推察されます。
そして「犬」はハルが八歳の頃に拾ってきたもので、「僕」とハルが出会ったのは「僕」が十三歳の頃です。ですので出会った当時で「犬」は四、五歳であったと推測できます。
「当時はまだ小犬」とありますが、四、五歳の犬は立派な成犬ですね。ですので「当時はまだ小犬で人を襲うような心配は全くなかったし」と「僕」の視点で判断することはおよそ不可能ですので、この文章は変更することをオススメします。

・犬はハルが八才のとき、それは両親が離婚してすぐの頃、拾ってきたもので、すでに喉を手術されており鳴けなかった。
この「すでに喉を手術されており鳴けなかった」で手術を受けたのは「犬」ということで間違いないのでしょうか。
拾ってきたときに犬に手術を受けさせたということでいいのでしょうか。
それならばそれでいいのですが、ふわゆーさんの文章細部への無頓着の弊害を感じます。全ての記述に対して「文章に無頓着だから、文章通りに受け取ってはいけないかもしれない」と疑念を向ける作業が必要になります。

・でも僕たちの耳は日差しの醸し出す波長や、
・窓の外では無言のまま、水色模様のガラスの風鈴が、まぶしい夏の陽射しに照り付けられていた。
「日差し」「陽射し」表記揺れ。

・窓の外では無言のまま、水色模様のガラスの風鈴が、
「模様」というのは「そのものの表面に表れた図や形、絵のこと」ですので、「水色」という色と付けるのは違和感があります。「水色」は色ではあって模様ではないですからね。

・じりじりと、焼けるアスファルトと陽炎に眩む大気。
「陽炎に眩む大気」とありますが、「陽炎」とは「大気の密度が異なることにより大気が揺れて見える現象」のことです。
この書き方では陽炎を原因として大気が眩んでいるように見えますが、眩む大気こそが陽炎です。結果が陽炎なのです。
「に眩む大気」は省くか、文の構成を調整することをオススメします。

・夏休みの僕の部屋の白いシーツの中で、ハルは当たり前のように手の平を突き出し、僕の身体中を触り確認していった、どちらかといえば、僕のほうが動じ、たじろいでいた。
「確認していった」で句点を打った方がいいと思います。
また最初の「夏休みの」は不要に感じます。どうしても「僕」が夏休みであることを伝えたいのなら、別の文にて示すのがいいのではないでしょうか。

・そのようしてハルはハル自身が秘めてた、
「そのようして」→「そのようにして」

・そのようしてハルはハル自身が秘めてた
「秘めてた」よりも「秘めていた」の方がいいかなと思います。
語りとはいえ「秘めてた」は口語的な印象の強い言い方ですので。

・その犬がハルの腕に噛みつき、庭を引きずり廻しているのを目撃したのは、ハルの母親が仕事に出かけようと、迎えの車を待っていた時だった。
この文章だと目撃のタイミングを伝えるものになっています。
しかし大事なのは誰が目撃したのかということです。
「その犬がハルの腕に噛みつき、庭を引きずり廻しているのをハルの母親が目撃したのは、仕事に出かけようと迎えの車を待っていた時だった。」などの方が主旨が伝わりやすいと思います。

・母親の店の従業員が白い乗用車で迎えに来たとき、口と両足を縛られた犬はトランクにほうり込まれ、ハルのもとから連れ去られた。
「母親の店の従業員が白い乗用車で迎えに来たとき、」は不要かなと思います。「口と両足を縛られた犬は迎えの車のトランクに放り込まれ」などで。
「僕」の視点の話ですし、「僕」が見ておらず重要でない情報は削除するのが自然だと思います。

・受話器の側で鈴の音を鳴らす合図でハルからの電話があり、
この書き方だと、「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をもってハルが電話をかけるということになりますが、「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をしても電話をかけることはできません。
伝えたいのは「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図」をもってその電話がハルからのものであると示すということだろうと思います。
ならば「受話器の側で鈴の音を鳴らす合図でハルから電話で呼ばれ」などがいいだろうと思います。その場合文章が長くなるので、一旦句点で区切るなどしてもいいと思います。

・僕とハルは一緒に彼女の部屋のベットの中にいた。
「ベット」→「ベッド」

・窓の外には、静かに夜の雨が降っていた。
「窓の外には」→「窓の外では」

・誰かにもたれかかって楽をすることを幸せだとは結して思えない。
「結して」→「けして」「決して」
その前に「けして」とあるので「けして」の方が適切。

・僕らは何もしないでベッドの中にいた。服を着たままベッドの中にいた。触れることもなく温もりを伝えることもなく、視線を交わすことさえなく。
・僕はハルの震える体を抱きしめてはいたが、実際はハルの崇高さに包まれ身を委ねて弱かった。
その前では「触れることもなく」とありますがここでは「震える体を抱きしめてはいたが」と矛盾しています。
時間が経ってから抱きしめるようになったと解釈することも一応可能ですが、文脈から見て何か動作があった風でもないので、ここは前の記述に倣っておくのが無難かと思います。

・実際はハルの崇高さに包まれ身を委ねて弱かった。
ここは読点がほしくなりますね。「実際はハルの崇高さに包まれ、身を委ねて、弱かった。」など。

・母親は当然、犬を処分し終えていて、ハルの部屋に入るとおもむろにベットの上の彼女を抱きしめ、泣き崩れた。結局僕はクローゼットの中で朝を迎えた。
「僕」がハルの部屋にいる時点では、ハルの母親が犬を処分したかどうかはわかりません。
過去を振り返る話ですし時系列の混沌が「僕」の語りの特徴ではありますが、ここの場面に関しては些末なところでもありますので、視点の認識に従っておくのが無難だろうと思います。
犬を処分したことは、これらの件の後に差し込んでおくのが自然と考えます。

・ハルの部屋に入るとおもむろにベットの上の彼女を抱きしめ
「ベット」→「ベッド」

・たどたどしい手話の語学力の僕に、ハルが繰り返し懸命に伝えたその言葉。
「たどたどしい」とは「技能が未熟であるため、その物事を行うのが危なっかしい様子」のことを指します。ここでは手話のことを指します。
しかしこの書き方だと「たどたどしい」は「手話の語学力」を指してしまいます。よって「語学力を行うのが危なっかしい」となってしまい、不自然です。
「たどたどしい手話」「手話が未熟な」などが適切かと思います。

・ハルの学校の先生から学んだその言葉。
これでは「僕」が直接「ハルの学校の先生」から学んだように解釈できてしまいます。
「ハルの」→「ハルが」


「たち」「達」の表記揺れ。

・且つ時間をかけ形を作ってきたものです。
・それはどんなに表現しても、このカタチのまま、
どうして「形」「カタチ」と二つの表記があるのかいまいちわかりませんでした。
どちらも同じ意味合いで用いられているように見えます。

・文字や映像や音楽、言葉や手話や笑顔や光の下での行動、
聾学校の先生が「言葉」と「手話」を区別して用いることに違和感があります。
おそらく「言葉」とは音声言語のことを指しているのでしょうが、聾学校の先生が音声言語だけを指して「言葉」と表現し、「言葉」以外であるとして「手話」と表現するでしょうか。
「言葉」ではなく「肉声」など、それが音声言語であると理解できる形で表現するのが適切であると考えます。

・そこから染み込みんできたそれに、
「染み込みんで」→「染み込んで」

・あなたの世界にとってそれが本当に大切なこととなるのです。
それまで「あなた達」としているのでここも「あなた達」とするのが適切です。

・時間は限りなく過ぎていきます。
言いたいことはわかるのですが、「どうか受け身にならないでください。」というのは時間に限りがあるからという側面もあるでしょう。そこで「時間は限りなく」としてしまうと、主旨と噛み合わせが悪いです。
「時間は止まることなく過ぎていきます」などが無難でしょうか。

・いままでのように回りの人が佳くしてくれる環境を
「回り」→「周り」、「佳く」→「良く」がそれぞれ無難でしょうか。

・それでも僕がハルの笑顔を思い出すとき、同時に軽い目眩のような嫉妬が喚起される。
「僕が」→「僕は」

・それでも僕がハルの笑顔を思い出すとき、同時に軽い目眩のような嫉妬が喚起される。
ここで「それでも」とするのはやや面白く感じます。
この「それでも」が何にかかっているのか、やや難しいところがあります。ですが敢えて考えるならば、ここまで語ってきたハルとの思い出の数々となるでしょうか。つまり今までの文章全体です。
今までの文章全体に繋げての「それでも」ということで、荒唐無稽な繋ぎながらもそれが「僕」の語りらしく、ここについては好意的に見ています。

・冬枯れのバス停でバスを待つ。
大体の場合、バス停で待つのはバスですので「バスを」は削ってもいい情報かなと思います。文脈で補完する方がスマートです。

・その記憶は冬場に行われるハルの学校の学園際のものだった。
「学園際」→「学園祭」

・彼女がバスで隣の市の養護学校に通っていること、
・ハルの通っていた聾学校の先生から学んだ言葉。
簡単に調べたのですが、視覚障害を持つ生徒が通う学校を「盲学校」、聴覚障害を持つ生徒が通う学校を「聾学校」、それ以外の心身障害を持つ生徒が通う学校を「養護学校」と呼ぶようです。
ハルは聴覚障害はなく発声に障害を持っており、どの学校に通うのかは調べが足りずにわかりませんでしたが、手話によるコミュニケーションを取るのでおそらく「聾学校」に該当するのだろうと思います。
しかし同級生の様子を見ると「聾学校」というよりも「養護学校」の生徒であるような印象を受けます。とはいえ聴覚障害を持つ生徒とそれ以外の心身障害を持つ生徒が一緒に通う学校もあるみたいですので、それは十分有り得ることです。
そして「盲学校」「聾学校」「養護学校」は2007年に「特別支援学校」として一本化されたそうです。
本作は「僕」が振り返る思い出の話ですので、この当時が2007年以降なのか以前なのかというのは非常に微妙です。それに「僕」が正確に認識していないということもあるでしょう。ですので「僕」の語りの中で「養護学校」「聾学校」と呼称が統一されていないのは、「僕」の認識や記憶が定かではないということで片付けることはできます。
ですので誤りということではないのですが、フィンディルが何を言いたいのかというともう少し「僕」の認識を正確にさせておいた方がいいのではないかということです。ハルの通っていた学校が「聾学校」だったのか「養護学校」だったのか「特別支援学校」だったのか。
ここの「僕」の認識が粗雑であるのは、引いてはふわゆーさんの認識が粗雑であるようにも感じられます。
その辺りの「僕」の認識が希薄であるのは、「僕」のハルへの関心の薄さを感じさせてしまいますしね。

・彼らは誰しもが、喉から不思議な音を出しながら大きな手振りではっきりと表現する。
声を出せないハルが通っている学校ならば、ハルと同じように声を出せない人が他にもいるはずです。
また聴覚障害を持つ人の発声を「喉から不思議な音を出しながら」とするのは不適切です。

・僕の周りをハルの友達たちが取り囲み、
「友達」というのは本来複数形であるのですが、いつしか単数としても用いられるようになった語彙です。
ですので「友達たち」という表現もまま出てくるのですが、まどろっこしい表現であるのも確か。
こういうときは「友だち」と表現すると、複数形であると表現することが可能です。「取り囲み」とあるので「友達」でも構わないと思いますが。

・けれども、そこではどんなに実力のあるバンドも、
「バンドでも」の方が少しだけ通りがよくなるかなと思います。この文全体を構成を見直した方がより良い気もしますが。

・僕は弱さをさらけ出すことを平然とやってのけるこの集団の中で妙な疎外感を感じた。
文の通りですが「疎外感を覚えた」の方がいいかなと思います。少しだけですが。


―――――――――――――――――――
女の子達はみな同様にいくつかのトラブルや渇きのようなものをかかえ、それに目を反らし依存し続けることが難しくなる年齢を迎えていた。
 彼女達はそれに共感してくれ、且つ、すがることのできる人間を一様に求めていた。そして、男達の幾人かは、そんな女の子達の後追いをすることに意義を見出し、幾人かは全く反発していた。
―――――――――――――――――――
ここの文章、何となく言いたいことはわかるのですが、書き方が非常にわかりにくいです。
書き方がわかりにくいのは「僕」の語りの性質上いいのですが、問題なのは本作にとって意味のほとんどない件であるということです。
本作にとってほとんど意味がないのならば、省略するか、あるいはもっとわかりやすい書き方をするのがいいのではないかと思います。

・時の中でかすれて行く記憶を鮮やかなままでしておくために、
「かすれて行く」→「かすれていく」、「鮮やかなままで」→「鮮やかなままに」がそれぞれ自然でしょうか。

・それも結局自分であると言う限界に都合よく言い含められ、
「あると言う」→「あるという」

『星屑神話』より「月の名前」/参星  への感想

『星屑神話』より「月の名前」/参星
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
構造面では作品サイズとの不一致が、文章面では対比と美麗の不足が見受けられる作品。二重構造として見るならば現実・夢の二面を上手く活かした良作。


●三重の入れ子構造だが、中枠の意味が薄い

本作は三重の入れ子構造になっています。
現実世界で宇宙についての授業を受けたり樹とのやり取りを行う外枠、凜太郎の夢で神代と宇宙の歴史について学ぶ中枠、そしてT-□□□□とH-□□□□の物語が綴られた作中作の三つの構成です。
外枠→中枠→作中作→中枠→外枠と展開されていき、それなりに込み入った構造を見せています。

外枠は「高校生の日常」といったものですが、この学校風景と作中作の「神代の星の物語」は空気感の対比が活きる組み合わせだと思います。学校風景と星の物語という真逆の方向性を有する組み合わせですが、学校の授業で宇宙を学ぶことで接続は容易ですし、思春期と神話は心情面での親和性が高いです。本作の終盤では「高校生の日常」と「神代の星の物語」それぞれが融合し、上手くまとめられています。
意外性かつ自然。そう評することができる組み合わせです。

しかし引っ掛かるのが中枠です。凜太郎の夢の中で神代の宇宙の歴史について学ぶパート。
内容としては、宇宙の歴史と神代の出来事を歴史的事実として教えており、その流れでT-□□□□とH-□□□□の物語に繋げる、といったものです。
つまり外枠から作中作への繋ぎ、ステップ、踏み台としてこのパートが配置されています。場面は外枠と同じ教室ですが、内容は作中作と同じ世界観。見事に場面のグラデーションが形成され、繋ぎがなされています。
そして本作においてこの繋ぎが重要であることは言うまでもありません。
宇宙についての授業を受けていました→寝ました→T-□□□□とH-□□□□の物語が始まりました。は飛躍しすぎだからです。その飛躍を防ぐために中枠を設置して、宇宙についての授業を受けていました→寝ました→神代の宇宙の歴史についての授業を受けています→映像です→T-□□□□とH-□□□□の物語が始まりました。という風にして段差の緩やかな展開に持っていっているのです。
中枠による繋ぎというのは本作のプロットにおいては必須の役割と言えるでしょう。

しかし正直な感想を申し上げますと「それだけのためにわざわざ三重構造にしたんですか?」となります。
というのも中枠にはこの繋ぎ以外に主だった役割がないのです。
「神代の星の物語」の世界観において月はT-□□□□の瞳であることを示したり、地球・月の関係性を現実と夢の双方の授業で学ばせておくという役割もあり、繋ぎ以外の役割もあるにはあります。
しかし前者は「神代の星の物語」でも示し得るものですし、後者もT-□□□□・H-□□□□と地球・月の関係性にフレーバーを足すようなもので、それほど重要な役割ではありません。中枠で示さなければならないかと問われると、優先度の低い役割です。
「繋ぎの役割以外にもこういう役割があるから中枠は大事だよね」と思えるものではなく、やはり中枠の存在意義は外枠と作中作を繋げるというところに焦点が当てられるでしょう。

この繋ぎの中枠が入ることにより、作品は三重となり、複雑で込み入った構造となりました。
物語上必要な繋ぎを入れるために、作品全体の構造を複雑なものにする。複雑なものにしたのは複雑にすることで生まれる面白さを打ち出すためではなく、構想していたストーリーを完成させるために必要だったから。三重構造にはしたが三重構造ならではの面白さはおよそない。
三重構造を組み立てるために払うコストとしてはかなり割高に感じます。建築上生まれてしまった段差を埋めるために数百万円かけて立派なステップを設置した、みたいなものです。
三重構造にせずとも外枠と作中作を繋げられるストーリー進行のさせ方がないかと、初期のプロット案から工夫できたのではないかなと思います。
本作のストーリーにおいて中枠は必須ですが、ならば中枠が必須にならないようなストーリーを組むのをまず考えるべきだったのではないでしょうか。
制作において発生したコストを最終的に払うのは読者です。プロット上必要となった三重構造は、読者の読みにくさとなって清算されます。三重構造ならではの読み応えはないにも関わらずです。
構成面で言わせてもらうならば、払うコスト(読みにくさ)に対するリターン(読み応え)がないのです。
現状でも読みにくくはないしむしろ読みやすいと感じる方はいらっしゃるでしょうが、三重構造にせずとも外枠と作中作を自然に繋げられたら間違いなく今よりも更に読みやすくなります。自然に繋げられたら、ですよ。

初期のプロットにおいて外枠と作中作を自然に繋げるのが本作においてはベストだろうとは思いますが、プロットを大きく変えずに済む方法もあると思います。
その方向性を二つフィンディルは見ています。

ひとつは、三重構造の面白さを出すということです。必要だから設置された中枠、必要だから組まれた三重構造。せっかく三重構造にしたんだからその面白さを出せばいいじゃないか、ということです。むしろ必要に応じて設置したはいいが面白さの上乗せはおよそない、というのは洗練が不足していると判断します。
本作では外枠と作中作では構成面での繋がりがあります。それは上で申し上げました通りです。凜太郎・樹とT-□□□□・H-□□□□の関係性、更にT-□□□□・H-□□□□の関係性と実際の地球・月の関係性でも繋がりを持たしていますね。上手くまとめていると思いますし、「高校生の日常」・「神代の星の物語」という空気感の対比もあいまって、外枠・作中作という入れ子構造は良質にまとまっていると思います。
この構成に中枠が密接に関与していないので、中枠はステップでしかないという評になってしまうのです。構成の観点で言えば、この中枠のパートではT-□□□□の瞳が月であるということと、現実の授業で学んだことと夢の授業で学んだことを合わせるという役割しかありません。中枠という三重構造の一角を担うにしては脆い繋がりです。この中枠も構成面で外枠や作中作とより密接に絡まっていれば、中枠は必要だから設置されただけ、などという印象は払拭されるでしょう。
勿論それを実現するのは初期プロットを改良して外枠と作中作を自然に繋げる以上の洗練が必要とされますが、中枠も構成面で凝ると本作の読み応えはぐっと増すのではないかと思います。

もうひとつの方向性。これが最も現実的だとフィンディルは思っています。
三重構造に見せないということです。
逆に言わせてもらうならば、何故こんなにも三重構造に見えるような書き方をしていらっしゃるのだろうかと思っています。
実際本作の構造って、二重構造と見ることもできるのです。本作は現実・夢の授業・神代の物語(外枠・中枠・作中作)という三重構造に見えますが、現実・夢という分け方をしたのならばこれは二重構造です。
そして上述の通り本作は三重構造としての面白さはおよそ皆無ですが、二重構造としての面白さは豊かにあります。ならば二重構造に見えるように書くのが自然ですし、本作のサイズ感に合致しています。

本作が現実・夢の二重構造ではなく現実・夢の授業・神代の物語という三重構造に見える理由は三つあります。

まず中枠のパートが長すぎます。凜太郎が眠りに落ちてから「SⅡ-□□□□の記録映像」が始まるまでのパートです。このパートはストーリー的な内容がほとんどないにも関わらず、やたらと文章が割かれています。内容がないというのは、他の要素と絡まる構成面の要素がほとんどないということです。
何に文章が割かれているかというと、視界は現実の学校の授業風景だが授業内容が現実ではない「神代の星の物語」に繋がっているということの説明に文章が割かれています。つまりこのパートは外枠と作中作の繋ぎであるということの説明が必要以上に丁寧に、そして文章が多く使われているのです。しかしここまで文章を多く使う必要はありません。もっと短く効果的に説明できます。
そして文章が割かれていることでこれが中枠という構造として認識されてしまいます。
上述の通り、このパートは外枠と作中作を繋ぐための繋ぎであることが役割ですが、その役割を果たしたならば手短に済ませてしまうのがいいと思います。長すぎる繋ぎは構成の無駄です。月=T-□□□□の瞳、「神代の星の物語」を授業で教えるという二点は、中枠が繋ぎであることを示す過程で問題なく入れられるはずです。
そうすると三重構造ではなく、二重構造という見え方がしてくるはずです。
中枠を、外枠と作中作の繋ぎのパートとして存在させず、現実・夢という二重構造における「神代の星の物語」への簡潔な導入という見せ方をするのがいいと思います。
文章量を絞って、なおかつ外枠と作中作をしっかり繋げる。求められた仕事を必要十分の文章量でこなすことに、作者の文章の力が試されます。

二つ目の理由が、中枠から作中作への繋ぎ方です。
外枠から中枠への繋ぎとして
―――――――――――――――――――
誘われるままそっと意識を手放した。
―――――――――――――――――――
とあるように、意識を失うことで次のパートへと移行しています。眠ったということですね。意識を失うというのはパートの転換としてはよくありますし、場面転換のアイコン的な役割を担う描写です。
次に中枠から作中作への繋ぎですが
―――――――――――――――――――
 その揺らぎに引き込まれるかのように、凜太郎は、己の心が遥か彼方神代の頃へと揺蕩ってゆくのを感じていた。
―――――――――――――――――――
と、こちらでも意識を失うように思える描写がなされているのです。作中作では視点が変わるので、そのための策なのかもしれませんが三人称描写ですし、視点変換は他の方法でも幾らでもできるはずです。
そもそも夢の中であったとしても、映像を見る際にこのような意識を失う描写を入れるのは不自然です。映像が流されたのならそのまま映像を見ればいいのです。
とにかくこのように意識を失うアイコン的描写を入れることによって、中枠→作中作でも場面の転換が発生し、結果として三重構造であるかのように印象付けられてしまうのです。

三つ目の理由ですが、後半において作中作→外枠ではなく、作中作→中枠→外枠にしたこと。
作中作も中枠もいずれも夢ですから、夢から覚めるならば作中作から一気に外枠に移動しても何も問題ないのです。しかし参星さんは丁寧に一度中枠を挟んでから外枠に移動しています。
最初の外枠→中枠→作中作は、中枠には繋ぎという必須の機能がありました。こちらでは中枠は入れる必要があります。
しかし後半の作中作→中枠→外枠には、中枠には何一つ役割がありません。繋ぎという役割すらありません。夢から覚めればいいのでそのまま外枠に移動すればいいのです。
しかし必要性がないにも関わらず中枠を入れているので、当然ですが三重構造というのは強く印象付けられてしまいます。
―――――――――――――――――――
 ふと気がつけば、そこは見慣れた教室の一角で、マイク越しの声が痺れた脳を優しく揺すってゆく。
―――――――――――――――――――
という文章も入っていますが、この「ふと気がつけば」というのは意識を失うの対応文として、意識を失うと同様にパート転換のアイコン的役割を果たしています。
―――――――――――――――――――
 スクリーンの中で浮かぶ月は、鉄筋の隙間からロケットを見つめていた。
 ──嗚呼、彼は宇宙に飛び出さんとする人間をどう思っているのだろう。
 無邪気にアンタレスを盗んだ己のように、馬鹿よ愚かよと憐れんでいるのか。
―――――――――――――――――――
という文章でこの中枠パートに内容を持たせようとされてるのかな? とも見受けられますが本作のテーマとおよそ絡んでいないため不要だと判断します。
この後半の中枠のパートはバッサリカットするのをオススメします。

「前半の中枠のパートの文章量を大幅に削る」「中枠→作中作の『意識を失う』といったパート転換アイコンを削除する」「後半の中枠のパートを全カット」という三つの方策を施すことで、本作は三重構造のような印象から二重構造のような印象に変えることが可能なのではないかと考えています。
中枠を中枠として意識させず、夢の構造の中の「神代の星の物語」への簡潔な導入として意識させるのです。
勿論一番いいのは現実と作中作を繋ぎなしにスムーズに繋げるプロットを組むことですし、三重構造の読み応えに適うだけの構成を構築できれば本作の読み応えはぐっと増します。ただこちらの二つだと大幅な改稿が必要になります。
ですので上で述べた三つの工夫によって、中枠の繋ぎの役割は保ちつつ存在感を薄くして、本作には豪華すぎる三重構造という印象を、本作に似つかわしい二重構造に見せることができるのではないかと思います。こちらはそんなに難しくないはずです。


●文章と描写の対比を

繰り返しになりますが、本作には「高校生の日常」と「神代の星の物語」という空気感の全く違う二つの場面が存在します。この項目では夢の中の授業という中枠の場面は省きます。
この「高校生の日常」と「神代の星の物語」は空気感は勿論違いますし、作品構成の役割も違います。「神代の星の物語」では作中作として構成の素材を置き、終盤の「高校生の日常」ではそれらの素材を回収しつつ現実の素材を出して、それらをまとめて作品を上手く締めるという役割があります。二重構造ということでそれぞれ役割を変えておくのは自然な手だと思います。この構成については後の項目で詳しく。

つまり「高校生の日常」と「神代の星の物語」は様々な点で全く違うのです。場面としての空気が違う、作品としての役割が違う。場面としての空気が違うならば、その対比をブーストするのは文章や描写です。作品としての役割も違うので、なおさら対比を出しやすい土壌です。
ですが、本作では「高校生の日常」と「神代の星の物語」で、文章や描写がほとんど変わらないのです。

まず「神代の星の物語」ですが、文章や描写が物足りません。神話的な宇宙のお話ですので、もっともっと豪華な文章がいいと思うのです。情景描写のための情景描写を入れてもいいと思いますし、何気ない語彙が突飛に美しいものでもいいですし。不思議で美しい世界観。伝承ではなく「SⅡ-□□□□の記憶映像」なのですから、神話らしからぬ写実性があっても浮くことはないと思います。むしろ浮いてこそ美徳の世界です。描写のアクセルをある程度踏んでいい場面なのです。
しかし本作の「神代の星の物語」は文章が普通すぎます。
T-□□□□とH-□□□□のストーリーラインに力が入り、またT-□□□□の心情に力が入り、ただの擬人化昔話のようになっています。
「神代の星の物語」ではなく「星を擬人化した物語」にしかなっていません。本作が「神代の星の物語」単体で成立しているなら「星を擬人化した物語」でも悪くはないと思います。そういう作品として楽しめますので。
しかし本作の「神代の星の物語」は「高校生の日常」との対比の役割を持っており、更にただの擬人化物語ではなく「SⅡ-□□□□の記憶映像」という歴史性や科学性を伴った物語ですので、ストーリーラインもいいですが、世界観や空気感の演出というのが求められるのではないかと思うのです。
また「神代の星の物語」の作品的な役割は、作中作として構成の素材を置くことです。構成の素材を置くというと技術的なものが求められそうですが、なんのことはなくストーリーを綴っておけばいいだけです。死と地球を呟いたH-□□□□のためにT-□□□□がアンタレスを見せるもそれが原因でH-□□□□は死に、呆然としたT-□□□□は砕かれて瞳だけがどこかへ浮遊する。このストーリーを示せれば、残ったスペースで描写にブーストをかけるのは難しい話ではありません。「神代の星の物語」には文章的余裕があるのです。そういう作品的場面ですから。
大して難解でもないT-□□□□の心情に文章を重ねる必要はあまり感じません。そもそも「SⅡ-□□□□の記憶映像」なのですからT-□□□□の心情にフォーカスを当てるというのも視点との兼ね合いが悪いです。客観的な顛末の提示によってT-□□□□の心情を醸し出す方が合っています。

また「神代の星の物語」の雰囲気についてどのように演出されているかというと、おおよそ語彙によってのみ努力がなされています。
「アンタレス」や「星雲」といった宇宙ならではの語彙を用いることで、これが星の物語であることが演出されていますのが、語彙だけでは空気感を出すには力不足です。
更に語彙任せになっていますので「アンタレス」も「星雲」も回数を使いすぎてしまっています。
「アンタレス」を小道具として使うのは星の物語ならではで上手いのですけども、それぐらいしか星の物語ならではがないので、何度も文章に出てくると悪目立ちしてしまいます。小道具が悪目立ちしてしまうということは、文章全体の演出が不足しているということです。
またまるで人間が血を流すように星は「星雲」を流すわけでこれは非常に上手い表現なのですけども、こちらも同様に何度も文章に出てくると悪目立ちしてしまいます。こちらはH-□□□□とT-□□□□で対応させるために二回は必ず出す必要があるのですが、四回使っているというのも気になるところです。上手い表現は傷むのが早いので、上手ければ上手いほど使う回数は最小限がいいです。
語彙ではなく文章全体で「神代の星の物語」を表現していかなければ、この場面の空気感を支えるのは無理があるだろうと思います。
雰囲気を出した方がいい場面では、雰囲気を出す工夫は数えられないほどに種類を入れておくのが好ましいです。片手で数えられる工夫は少なすぎます。

「高校生の日常」との対比である「神代の星の物語」にしては文章や描写が物足りず、ストーリーラインや視点にそぐわないT-□□□□の心情への文章が多く見えます。作品的な役割としても文章や描写を入れやすい場面なので、もっと描写に力を入れるのがよかったのではないかと思います。
「神代の星の物語」はもっともっと描写いけます。突飛かつ美麗な描写がそぐうはずです。

対して「高校生の日常」のパートですが、こちらは描写がやや強すぎるように映ります。描写に気合が入っているといいますか。
「ふと周りを見渡せば船を漕いでいる頭が何艘か。」「人も疎らに、窓から差し込む夕日が室内を赤く染め上げている。」「夕日に染まる金の髪と、その海色の瞳を別の何処かで見たような──。」「それを聞いた瞬間、凜太郎の夜明け色の瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちた。」などですね。「高校生の日常」が求める語彙レベルを超えているように見えます。
こちらについても「高校生の日常」単体で成立する作品ならば問題ないのです。このぐらいの描写レベルも全く問題なく馴染みます。
しかし本作の「高校生の日常」は「神代の星の物語」との対比の役割がありますので、綺麗すぎる文章は「神代の星の物語」を霞ませてしまいます。「神代の星の物語」が群を抜いた美麗さを持っているのならば、「高校生の日常」がどうであれ霞むことはないのでしょうが、実際はそんなことありません。むしろ表現の美麗さで言うならば「神代の星の物語」よりも「高校生の日常」の方が目を惹く表現が散見されます。逆であるべきではないでしょうか。
「神代の星の物語」の美麗さを活かすのならば「高校生の日常」の描写レベルは意図的に落とすのが得策だろうと思います。勿論「神代の星の物語」の描写レベルを今よりぐっと上げるのが前提です。

そもそも「高校生の日常」は「神代の星の物語」で置かれた素材を回収して締める役割を持っていますので、表現について頑張る必要はないのです。素材を回収して作品を綺麗に締めるだけで文章の旨味というのは存分に出てきます。
しかし本作では「高校生の日常」では構成も表現も力が入っており、「神代の星の物語」では構成も表現も力が入っていないということになっており、全く対比への意識を感じません。
「神代の星の物語」では表現に力を入れて作品的には素材を置くだけ、「高校生の日常」は表現は力を抜いて作品的な回収に力を入れる。このように力の使い分けをするのがいいのではないかとフィンディルは考えます。
ぐっとメリハリがでるはずですよ。本作はメリハリを活かさない手がないような構造を持っていますから。

付け加えなのですが、本作には語彙の表記と読みを変えるという手法がよく使われます。「星々(われら)」「石(アンタレス)」「月(おとうと)」などですね。おそらく参星さんの得意手なのでしょう。
これ自体はいいと思うのですが、これを「高校生の日常」と「神代の星の物語」の両場面で使っているというのはメリハリの観点で言うならば非常によくないです。
このように癖のある表現方法を全編にわたって使ってしまうと、全ての文章が同じ印象になってしまい、対比が一切生まれません。
癖のある表現は場面に応じて使い分けることを強くオススメします。そもそも「高校生の日常」の三人称描写と「神代の星の物語」の「SⅡ-□□□□の記憶映像」で、表現の癖が同じになるのは強い違和感があります。


●いい突然とよくない突然

H-□□□□・T-□□□□、地球・月、凜太郎・樹という構成についてのお話です。
「神代の星の物語」において兄H-□□□□が弟T-□□□□に「自分が死んだら地球に行く気がする」と告げ、寂しく感じたT-□□□□はアンタレスをH-□□□□の傍に置きますが、それによりH-□□□□は星屑となり死んでしまいます。父によりT-□□□□も砕かれますが、何故か瞳だけは残り父によって放られます。
「夢の中の授業」において、月がT-□□□□の瞳であることが明かされます。また「神代の星の物語」は夢の中においては実在する宇宙歴史であることが示されます。
「高校生の日常」において、実際の宇宙歴史として地球と月が兄弟に例えられる関係であることが明かされます。それを受けて凜太郎は塵となったH-□□□□の欠片が地球にやってきて、それを見つけたT-□□□□の瞳がいつまでも地球を見続けているのではないかと想像します。更に凜太郎は樹にT-□□□□を重ね合わせます。
というのが本作の大きなテーマである「兄弟」についての構成です。

この構成は二重構造ということを非常に活かした構成であると考えます。「高校生の日常」は現実の宇宙歴史を、「神代の星の物語」は夢つまり架空の宇宙歴史を示していますが、それらが「兄弟」というテーマ性のもとに結実しているのです。
なお「今日はね、月について習ったよ。……月って、地球とは兄弟なんだね、僕初めて知った」とありますが、これはジャイアント・インパクト説を指しています。月の成り立ちについて学校の授業で習うほどに有力な説で、地球に天体がぶつかって砕け散った地球の一部が集まって生まれたのが月であるという説ですね。地球が兄(姉)で月が弟(妹)であると見て取ることが可能です。

「神代の星の物語」では架空のH-□□□□・T-□□□□の兄弟の物語から、「高校生の日常」ではジャイアント・インパクト説から、地球と月が「兄弟」のようであると連想させる。これはとても面白みのある構成だと思います。別々の由来によって同じ連想が作り上げられているのです。しかも片方は創作によって、もう片方は実在の説によって。二重構造らしい立体的な構成です。現実・夢という二重構造であることも特筆すべき点で、現実のパートならば実在の説を引用、夢のパートならば創作によって生成しているというのも上手いです。
そして夢の中の「神代の星の物語」での悲しい終わりに、夢から覚めた現実のジャイアント・インパクト説によって救いがもたらされる。現実と夢という二重構造ならではだと思います。夢の創作と現実の説が並行しているだけではなく、現実の説が夢の創作のアシストをするのです。ただ並べるだけではなく、絡み合っています。夢の創作が現実の説を補助するのではなく、現実の説が夢の創作が補助しているというのも小気味のいい話の組み方ですね。夢のお話の救いは現実によって。とても面白いです。
またどちらも授業で教えられたというのも面白いところだと思います。実際の授業と「夢の中の授業」ということで、全く異なる内容を教えられるもそれらが繋がるというのはなかなか新鮮な読み味です。まるで読者も一緒に夢を見ていたような、爽やかな錯誤を得られます。

という本作の構成なのですが、ここにいい突然とよくない突然がそれぞれあります。突然というのは前振りなく登場してきた要素ということですね。

いい突然はジャイアント・インパクト説です。
ジャイアント・インパクト説は実際に存在している説ですので、いきなり単語だけ出しても問題ありません。いきなり単語だけ出してもそこに付随する要素をしっかり飲み込むことができます。
そしてこのジャイアント・インパクト説の認知度が絶妙でして、ジャイアント・インパクト説は学校で習うんですよね。学校で習うので、多くの人が知識として備えています。しかし普段使ったり見聞きすることはありません。ジャイアント・インパクト説は「あーあったねそういうの!」という認知度を持つ、絶妙な塩梅の要素なんですよね。
突然出しても受け入れられる、しかし事前に察知されにくい。とても上手く選び、とても上手く出したのではないかと思います。
またこれが「高校生の日常」とすごく合致しています。学校の授業で習ったから出すというのはとても自然ですからね。「高校生の日常」と「神代の星の物語」を接続させるうえで、学校の授業で習ったというのはとても効果的な手です。この組み合わせをとてもよく活かしています。上手い。むしろこの効果を狙っての組み合わせなのかもしれません。

よくない突然は樹です。
終盤に突然登場してきたのは印象がよくありません。「神代の星の物語」が終わり、締めに向かう中での登場ですのでタイミング違いの印象が強いです。その場面で樹の紹介を挿し込んでいるのも作品のテンポが乱されます。更に樹に月=弟の属性を持たせたことによって、急角度で樹が重要人物になっていきます。
ここがかなり無理やりです。「神代の星の物語」の余韻を樹が圧迫しているのです。
そもそも凜太郎・樹の関係性は本作においてそれほど大事には感じませんでした。夢と現実の両面によって完成されたH-□□□□・T-□□□□と地球・月の「兄弟」の構成が綺麗にまとまってますので、そこに凜太郎・樹の「兄弟」を付加しても「兄弟」というテーマ自体が更に強固なものになっているという印象はありません。地球・月と凜太郎・樹は関係ありませんし、樹とT-□□□□が何だか似ているというのは弱いですし、凜太郎とH-□□□□の相関にいたってはほぼ皆無です。上手くまとまった構成に無理やり割って入ったが、果たして入れる意味はあったのか、という感じです。
凜太郎には授業中眠ってもらわねばなりませんがジャイアント・インパクト説は提示される必要があるので、同級生の登場自体はおよそ必要です。しかしそれ以上の役割を同級生に持たせる必要があったのかは首をひねるところです。

凜太郎・樹の「兄弟」を構成に組み込むならば、せめて樹は終盤での登場ではなく冒頭にて登場させる必要があったと思います。冒頭に登場しておけば、少なくとも樹自体が突然になることはありませんから。冒頭は授業ですから樹とのやり取りなどを入れるのはやや難しいですが。
そして凜太郎・樹の関係性を強化して、H-□□□□・T-□□□□と地球・月の「兄弟」の構成に追加しても邪魔にならない程度の結び付きを構築する必要があるでしょう。
現状では樹自身そして凜太郎・樹の関係性は突然であり、また付け焼刃であるように感じます。
あるいは今後のお話に関係していく、というようなことなのでしょうか。それならばフィンディルは本感想において感知しません。

というように引っ掛かる点は幾つかありますが、全体的に本作の「兄弟」をテーマにした構成は二重構造を存分に活かした、とても上手さの光る品質になっていると思います。


●「月の名前」とH-□□□□・T-□□□□

この項目ではフィンディルが抱いた素朴な疑問についてです。
本作の題名は「月の名前」です。そしてH-□□□□・T-□□□□という登場人物。
私はここまで読んだときに、H-□□□□・T-□□□□の□に入るのが本作のキーなのではないかと考えていたのです。特にT-□□□□の名前。
しかしこの□に入るのが何なのかわからないままに物語は終了してしまいました。
一体これは何なのだろうというモヤモヤがありました。

ひとつ考えた説は、樹です。T-□□□□・月・樹という三つで相関があり、そして樹は「たつき」。「つき」と「たつき」で被りますし、樹のイニシャルはTです。そこからT-□□□□はT-TUKIなのではないかというような想像をしました。
しかしそうなるとH-□□□□の方は全く説明できません。H-□□□□・地球・凜太郎という三つで相関がありますが、こちらは言葉としての重なりが見当たりませんから。
T-□□□□・月・樹で言葉としての重なりを見出せるのは偶然で、フィンディルが深読みしているだけだろうというのが結論です。

もうひとつ考えた説は、実在の星との区別のためです。本作ではスピカ・アンタレスと実在の星が用いられていますが、H-□□□□・T-□□□□はおそらく本作オリジナルの星です。
ここでH-□□□□・T-□□□□にそれらしい名前を与えてしまうと、実在の星との兼ね合いが悪いと参星さんが考えられて、名前を伏せるようにされたのではないかという推測です。
T-□□□□は実際に存在するT星の流れを汲んで、H星はわかりませんが同様なのかなと。

しかし本作の題名が「月の名前」で月とされるT-□□□□が伏せられていると、そこに何か深い意味があるのではないかと勘繰るのは自然なことです。なのでT-□□□□に深い意味があるのならばそれをきちんと出す方がいいですし、オリジナルだから伏せた程度の意味ならば読者に不要なミスリードを誘っているということになってしまいます。

つまりはよくわからないということなのですが、このよくわからないが参星さんの想定外であるならば、把握しておく価値はあるのではないかと思い述べさせていただきました。
題名が「月の名前」でないならばモヤモヤすることはなかったと思います。「月の名前はT-□□□□である」ということならば、伏字を用いるのは相性が悪いと思います。


●細かいところ
ここから本文中で気になった細かいところを取り上げます。

・それこそ、宇宙のなんとやらに至っては、大して身近でもない上にスケールが大きすぎて逆につまらない、などという人も多いのだろう。
「大して身近でもない」と「スケールが大きすぎて」は似通った主旨です。
「上に」は物事にそれとは異なった物事を繋げる言葉ですので、似通った物事を繋げるのはオススメしません。文通りが悪くなっています。
「大して身近でもない」を省いて「宇宙のなんとやらに至っては、スケールが大きすぎて逆につまらない」の方が自然に文が通ります。

・凜太郎にとってこの宇宙の講義は、どちらかといえば好きな部類に入る。
「講義」を「じゅぎょう」と読ませていますが、ここで表記と読みを変える必要はどこにあるのでしょうか? 「講義」も「授業」もおおよその意味は同じですし、この文章において「講義と書いてじゅぎょうと読む」意味を感じません。
勿論意味や必要がなくてもこういう表現をしても構いません。必要がないことをしてはいけないと言われたら、小説なんて書けません。
しかし表記と読みを変える表現というのは大変癖のある表現であり、目立ち度で言えば難しい語彙を置くのとあまり変わりません。
やたらめったに難しい語彙を並べるのは稚拙な文です。その文が求めるラインを見極めた語彙を置くことが大事です。
そして表記と読みを変える表現についても同様のことが言えます。そんな表現を求められていない文において特に効果も感じられない表現を行うのは、文章技術として要改善とフィンディルは判断します。
こういうことをしてはいけないとは思いません。しかし稚拙だと思います。もっと意味のある場面で使うのがいいのではないでしょうか。

・★☆★
本作が星のお話なので、場面の区切りに星の記号を用いられているのでしょうか。
星のお話なので星の記号で、というのは素直な発想だとは思います。ですが本作で語られる星は象徴的な星というよりも天文学的な星なので、むしろ「☆」「★」の記号はそぐわないように感じました。
野暮なツッコミかなとも思ったのですが、フィンディルの印象として。

・泡が水面に顔を出して弾けるように、まるで引き上げられでもしたかのように凜太郎は目を醒ました。
「泡が水面に顔を出して弾けるように」と「まるで引き上げられでもしたかのように」と二つ比喩が並んでいますが、どちらかひとつでいいのではないかと思います。
両者の比喩では伝わるイメージが違いますので、違うイメージの比喩を並べることでむしろイメージしにくくなっています。

・見慣れた中年男性──理科の先生なのだが──は、
くどいです。「先生は」でいいです。文章の流れをダッシュで区切ってまで注釈することではありません。

・未だ生え揃い、綺麗に形作られた白髪が、
「生え揃う」というのは通常、毛髪や歯が大人の段階に達した、という意味合いで用いられる語彙です。大人の段階に達した時点で、「生え揃う」は完了するのではないかと思います。
その段階をキープすることを「未だ生え揃う」とは使わないのではないでしょうか。

・ただ少し奇妙なのは、学校の生徒しかいないはずのこの教室で、
「学校の生徒しかいない」としていますが、当然先生はいます。先生への言及が抜けてますね。

・宗教画じみたイラストが映される度に先生の小さな解説が入るのだが、
「イラスト」というのは絵の中でも現代的なニュアンスの強い語彙です。それを遥か昔に描かれたであろう資料に対して用いるのは違和感があります。
「宗教画らしい絵」「宗教画のようなもの」などが適当と考えます。

・また明瞭とした声が静かな教室に響く。
上述の「講義と書いてじゅぎょうと読む」と同じです。「明瞭と書いてはっきりと読む」表現ですね。

・レーザーポインターはくるくると円を書いて、
「書いて」→「描いて」

・何百年も先に生きる凜太郎の元へと
T-□□□□とH-□□□□が存在していたのは何時の頃なのかという説明はありませんが、ギリシア神話をモチーフにしているとします。
ギリシア神話は紀元前から伝承される神話ですので、「何百年」ではなく「何千年」とするのが適切でしょう。

・もう一方は黒曜石のような髪と同じ色の瞳。
「黒曜石のような髪」とは黒曜石のように黒い髪ということなのだとは思いますが、「黒曜石のような」から色だけを抽出するのは言葉足らずであるように感じます。「黒曜石のような」ではその質感も同時に抽出されますから。
「黒曜石のような髪」が黒曜石のような色と質感を表現したものであるのならば構わないのですが、その場合でももう少し密な描写をするのがいいのではないかと思います。

・当時T-□□□□とH-□□□□の一番側にあった星ですね
「いちばんそばにあった」ということでしょうがこの文では「いちばんがわにあった」と誤読できてしまうので、「そば」と平仮名表記にするのが無難です。

・先生の言葉と共に、ぱちぱちと時々線を走らせながら、やや不鮮明な映像は始まった。
この「ぱちぱち」でこそ、表記と読みを分ける表現が嵌るのではないかと思いました。「ぱちぱち」だと字が浮いてしまいますからね。
イメージできるもあまり表現擦れされていないものを表現するときに「○○と書いてぱちぱちと読む」という表現を使うのは相性がいいです。

・しかし二人をしてお互いを補完する、バズルのピースのようであった。
「バズル」→「パズル」

・星の間を通り抜けて、ぐるりと一周する間。
ここでいう「星」はT-□□□□・H-□□□□など自我を持つ星とは全く違う存在なのでしょうか。自我を持たず動かない星なのでしょうか。それとも自我を持ち動く星なのでしょうか。
星を擬人化した物語の中で、唐突に従来の星のような存在が出てきて戸惑うところです。

・可愛い僕の半身。
本作では丁寧にフリガナがふられていますが、その基準に照らすならば「半身」は「はんしん」とフリガナがほしいです。

・僕はね、きっと死んだら地球にいくんだ。
「地球」とは「大地」を由来にした言葉であり、地球の表面に立っている生物の視点に立って名付けられた語彙です。地球のことを地球と呼ぶのは地球人だけです。また地球人との交流がある者、など。
しかしこの物語の登場人物は地球人ではありませんので、地球のことを地球と呼ぶことには強い違和感があります。
地球は美しい星という程度の認識であるにも関わらず、地球に他惑星と明確に違う命名を行うのは不自然でしょう。
凜太郎の夢の中のことだから、ということで乗り切ることもできますが、是非T-□□□□・H-□□□□の立場に立って、地球以外の命名をしてほしいなと思います。
勿論それが地球であることが読者にわかる必要がありますので、ある程度の工夫は要しますが。

・星々を創りたもうた父。名はなく、定まった姿はなく、唯、父と
・彼らにも寿命はある。
「星々と書いてわれらと読む」「彼らと書いてほしと読む」両表現です。前もって言っておきますがこの場面で表記と読みを変えた表現を行うのは、雰囲気が出て上手いと思います。
しかしこの両表現を比べるとかなりズレを感じます。
まず「星々と書いてわれらと読む」「彼らと書いてほしと読む」は表記を星とするのか人とするのか、読みを星とするのか人とするのかの配置が逆です。「星々と書いてわれらと読む」は表記を星として読みを人としており、「彼らと書いてほしと読む」は表記を人として読みを星としています。ただこのズレは少し気にはなりますが問題はないかと思います。表記揺れとまではいえません。
次に複数形と単数形のズレがあります。「星々と書いてわれらと読む」は複数形の表記に複数形の読みに対し、「彼らと書いてほしと読む」は複数形の表記に単数形の読みです。ここは若干気になりますので、どちらも複数形にするのが無難かと考えます。
そして最も気になるのが視点のズレです。「星々と書いてわれらと読む」は「われら」と語り手を含んでいるのに対し、「彼らと書いてほしと読む」は語り手を含んでいません。
「神代の星の物語」は「SⅡ-□□□□の記憶映像」ですので、「われら」と語り手を含んでおくのが適当でしょう。
と両表現では複数のズレがありますので、できるならば違和感を生まない程度の統一を求めたいところです。

・人よりもずっと長くて、それは随分とゆっくりやってくるものだけれど。
「SⅡ-□□□□の記憶映像」が人(おそらく地球人)の寿命を前提とするのは不自然です。
何かと比較せず、非常に長命程度にしておくのが適切だと考えます。

・お前は一等綺麗だから
「一等」とは星の一等星を連想させる語彙でいいと思います。
星であるH-□□□□が使う「一等」は、他のキャラが使う「一等」よりも価値が高く感じられます。

・主を無くした蠍の巣には紅玉のような石が一つ。
この文の「蠍」にのみフリガナがふられていません。
そもそも最初の「蠍」にフリガナをふっておけば、後はふらないでいいのではないかとフィンディルは思いますが。

・その傍らに、そっと石を─蠍の心臓、アンタレスを置いておく。
本作ではダッシュは二つ並べて使われているにも関わらず、ここではダッシュがひとつしか使われていません。
表記揺れと判断します。

・目を醒ましたときに、きっと驚く顔が見れるから。
・兄さんは地球のような綺麗なものが見られれば、
「見れる」は「見る」の可能のら抜き言葉です。ら抜き言葉自体が悪いとは思いませんのでそれ自体は構わないのですが、本作では「見られれば」とらを入れた可能の言葉も入っています。
表記揺れと判断します。

・言う 云う
本作ではH-□□□□の「いう」を「云う」、それ以外のキャラの「いう」を「言う」にしているようです。
何故そのように使い分けをされているのだろうか、と疑問を持ちました。いいとは思いますが。

・──だからこそ、今目の前で起こったことを彼は信じることができなかったのだ。
「今目の前で」とありますが、「今目の前で」を使う場面ではないように感じます。
「今目の前で」を使うのは、それ以前にH-□□□□が蠍に殺される場面が挿入されていたり、それまでは全て前振りでH-□□□□が蠍に殺される場面から物語が本格的に始まるといった時系列上が要請が必要です。
しかし本作では時系列に沿って順番に展開していってますので「今目の前で」を使うことで無意味に時系列を揺さぶっているだけになっています。結果、読みにくさに繋がっています。
おそらく強調として用いられたのだとは思いますが、別の言い回しをオススメします。

・ふと見上げたそこには身の丈以上の大蠍に抱き込まれた兄が、アンタレスを手に、その黒い瞳から静かに涙を流していた。
「ふと見上げたそこでは」や「ふと見上げると」などが文通りがいいと思います。

・靄のような星雲を残して彼は──あっさりと割れた。
・穿たれた中心から蜘蛛の巣のように広がる罅は、やがてH-□□□□の全身を蔽ってゆく。
イメージがしにくいです。「靄のような星雲を残して」という文からは一瞬にして粉々に砕け散った印象があります。木っ端微塵ですね。しかし「──あっさりと割れた。」という文からはH-□□□□が複数個に分割されたという印象があります。粗く砕くという感じ。そして「穿たれた中心から蜘蛛の巣のように広がる罅は、やがてH-□□□□の全身を蔽ってゆく。」という文からはそもそもまだ割れていない印象があります。ヒビの段階ですから当然です。
木っ端微塵→分断→ヒビと、文章が進むにつれて破壊度が低くなっていっているのです。通常、ヒビが広がって、割れて、星雲を残して消えるのではないでしょうか。

・穿たれた中心から蜘蛛の巣のように広がる罅は、
蠍に貫かれて「蜘蛛の巣のように」というのは比喩としてのチョイスがどうなのかなと思いました。蠍と蜘蛛という組み合わせがですね。少し比喩として気が利いていない印象があります。

・兄であった存在は、星雲と塵になって何処かへ逝ってしまった。
「行った」と「逝った」のダブルミーニングですね。上手いです。

・兄であった存在は、星雲と塵になって何処かへ逝ってしまった。
・だが彼の瞳は、星雲に包まれ、塵に撫でられても消えることはなかった。
上の項目でもお伝えましたが、割れて星雲が出るというのは、人間で例えるなら血を流すようで、とても星というのを感じさせるいい表現だと思います。
イメージもとてもしやすくて、上手いです。
その分、この二箇所は余計だったかなという風に思います。回数使ってしまうと飽きてしまうので。我慢して最小限に留めておくのがよかったと思います。

・ただ純粋に兄を思ったが故の悪戯の末路を悔いても
「思ったが」→「想ったが」がよりよいと思います。

・星星の輝きは鳴りを潜め
「星星」→「星々」
これ以前に「星々」という表記がありましたので、倣うのが無難でしょう。

・暫くして後、その様子を見た父は無言のうちにT-□□□□を砕いた。
・どこからともなく、彼の身体には罅割れが広がり、彼を構成していたあらゆる物がゆっくりと剥離してゆく。
「砕いた」と過去形にした後で、砕ける描写を入れるのは時系列が素直に進んでおらず、読みにくいです。
「砕いた」のならば砕ける描写を入れるのは不要ですし、砕ける描写を入れるのなら「砕いた」以外の言い回しが求められます。

・血を流すように紅い星雲が流れ出していた。
「血を流すように」とは星以外の生物を前提にしているので、「SⅡ-□□□□の記憶映像」とした場合には不適切です。

・今日はなんだか瞼が重い。
・頬も、瞼も消え、
前者は冒頭の「高校生の日常」の文ですがこちらでは「瞼」にフリガナがふられていないにも関わらず、後者では「瞼」にフリガナがふられています。
先に出てきた「瞼」にフリガナをふって後に出てきた「瞼」にフリガナをふらないのは納得できるのですが、逆は腑に落ちません。

・まるで象牙を削り出したようだと凜太郎は思った。
・色の抜け落ちた象牙のようなその瞳を見て、
どちらもT-□□□□の瞳としての月の表現です。
前者は凜太郎の表現ですが、後者は「SⅡ-□□□□の記憶映像」の表現です。
「SⅡ-□□□□の記憶映像」も凜太郎も夢の中なので表現が被るのはある意味自然なのかもしれませんが、あまりここは表現を被らせない方が、場面の対比としては相応しいかなあとフィンディルは考えます。
描写レベルが両場面で同じということになってしまいますから。上の項目とも被りますが、描写レベルは意図的にズラすことをオススメします。

・スクリーンの中で浮かぶ月は、鉄筋の隙間からロケットを見つめていた。
この文の意味がよくわかりませんでした。
宇宙センターで打ち上げを待つロケットのことを指しているのでしょうか。鉄筋というのは発射台のことを指すのでしょうか。
しかし「鉄筋の隙間からロケットを見つめていた。」となると、鉄筋は月の近くにあり、月は鉄筋の隙間から覗くようにロケットを見ていたという解釈が自然です。「A君は塀の隙間から家を見つめていた」のように。
鉄筋がロケットの近くにあるならば「鉄筋の隙間から覗くロケットを見つめていた」とするのが適切かと考えます。

・見覚えのある顔が心配そうにこちらを覗き混んでいた。
「覗き混んでいた」→「覗き込んでいた」

・兄さんが恋しくて側にいるんだね。
上の指摘で「側」を「そば」と平仮名表記にするよう指摘させていただいたので、それに倣うのならばここも「そば」とするのが無難かと思います。
そもそも「そば」は漢字表記ではなく平仮名表記にするのが無難らしいです。

・凜太郎の夜明け色の瞳から、
「夜明け色」とはオシャレな表現ですが、実際どのような色なのかはピンときません。夜明けとは刻一刻と色を変える時間帯ですので、その内どの瞬間を指すのかの判断が分かれてしまうからです。
黒に近い青なのか、薄い青なのか、ピンクがかった青なのか。グラデーションが入っているかもしれません。
もしこの表現をもってH-□□□□と凜太郎の相関を示そうとされているならば、別の表現をする方がいいのではないかと思います。

言葉を得た猫/十八十三  への感想

言葉を得た猫/十八十三
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
二つのオーソドックスが並走した作品。その分涙を誘う手数は多いが、オーソドックスの切り替えが強引。


●病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスが並走した作品

本作のあらすじです。上でも注意をしていますが、本作をまだ読んでいない方は読まないようにお願いします。
人と話せることを獣神様に願った黒猫(言ノ葉)は人間の少女雪と出会い、話し、共に暮らすことになる。しかし言ノ葉は他の猫と会話をすることができなくなっていた。また雪が労咳であることが判明する。言ノ葉は町医者を呼ぶが言ノ葉は雪以外の人間とも話せないことがわかる。幸運にも来てくれた町医者の言葉から言ノ葉は自分が黒猫だから労咳を治すために連れられてきたのではと悩み、雪の傍から逃げ出す。逃げた先で獣神様に、言ノ葉は雪一人としか話すことができなくなっていることを教えられ、言ノ葉は雪のもとへ帰る。が言ノ葉が離れている間に雪は亡くなってしまい、言ノ葉は後悔とともに一人きりになる。人間とも猫とも話せない言ノ葉は食べることすら満足にできず、雪が眠る墓の前で息絶える。
これが本作のあらすじです。奇の衒いのない悲劇で、フィンディルは読みながら涙目になってしまいました。

と、本作の読み味としては「奇の衒いのないオーソドックスな悲劇」というのが大勢だと思います。が、本作の構成はその印象は半分正解半分不正解のものではないかとフィンディルは考えています。
というのも本作にはオーソドックスが二つ詰められているからです。
病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスとでも呼びましょうか。
病死のオーソドックスとは、出会った二人が交流を重ねるが片方が不治の病であることが判明しその中ですれ違いが発生し一旦離れ離れになるも相手の想いに気付いて急いで戻ってみたら既に亡くなっていて後悔する。というもの。
意思疎通のオーソドックスとは、本来会話できない存在との会話を望んで叶った者が特定人物との会話や交流を楽しむがその代わりに元々交流していた者と能力的理由や疎外により交流ができなくなり更にその特定人物が何らかの理由でいなくなり誰とも会話できず孤独になってしまう。というもの。
いずれもよく目にするようなストーリー展開です。そして本作にはこの二つのオーソドックスが詰められて、展開しています。病死のオーソドックスは雪の労咳、意思疎通のオーソドックスは言ノ葉の契約ですね。

以上のように本作は「奇の衒いのないオーソドックスな悲劇」とはいいにくい構成を持っております。では何故本作の印象が「奇の衒いのないオーソドックスな悲劇」なのでしょうか。

それは病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスが互いにほとんど影響を与え合っていないからです。病死のオーソドックスの進行に意思疎通のオーソドックスはほとんど関係なく、意思疎通のオーソドックスの進行に病死のオーソドックスはほとんど関係しません。
病死のオーソドックスのみを利用してあらすじを書きます。「黒猫(言ノ葉)は人間の少女雪と出会い、共に暮らすことになる。そんななか雪の体調が悪くなり、言ノ葉は町医者を呼ぶ。その町医者の言葉から雪が労咳であることが判明。言ノ葉は自分が黒猫だから労咳を治すために連れられてきたのではと悩み、雪の傍から逃げ出す。しかし雪と過ごした時間が楽しかったなどの理由で言ノ葉は雪のもとへ帰る。が言ノ葉が離れている間に雪は亡くなってしまい、言ノ葉は後悔とともに一人きりになる」
意思疎通のオーソドックスのみを利用してあらすじを書きます。「人と話せることを獣神様に願った黒猫(言ノ葉)は人間の少女雪と出会い、話し、共に暮らすことになる。しかし言ノ葉は他の猫と会話をすることができなくなっており、更に雪以外の人間とも話せないことがわかる。言ノ葉は獣神様に、自分は雪一人としか話すことができなくなっていることを教えられる。が雪は労咳で亡くなってしまい、言ノ葉は一人きりになる。人間とも猫とも話せない言ノ葉は食べることすら満足にできず、雪が眠る墓の前で息絶える」
それぞれのオーソドックスが綺麗に成立しています。本作を丁度半分に割ったという感じがします。また丁度半分に割れてしまうのです。オーソドックスが互いに強く影響を与え合っていたら半分に割ることはできません。それぞれのオーソドックスが密接に絡まってひとつの物語になっているというより、それぞれのオーソドックスが並走してひとつの物語という体を取っているといった方が近いかもしれません。構成で考えると二つの物語が成立しています。
そして本作の涙が滲むポイントといえば言ノ葉が離れている間に雪が亡くなってしまったこと、人間と話したいと願った黒猫が猫とも人間とも話せなくなってしまったことですが、前者は病死のオーソドックスによるもの、後者は意思疎通のオーソドックスによるものです。二つのオーソドックス、二つの物語が互い違いに現れて読者に訴求している感じです。
これにより二つのオーソドックスを展開させるというやや特殊な形式であるにも関わらず、読者が得る印象は「奇の衒いのないオーソドックスな悲劇」になっているのだとフィンディルは考えます。
やっている構成はやや特殊なのですが、そこから出てくる面白さは王道中の王道なのです。

では本作のこの構成に対してフィンディルは好印象を抱いているのか悪印象を抱いているのか。
オーソドックスな展開を二つセットにして並べているというのは決して悪い手ではないと思うのです。病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスを組み合わせないとできない展開にしてオリジナリティを求める必要は必ずしもありません。それぞれのオーソドックスは長い間繰り返し使われて読者に確かな訴求力があると認められた展開達です。これらを二つ並べて波状攻撃のように訴求していくという展開を持たせるというのは、構成の組み方として十分効果と価値のあるものだと思います。手数が増えますから。
特殊なことをしているから他にない読み味を出さないといけないということはないです。特殊なことをしてオーソドックスな読み味を出すのも立派なひとつの手です。

がフィンディルの結論を申しますと、本作のこの構成には悪印象を抱いています。理由は次の項目です。


●それぞれのオーソドックスを満たすための、強引な切り替え

本作は病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスが並走していますが、後半になると互い違いに現れます。
病死「雪の病気が酷くなり言ノ葉が町医者を呼びに行く」→意思疎通「言ノ葉は町医者と会話できないことがわかる」→病死「町医者に来てもらうが言ノ葉が雪の想いを疑って逃げ出す」→意思疎通「獣神様に契約について教えてもらう」→病死「急いで戻るも雪は亡くなっていた」→意思疎通「言ノ葉だけになり誰とも交流できず息絶える」となっています。
前の項目でも述べましたが、病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスは互いに影響を及ぼしません。それぞれがそれぞれの展開として成立しているため、病死と意思疎通の展開を切り替える必要がでてきます。それぞれの展開はそれぞれのオーソドックスを満たすことを主目的に進むので、病死と意思疎通の切り替えに利用していくのは容易ではありません。二つの物語を並走させているので当然でしょう。
この二つのオーソドックスの切り替えを自然にスムーズに行うことが、二つのオーソドックスを並走させる構成に求められるプロット手腕といえるでしょう。二つのオーソドックスを維持しつつ、ストーリーライン上は淀みのないひとつの物語にするのです。構成は二つで物語はひとつ。そう考えるとそれなりに難易度の高い手法と呼べるかもしれません。
それぞれの展開を綴るのはオーソドックスの雛型があるので簡単ですから、ここに作品の品質は表れません。それぞれのオーソドックスの展開の切り替えにこそ、作品の品質が表れます。

という視点で本作を見た場合、単刀直入に言わせていただくならば稚拙と断ずるほかありません。
病死「雪の病気が酷くなり言ノ葉が医者を呼びに行く」→意思疎通「言ノ葉は町医者と会話できないことがわかる」は問題ないですね。雪の容態が悪くなったので言ノ葉が医者を呼びに行くというのは病死ストーリーでは自然な流れですし意思疎通ストーリーの他の人間と会話を試みさせることを満たしており、自然な切り替えといえるでしょう。「猫は本来自分の死体を誰かに見せることはしない。弱っているところを狙われないよう誰にも気づかれない場所に身を隠すが、その間ご飯も食べれずそのまま憔悴しきって死んでしまうのだ。」とされる猫が人の調子が悪くて医者を呼びに行こうとする違和感はありますが、言ノ葉は非常に人間的な思考を有しているので飲み込める行動ではあると思います。

意思疎通「言ノ葉は町医者と会話できないことがわかる」→病死「町医者に来てもらうが言ノ葉が雪の想いを疑って逃げ出す」ですが、これは強引ですね。
意思疎通ストーリーでは雪以外の人間と話せないことを示す必要がありますが、病死ストーリーでは雪の前から逃げてもらう必要があります。意思疎通ストーリーでは会話ができず「医者を呼ぶ」という目的を達成できないのが自然ですが、病死ストーリーの都合上「医者を呼ぶ」という目的を達成してもらわなければなりません。
ここで十八さんは「黒猫=労咳を治す」という迷信を使います。序盤、雪が猫を探していたという伏線を回収することでここの切り替えを乗り切ろうとするのです。呼べないのに呼ぶ、ということを読者に気にさせないようにしたのです。
とはいえ偶然暇だった町医者が黒猫の言ノ葉を見て労咳のことを考えて労咳患者の雪のことを思い出してその場で言ノ葉を連れて雪の家へ向かう、というのは都合のよすぎる展開です。
「黒猫=労咳を治す」という迷信と伏線であまり気にさせないようにはしていますが、それでも町医者の行動は次の展開のための強引なものとフィンディルは考えます。

病死「町医者に来てもらうが言ノ葉が雪の想いを疑って逃げ出す」→意思疎通「獣神様に契約について教えてもらう」です。
病死ストーリーでは悩みと疑いを抱えて逃げてもらう必要がありますが、意思疎通ストーリーでは言ノ葉が雪としか話せない理由を示す必要があります。
雪の想いに疑いを持った言ノ葉は向かう当てもなく走りますが、何故か理由もわからず言ノ葉は気付けば獣神様の祠にいます。森は言ノ葉の故郷と呼べる場所でしょうからそれは納得できなくもありませんが、都合よく移動を利用した印象は拭えないです。
更に言ノ葉が逃げ出した理由は雪の想いに疑いを持ったからですが、そこで獣神様に訊いたことは「どうして雪としか話せないのか」ということです。
―――――――――――――――――――
 言ノ葉は獣神様なら何か知っているのではないか。そんな淡い期待を抱いて再び獣神様に呼びかけた。

(雪は黒猫を探していたの?)

(別に僕じゃなくても良かったの?)

(言葉を喋る僕じゃなくても、黒い猫なら誰でも良かったの?)

 聴きたいことは山ほどあった。でも、今言ノ葉が一番知りたいと思ったのは、(なんで他の猫や雪以外の人間に僕の声が届かないの?)という疑問だった。

 これが獣神様の言っていた『犠牲』なのか。その事についてだけはどうしても知りたかったのだ。それ以外の疑問は、雪本人に聞けば分かることなのだから。

「獣神様、獣神様。どうか私に再び御声をお聞かせください」
―――――――――――――――――――
と本文中で理由が示されていますが、かなり強引な動機付けに見えました。
本来雪の想いに疑いを持って逃げ出した言ノ葉は雪の想いについて悩み苦しむのが自然です。しかし意思疎通ストーリーの都合のため、言ノ葉の疑問を「どうして雪としか話せないのか」に強引に設定します。
「それ以外の疑問は、雪本人に聞けば分かることなのだから。」というのは特に厳しいです。まるで読者への言い訳のように聞こえます。
ここの部分は明らかに「次の展開のためだから言ノ葉はこう思ったということにしておいてください」という十八さんの声が聞こえてきます。おそらく十八さんも執筆時に自覚されていたのではないでしょうか。ここの動機付けが厳しいなと。

意思疎通「獣神様に契約について教えてもらう」→病死「急いで戻るも雪は亡くなっていた」です。
意思疎通ストーリーでは言ノ葉が雪としか話せない理由を示す必要があり、病死ストーリーでは雪への疑いを晴らして雪のもとへ帰らせる必要があります。
しかし言ノ葉が雪としか話せない理由は契約上の事情であることが明らかとなり、それをもって雪への疑いが晴れるわけではありませんでした。言ノ葉が、雪の想いに抱いた疑いを晴らすための材料は与えられなかったのです。
では言ノ葉はどのように考えて雪のもとへ帰ろうと考えたかというと
―――――――――――――――――――
 雪に連れられ、雪と過ごしたあの家へ。勢いのまま飛び出してきてしまったあの家へ。雪がどんな理由で言ノ葉を拾ったかなんてわからない。たしかにきっかけは町で聴いたあの噂からかもしれない。けど、一緒に過ごした時間は変わらない。ほんの少しの間だったが、確かに雪の隣は暖かかった。

 それに言ノ葉はもう雪以外とは話せないのだ。つまり、頼れるのは、寂しさを感じさせないのは、帰る場所は雪しかいないのだ。帰って、飛び出て行ったこと謝って、仲直りして、又いつも通りに戻ろう。病気だとかそんな事関係ない、居たいから一緒にいるし、それで雪の病気を治せるかもしれないならそれでいいじゃないか。いや、寧ろそれが一番良いじゃないか。言ノ葉はそう思うと、自身の内に蔓延っていた黒いナニカがスーッと消えて楽になったような気がした。そして、それに比例する様に自身の脚も速くなっていくように感じた。
―――――――――――――――――――
とありますが、一言でいうならば開き直りです。雪がどう考えているのかはわからないが、雪としか話せないのなら仕方ない。一緒に過ごした時間は楽しかったし、自分がいて役に立てるかもしれないならいいじゃないか。といったものです。
通常病死のオーソドックスでは何かしらの事実により相手の自分への想いに気付かされて疑いを晴らすという展開が多いです。疑いが晴れることにより、離れようとした自分の行動自体が誤りであることに気付くのです。
しかし本作では雪の想いへの疑いを晴らしたわけではないので、言ノ葉が離れようとした自分の行動自体が誤りであると気付くことができません。自分の行動も抱いた疑いも何一つ解決していないけれども、現実問題雪の傍にいるのがベターであることがわかったので帰ろうか。言ノ葉が帰る動機付けとして非常に強引です。
無理もありません。意思疎通ストーリーでは、言ノ葉がどうして雪としか話せないのかという説明が第一です。雪への疑いを晴らすのは病死ストーリーの都合上必要なものであり、何か工夫をしなければ意思疎通ストーリーにおいて「雪への疑いを晴らす」という要素は入ってこないのです。
しかし病死のストーリーを進行させるためには言ノ葉には気持ちを入れ替えてもらって雪のもとへ帰ろうと思ってもらわねばならない。そこで出されたのが、現実的な開き直りなのです。ここの件にも十八さんの執筆時の苦悩が透けて見えます。言ノ葉の心情描写に文章を重ねて、なんとか説得力を持たせようと苦心されているのが窺えます。

病死「急いで戻るも雪は亡くなっていた」→意思疎通「言ノ葉だけになり誰とも交流できず息絶える」です。
ここは展開のさせ方は当然ですが問題ありません。病死のストーリーでは雪が亡くなる必要がありますし、意思疎通のストーリーでは雪がいなくなって言ノ葉に一人になってもらう必要があります。
雪が亡くなるということそれ自体で展開上の繋ぎはクリアします。
しかしその意味合いは両者で大きな違いがあり、本作はその違いの余波を強く受けてしまっています。
病死のオーソドックスでの死というのは大切な人の死であり、他でもないその人がいなくなってしまったという意味合いがあります。
しかし意思疎通のオーソドックスでの死というのは孤独を指しており、これで意思疎通できる者が全くいなくなってしまったという意味合いがあります。
前者が喪失、後者が孤独でしょうか。
本作では病死ストーリーでは雪の死は喪失を表しているのですが、直後の意思疎通ストーリーは雪の死は孤独を表しています。
ここは畳み掛けのパートなので、雪の死=言ノ葉の孤独という二つの悲しみを畳み掛けているのですが、それぞれで雪の死が喪失であったり孤独であったりと意味合いがブレているので、読んでいて雪の死をどのようにフォーカスすればいいのかと読みにくさ感情移入のしにくさが生まれてしまっています。
また通常喪失から孤独への移行はそれなりの時間が伴うものです。病死のオーソドックスにおいて孤独に言及する場合は、喪失から孤独への移行にはある程度の文章的余裕を持たせます。しかし本作は病死のオーソドックスを完了した後はすぐさま意思疎通のオーソドックスを完了させなければなりません。ですので病死のストーリーの直後に意思疎通のストーリーを置くため、喪失から孤独への文章的スパンがほとんどないままに記されてしまっています。短い間隔で雪の死の意味合いが喪失から孤独へ変換されているので、終盤の情緒が削がれてしまっています。
とはいえ最後の締めの辺りでは、上手く病死と意思疎通、喪失と孤独とを掛け合わせるような文章努力をされているのを窺うことができます。上手い具合に混ざっているのではないでしょうか。

と、以上に例示させていただいた通り、本作では病死のオーソドックスと意思疎通のオーソドックスとの切り替えが上手くいってないように見受けられます。
それにより、特に言ノ葉の心理に展開都合上のテコが入れられており、かなり強引な思考回路が構築されています。おそらく十八さんも自覚されているはずです。
オーソドックスはオーソドックスなだけあって確かな面白さ、確かな感情移入をもたらします。本作は面白いです。フィンディルは終盤を読むと目が潤みます。しかしそれは十八さんの技量というよりは、オーソドックスをそのまま採用したからこその面白さと呼べるものです。オーソドックスをひとつ入れた物語ならばそれでもいいでしょう。
しかし本作はオーソドックスを二つ並走させるという構成を敷いています。ならばこのオーソドックスの切り替えにこそ作者の技量が発揮されるのであろうとフィンディルは考えます。
ここの切り替えを磨き、二つの構成を持ちながらもひとつの淀みのないストーリーが組まれたときが、オーソドックスの並走という構成が輝くときであろうと思います。


●半端に入れられた猫知識

本作は黒猫が主要人物として登場するお話です。
こういう動物が登場する話や異世界を舞台にした話、特定の業界を題材にした話では度々リアリティというのが求められます。
しかしこのリアリティというのは作品に登場する情報全てを現実に従わせるものではないとフィンディルは考えています。飽くまで作品が作品としての面白さを出すうえで、それを著しく損ねない程度に従うものであればいいと考えています。リアリティの程度はその作品によって可変なのです。

ということで本作を見た場合、そもそも猫が人と話せるようになるという大きな非現実があります。この大きな非現実がある以上、基本的なことは「そういう作品だから」で済ませることができるはずです。
例えば言ノ葉が猫にしてはすごく人間的な思考を有するであるとか、猫の知能は人間の2~3歳程度なのにそれにしては賢すぎるとか、そういったようなツッコミは全て野暮と斬り捨てられます。それを言ってしまっては意思疎通のストーリーは成立しませんからね。

しかし、では本作においてのリアリティ的ツッコミは全て野暮と片付けられるのかといわれると、実はそうではありません。
その理由は本作に入れられた猫知識にあります。
―――――――――――――――――――
 今にも泣きそうな目で雪を見つめる。猫は感情で涙を流すことは無いが、その目には確かに寂しさ、孤独感、懇願など様々な思いが渦巻いていた。
―――――――――――――――――――
「猫は感情で涙を流さない」という猫知識です。ここについては猫の実際の知識を用いているのです。そしてこの「猫は感情で涙を流さない」という情報は、終盤でも印象的に用いられます。

しかしリアルな猫知識を用いているとなると、他の箇所が気になります。
例えば
―――――――――――――――――――
 言ノ葉はさっきあった事など忘れ、その日一番の笑顔で雪に抱えられたまま一緒に眠った。
―――――――――――――――――――
とありますが、猫は感情で表情を笑顔にすることはないとされています。感情は仕草にて表現します。
また「黒猫と猫」において他の猫は言ノ葉を見た目によって三日前の黒猫のように見えると識別していますが、猫同士は視覚ではなく嗅覚によって個体を識別しています。お尻の匂いを嗅ぎ合ったり、鼻を近付け合ったりというのは、識別・挨拶・体調チェックといった意味のある行動です。見た目や鳴き声によって挨拶をするということは通常ありません。
という風に、実際の猫とは矛盾している箇所が複数見受けられます。

「猫は感情で涙を流さない」という猫知識が示されずに言ノ葉が涙をボロボロ流していたら、上記で挙げた矛盾も矛盾ではなくなるのです。猫が実際どうかということは置いておいて、本作では猫及び言ノ葉をとても人間的に表現しているのだ、ということで猫のリアリティはほぼ全て門前払いにできます。猫のリアリティは本作においてあまり重要ではありませんから。
しかし「猫は感情で涙を流さない」という猫のリアリティをひとつ示してしまった以上、じゃあ何で言ノ葉は笑顔になってるの? じゃあ何で猫は見た目で識別してるの? と、その他の箇所について疑問を浮かべるのは当然の流れです。本作の猫はとても人間的だけど、唯一「猫は感情で涙を流さない」だけはリアルを採用しますというのは腑に落ちません。
言ノ葉は猫だから感情で涙を流すことはないが、猫だけど感情で笑顔になることはある。というのは創作と現実の線引きがきちんとされていないと判断せざるをえません。本作では猫をどういうものとして表現しているのか、どの程度までリアルな猫を採用するのか、そのラインが整理されていないので、読者は本作の猫をどういうものと捉えたらいいのかがわからないのです。
半端に示された猫知識が、本作における猫観をブレさせてしまっているといえるでしょう。

言ノ葉が人間的な考え方をして知能レベルも高すぎる、というのは構わないと思います。これは猫知識以前の根のレベルのことですから。ここはもうそういう体で書いてることです。言ノ葉が人間の言葉を話せる前にどうして人間達の会話を理解できていたのかも同様です。
ですがそれよりも上の枝葉のレベルで「猫は感情で涙を流さない」というリアリティを示したならば、同じ枝葉のレベルの「猫は感情で笑顔にならない」「猫は匂いで互いを識別する」といったリアリティも同様に正しく示しておく必要があるでしょう。

リアリティを必ずしも示す必要はありません。示さないなら示さないでそういう作品でいいと思います。しかしリアリティを示したのならば、それと同レベルとされるリアリティについては他の箇所も示すべきだと考えます。


●細かいところ
ここからは本文中に気になった細かいところをあげていきます。

・その響きに応えるかのように低く、ずっしりと重い声が小さな祠の奥の方から黒猫を襲う。
その「声」とは「『我、獣神也、貴様は我に何を求める』」を指していますが、これはどう見ても応えてます。「応えるかのように」というのは正しくない言い回しです。応えてますので。
本作では『』は猫か獣の話し声、「」を人間の話し声としており、三人称の語り手は『』の発話内容を認識できているのか曖昧に見えます。もしかしたら三人称語り手は『』の内容を把握できないため「応えるかのように」と表記しているのかもしれません。
しかしその場合は「ずっしりと重い声」と「声」と表記するのはやや不自然です。祠の奥から聞こえる言語にできない音を「声」と表記するのは無理があるからです。言語として把握できているのが前提でなければ、祠の奥から聞こえてくる音を「声」とは表記しないでしょう。

・しかし、彼にはなぜ人の言葉を得たいのか自分でもよく分かってはいななかった。
「分かってはいななかった」→「分かってはいなかった」

・しかし、彼にはなぜ人の言葉を得たいのか自分でもよく分かってはいななかった。
この文章を略すと「彼には自分でもよくわかってはいなかった」となり、文章が上手く通りません。
「彼には」を「彼は」とする方がいいでしょう。

・獣神の警告に即答した黒猫は闇を映す金の瞳を閉じ、獣神の次の言葉を聞くことなく疲労感と共に眠りに落ちた。
会話の途中で言ノ葉が眠ってしまうのはとても大事な要素です。これによって代償を知らずに言ノ葉は契約を結ぶことになるのですから。
しかしどうして途中で眠ってしまったのか、理由が「疲労感」としか示されておらず、非常に弱いです。
どうしてこの場面で言ノ葉が疲労感を得ていたのかについて一切の理由が示されていないですしね。
冒頭で「一日かけてかき集めてきた果実などを供えて」などがあったり「獣神が現れてくれたという安堵で」などがあることで、若干補強することはできると思います。

・清々しい春の風が朝露とともに新緑の葉を揺らす。弥生も終わりかけであと少しすれば夏だというのに
「新緑」と「弥生」では時期がズレているように感じますが、本作は江戸時代らしいので旧暦が使われていると推測できます。
旧暦では弥生は、新暦における三月下旬から五月上旬までを指しますので、「弥生も終わりかけ」は五月初旬頃であると思われます。「新緑」とは初夏の若葉を指す言葉ですので、概ね合致します。
「弥生」と「新緑」に感じるズレは新暦で暮らす私達への小さな遊び心であり、江戸時代という本作の舞台を上手く使ったいい工夫だと思います。

・「居る」「様(よう)」「事(こと)」「無い」「為(ため)」「又(また)」
これらの言葉は漢字表記ではなく平仮名表記にすることをオススメします。
平仮名表記でも文が自然に伝わりますし、逆に漢字表記にすることで文が読みにくくなってしまいます。

・いくつもの花が描かれた薄紅色の着物からすらりと伸びた手は、靡く自身の黒髪を一房指に引っ掛け、困った顔で耳にかけている。
「いくつもの花が描かれた薄紅色の着物からすらりと伸びた」が指す「手」は腕を含めた全体としての「手」ですが、「靡く自身の黒髪を一房指に引っ掛け、困った顔で耳にかけている。」が指す「手」は手首から先の部分の「手」を指しています。この二つの「手」がひとつの文の中で混同されているため、文が上手く成立していません。
この文では着物から後者の意味の「手」が巨大な「手」として直接生えているように解釈することが可能になっています。
文章の改善をオススメします。

・その姿は美しく、また、儚くて一枚の絵の様だった。
「その姿は美しく」「また儚くて」「一枚の絵の様だった。」という三つのブロックだと思うので、読点の打ち方を「その姿は美しく、また儚くて(、)一枚の絵の様だった。」とするのがいいのではないかと思います。

・その質問に答えながら振り向いくと
「振り向いくと」→「振り向くと」

・怪奇現象と言うに相応しい状況
発話という行動を示す以外の「言う」は「いう」と平仮名表記にすることをオススメします。
必要のない場面での漢字表記は文章のぎこちなさを与えてしまいますから。

・猫は自分の言葉が通じる人間を、雪は目の前で喋る珍妙な黒猫、
「珍妙な黒猫」→「珍妙な黒猫を」

・「そういえば君はなんて名前なの?」
・「名前? あ、自己紹介がまだだったね。私は井上雪。猫ちゃんは?」
・「僕の名はね……あ、そっか。僕は言葉が話せるようになっただけで名前はないんだ」
名前を持たない言ノ葉が率先して雪の名前を尋ねるというのは違和感があります。
おそらく人の会話を聞いていた言ノ葉は猫は名前を持たないものだが人間は名前を持つものだという認識があったということなのでしょうが、ならばそこについて補強がほしいです。
自分は猫だから名前なんて持たないのが当然だったが、雪に名前を訊かれることでまるで自分も人間になったみたいだ、など。

・黒猫の周りの温度が急激に下がり春とは思えないほど周囲の空気は冷たくなった。
自分の名前がないことに言ノ葉が落ち込んだことを示す隠喩でしょうけども、それにしては大袈裟な印象があります。比喩が大きく強すぎます。

・「...じゃあ言葉を話すから〈言ノ葉〉は?
・言ノ葉って書いて〈ことのは〉って読むの! ぴったりでしょ」
改行がされていますけども、改行を挟むような場面ではないので、改行せずに続けるのがいいと思います。おそらくミスでしょうか。

・「...じゃあ言葉を話すから〈言ノ葉〉は?
・言ノ葉って書いて〈ことのは〉って読むの! ぴったりでしょ」
小説などでは人名の表記について、説明をせずとも相手に伝わるという暗黙のルールがあります。「ことのは」という音だけで相手に「言ノ葉」と伝わるのです。何故か。
ただそれをせずに敢えて表記について説明することでリアリティのあるやり取りを演出することも可能です。
ですがこの文は、表記について敢えて説明しているにも関わらず何一つ説明になっていません。「言ノ葉って書いて〈ことのは〉って読むの!」では「ことのは」が「言」「ノ」「葉」と表記することを把握しようがありません。「〈言う〉に〈の〉と〈葉っぱ〉で〈ことのは〉って読むの!」などは、敢えて説明するならば最低限求められるところでしょう。
おそらく十八さんは言ノ葉の表記を説明したいのではなく、言ノ葉の読みを読者に説明されているのだと思います。そちらを優先したいのならばフリガナをつけるのが最も簡単に済ませられます。フリガナをつけたくないならば、読者を向いてではなく言ノ葉を向いて説明をすべきですね。

・「当たり前だよ! 私、ちょうど猫を探していたの。だから私たちはもう家族だよ!」
ここを「黒猫」ではなく「猫」としているのは、結局雪がどういう意図で言ノ葉を迎え入れたのをボカす目的があるのかなと思います。「黒猫を探していたの」だと労咳を治すためというのがおよそ確定してしまいますからね。
しかし状況的に雪の意図は労咳を治すため以外は考えづらいです。本作を読む限り、病に侵された雪が森に入ってまでわざわざ猫を探す理由は他に見当たりません。
雪の意図が労咳を治すためならば「猫を探していたの」は不自然な発言です。ただの猫では駄目で、黒猫である必要があるので。
ということで、黒猫を探すと明言せずに黒猫であることを示唆するならば「ちょうど君みたいな猫を探していたの」などにするのがいいと思います。

・そして、雪は言ノ葉を抱え森の中から雪の住む賑わう町から少し離れた小さな村へと帰っていった。
この文は「そして、雪は言ノ葉を抱え森の中から雪の住む賑わう町」まで読んだ時点では「雪は賑わう町に住んでいる」と理解しますが、「そして、雪は言ノ葉を抱え森の中から雪の住む賑わう町から少し離れた小さな村」まで読んで「雪は賑わう町ではなく、そこから少し離れた小さな村に住んでいる」と理解し直す必要があり、手間がかかる一文になっています。
文章全体を書き直すことをオススメしますが、「そして、雪は言ノ葉を抱え森の中から雪の住む、賑わう町から少し離れた小さな村へと帰っていった。」と読点を入れるだけでも読みやすさは向上します。若干ですが。

・「私、貧乏だから言ノ葉に贅沢なんてさせてあげられないの。なのに連れてきてごめんね。」
会話文の終わりに句点がついています。他の会話では会話文終わりに句点がついていないので、ここはミスと判断して差し支えないと考えます。

・雪は言ノ葉に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いく。
「呟いく」→「呟く」か「呟いた」

・こうして、会話ができる一人と一匹の奇妙な生活が始まった。
通常こういったお話については動物側が会話ができることにフォーカスをあてがちですが、会話というのは「複数の人が互いに話すこと」という意味なので、動物と人間については動物のみならず人間も会話できないということになります。
この文章からは言ノ葉も雪と会話ができるし、雪も言ノ葉と会話ができるという意味合いを読み取ることができ、その中立的な見方には好印象を覚えました。言ノ葉の特別を出しすぎない書き方でいいですね。

・何もかもが真新しく、野良猫として生活していては知る事ができなかったものばかりだ。
「真新しい」とは新しいを強調した言葉ですが、一般的にその物自体が新しいことを指します。物として作られたばかりであるとか、物理的客観的なニュアンスですね。
本文では言ノ葉の主観として新しく感じられるということなので「真新しい」よりも「新鮮」といった語彙が適切ですね。

・何もかもが真新しく、野良猫として生活していては知る事ができなかったものばかりだ。
「知る」というのは通常「その物を概要を把握する」というニュアンスがありますので、この文の段階では言ノ葉は部屋にある物がどういう物であるかという把握はできていません。
飽くまでその物の存在を認識しているという程度ですので、「知る」ではなく「見る」がより適当だと考えます。

・「ああ、あそこに乗ってるの? あれは戯作だよ」
・「戯作?」
言ノ葉は「戯作」という単語を知らないのに「戯作」と正しく表記できている点、さきほど述べた「言ノ葉」の表記の件を思い出します。
別に言ノ葉が「戯作」と表記できていたとしてもスルーできるところではあるのですが、「言ノ葉」では表記について言及されていたので、ここで言ノ葉が「戯作」とすんなり表記できる点には違和感を強く持ちます。

・昔、父が一冊だけ買ってきてくれてんだ。
「くれてんだ」→「くれたんだ」

・しかし、言ノ葉の目にはよく分からない記号がたくさん映っているだけに見えたのだ。
「映る」とは光などが反射したりスクリーンなどに動画が現れるという意味があります。ですのでこの文には不適ですね。紙に文字が載っているので。
ならば「写る」なのかというとそうとも考えにくいです。「写る」は物を静止画の状態にそのまま起こすといった意味です。写真や書写などですね。原本から印刷されることで紙に写っているということなら通らなくもないですが、この文ではそういうことを伝えてるわけではありません。
この文ならば「並んでいる」とするのが一番自然に収まるのではないかと思います。

・文字が読めない。その事にいち早く気づいた雪はそんな提案をする。この本は雪のお気に入りだったから、どうしても言ノ葉にも読んで欲しい、知って欲しいと思ったのだ。
東海道中膝栗毛を知ってほしいということだったら、文字を教えずに雪が東海道中膝栗毛の読み聞かせをすればいいんじゃないかな、と思いました。
東海道中膝栗毛に限らず、沢山の物語を読んでほしいということならばその手段として読み書きは重要になってくるでしょうが。

・「じゃあ今日は自分の分だけ作って食べて!
・僕は自分で捕りに行くから」
改行が入ってますね。上のと合わせて二回目なので、もしかしたら意図的なのかもしれません。
改行をする意図は掴めませんが、改行をしてはいけないということもないので、十八さんのお好きなようにしていいと思います。

・れから言ノ葉は三日ほどで平仮名を読めるようになった。
・三日前まで過ごしていた森へと向かった。
「三日ほど」は日数をぼかしていますが「三日前」は日数を特定している言い回しです。
どちらでも全く問題はないですが、およそ三日間なのか、それとも三日間なのかというのは統一しておいた方が無難だと思います。

・狩りをするにおいて、情報収集は欠かせないし、手柄を分かち合わなければならなくなるが、頭数がそろっていた方が効率もいいのだ。
猫は集団では狩りを行わず、単独で狩りを行います。
これも上の項目で記したリアリティに抵触する箇所だと思います。「猫は笑顔にならない」「猫同士は匂いで識別する」と同レベルのリアリティだと判断します。

・その後他の猫にも何度か遭遇したが言葉は通じず、一狩り終えた満足感も、食事のあとの満腹感も溢れ出る虚無感に飲み込まれて感じること事ができなかった。
言ノ葉が狩りに成功したのかどうか、若干把握しにくい文章だなと思いました。
狩りに成功したであろうとは思うのですがいずれも言ノ葉の感覚に焦点をあてた文になっているので、狩りに成功したことを伝えるならもっと明記しておいた方が読者は把握しやすいのではないかと思います。言外に伝える情報でもないですし。

・しかし、雪も言ノ葉の異変に気がついていた。
「雪も」→「雪は」
この場面で異変に気が付いたのは雪だけですので。

・しかし、それかは五日たっても雪の容体は悪くなる一方だった。
「それかは」→「それから」

・皮肉にも、太陽は明るく元気に輝いていた。
雪の症状に対しての皮肉なのでしょうけど、あまり皮肉にはなってないように感じました。

・言ノ葉が医者の住む家に行くと患者はいないようで、医者はお茶を飲んでいた。
まるで言ノ葉は医者の住む家がわかっているかのようなスムーズさなので、「町を探し回って」などの補強が欲しいです。

・聴きたいことは山ほどあった。
尋ねるという意味での「きく」は「聞く」か「訊く」と表記し、「聴く」とは表記しません。
「聞く」か「訊く」のいずれかがいいでしょう。

・どれだけ祈っても、願っても獣神の声は聞こえてこなかった。
・暗い暗い森の中、ふと、獣神様の声が聞こえた気がした。
「獣神」「獣神様」の表記揺れです。呼称については統一しておくのが無難です。読者の気が散ってしまうので。

・『獣神様、獣神様。どうか私の願いを叶えてください』
・『我、獣神也、貴様は我に何を求める』
・『?! ……獣神様、どうか私に人の言葉をお与えください』
・『いいだろう。ただし多少の犠牲が伴うぞ』
・『構いません』
・『獣神様、獣神様。どうか私の願いを叶えて下さい』
・『我、獣神也、貴様は我に何を求める』
・『?!...獣神様、どうか私に人の言葉をお与え下さい』
・『いいだろう。但し犠牲が伴うぞ』
・『構いません』
冒頭の台詞を繰り返している場面なので、ここは全く同じ表記であることが望ましいです。
「叶えてください」「お与えください」と「叶えて下さい」「お与え下さい」で表記揺れです。「~ください」がいいと思います。
「……」と「...」の表記揺れです。他箇所とも揃えるなら「……」がいいと思います。
「ただし多少の犠牲」と「但し犠牲」の表記揺れ。犠牲は多少ではないように思えるので「ただし犠牲」がいいと思います。

・まだ肌寒く森の奥深くまで出歩く者はたった一人を除き誰も居なかった。
・齢十七程、長くのびた艶やかな黒い髪がサラサラとそよ風にのって靡いていた。
・日が沈んでいる為最低でも6時間は過ぎている。
・我の加護では初めにあった人間1人と意思疎通させるのが精一杯だ。
「一人」「十七」「6時間」「1人」と数字についての表記揺れが見受けられます。

・言ノ葉は一瞬戸惑ったが長い間を開けて漸く獣神様が言葉を発した。
「開けて」→「空けて」

・これがあの夜の出来事だと聞かされ、言ノ葉は激怒した。そりゃあそうだろう。そんな大事な所を勝手に決められたのだから。確かに疲れて眠ってしまった言ノ葉にも非はあるだろう。然し、一生を左右するような契約なのに軽い。軽すぎる。しかも当の本人返事してないのに勝手に肯定と捉えられている。巫山戯るなよ……と言ノ葉が怒るのも仕方が無いだろう。
三人称語り手の自我が強すぎる印象があります。話し言葉の雰囲気も出てますね。
この契約について言ノ葉と獣神様のどちらに過失があるかというのは話にとって重要でもありませんし、それまでの語りを崩してでも獣神様を責める必要性は見受けられないです。
過失割合については軽く流していいだろうと思います。

・しかも当の本人返事してないのに勝手に肯定と捉えられている。
「当の本人」→「当の本人が」

・巫山戯るなよ……と言ノ葉が怒るのも仕方が無いだろう。
「巫山戯るなよ」は言ノ葉の言葉や意思なので、漢字表記ではなく平仮名表記が妥当かなと考えます。
割と見ますが難読には違いありませんからね。

・だが結んでしまったのも仕方が無い。
「結んでしまったのも」→「結んでしまったのは」の方が文通りがいいように見えます。

・もう死ぬまで外れることのない契約に気を落としつつも向き合うしかないと言ノ葉は悟ったような顔つきであっそうと呟き獣神様を放置して森を抜けた。
文章の連なりが長いので、句点で区切るか読点で区切るかして調整することをオススメします。

・つまり、頼れるのは、寂しさを感じさせないのは、帰る場所は雪しかいないのだ。
「頼れるのは」「寂しさを感じさせないのは」「帰る場所は」全てが「いない」の主語ですが、「頼れるのは」「寂しさを感じさせないのは」は「いない」と繋がりますが、「帰る場所は」「いない」というのは繋がりの悪い組み合わせです。
「帰る場所は」を「迎えてくれるのは」など、別の言い回しにするのが無難かなと思います。

・飛び出て行ったこと謝って
「飛び出て行ったこと謝って」→「飛び出て行ったことを謝って」

・そっと入口の襖を開けて一歩家に入ってから
「襖」とは木でできた枠組みに紙や布を張った戸のことで、主に建物内の仕切りとして使われます。
この襖が家屋の入口に使われたのどうかはわかりませんが、「入口の襖」よりも「表戸」や「大戸」とした方が無難ではないかと思います。

・その近くに一枚の白い紙が落ちていた。
「落ちていた」よりも「置かれていた」の方が適切かと思います。屋内ですし、雪か医者が言ノ葉に読ませるために置いたのでしょうから。

・自責の念に囚われながらも必死で現実を受け止める言ノ葉の姿はまさに、ヒトだった。
「ヒト」とは人間の社会や文化といった側面を排除した、生物学的言及を行う際の表記です。逆に「人」は人間の社会や文化というのを前提にした表記です。
この文では人間の中の感情面を指しているので「ヒト」ではなく「人」と表記するのが適切かと思います。

・(最後に顔合わせたのは?)
「顔」→「顔を」

・(誰が悪いの?何が悪かったの?)
本作では感嘆符疑問符の後には半角スペースが打たれていますが、この文ではその半角スペースがありません。
まくしたてるために敢えて省いているのかとも思いましたが「労咳という病気? 僕を連れてきた医者? 黒猫が病を治すといった人? 病気にかかった雪や雪の両親? なかなか出て来なかった獣神様?」では半角スペースが打たれておりますので、単純に半角スペースを忘れているだけと判断します。

・雲一つない暗い闇の空には綺麗な星とお月様が輝いていた。
・闇色の空には苦しい位に綺麗な星がひとつ、優しげに言ノ葉の方を向いているだけだった。
さきほどまで月が輝いていたにも関わらず、ここではまるで月がないかのような描写がされています。統一することをオススメします。

・その間ご飯も食べれずそのまま憔悴しきって死んでしまうのだ。
・しかし、一度温もりを知ってしまったらもう孤独には耐えられない。
本作では「食べる」の可能を「食べれない」とら抜き言葉で表記しています。話し言葉ならいざしらず、書き言葉でら抜き言葉はどうなのかという声もあるでしょうが、フィンディルはら抜き言葉は問題ないと思います。
しかし「耐えられない」は「耐えれない」ではなく、らを入れた表記をしているので、こちらではら抜き言葉、こちらではらを入れた言葉と表記上の不統一が見て取れます。
ただし、ら抜き言葉の有用性としては「可能」と「受身」を表記で区別できることなので、「受身」では通常使われない「耐える」ではらを入れて、ら抜き言葉の有用性を示せる「食べる」ではら抜き言葉で表記しているとすれば、筋の通った使い方だとは思います。
つまり、問題はないけどちょっと気になったというお話です。

・黒猫が労咳を治すって聞いて黒猫を探していたのに病気なおせなくてごめん。
「治す」「なおせなくて」の表記揺れです。
他の語彙での漢字と平仮名の表記揺れが散見していますので、表記を統一することをオススメします。文章への没入を妨げる可能性がありますので。

・根拠も確信もない。でもなぜか自信だけはあった。
「確信」がないのに「自信」はあるというのはやや不自然ですので、「確信」は「確証」などにするのがいいと思います。

・井上家之墓の前には痩せ細った黒猫が一匹、寄り添うように倒れていた
句点がありませんが意図的でしょうか。締めなので意図があっても不思議ではないのですが、意図があるならばその意図が掴めませんでした。

異常の信仰/冬場蚕  への感想

異常の信仰/冬場蚕
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
初作品としては意欲的な作品。よくよく読み込めばそれなりの読み応えがあるが、それが本文中にほとんど表れていない。


●初作品としては意欲的な構成

本作が冬場さんの初作品ということで、本感想はそれを前提とした文章にします。

本作の特徴としては同じストーリーを「A-side.」「B-side.」の両視点で描くという構成にあります。
話の顛末を「僕」を通して見たときと「私」を通して見たときに、両者の認識で同じ点と異なる点があり、それにより浮かんでくる真実が楽しむポイントです。
とはいえこういう構成は割とよく見るものであり、これだけを指差して素晴らしいと褒め称えるのは無理があるでしょう。

しかしこれが冬場さんの初作品ということであれば、冬場さんにとってとても挑戦的な作品であったといえるでしょう。
特殊な構成であることには変わりありませんし、通常の起承転結とは気をつけるべき点も違います。
そういった特殊な構成に初作品で挑戦し、書き上げたということ自体がとても価値のあることだと思います。
小説に書き慣れた者が実験的な作品に挑むも、思うように書き進めることができずに没にしてしまうということはままあることです。
初作品で特殊な構成の作品に挑むことは、それと近しい難度があったのではないかと思います。
その挑戦に成功して作品を発表されたことに対して、まずフィンディルは敬意を表します。

本感想の後半にて指摘をひとつさせていただきますが、それは本作の欠点というわけではなく、本作が更に面白くなるかもしれない提案、及び冬場さんの今後の執筆活動に役立つかもしれない提案という受け取りをしていただければ幸いです。


●作品としての見せ方と二人の関係のバランスを取った書き方

本作の「僕」と「私」の関係性を簡単にいうと、「僕」は自分は「私」だけを信仰し「私」は自分だけを見ているべきという考えを有し、「私」は自分は「僕」だけに信仰され自分は「僕」だけを見ていたいという考えを有しています。つまりは概ね「僕」と「私」は同じ想いを抱いた共依存の関係にあるといえます。

そして本作は「A-side.」「B-side.」の二部で構成されていますが、こういう構成は一般的に「A-side.」では見えなかった事実が「B-side.」にて明らかになり読者を驚かせるという話が組まれることが多いです。

本来この二つは相性がやや悪いです。二人とも同じ考えを有しているが、二人目の視点にて何か事実と驚きを用意しなければなりません。「A-side.」と「B-side.」で二人は同じ考えを持つことを示しつつ、新しい事実や驚きを出す。ある程度の工夫が求められる仕事です。

冬場さんはそこをクリアするために、「私」に演技をさせます。
「A-side.」の「僕」の視点では、後半にて「私」は「僕」に怯えているように見せることで、「僕」が「私」に妄信的なストーキング行為を取っているように見えます。
しかし「B-side.」にて怯えの行動は「私」による演技で、「私」も「僕」と同じような考えを持っていることを明かします。
演技つまり嘘をさせるというのは仕掛け方としてはやや安易ではあるのですが、同じ考えがあるのに事実と驚きを出すという目的を上手く達成していると思います。

またここで冬場さんが丁寧に文章作りをされたのだろうなと窺わせる部分があります。
それは「A-side.」にて「僕」を妄信的なストーカーだと見せすぎないことです。「僕」と「私」は相思相愛であるということが「B-side.」の驚きなので、「A-side.」では「僕」は一方的に想いを押し付けるストーカーであると印象付けることが、作品構成にとっては重要です。
しかし「僕」と「私」の物語という視点に立つと、そのようなストーカーであると印象付けすぎてしまうのは不自然になってしまいます。強い共依存の関係なのに片方の視点だとストーカーにしか見えないというのは、読者への驚きを狙いすぎた雑な描写だといえるでしょう。そのように書いてしまうと「B-side.」を見た後に「A-side.」を振り返ったときに、その内容が白々しく見えてしまう危険があります。
そのため冬場さんは「A-side.」にて「私」は本当にストーカーの被害者なのだろうか? と思わせるような描写を入れます。
「彼女の言うことに一切の反論をすることなく、忠実に従ってみたり。」「監禁初日、彼女に詳細な事情を説明すると、快く受け容れてくれた。」といった文は、「彼女」は「僕」の存在を受け入れているように見えます。
しかしストーカーが逆上することを恐れて、あまりストーカーを逆撫でないように対応していると解釈することも可能です。またストーカーの過度の思い込みによる歪んだ解釈と受け取ることも可能です。
ストーカーであると印象付ける描写をしつつも、「これはストーカーではなく両想いなのでは?」と感じさせる描写を入れつつも、ストーカーへの対応やストーカーの思い込みということで解釈消化できるような塩梅にしているのです。引っ掛かりを持たせつつも消化をさせる。「僕」はストーカーだという見方でも、「僕」と「私」は両想いであるという見方でも「A-side.」が不自然に見えないような仕上がりになっています。
読者への見せ方を意識されたということがよくわかります。
実際冬場さんの工夫通りに読者は読んでくれていると思います。初読では「僕」はストーカーのように読めますし、後で「A-side.」を振り返ると「僕」と「私」は両想いであるように読めるでしょう。


●大事なのは演技をしたことではなく演技をした理由

ここからが指摘です。あまり受け止めすぎず「なるほどそういう工夫や考えもあるのか」程度に考えてくだされば幸いです。

本作の「B-side.」の肝は、「僕」と「私」は両想い共依存であったことと、「私」が「僕」を拒絶していたのは「僕」に「私」を殺させるための演技であったことの二点です。
しかしこの二点はシンプルなものであり、読者に面白さと読み応えを与えるにはやや力不足です。二人のドロドロを描くには単純すぎる印象があります。

実はもうひとつ、「B-side.」には大事な点があります。それは「私」が何故演技をしようと考えたのか、ということです。

そもそも「僕」と「私」は同じ考えや思いを有しているように見えますが、決定的な違いがあります。
「監禁」について「僕」は
―――――――――――――――――――
こんな幸せな日々が永遠に続けばいいと思った。
―――――――――――――――――――
としているのに対し、「私」は
―――――――――――――――――――
 しかし、私は更なる信仰を求めた。
―――――――――――――――――――
と思っています。「僕」は「監禁」に十分満足しているのに対し、「私」は「監禁」では不十分だったのです。「僕」は「監禁」によって与える信仰に満足したのですが、「私」は「監禁」で与えられる信仰に満足しなかった。
まずここに大きな違いがあります。満足できる信仰の程度の違い。

そして「私」は「監禁」よりも更に上の、おそらく程度MAXの信仰である「僕に自分を殺させて神になる」ということを考えます。

しかし「私」はその目的を達成するために、演技をして「僕」を煽動するという遠回りな手を取ります。
厚い信仰で結ばれた相手ならば「私」の目的である「僕に自分を殺させて神になる」ということを「僕」に直接依頼してもおかしくありません。「あなたの神になるために殺してほしい」と。信仰程度をMAXにするためですから「僕」が受け入れる可能性は十分考えられます。ですが「私」はそのような依頼をすることなく、演技をして「僕」を煽動する手を取ります。何故でしょうか。
「僕」に直接依頼しても受け入れてくれないだろうと「私」が無意識に判断したから。そう考えるほかありません。
理由として、「監禁」に「僕」が満足しているのを「私」が感じていたからと考えるのが自然です。「監禁」に「僕」が満足しているなら「僕に自分を殺させて神になる」ことを頼んでも、「監禁」を終わらせてしまうような依頼は受け入れてくれないだろうと「私」は判断した。
ですがこれはつまり、「私」が「僕」の信仰に見限りをつけたといい換えることができます。「私」が「僕」に求める信仰は、「僕」に直接依頼しても得られるものではないのだろうと。「私」が求める信仰は、「僕」が出し得る信仰よりも上だということでしょう。

ということで「私」は直接依頼することなく、演技をして「僕」を煽動することにします。そして狙い通り「僕」は「私」を殺害することに思い至ります。
しかしここで両者に決定的な違いが生じます。
「私」が
―――――――――――――――――――
 そして、彼はようやく私の殺害を決意した。恨んだとか、憎んだとか、嫌ったとか、そんな俗っぽい感情ではなく、私を本当の神にするため、決意を固めてくれたのだ。
―――――――――――――――――――
としているのに対し、「僕が」
―――――――――――――――――――
 そして、僕は彼女の殺害を決意する。恨んだとか、憎んだとか、嫌ったとかそんな俗っぽい感情ではなかった。この行いが僕の信仰を再生するに違いないと確信したのだ。僕の神が落ちぶれたなら、僕が殺して、信仰を永遠のものにしよう。
―――――――――――――――――――
としているように、「僕が私を殺害すること」に見出している意味が両者で違います。
「私」は「僕が私を殺害すること」の意味は「正真正銘の神になって僕からの信仰を最上のステージに到達させること」と見ています。信仰の程度をMAXにするのです。
が「僕」は「僕が私を殺害すること」の意味は「落ちぶれた神により失われた信仰を再生させて永遠のものにすること」と見ています。ゼロになった信仰の程度を今までの水準に戻すのです。
「私」が命を賭して行った信仰の程度をMAXにさせる作業が、「僕」にとってはゼロからの復活でしかなかった。「僕」の信仰がゼロになったのは「私」が演技をしたことが明確な原因なので、「僕」にとっては演技によってゼロになった信仰を殺害によって元の水準にまで戻したというだけにすぎません。文字通り致命的なすれ違いです。

しかし「私」はこのすれ違いを想定していたのではないかとフィンディルは考えます。
というのも「僕」から離れたがっているような演技をすれば、「僕」が上記のように考えることは想像に容易いからです。「僕」から離れたがれば「僕」は信仰の程度をMAXにするためではなく、壊れかけた信仰を修復するために「私」を殺そうとするだろうと。「僕」から離れたがる演技をすることで、「僕」が信仰の程度をMAXにするために殺そうと考えるだろうというのはやや飛躍した考えです。緊急事態への対応として殺害を選ぶであれば、それは更なるステージへの追求心からではなく、事態の打破という必要性によるものでしょう。
それは演技をするにあたって「私」も十分承知のことではないかと思います。
―――――――――――――――――――
 ああ、ようやく彼の神様になれる、早くそのナイフで私の首を。
 「さようなら、僕の神様」
 彼が独りごちる。
―――――――――――――――――――
と「さようなら、僕の神様」にて「僕」が「私」を神にしようとしているわけではないことを察することができます。今から本当に神にする相手に「さようなら、僕の神様」とは言わないですから。この発言によって「私」は、自分と「僕」とで殺害に見出している意味が違うことを知ることができるはずです。
ここで「私」が両者のすれ違いを想定していなければ何らかの反応を示すでしょう。しかし「私」は反応を見せません。
「私」は自分と「僕」とで殺害に見出している意味が違うことを想定及び承知したうえで、「僕」に自分を殺させたのではないかとフィンディルは考えます。

では何故「私」は殺害に見出している意味が違うことを承知したうえで、演技をし、「僕」に自分を殺させたのか。
ここからはフィンディルの解釈なのですが、「私」は「僕」に殺害されて神になると自身が思えることが重要だったのではないかと思います。「僕」が「私」を信仰程度をMAXにするために殺そうが失われた信仰を復活させるために殺そうがそれは「私」には大事ではなく、とにかく「私」を信仰する「僕」が自分を殺害するという行動そのものが大事なのかもしれません。「私」は、「僕」が殺害に見出している意味は考慮せず、自分が殺害に見出している意味にのみ注目していたのかもしれません。
そこから見えるのは自己愛です。「恋に恋する」というありがちな考え方。その相手が誰でもよく行動の意図もどうでもよく、ただ○○をしてくれたという事実に着目する考え方。自分が○○になれた○○のようだと思えることに着目する考え方。
他でもない「僕」が「僕」の意思で「私」を神にすることが重要なのではなく、自分を信仰する誰かが自分を殺すという行動で自分が神になったと思えることが重要だったのかもしれません。
そう考えるとそれは信仰どころか愛よりも低次の、ひたすらに若くて初心な自己愛といえるかもしれません。

あるいは「監禁」に満足している「僕」に静かな幻滅を抱いたのかもしれません。その時点で「僕」の信仰の動機には関心をなくして、「私」自身が考える信仰を成就させることに考え方をシフトさせたのかもしれません。

というのが私が本作から読み取った流れです。これはフィンディルの深読みかもしれませんし、冬場さんが隠し入れていたことなのかもしれません。
しかしこのフィンディルの解釈が冬場さんの想定していたものであろうとなかろうと、ひとついえることは描写が足りないということです。
上記をまとめると「監禁に満足した僕と満足しなかった私」「直接頼まずに演技をして煽動した理由」「殺害に見出す意味が両者で違うこと」「意味が違うことを私が承知して演技した理由」の四つが出てきて、これらは「私」が演技をした理由と深く関わっています。演技をしたことではなく、どうして演技をしたのかがとても重要なのです。
しかし
―――――――――――――――――――
 そして私は強欲にも、彼に殺してもらい、本当の意味で彼の神になることを願った。
 だから私は彼の信仰心を煽動する態度をとった。
―――――――――――――――――――
と演技をした理由が実は一切描写されていないのです。一見「そして私は強欲にも、彼に殺してもらい、本当の意味で彼の神になることを願った。」が理由のように思えますが、上述の通り何故直接頼まなかったのか、何故そのための手段が演技だったのかという疑問が生じます。更にこの演技をしたことで殺害に見出す意味が両者で食い違いますが、それは「私」は想定できるものであり、何故それでも敢えて演技をしたのかという疑問が生じます。
これらの疑問については上述にてフィンディルが推測させていただきましたが、読者の推測ではなく本文中に示すことができる部分なのではないかと思います。

本作ではどうして「私」が演技をしたのかという理由は描写が省かれ、代わりにどのように演技をしたのかという行動に描写が費やされています。
それによって演技をしたという事実にのみ読者が注目してしまい、その代わりに登場人物の内面描写は物足りないという印象を得てしまいます。
しかしよくよく読み取れば、上述のように「私」の内面を深く掘り下げることができるのです。最終的に「私」の言動は自己愛にすぎず、信仰とは程遠かったなどという解釈さえできてしまいました。
その「私」の内面の深さを本文中にて描写できれば、今よりずっと読み応えのある作品になったのではないかと思います。
冬場さんが「私」の内面を把握していらっしゃったなら書き方をもっと密に深く、把握していらっしゃらなかったのならキャラの掘り下げをより深く行えば、作品はもっと面白くなると思います。


●細かいところ
ここから本作で気になった細かいところを挙げていきます。

・第1話 A-side.
・第2話 B-side.
「A-side.」「B-side.」でいいのではないかと思います。「第1話」「第2話」は若干重複表現にも見えますし、省いていいと思います。

・関係が一線を越えたことで、彼女への信仰は一線を画した。
・僕も今までのような擬似的で児戯的な真似事ではない
・僕の猛進的な妄信は儚くも喪われてしまった。
これらの言葉遊びですが、不要なのではないかと考えます。言葉遊びを入れる必要を感じず、ただ浮いているだけに見えます。
「僕」だけが行っているので「僕」のキャラ付けなのだろうとは思いますが、それでも本作には言葉遣いによるキャラ付けは重要性が低いです。
また「関係が一線を越えたことで、彼女への信仰は一線を画した。」は「私」も「一線を越える」「一線を画す」を使っているので、キャラ付けとしても機能していません。

・それはもはや崇拝と言ってもいいほどに。
発話以外の「言う」は「いう」と平仮名表記にするのをオススメします。
漢字表記が多くなると文章のぎこちなさに繋がりますので。

・彼女が僕以外の人間と同じ空間に存在することなど赦せるはずもなかった。
「許す」ではなく「赦す」としているのはこの話が信仰を題材に扱っているので、宗教的なニュアンスを帯びさせたかったのではないかと思います。
しかし「赦す」とは上位の者の行動にあてはめることが多く、こと信仰のニュアンスならば通常神が取る行動です。
ですがこの文の主語は「僕」でいわば宗徒なので、「僕」が「赦す」という語彙を使うのは不自然です。「許す」がいいでしょう。
あるいは「僕」が信仰の真似事をしているということを表現するのならば、「赦す」でもいいと思います。

・黄金比により設計されたと錯覚するほど均衡のとれた美しい肢体も
「(何者かの意思で)設計された」のが錯覚であって「黄金比により」というのは錯覚とはいえません。およそ人の身体のバランスについては黄金比と呼ばれるものがあるでしょうから。
錯覚と呼べないものと錯覚と呼べるものを混ぜて「錯覚するほど」が用いられているので、読みにくさを感じます。

・黄金比により設計されたと錯覚するほど均衡のとれた美しい肢体も
「均衡」とは「二つまたはそれ以上の物事の間で、力や重さなどの釣り合いがとれていること」という意味です。要はバランスのことなので誤りのない使い方に見えますが、ニュアンスとして「均衡」は勢力や人間関係など抽象的なものに対して用いる語彙です。
こういう体つきなどの具体的なバランスに対しては「均整」という語彙を用います。

・僕の信仰を享受してくれればそれでよかったのだから。
「享受」とは「受け入れて自分のものとすること」という意味ですが、信仰ならば一般的に神→宗徒に対して用いる語彙です。
しかしここでは「僕(宗徒)」→「私(神)」に対して用いており、順序が逆です。
上記の繰り返しですが、信仰の真似事という表現ならばこれでもいいと思います。

・僕から彼女を奪うことは彼女でも赦せなかった。
・そして、僕は彼女の殺害を決意する。恨んだとか、憎んだとか、嫌ったとかそんな俗っぽい感情ではなかった。この行いが僕の信仰を再生するに違いないと確信したのだ。僕の神が落ちぶれたなら、僕が殺して、信仰を永遠のものにしよう。
「僕」の考え方について簡単な考察を挟みます。
「監禁」にて自分の満足する信仰ができていた「僕」ですが、「私」が自分から離れたがることで「僕」の信仰は崩壊の危機に瀕します。そのため信仰を再生させるために「私」の殺害を決断します。
これはストーカーが相手に拒絶されて殺害することとは若干違うように感じます。自分の好意を拒絶されて「酷いことをされた」と曲解して逆恨みしたするのがストーカーで、これは被害者意識による報復と呼べるようなものでしょうが、「僕」は報復をしたわけではありません。
「僕」が大事にしていたのは「僕から彼女を奪うことは彼女でも赦せなかった。」とあるように「私」ではなく「私」への信仰であり、それが失われつつあることを食い止めたかったから殺害したのでしょう。つまり「僕」は自分の信仰を守りたかった。
冒頭に「信仰とは愛情より高次のものだと思った。だから僕は、彼女を信仰することにした。」ともあるように、信仰をする自分がまず先で、「私」の存在はその後なのです。「私を殺害すること」に際して「僕」が「私」を気遣うようなこと(永遠のものにすれば「私」も嬉しいだろう、などという意味の気遣い)が皆無というのも説得力を上げます。「僕」は「誰かを信仰している自分」が大事であり、それを保つために「私」を殺害した。
そこから見えるのは自己保身です。自分のアイデンティティを死守しようとする行いです。「私」が自己愛なら、「僕」は自己保身。案外共依存とは自己と自己の利益が合致しているだけなのかもしれませんね。
自分の欲を追求した「私」の自己愛と、自分のアイデンティティを死守した「僕」の自己保身とで。そんなお話なのかな、とフィンディルは受け取りました。幼稚かつドロドロしていますね。

・そして、決行日。奇しくもその日は彼女の誕生日だった。
「決行日」の決定は完全に「僕」の自由選択なので、それが偶然にも「私」の誕生日だったというのはやや都合がよすぎるように思います。それぞれの巡り合わせでこの日しかなかったのならわかりますけど、「決行日」は「僕」の気分次第ですからね。誕生日を一切意識せずに決定したというのは不自然さを感じます。

・真っ白なホイップクリームが場違いに綺麗だ。
部屋の描写が一切ないので、「場違い」というのはやや違和感があります。
殺害する日には場違いだ、ということなのでしょうけども別の言い回しの方がいいのではないかと思います。

・後ろ手に隠していたナイフを取り出す。ぬらぬらと艶かしい光を反射するそれは、とても冒(涜の常用外)的な姿をしていた。
本文中に使われている「ぼうとく」の「とく」ですが常用外であり環境依存文字でもあります。この表記では使えない場所があるでしょう。
「冒涜」と表記するのが望ましいです。

・粗野で性のこと以外を考えることの出来ない、下品な脳みそをぶら下げた男も。男を誘惑して自分の価値を高めようとする好色で卑しい女も。立場を利用し、生徒に手を出そうとする下等な教師も。自分の思い通りに子どもが動かないと情緒不安定になり、喚き散らす身勝手な両親も。利用できない人間はすぐに見限る不誠実な友人も。先輩も、後輩も。犬も、猫も。動物という動物も、生物という生物も。何一つ、彼以外、目に入れたくなかった。
「男」「女」「教師」「両親」「友人」「先輩」「後輩」「犬」「猫」「動物」「生物」という順序で綴られていますが、「男」「女」「犬」「猫」「動物」「生物」が普遍的な存在であるのに対し、「教師」「両親」「友人」「先輩」「後輩」とはおそらく「私」の周囲の特定個人(達)を指しているのではないかと思います。
そうすると、普遍→個人→普遍という順序になってしまい、若干の読みづらさが出ています。「男」「女」は個人の後に並べてもいいのではないでしょうか。

・そして、事件の日。奇しくもその日は私の誕生日だった。
今日が殺害を行う日であることは「私」はそのときにならないとわからないはずなので、ここで「事件の日」とするのは不自然です。

・後ろ手に隠していたナイフを取り出す。ぬらぬらと艶かしい光を反射するそれは、とても冒(涜の常用外)的な姿をしていた。
・彼はそんな私の姿に耐えきれなくなったのか、後ろ手に隠していたナイフを取り出す。ぬらぬらと艶かしい光を反射するそれは、とても魅力的な姿をしていた。
基本的に「僕」と「私」とで物事の描写は同一に揃えられていますが、ここのナイフの描写は「僕」と「私」とで全く違う印象を得ています。「僕」は「冒涜的」、「私」は「魅力的」と。
「魅力的」なのはすぐに理解できます。自分の目的が達せられそうなので。
しかし「冒涜的」というのはやや解釈を要する言い回しです。「僕」が「私」を殺害するのは自身の信仰を再生するためですが、その行動の象徴が「冒涜的」なのです。「冒涜」とは「神聖なものや清純なものをけがすこと」という意味ですが、「僕」は信仰のために冒涜を侵すということになります。
これは「僕」は本当は信仰にもとるような行いをしたくないという気持ちを表現しているのか、あるいは信仰のためならば冒涜も辞さないということを表現しているのか。おそらく後者でしょうか。
「殺害」が信仰に則った行為ならば「冒涜」という言葉は使わないでしょうからね。「冒涜」という言葉を使うなら自身の行為が信仰に反する「冒涜」であると自覚していることになります。
自身の信仰は神や冒涜にも勝るという倒錯的な価値観を持っていることになり、「僕」の異常性を垣間見ることができます。

・血が失われる感覚が妙に生々しい。
自分が死に行くときの表現で「生々しい」というのは、若干表現が雑かなという風に思います。
作者が書いている感覚が浮かび上がってきてしまいますので、もう少し表現を磨くことをオススメします。

・彼女は最後に僕を見て微笑む。
・死ぬ直前、私は顔を上げて彼に微笑んだ。
ここが「私」が演技を解除したところです。自分の死がおよそ確定してから演技を解除する。
「私」からすると、自身の目的を達せそうだからですね。殺害されるという事実自体が完成するならば、その後「僕」がどのように考えても「私」には関係ないと読み取ることができます。上述の通り殺害に込める「僕」の意思は関係ないという「私」の自己愛を見ることができます。
ですが「僕」がこの笑顔に反応を示していないのがやや疑問です。演技をしたのならば神は落ちぶれていなかったということなので殺害をする必要性もなくなりそうなものです。
いずれにせよ「僕」の思い込みでもいいので、何らかの「僕」の反応がほしいところです。最後の一瞬だけ神を取り戻してくれた、とか。

鵺と私/F。  への感想

鵺と私/F。
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
ジャンルの組み合わせ、構成、対比と数多くの魅力を備えた作品。ただし見せ方の問題でその魅力が十分に届けられていない。


●時代で着膨れした文章

本作はどういうお話であるのか、本作の終盤にまとめられています。
―――――――――――――――――――
これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。
―――――――――――――――――――
この文の「だけの」というのが印象的ですが、よくよく見ると確かにそれだけの物語です。しかし読み終わった読者はこの「だけの」に対して「いやいや」という印象を抱くでしょう。
本作にはもっと多くの要素が詰め込められているように感じられるからです。
しかしこの印象を抱いた先の直感的な評価は二種類存在します。
「この話は濃い物語だ」「この話は大きい物語だ」の二つです。勿論この二つを同時に感じられた方もいらっしゃるかと思います。
そしてフィンディルは「この話は濃い物語だ」には好印象を、「この話は大きい物語だ」には悪印象を抱いています。

「濃い物語だ」は「私」の行動と「鵺」の存在、そして「私」が「鵺」を殺そうとしたこととそれが原因で「妖」になったこと、それらに込められた含意を指しています。
対して「大きい物語だ」とは明治の日本の動きや昭和の終戦など、物語の背中を通っている社会の動きのことを指しています。

「濃い物語だ」は「これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。」と密接な繋がりがあります。「妖」の血を浴びたのは「私」が「鵺」を殺そうとしたからですし、込められた含意も全て「私」の行動が起点となっています。この文を骨とするならば「濃い物語だ」が示すものは肉でしょうか。話の骨を引っ張ったときに、この「濃い物語だ」という肉が一緒についてきます。そしてこの肉は、F。さんの手により作られ育てられたものです。
対して「大きい物語だ」は「これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。」とは直接関係ありません。明治の社会の動きや昭和の終戦については飽くまで本作とは別のラインで進行していく事象ですから。例えるなら服です。話の骨を引っ張ったときに、この「大きい物語だ」という服は一緒についてきません。そしてこの服は実在の日本の近現代史ですので、既製品を持ってきたものです。

本作は話の骨に構成や含意を貼り付けて深みを持たせ、更にその上に明治・昭和という時代のワイヤーが通った厚い服を着せることによって濃くて大きい物語を生み出しているのです。
読者が肉に着目したのか服に着目したのか、肉に着目すればいい評価ですが、服に着目すれば改善点を思うのかもしれません。肉に着目した方なら「シンプルなストーリーなのに、すごく奥深いものを感じる」と思われるでしょうし、服に着目した方ならば「シンプルなストーリーなのに、関係ない要素でバランスの悪さや文章の薄さを感じる」と思われるかもしれません。

しかし話に直接関係ない時代のラインがあること自体は何ら問題はないはずです。明治及び昭和という時代を示すことができますからね。話に関係のない要素は余計だ、というのは暴論でしょう。
では何故フィンディルは「大きい物語だ」、つまり明治・昭和の時代を感じさせる部分に対して悪印象を抱いているのか。

F。さんが本作に明治・昭和の時代を示す文章を入れた意図は、別の方の感想への返信でも仰られていましたが、キーワードによって時代を連想させるという意図があります。また雰囲気を出すためという意図もあるのかもしれません。作中に太い背景を通して、同時に作中に雰囲気を出す。
しかし「時代を連想させる」という目標については、達成しすぎているように映ります。100%どころか、200%くらい達成してしまっている。過ぎたるは及ばざるがごとしとあるように、過達成は未達成と同義です。
過達成になっている原因は、言葉の質と出し方にあります。
本作において明治を示すものは「フロックコート」「文明開化」「何でも、今度の戦~広島に置かれた議会。」、昭和を示すものは「八月十五日。」「玉音放送」「満州」が見当たります。
「フロックコート」という明治の示し方は上手いと思います。服装というのは文化ですから、「フロックコート」が明治~大正の男性服装として着られていたという情報を知ると、ふわっと明治の香りがします。明治の連想のキーワードとしてとても上手いと思います。

しかし「何でも、今度の戦~広島に置かれた議会。」という件は日清戦争を指していますが、こちらは力が強すぎるキーワードです。日清戦争というキーワードは明治を連想させるどころか、その先の色々な情報や情景すら連想させてしまう情報だからです。
ただし後の項目で触れますが、日清戦争は人が戦争をするという要素を持つ重要なキーワードですので、出すこと自体は必要なことです。
ただ出し方がよくないと思います。F。さんは明治を連想させて同時に人が戦争をする要素も出すという二つの目的を満たす日清戦争を、文章を割いて強めに示しています。広島に議会を置いたという情報を添える辺りによく表れていますね。
更に「鵺」の発言が日清戦争を指しているということを読者にはっきりと把握させるために「私」に「今度の清との戦争。広島に置かれた議会。」「明治に入って、初めての対外戦争。」と独白させ、読者用の解説までさせています。
複数の役割を持ち、しかも作品構成にとって重要な意味合いもある日清戦争を、抜かりなくきちんと強調して示しておきたい。そういうF。さんの意図を窺うことができます。
しかし先にも述べましたが日清戦争というキーワードは明治を連想させるには強すぎて不適です。また人が戦争をする要素を印象付ける場合は広島議会など具体的な情報でなくても、抽象的な言い回しでも十分可能です。日清戦争とはっきりといわず「今度は大陸と戦をするようだ」程度の情報に抑えても、人が戦争をするという概念自体は問題なく十分伝わるのです。また時代が明治ということを把握していれば、大陸との初戦争=日清戦争であることは問題なく理解できます。
広島議会という情報や読者向けの解説まで添えて日清戦争に文章を深く厚く使うことは、明治を連想させるという目的には過達成で不適切ですし、人が戦争をする要素を印象付けるには必ずしも必要でない作業です。
日清戦争が強いキーワードであることを自覚して、明治を連想させすぎないように薄く抽象的にしても、人が戦争をする要素を印象付ける目的の邪魔をしません。
勿論読者にそれが日清戦争であることを把握してもらうのは必要ですが、本作のように「これは日清戦争だ」とはっきり解説するのと、示唆により読者に「日清戦争のことだな」と気付かせるのは大きな違いがあります。前者は作中の文章ですが、後者は作中から読み取れる情報なので、読者の連想の伸びしろが全く変わります。作中に「日清戦争」と書けば読者は日清戦争をスタートにしてあれこれ連想してしまいますが、作中に日清戦争を示唆する文を書けば読者は日清戦争をゴールにした連想を行い、その先までは連想をしません。
「明治を連想」させるという目標を達成させすぎない工夫が求められていたように思います。

強いキーワードを用いたことによって連想が大きくなり、結果話自体も大きくなっています。しかもこの大きくなった部分は本作が求める連想の程度を超えてしまっているため、その先は無駄な領域です。しかもこれは実在の近現代史なので作品としてはみなされません。歴史物などは実在の歴史と話を密接に絡ませることで歴史と話を融合させてますからね。「時代を連想」で達成しすぎた部分によって話自体が不必要に大きく見えているので、作品のバランスが歪に感じられて、またその「時代を連想」に圧迫されて他の文章が薄く感じられ、フィンディルは悪印象を得ているのです。
「時代を連想」という目標を100%達成したならば時代のジャケットを一枚羽織る程度で済むので作品の格好がついてバランスは崩れませんが、200%達成しているのでワイヤーの通ったしっかりした衣装を着て着膨れしているように見えるのです。1500字には1500字が着る服のサイズというものがあるのでしょう。
結果、
―――――――――――――――――――
これは、私が妖の血を浴び、妖となり、妖とともに生きることを決めただけの物語。
―――――――――――――――――――
を見たときに得た余韻の質が、フィンディルは低く感じました。
「濃い物語だ」から感じた作品の深みと「大きい物語だ」から感じた作品の贅肉で、なんとも中途半端な読後感となってしまいました。


●語彙を置くだけでは、雰囲気出しは足りない

時代のキーワードを出す意図としてフィンディルが予想しているのが「時代を連想させる」「雰囲気を出す」の二点ですが、この「雰囲気を出す」というところは実は不足しているのではないかと思います。
F。さんは本作の雰囲気出しについて語彙を用いることで対応しています。先にも出した「フロックコート」を始めとして「竹林」「蔓帯紋の着物」「高下駄」「鵺」「細君」「匕首」といった語彙を用いて雰囲気を出しています。
なお日清戦争などのように時代性の強いキーワードは本作が求める雰囲気とは異質な雰囲気を出しています。この雰囲気により多層的な色合いが出てはいるのですが、パワーバランスとして理想は本作の雰囲気勝ちで日清戦争の雰囲気は控えめがいいのに対し、現状では日清戦争の雰囲気勝ちになっているので、そういう点でも日清戦争をもっと抑えめに書き出すのがいいのではないかと思っています。飽くまで本作の本筋の雰囲気が主で、ですね。

話を戻しますが、本作の雰囲気出しは語彙を用いて行われていますが、実はこの方法では雰囲気出しが不足しているのではないかとフィンディルは見ています。
文章全体で見た場合、語彙は点のようなものです。点では作品という立体の雰囲気を出すには力不足です。また語彙というものは、造語は別ですが、ほとんどは作者が作ったものではなく既製のものを使います。ですので語彙をそのまま置くだけではその作品のその作者の雰囲気を出すということは十分にはできないのです。
例えば冒頭で「竹林」という語彙を出しいかにも伝奇という雰囲気を出したのはいいのですが、最初に描写を入れただけで後は「竹林」という語を出すばかりで「竹林」という語彙に頼りきりになっている印象があります。
また「蔓帯紋の着物」「高下駄」も最初に「鵺」の容貌描写として出したっきりで、その後「鵺」が着物を着ていると感じさせる文章は一切ありません。
「匕首」もそうですね。「私」が使う武器として「匕首」を持ってきましたが、武器を「匕首」にしただけでこれも語彙頼りです。
多くの箇所で語彙をそのまま置いているだけで、その語彙そのものが持つ雰囲気に頼りきりになっているというのが文章を読んだ印象です。そのため雰囲気の出方にムラがあり、また力不足を感じます。
語彙という点で雰囲気を出すのではなく、文章という線や場面という面で雰囲気を出すことで作品全体に雰囲気が満ちるようになるのではないかと思います。
既製品の語彙ではなくF。さんご自身が作り出す文章を主としないと、その作品のその作者の雰囲気というものは出ません。

例えば「竹林」ならば「鵺」を斬り付けて血が噴き出して倒れた場面で鵺の血が落ちた笹を染めていくという一文を入れるでもいいですし、「私」が逃げる場面で竹を避けていく一文を入れるでもいいです。
「蔓帯紋の着物」「高下駄」ならば「鵺」が動作をするときにちらりとこれらを入れた文節を混ぜたり、倒れたときにも文を入れてもいいです。
「匕首」はなかなか活かすのは難しいですが、逆にこちらは使用回数を減らして雰囲気出しを頼らなかったりなどですね。現状は「匕首」を使いすぎでしょう。

別に気合を入れた描写をしろということではないのです。雰囲気のためだけの厚い描写は本作にはかえって逆効果になるかもしれません。ですが「鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。」を「鮮血が迸る。彼? はそのまま落ち笹の上に倒れた。」にしたり「私は凍りつく。奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。」の後に「フロックコートが脈打ちながら膨らむ。」を入れたりなど。短くも効果的な、気が利いた文節や一文をちりばめるということが、本作の雰囲気出しに貢献するのではないかと思います。
他にも「私は話を切り出す。」「私は彼? の顔をのぞき見る。」「私はもう一度尋ねる。」というなんでもない文章には工夫が見られません。こういった何でもない文章にも神経を通して工夫を施して、ちょっとした香りが出るような文章にされるといいのではないかと思います。
本作が中編や長編ならば全ての文章を凝るというのは読み疲れてしまいますが、1500字ですから読み疲れる前に読み終わりますからね。それにこういった小さな工夫は描写を凝るとはまた別のお話です。
描写を足して文字数を足していこうということではありません。また設定や情報を足していこうということでもありません。ひとつひとつの文章にも工夫を施して磨いて、あらゆる方向から雰囲気を出していこうということです。

なお本文章中で本作の文に例示としてフィンディルの描写を足させていただきましたが、それらはフィンディルが即興で考えたものであり、決してこのようにするといいという例示ではありませんのでご注意ください。もし文章向上に着手されるならば全く別の言い回しに挑戦することをオススメします。

(誤字誤用の修正という範囲を逸脱した文章加工をしたのは、大仰な描写を入れるのではなく小さな工夫を施すということを示すためにいたしたものです。そのような意図はありますが、作者様の文章に対して無断で度を越した加工を施してしまったことを謝罪いたします。申し訳ありません)


●「明治→昭和もの」と「不老もの」の面白さ

本作の面白いところ、及び本作のオリジナリティです。
読者の中には本作を「明治もの」と捉えられている方もいらっしゃるかもしれませんが、本作は「明治もの」ではなく「明治→昭和もの」です。
明治から始まり昭和で終わる作品です。私はここに面白さを感じました。

作中の時間の範囲は事実上明記されていまして、日清戦争の1894年から第二次世界大戦終戦の1945年までの約50年です。
思えば日清戦争が始まって第二次世界大戦が終わるのがほぼ50年というのも新しい気付きで、ここ自体にも面白さを感じます。
しかし50年です。人間の寿命はおよそ50年を超えますので、著名人物の一代記でも描けば「明治→昭和もの」というのはありますでしょう。
そしてもうひとつが「不老もの」です。主人公などがとある事情で不老になってしまい、年月を無為に過ごしてしまう。友人や家族などとは死に別れてしまい、老いず死なずの運命に苦悩する。こちらはまあ氾濫している作品設定ですね。

しかしこの「明治→昭和もの」と「不老もの」が掛け合わされるととても面白い読み味を発揮します。
通常「明治→昭和もの」というのは人物の一代記になることが多く、その時代時代の様相に強く影響を受けます。時代を反映した生き方、あるいは時代に影響を与える生き方と、とにかく時代を強く生き抜き時代に影響を与えた人物を骨太に描きます。
一方「不老もの」の登場人物は年月を無為に過ごします。そして本作の「私」も不老ゆえに家族に先立たれ、終戦の玉音放送を遠くで聞いています。時代の大きな変換点であっても不老を有したものは時代を無為に生きるのです。これがとても面白いですね。通常ならば人生の大きなこととなる終戦が、人生がどこまでも続く「私」には響かない。
「明治→昭和もの」が通常掲げる「激動の数十年」が「不老もの」と掛け合わされることにより「ただの数十年」になるのです。

また日清戦争から第二次世界大戦終戦までは五十年あります。通常人間というのは50年あれば人生のライフステージは大きく変わり、人生観や考え方も大きく変わります。
日清戦争で0歳なら終戦では50歳、日清戦争で10歳なら終戦では60歳、日清戦争で20歳なら終戦では70歳……とどういう場合に照らし合わせてみても、日清戦争時点と終戦時点では老いも考えも様々なことが変わってきます。若くして体験した日清戦争と年老いて体験した第二次世界大戦と、見え方が違ってくるのは当たり前だろうと思います。
しかしここに「不老もの」が入ると日清戦争も終戦も同じ年で迎えることになります。同じ容貌で迎えますし、考え方は変わるでしょうがそれは年による考え方の変化ではなく不老による考え方の変化です。通常の「明治→昭和もの」では有り得ないような視点観点で、日清戦争と終戦の両出来事が迎えられるのです。
「私」は変わらないのに時代は変わっていく。日清戦争と終戦を同じ姿で見る。そこに妙を強く感じます。

また逆に「不老もの」から見た場合でも面白さがあります。通常「不老もの」は1000年や10000年が軽率に経過するほど、年月というものが軽んじられます。経過年数は重要ではなく、すごく長い間というのが重要ですからね。
しかし本作では経過する50年に通常の「不老もの」にはない余韻が含まれます。読者は「明治から終戦までのあの50年なのか」と強く認識することができますからね。「私」にとってこの50年が「ただの50年」であったとしても、読者にとってはこれは「ただの50年」ではありません。明治からいきなり終戦に飛んで驚きを覚えた方も多かろうと思います。

「明治→昭和もの」単体でも「不老もの」単体では得られない読み味が、掛け合わされることによって生み出されているのです。とても面白いと思います。上手く合わせたなと思いますね。
そもそも「不老もの」でもない限り「明治→昭和もの」という厚い題材を1500字で扱うことはほぼ不可能ですからね。「不老もの」のお陰で「明治→昭和」を「ただの50年」にすることができたのです。

またもうひとつ面白い点があります。
通常戦争を扱う際は、満州事変や日中戦争など1930年代を始めとして1945年まで描きます。しかし本作では1890年代の日清戦争を始めとして1945年まで描きます。
単純にこの切り取り方が目新しいなと思いましたし、第二次世界大戦だけを指して戦争を表現するよりも、日清戦争から含めて戦争を表現する方がより人間普遍の業というものが際立ちます。「鵺」の人に対しての見方とも合致しますね。
また「不老」という設定が持つ「時代を広く長く見る」という特徴を上手く活かし表現した工夫だと思います。
面白いです。
ここの面白みがありますので、「明治を連想」させるにおいて日清戦争が強いキーワードであっても、日清戦争自体は作中に示す必要性があったとフィンディルは見ています。先述の通り、出し方は向上の余地ありだと思いますが。


●何故「明治→昭和もの」ではなく「明治もの」と捉えられるのか

上の項目で「明治→昭和もの」と「不老もの」の組み合わせの面白さを話させていただきました。
しかし他の方の感想を見ると、本作を「明治もの」と捉えられている方が散見されます。ですが本作は終戦の時点で話が終わっているので「明治→昭和もの」と見るのが正しいはずです。
何故「明治もの」と捉えられるのでしょうか。

それは本作において明治のイメージが強すぎるからです。
「私」と「鵺」が出会い「私」が「妖」になるきっかけを描いたのは明治のシーンだから明治のイメージが強くなるのは仕方ないと思いがちですが、実はそうではありません。「私」が「妖」になるシーンは明治とは直接関係ありませんからね。このシーンは江戸時代でも戦国時代でも成立する場面であり、シーンが長いから明治が強いというのは誤りではないにしても的確ではありません。
要は明治を印象付ける文章が多いのに対し、昭和を印象付ける文章が少ないというのが理由でしょう。
明治を印象付ける文章というのは上の項目でもお話した日清戦争の件などが特にそうです。明治より先を連想させる語なので、当然明治自体も強く印象付けられます。
更に「フロックコート」や「竹林」「蔓帯紋の着物」「高下駄」「匕首」といった語彙も昭和よりも明治に寄った語彙です。
反対に昭和を印象付ける語彙は「八月十五日。」「玉音放送」「満州」の三つのみです。しかもこれは昭和というよりも第二次世界大戦の終戦をイメージするものであり、昭和のイメージとしてはややベクトルが違う印象があります。
結果、強い明治のイメージと、やや弱い終戦のイメージということで「明治もの」という印象が定着してしまうのでしょう。

もしかしたらF。さんの認識としても「明治→昭和もの」ではなく「明治もの」のつもりなのかもしれません。
しかしフィンディルは「明治もの」よりも「明治→昭和もの」ということを認識して印象付けた方が格段に作品が面白くなると考えています。
「明治もの」と「不老もの」を足してもそれはまま見かける「伝奇もの」でしかないからです。明治の雰囲気の中で妖怪に出会うお話というのはどこにでもあり、そこにオリジナリティはありません。
しかし上の項目でもお話させていただいた通り、「明治→昭和もの」と「不老もの」には新鮮な読み味がありそこにはオリジナリティが存在しているのです。
勿論オリジナリティはあった方が絶対お得、ということではありません。しかし本作は確かなオリジナリティがちらついておきながら、明治と昭和のバランスの見せ方によってそのオリジナリティを印象付けられていないという中途半端な状態にあります。
そしてこの中途半端な状態を単なる「明治もの」に矯正することは逆に難しいです。明治に不老になった「私」が大正や昭和を全く感じさせずに生き続けるのはとても不自然ですからね。
ならば「明治→昭和もの」というオリジナリティ溢れる方に導くことの方が自然です。現在の中途半端な状態を改善するなら「明治→昭和もの」ということを強めるのが自然。しかもそこには本作のオリジナリティがあり、読み味や余韻も面白いものがある。ならばそちらの方に進まない手はないでしょう。
本作は現状、オリジナリティがそこにありながら、見せ方の問題でそのオリジナリティを十分に届けられていないという状態にあるのです。読者の「明治もの」という認識のされ方が証拠です。ならば届けるのが自然ですし、届けた方が面白いです。

ではどのようにすれば、明治と昭和の印象を均等に近付けられるか。フィンディルには幾つか策があります。
そもそも上の項目にて、本作は「明治を連想させる」を200%達成して着膨れしているので100%に落としましょうという指摘をさせていただきました。日清戦争を具体的にではなく抽象的に示した方がよいという解決策も出させていただきました。
この時点で明治を薄くするということはある程度できていると思います。現実問題、場面に割く文字数や話の構成上のこともあるので、昭和よりも明治の方が若干強くなるのはおよそ必至です。ただ明治と昭和のイメージをイーブンにするのが目的ではなく、読者に「明治→昭和もの」という印象を持たせればいいので、多少の差はあまり気にしなくていいです。

明治を薄くしたならば次は昭和を濃くします。しかし本作の締めということもあるので、場面を追加するのはよくありません。
フィンディルは昭和を強くする幾つかの小さな工夫を持っています。
まず、夏という印象を強くする。終戦は八月十五日ですから夏です。ドラマなどでは終戦のシーンは夏の印象が非常に強いです。
何か夏というイメージを感じる簡単かつ効果的な文章を入れるといいのではないかと思います。その際に明治のシーンの「竹林」とギャップを感じられるものがいいと思います。
青空や蝉、あるいは野原などでもいいのではないかと思います。明治の「竹林」とは全く場面が変わったということを印象付け、読者に終戦のあの情景を強く想起させましょう。

また「玉音放送」ではなく「ラジオの肉声」などでもいいのではないかと思います。「玉音放送」は終戦を強くイメージさせる語彙ですが、「ラジオ」は昭和をイメージさせる語彙です。
「八月十五日。」が終戦を強くイメージさせる語彙なので、「玉音放送」で再び終戦をイメージさせる必要はあまりありません。ならばここは昭和の雰囲気を出すのを優先して「ラジオ」としてもいいのではないかと考えます。「八月十五日。」「ラジオの肉声」とあれば玉音放送であることは十分示せます。

そして最後ですが、「鵺」に昭和の格好をさせてそれを描写することがとても大事だと思います。
冒頭の「そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。」という文章はとても明治を感じさせる文です。「着物」「フロックコート」「高下駄」という組み合わせは明治の香りをとても感じます。単純に明治を連想させる文章としてとても優秀な一文だと思います。冒頭に据えたのもいいですね。そしてこれは長命な「鵺」が流行に乗る性格であることを示し、つまり世の流れを見ているということを裏付ける描写でもあります。「鵺」のキャラ付けにもなっています。
この「鵺」の容貌描写を昭和の場面にも挟みこむことはとても効果的だと思います。明治期に明治の格好をしていた「鵺」が昭和期に昭和の格好をしていないわけがありません。また「鵺」は国民服を着ないでしょう。戦争が激化する前の昭和に流行った服装をしていると考えるのが自然でしょう。
「鵺」にそのような格好をさせてそれを描写するということが、「鵺」のキャラをより深める一文になります。
そして冒頭の文が優れた明治の香りを漂わせるのと同時に、優れた昭和の香りを漂わせる文にもなるでしょう。

勿論これらはフィンディルが即興で考えただけの案であり、F。さんが採用するか採用しないか、そもそも昭和を濃くするかどうかもF。さんの自由です。
しかし明治を薄め、そして昭和を濃くすることによって読者に「明治→昭和もの」という印象が付いて、本作のオリジナリティがよりしっかりと認識されるのではないかと思います。
上の「雰囲気出し」の項目でもお伝えしましたが、気合を入れた描写を厚く入れる必要はないです。ただそのような雰囲気出しの文節や一文を入れて空気を調節することで、本作の魅力をよりきちんと届けられるのではないかとフィンディルは考えています。


●「私」の行動と、人が戦争をすることの対比

本作には二つのラインがあります。「私」が妻の病気を治すために「鵺」を殺そうとした結果自身が不老になったという本筋のラインと、明治に人が外国へ戦争を仕掛けて昭和の戦争で多くの人が死んで終戦したという脇のラインです。
この脇のラインを強く見せすぎましたねという指摘をさせていただきましたが、この脇のラインはとても大事な役割を担っています。

本作の明治のシーン、「私」と「鵺」が対するシーンに二箇所、気になる点があります。フィンディルが含意を感じ、優れていると考えている二点です。

まず「私」が「鵺」のことを「彼?」と何度も呼称していた点。「私」は「鵺」の容貌を見てその性別を判断できずにいます。そして「彼?」と「鵺」の性別がどちらであるのかをわからないことを幾度となく示しています。
ここに意味を見出すことができます。
性別を気にするということで、その相手を人間と認識しているということを表現しているからです。勿論相手が「鵺」ではないかと勘付いているのですが、「鵺」だと勘付いたうえで人間相応の認識をしている。相手が犬や猫という動物、あるいは妖怪ならば性別がオスであるかメスであるかというのは大して気になならない情報です。わからないならわからないでいい。呼称する際も性別が関係ない「犬」や「猫」「獣」「妖怪」「こやつ」などといったものを用いるでしょう。
「私」が「鵺」に対し「彼?」と何度も用いていることは、「鵺」のことを人間とみなしているということを如実に示す言葉なのです。
(人間相手なのだから性別を気にするということの是非は別です。人間を見たらまず性別を気にすることに対してフィンディルは批判的ですし、改めていくべきだと思います。しかし人間は他の人間の性別を気にしたがるという風習を持っていますし、その風習をもって相手を人間とみなしているという表現は成立すると考えます)

ただしその後、「私」は上記に矛盾する行動を取ります。
―――――――――――――――――――
 私はもう一度尋ねる。

「本当に、鵺はいないのですか?」
「少なくとも、某は知らぬよ。そんなことよりも、細君は医者に診せたのかえ?」
「医者には匙を投げられました。肺の病です」
「そうか。気の毒なことよ」

 彼? は目を伏せた。

 私の懐の匕首が彼? の首を掻っ切る。
―――――――――――――――――――
あまりにも一方的な殺傷行為です。
「鵺はいないか?」と「私」が尋ね「鵺」が「知らない」と答えた。しかし「私」は目の前の者を「鵺」だと思っている。「鵺」が嘘を吐いたのならば血を分け与えるつもりはないのだろう。じゃあ殺してしまえ。
随分と一方的な考えです。交渉しようという素振りすらありません。「私」の目的を達成できなさそうだったらすぐさま実力行使。「少しでもいいから血を分け与えてもらえないだろうか」と何度も頼み込むのが、最低限の行動ではないでしょうか。
更に、
―――――――――――――――――――
 やはり、彼? は鵺なのか。
―――――――――――――――――――
とあるように「鵺」が「鵺」であるという確証も持たぬまま殺傷行為をしています。
しかし「私」にはそれをする動機があります。妻の病気を治すためです。この動機のもとでは「鵺」は妻の病気を治す手段なのです。手段とは物であり、このとき「私」は「鵺」を物と見ている。物と見ているからおよそ人相手とは思えない身勝手で非人道な言動に及んでいるのです。

つまりこの場面の「私」の行動とそこに見える考えです。
「鵺」のことを人あるいは人相応と認識しています。しかし同時に妻の病気を治す手段つまり物とも認識しています。人に対しての対応を表面的には取りつつも、切羽詰った目標を達成できそうにない気配を感じるや否や、物としての対応で身勝手な言動を取る。
この「私」の考え方を端的に表現している「彼?」と、交渉のない唐突な殺傷行為。いずれも「私」を示す素晴らしい表現であるとフィンディルは考えています。素晴らしい矛盾です。

そしてこの「私」の言動は、戦争を行う人に重ねて見ることができます。
外国の人のことを人と認識しているが、物資の困窮打破や領土拡大など目標を達するためならば、武力を行使して殺戮することを厭わない人という存在。
「私」の行動はそのまま人の行動に繋がります。「鵺」を殺そうとした「私」と、戦争を起こそうとする人はおよそ同じ行動原理を持っているのです。
「鵺」は「私」の行動にそれを見たのでしょう。
―――――――――――――――――――
「人の子よ、やはりおぬしらは遠からず死に絶える! 某が手を下すまでもないわ。せいぜい、足掻いてみるがいい!」
―――――――――――――――――――
「人の子」は「私」個人を指しますが、「おぬしら」は人全体を指しています。
これは言葉を使い間違えたわけでもなんでもなく、「私」が行った行動は人が行う行動であるということを明確に示す発言なのです。「鵺」は「私」の言動に、人の行動の凝縮を見たのですね。

よくよく対比のきいた、素晴らしい構成だと思います。

そして対比はここで終わりではありません。
そのような行動を行った「私」、そして人はどうなったのか。
人は戦争を行い、目的を達成するどころか多くの人が死にました。対して「私」は妻を救えず、代わりに自分は不老つまり不死になりました。
どちらも目的を達成することはできず、代わりに大きな代償を得たのです。ただ代償の種類は違います。
人は死を、「私」は不死を。およそ対義関係とも思える代償を得ました。
しかしどちらも苦しんでいる。死の苦しみと、不死の苦しみ。どちらもとても苦しく、そしてそれはどちらも自らの行動の報いです。
死と不死という真反対のそれぞれが、しかしどちらも似たような苦しみをもたらしている。
とても余韻のある結末、とても面白い対比だと思います。

「私」は妻の病気を治すために「鵺」に対し身勝手な殺傷行為をし、しかし妻の病気は治せずに自分は不老(不死)という重い苦しみを受ける。
人は物資を得るためや領土拡大のために外国に対し身勝手な殺戮行為をし、しかし目的は果たせずに多くの人が死に重い苦しみを受けた。
(この「人」は特定の国を指すものではありません。かつて戦争を行った全ての国であり、目的達成の有無は些末なことです)

終盤で「鵺」が「私」に話しかけたのは、「私」が行動による報いを受けたという認識をしたからなのではないかと推測しています。
自分を殺そうとした「私」に対して「こちらへ来ないか?」と優しく誘ったのは何故だろうと思ったのですが、不老(不死)という報いを十分受けたと「鵺」が感じたからではないかと思います。もう「鵺」自身が罰を下す必要はないと感じたのかもしれません。ならば「鵺」ができる慈悲を与えようと。
またそれが終戦という、人が報いを受けた象徴的なタイミングであることも意味が深いです。


●序盤のテンポのよさで、霞む「私」の行動

前項で「私」の行動と人との対比など褒めさせていただきましたが、やはり見せ方がどうも、という箇所があります。
本作は全体的に、作品の構成や含意は素晴らしいのですが、その見せ方で魅力を軽減させてしまっている印象があります。

本作の序盤の竹林のシーンなのですが、テンポが速いです。
小見出し?で「私は竹林に入った。」「得体の知れぬ叫声が鳴り響く。」「日の光が笹に防がれ、暗がりとなった竹林の奥。」と、竹林に入って、すぐに何者かの気配を示して、すぐに竹林の奥まで進みます。そしてすぐに「鵺」が登場、すぐに「私」が妻の病気のことを話し日清戦争のことで文を取りますが、妻の病気のことに戻るとすぐに殺傷、すぐに血を採取してすぐに立ち去り、すぐに鵺が復活?しすぐに竹林から外に逃げます。
と、非常にテンポが速いのです。
かなりのスピード感をもってこのシーンが進んでいきます。

それ自体は全然構わないのです。ひとつひとつの動作に文章を割く必要なんてありませんから。話に必要な動作だけを示せば作品としては十分なのです。
雰囲気出しは別ですよ。ただこのテンポ感を守って雰囲気を出すことも可能でしょう。

ただしこの中にとても大事な行動があります。前項でもお話した通りですが、「私」が「鵺」を殺傷する場面です。
先ほど私はろくな交渉もない非常に唐突な殺傷行為に注目し、そこに見て取れる含意を褒めさせていただきました。この唐突な殺傷行為こそ、人が持つ業を端的に示す箇所なのです。
が、如何せん場面全体のテンポが速い。「私」の全ての行動、竹林に入る、竹林の奥に進む、「鵺」に話し掛ける、「鵺」を斬る、血を採取する、竹林から逃げるという全ての行動のテンポが速くて、この「鵺」を唐突に斬るというとても大事な行動が埋もれてしまっているのです。
「鵺」を唐突に斬るも、テンポが速いの一行動の中に数えられてしまっているのです。全ての行動が唐突なので当たり前です。「鵺」を唐突に斬る行動にはとても大事な意味が込められているのに。少なくともフィンディルが見る「私」の言動の肝はここです。「鵺」を殺そうとしたことも大事ですが、それ以上に躊躇も交渉もなく唐突に「鵺」を殺そうとしたことにこそ意味があるのです。そこにこそ、「鵺」を人かつ物として見ているという表現が込められています。
しかし場面全体のテンポが速いので、この行動もテンポが速いのひとつになってしまっている。埋もれてしまっている、霞んでしまっている。

F。さんが「私」が「鵺」を唐突に殺そうとした行動が重要であると認識しておられるのならば、竹林の場面全体のテンポを速くしてしまったのは非常にまずい手だったと思います。
ここに関しては文字数を膨らませてもいいので丁寧に見せるべき場面だと思います。他は丁寧に見せて、しかし殺傷の場面だけは唐突に見せる。こうすることで「私」が唐突に「鵺」を殺そうとしたことが映えて、そこに込められた意味や全体の構成・対比が読者に届きやすくなると思います。

「何でこの人はこうも急に鵺を殺そうと」と読者に引っ掛からせることがとても大切だと思います。しかし現段階では「テンポ速いな」という印象しか得られない可能性が高いです。

F。さんが「私」が「鵺」を唐突に殺そうとした行動が重要であると認識しておられるならば、竹林の場面のテンポを改善すべきだと思います。
もし重要であると認識しておられないならば、とても重要であるとだけ申させていただきます。理由は上述です。


●鵺へのこだわりが、あるようなないような

本作には、実際に伝承が残る妖怪「鵺」が登場しています。
一般的に「鵺」というとどのような妖怪をイメージするでしょうか。
ウィキペディアには「『平家物語』などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもある。また、『源平盛衰記』では背が虎で足が狸、尾は狐になっている。さらに頭が猫で胴は鶏と書かれた資料もある」とあるように、キマイラのような見た目をイメージする方が多いと思います。
しかし本作の「鵺」には上記のようなキマイラを思わせる描写はありません。むしろ鳥の妖怪を思わせる描写が印象的になされていると思います。

実は『平家物語』に登場する時点では、この妖怪が鵺であるとは記述されていません。
「猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇で、鵺のような声で鳴く」というような記述がされているとのことです。つまりこのキマイラの鵺は当初鵺ではありませんでした。元々の鵺は、姿が見えずどこからか鳴き、その寂しげな鳴き声で凶兆を知らせる怪鳥であるとされていたようです。キマイラの鵺は怪鳥鵺のような声で鳴いていた名のない化物でしたが、いつの間にかその化物のことを鵺と呼ぶようになったらしいです。キマイラの鵺がどう見ても鳥には見えないのに「鵺」という漢字が充てられているのはそのような経緯があるのでしょう。
鵺には怪鳥鵺とキマイラ鵺の二種類存在すると考えてもいいでしょう。一般的にイメージされる鵺はキマイラ鵺ですが、元々の鵺は怪鳥鵺なのです。

そして本作に登場する「鵺」はキマイラ鵺ではなく、怪鳥鵺をモチーフにされているように感じます。ここにF。さんのこだわりを感じます。特にこだわりがなければ、一般にイメージされて文章映えするキマイラ鵺の描写を入れるのが自然ですからね。描写材料にも事欠きません。しかしそうはせず、鳥を印象付ける描写に絞っています。
また怪鳥鵺は姿を見せずどこからか鳴き声を響かせる存在です。「それは私にははっきり見えなかったけれど、のちに私はその生き物が鵺であることを知る。」という一文は、その怪鳥鵺を尊重した一文なのではないかと思います。怪鳥鵺ならば鳥の姿の鵺を細かに描写するのはおかしい話ですからね。

キマイラ鵺ではなく怪鳥鵺にこだわった。ここにはひとつ意味があるのではないかとフィンディルは推測しています。
キマイラ鵺はその姿が印象的な怪物にすぎませんが、怪鳥鵺は凶兆を知らせる存在です。そして本作では竹林の場面で「鵺」は怪鳥鵺として鳥のシルエットを見せて存在感を示した。これはおよそ凶兆としては十分です。
実際そこから月日は流れ、「私」は不死・人は死と報いを受けます。怪鳥鵺が凶兆を知らせたのならば、それはこのことを指すのでしょう。
またこれを凶兆と捉えた場合、面白い考察を入れることもできます。通常凶兆とは何の前触れもなく訪れるものでありますが、本作は怪鳥鵺が凶兆を知らせるきっかけが明確に示されています。「私」が唐突に「鵺」を殺そうとしたことを受け、「鵺」は人の愚かな行動を見定め怪鳥として凶兆を知らせるのです。凶兆を知らせるには確かな根拠があるのだ、ということを読み取ることができる部分ではないでしょうか。ならば凶兆とは単なる未来の予言ではなく、未来への警鐘と解釈することも可能です。
凶兆を知らせる怪鳥鵺という言い伝えを上手く利用した箇所なのではないかとフィンディルは見ています。

が、一方こだわりを感じない箇所もあります。
怪鳥鵺はその鳴き声によって凶兆を知らせるのですが、本作で「鵺」が怪鳥になったとき鳴き声は上げませんでした。冒頭に「得体の知れぬ叫声が鳴り響く。」と怪鳥鵺が鳴いていることを思わせる文が入りますが、このタイミングではなく「鵺」が怪鳥になったタイミングに鳴くのが適切なのではないかと思います。
また、
―――――――――――――――――――
「くけけけけ!」

 私は凍りつく。奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。
―――――――――――――――――――
の場面でも鳴き声を上げていると見えますが、ここでは「奇妙な獣の声」と怪鳥鵺ではなくキマイラ鵺を思わせるような言い回しになっています。
そして何より、怪鳥鵺は「くけけけけ!」とは鳴きません。
怪鳥鵺の正体は山林に棲むスズメ目ツグミ科の鳥トラツグミであるとされています。このトラツグミの鳴き声に昔の人々は凶兆の訪れを感じたのだろうというのが定説です。
そしてこのトラツグミは「ヒョー、ヒョー」や「キーン」といった金属質な口笛のような声で鳴くようです。このような鳴き声が夜に響いたら確かに不気味に感じるでしょう。YouTubeで確認しましたが確かにそのような鳴き声で、とても「くけけけけ!」とは似ても似つきません。
本作の「鵺」が怪鳥鵺であるとこだわるのならば、ここの鳴き声は「ヒョー、ヒョー」と金属質な口笛という風にするのがいいのではないかと思います。
怪鳥鵺はトラツグミとは別に確かに存在し、トラツグミと鳴き声が似通っているだけということで。

本作の「鵺」は明らかにキマイラ鵺ではなく怪鳥鵺を前提とした描き方をしています。キマイラ鵺でキマイラ的容貌を示さないわけがありませんし、鳥の描写が強いですから。
フィンディルはそこにこだわりを感じて好印象を得ました。しかし怪鳥鵺が鳴き声によって凶兆を知らせる表現、鳴き声がトラツグミ風であるとの表現が見られないため、こだわりは感じるがこだわりが行き届いていないという中途半端なこだわりに終わっているように思えます。好印象もしぼんでしまいます。

また人の姿のときの
―――――――――――――――――――
まだ若そうなのに灰色の髪を持ち、爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
―――――――――――――――――――
は何かをモチーフにしているのか、モチーフにしているなら何なのか、何とも判断がつきません。鳥である雰囲気を感じなくもないですが、瞳孔が縦に細いのは鳥には見られず、やはり猫などの哺乳類に見られます。
人の姿のときなのでこれといった意味がなくても構わないとは思います。ただのデザインなのかもしれません。が、最後に
―――――――――――――――――――
今も私は、灰色の髪をして紅色の目を持つ鵺とともに生きている。
―――――――――――――――――――
と繰り返しているので、このデザインに何か意味があるのではないかと勘繰るのも自然なことでしょう。

どうも、鵺の扱いにこだわりがあるような、こだわりがないような、そんな中途半端な印象です。


●細かいところ
ここからは細かいところを取り上げます。
一部上の項目と被った内容があります。

・得体の知れぬ叫声が鳴り響く。
上の項目でも触れましたが、これは「鵺」が怪鳥鵺であるということを示した文でしょう。
その点ではいいと思うのですが、何故ここで鳴いて「鵺」が怪鳥となった場面で鳴かなかったのか、いまいち腑に落ちません。

・そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。
「蔓帯紋」とは着物の模様のひとつです。その模様が「蔓帯紋」である意味をフィンディルは見つけられませんでしたが、この模様がある着物ということはおよそ女性用の着物であると推察されます。男性用の着物は無地が多いですからね。
一方「フロックコート」とは明治から大正に流行った男性用の服装のことです。
つまり「鵺」は女性用の着物と男性用のコートを着ているということになり、このことを指して「私」は「鵺」の性別を決めあぐねたことが窺えます。「鵺」が中性的であるという「私」の判断のさせ方として無駄がない、スマートで上手い方法だと思います。
また「私」が服装を見て性別を決めあぐねていることを皮肉的に描いていると見ることもできます。服装でしか判断できないのか、そもそも性別に執着するのかと。そのような「鵺」の声が聞こえるような、聞こえないような。
また「高下駄」は鳥の鉤爪を連想することができなくもなく、「鵺」が怪鳥鵺であることをそれとなく知らせている気がします。これはフィンディルの深読みでしょうか。

・そこにいたのは、蔓帯紋の着物に、茶色のフード付きのフロックコートを纏い、高下駄を履いた男性だった。
上記も兼ねますが、この一文は明治の香りを濃く漂わせて明治を連想させ、「私」が「鵺」を中性的と判断する根拠となり、長命の「鵺」が明治に明治の格好をすることで「鵺」が世を見つめ続けていることを示唆し、ついで高下駄で怪鳥鵺を連想させるような、様々な意味と意図が込められた一文であると考えます。
素晴らしい一文だと思います。

・爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
「竜眼」とは一体なんでしょうか。検索をかけてみましたがそれらしいものは見つかりませんでした。
これが造語であるならば、この場面で人である「私」が「竜眼」と表現したことには違和感があります。まるで「竜眼」という概念が存在するかのようです。
「竜眼」にどのような意図があるのかよくわかりませんでした。意図がないならば蛇足だと思います。
もし「竜眼」が既製の概念で明治や昔を連想させる語彙のひとつであるならばフィンディルの無知です。お気になさらないでください。

・爛々と輝く紅色の両眼――竜眼の双眸をしていた。
「両眼」「竜眼」「双眸」と目に関する語彙が並んでおり、非常に読みにくさを感じます。
特に「両眼」「双眸」は意味が全く同じであるにも関わらず短時間で二つ違った語彙で出しているのでまどろっこしさが強いです。
どちらかを省いて、語彙ひとつで済むように改良されることをオススメします。

・彼? は言った。
「私」は「鵺」のことを「彼?」と呼称します。「彼?」と呼称することは上の項目でも触れた通り、「私」が「鵺」を人間として認識している裏付けとなるため重要です。
しかし気になるのは「彼? は言った。」とあるように、疑問符の後のスペースです。とてもリズムが悪く、読みにくさを感じます。
「疑問符、感嘆符の後にはスペースを入れましょう」というのは小説を書く人ならば誰でも知っているルールだと思います。しかし何故スペースを入れなければならないのかについてきちんとした解説は見られず、おそらく慣習的にそうなっているのではないかと思います。
ですのでここからはフィンディルの持論にすぎませんが疑問符感嘆符の後のスペースは文章の区切りを示す機能があると考えています。通常文章の区切りを示すのは「、」「。」ですがこれらはサイズが非常に小さく一文字上でのスペースが非常に多いです。「今日は晴れ。いい天気」と視覚的に空白があることで文章の区切りを機能させています。しかしこれが「今日は晴れ?いい天気」となると視覚的な空白がないため文章の区切りがわかりにくい。そこで手動でスペースを入れ「今日は晴れ? いい天気」と視覚的な空白を確保しているのではないかと思います。「今日は晴れ。いい天気?」のように台詞の最後ではスペースを入れなくてもいいのは鍵括弧が文章の区切りとして機能しているので手動スペースの必要がないとすれば筋が通ります。
つまり疑問符感嘆符の後のスペースは文章の区切りを視覚的に示すためというのがフィンディルの持論です。
その持論に基づけば「今日は晴れだよいい天気だよ」と捲し立てるために敢えて句点を省く技術と同様「今日は晴れだよ!いい天気だよ」と捲し立てるという文章の要請に従って感嘆符後の手動スペースも省いていいだろうと考えています。句点や読点を敢えて省くことは度々あるのに、疑問符感嘆符後のスペースは省いてはいけないという方がよっぽど理に沿わないルールに感じます。
それを踏まえて本文を見た場合「彼? は言った。」というのはそもそも「彼?」と「は言った。」の間に区切りを設ける必要がない場面です。区切りを設ける必要がないのにルールとされているからスペースを設けているように感じます。
このように文章の区切りがそもそもない場面では「彼?は言った」としても何一つ問題がないのではないかとフィンディルは考えています。少なくとも理由すら定かでない文章ルールを守って文章リズムを損ねる必要はないと判断します。
勿論疑問符感嘆符後のスペースを入れる理由やその扱い方についてはフィンディルの持論にすぎませんので、実際このスペースをどうするかはF。さんの考え方を優先するようにお願いいたします。

・「おや、珍しいのう。人の子がここまで来るとは」
テンポが速いのもあるのでしょうが、この竹林の奥に対して「人の子がここまで来るとは」というのは違和感があります。この場に対して人がほとんど踏み入れないという印象がないからです。近隣の人が日常的に立ち入っていても特におかしさを感じません。
冒頭にこの竹林には人がほとんど立ち入らないということを入れておいてもいいのではないかと思います。
あるいはテンポのために敢えて省いたのでしょうか。そういう意図があるならばこのままでもさして問題はないですが、上の項目でも触れた通りこの場面のテンポが速いこと自体を改善すべきだとも考えています。

・「それはそれは。文明開化のこのご時世に、治せぬ病があるとは」
現代から見れば明治は昔で技術も乏しいものですが、当時からすれば西欧の技術・文化が入った最先端です。この発言はそれを感じさせるいい発言だと思います。
また発言者は長命の「鵺」ですからね。およそ日本の歴史をずっと眺め続けていた「鵺」にはこの明治の世がとても先進的に映っているのでしょう。それをとても感じさせる優れた発言だと思います。

・「それはそれは。文明開化のこのご時世に、治せぬ病があるとは」
「文明開化」とは福澤諭吉が1875年に使ったものを始めとする言葉で、明治初期に日本が西欧の文化を積極的に取り入れることを指しています。
この「文明開化」がいつからいつまでのことを指すのか厳密な区切りはないようですが、おおよそ1870年代を指すと考えています。
しかし本作は日清戦争間際の1894年です。文明開化が1870年代を指すのならば「文明開化」は本作時点では時代遅れの語彙であるように感じます。
まして発言者は世情に詳しい「鵺」ですから、この「鵺」が1894年に「文明開化」という語彙を使うのは考えにくいです。
単純に「明治」であったり「19世紀も終わる」などの言い回しが適切ではないかと思います。

・不思議な竜眼の双眸は、まるでこの世のものとは思えない。縦に割れた瞳孔は猫の目のように細くなり、私を値踏みするかのように見つめていた。
「まるでこの世ものとは思えない」の後に「猫の目のように」と続けるのはいかがなものかと思います。
一応「双眸」と「瞳孔」で対象は違いますが、それでも「この世のものとは思えない」ものをこの世のものに例えるのはあまりいい手とは思えません。
しかも目を目で例えてますからね。「この世のものとは思えない」に説得力が感じられません。

・縦に割れた瞳孔は猫の目のように細くなり、私を値踏みするかのように見つめていた。
「縦に割れた瞳孔」では瞳孔自体が縦に割れていることを指します。つまり瞳孔が縦に二重になっていることになる。
実際そう描写しているのかもしれませんが「猫の目のように細くなり」とあるので、おそらく瞳孔が眼を縦に割っているように見えるほど細いということを示しているのではないかと思います。
もしそうであるならば「縦に割れた瞳孔」は表現を間違えておりますので修正されることをオススメします。

・今度の清との戦争。広島に置かれた議会。
・明治に入って、初めての対外戦争。
上の項目でも触れましたが、ここの部分がとても解説的です。しかも明らかに読者に向けての解説です。
「鵺」にややわかりにくい言い回しをさせたので独白にて解説させたのでしょうが、雰囲気を損ねるうえに二度手間という印象が強いです。
上の項目でも触れましたが、印象付け自体これほど厚くしないで大丈夫でしょう。

・彼? は何をどこまで知っているのだろうか。
・いや、私はなすべきことがある。
日清戦争の件から「鵺」と妻の病に話を戻す場面ですが、さすがにこれは戻し方が強引すぎます。何の工夫もなく戻してしまっている。
上の項目にて日清戦争の件自体を改善するよう指摘させていただきましたが、それとは別にここの話の戻し方にももう一捻りほしいところです。

・私はもう一度尋ねる。
その前に「鵺」が「生憎だが、某は鵺など知らぬ。」と答えてはいますが、これは「私」が「この竹林に鵺がいると聞きました」と発言したのを受けて「鵺」が自主的に話し出したことです。
「私はもう一度尋ねる」とありますが「この竹林に鵺がいると聞きました」は尋ねているとはいえません。ここは「もう一度尋ねる」ではなく「改めて尋ねる」などにするのが適切だと思います。

・そんなことよりも、細君は医者に診せたのかえ?
「細君」とは自分の妻をへりくだっていう語、あるいは目下の者の妻を指していう語です。本作では後者ですね。
およそ人間全ては「鵺」よりも年下であると推測され、「鵺」にはその自覚が強くあるようです。人の子は全て若造、くらいに考えているかもしれません。
ここで「鵺」が「細君」を用いることで会ったばかりの「私」をナチュラルに目下と捉えていることが表現できており、「鵺」の人物造形の一助になっていると思います。
いい語彙です。

・鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。
上の項目でも触れましたが、竹林にあって「そのまま地に倒れた」とは気が利かない文章です。「地」ではただの土の地面であるように感じられるからです。
何かここが竹林であることを感じさせる言い回しがほしいところです。

・私の足下には、彼の血が広がっている。
「足下」とは「足の真下やごく近い距離」を指します。一方「足元」は「立っている周辺」を指します。「足下」の方が範囲が狭く、「足元」の方が広いです。血を広がらせるには「足元」の方が使い勝手がいいのではないかと思います。
「匕首」は「鍔のない短刀」のことを指すので、これで殺傷したということは「私」と「鵺」は非常に近い距離にいるのでしょう。ですので「足下」を使っても誤りではない距離感だろうとは思うのですが、ここは「足元」と表記しておいた方がより無難ではないかと考えます。

・私は匕首を捨て、懐から取り出した小さな瓶に彼? の血を注ぐ。
「注ぐ」とは「液体を容器などに流し込む」という意味です。これでは問題ないように思えますが、「注ぐ」には一定量以上の液体が蓄えられた容器などから別の容器に移し替えるというニュアンスがあります。急須から湯呑に注いだり、川から滝で滝壺に注いだりなどですね。
この場面では血を噴き出して倒れる「鵺」から「瓶」に液体を移動させるのですが、血を噴き出して倒れる「鵺」を一定量以上の液体が蓄えられた容器とみなすのはやや無理があります。およそ「注ぐ」という語が充てられるような液体の移動のさせ方はできないでしょう。
「血溜まりに瓶を浸す」など表現自体から改善するのがいいのではないかと思います。

・私の懐の匕首が彼? の首を掻っ切る。
・鮮血が迸る。彼? はそのまま地に倒れた。
・私の足下には、彼の血が広がっている。
・私は匕首を捨て、懐から取り出した小さな瓶に彼? の血を注ぐ。
「私」が「鵺」を殺傷する場面ですが、この文章中に大事な要素が抜け落ちていることがわかります。
「私」が「鵺」の血を浴びたという文です。本作において「私」が「妖」となり不老となることはとても重要なのですが、そのために必要な「鵺の血を浴びる」という手順が何故か文中から省かれています。
状況的に「私」が「鵺」の血を浴びたのはおよそ間違いないでしょうが、本作においてキーとなる部分なので「鵺の血を浴びる」というのが明らかにそうとわかるように記述されるのはおよそ必須ではないでしょうか。

・奇妙な獣の声が、彼? の遺骸から漏れていたのだ。
「遺骸」とは「死体」のことですがおおよそ人間には用いず、動物に用いることが多い場面です。
それまで「彼?」と「鵺」を人として認識していた「私」ですが、唐突な殺傷を行って「鵺」を物として認識した後は「鵺」の死体を「遺骸」とする認識の豹変を表現しています。
いい表現だと思います。

・やはり、彼? は鵺なのか。
・ではこの血も、病を払うに違いない。
上の項目でも触れましたが、「やはり、彼? は鵺なのか。」と「彼?」が「鵺」であるという確証もないなかで殺傷したという「私」の非人道がよく表れています。
そしてその次には「ではこの血も、病を払うに違いない。」と「鵺」のことを「妻の病を治す手段」つまり物としか捉えていないことがよく示されています。
この二文とも、流れも含めて優れた文だと思います。

・人の子よ、やはりおぬしらは遠からず死に絶える!
上の項目でも触れましたが「人の子」が単数形であるにも関わらず、「おぬしら」と複数形である場面です。
これは前者が「私」、後者が人全体を指しており、「鵺」が「私」の言動に人の業を見定めたことがよくわかるいい箇所だと思います。
「私」が不老になったことを「鵺」は悟ったのでしょうから、そこで「死に絶える」という言葉を用いるのも印象的です。人が戦争を死ぬことを指しているのか、あるいは「私」が「妖」になることで人として死に絶えることを指しているのでしょうか。両方でしょうか。

・八月十五日。
いい切り替えです。「八月十五日。」は1945年であることを明瞭に示すのですが、ここで「1945年」とせずに「八月十五日。」とするところにセンスを感じます。
「1945年」ならば読者は「え、あれから50年?」という驚きを得ますが、「八月十五日。」としたことで「え、1945年? え、50年経ったの!?」という風にステップを設けた驚きを得ることができるのです。
上手いと思います。

・妻の墓前にいた私は、遠くの玉音放送を聞いた。
上の項目でも触れましたが「八月十五日。」の時点で今が1945年の終戦であることはわかるので「玉音放送」を重ねる必要性はあまりないように思います。
「玉音放送」も終戦を連想させる強いワードのため「八月十五日。」の上手さを邪魔している印象すらあります。「玉音放送」は別の言い回しにしてもいいのではないかと思います。

・妻の墓前にいた私は、遠くの玉音放送を聞いた。
戦争ドラマなどでよく見ますが「玉音放送」を聞く場面では皆がラジオの前に正座して……という場面をイメージします。
しかし本作では「遠くの玉音放送」と「私」が「玉音放送」及び終戦にそれほどの注意を向けていないことがわかります。
つまり「私」が不老となり「妖」となり、人の世から離れた存在になってしまったことを「遠くの玉音放送」が示唆しているのです。
さり気なく、とても上手い優れた表現だと思います。

・まるで、鵺の鳴き声のようだ。
この文章は「玉音放送」にかかっている文章のように見えますが、意味がよくわかりませんでした。「玉音放送」がどうして「鵺の鳴き声のよう」なのでしょうか。「鵺の鳴き声」とかかるような要素はあまり感じられません。
どうも「私」に無理やり「鵺」を想起させたような感じがします。そうであるならば「鵺のあの言葉が蘇っていた」や「鵺の鳴き声が頭の中に響いている」といった文章でも十分目的は達成するように思います。
無理やり「玉音放送」と「鵺」「鵺の鳴き声」を繋げる意図がわかりませんでした。

・「あの後、妻は死にました。私と一人娘を遺して」
「妻」のその後を示す場面ですが、「妻」の病気が治らなかったということを察することができます。「あの後」「遺して」という文章がよくきいていると思います。
しかし「私」は「鵺」の血を浴びて不老になったにも関わらず、どうして「妻」は「鵺」の血を飲んでも不老にならなかったのかという疑問が残ります。病気には効かないということなのでしょうか。
ただこれらの疑問を解説する必要はありません。しかし「何故か私だけ不老になり妻は死んでしまった」というように、この疑問への言及はほしいところです。作中で言及があればそれは謎ですが、作中で言及がなければそれは疑問になります。
文筋をうるさくしない程度に、「私」と「妻」の結果の違いについて何らかの言及がほしいところです。

・「その一人娘も、私よりも先に逝ってしまいました。遺った孫も満州で死んだと言われました。私だけがこうして生き残り、無様に死にきれずにいます。私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」
「その一人娘も、私よりも先に逝ってしまいました。遺った孫も満州で死んだと言われました。私だけがこうして生き残り、無様に死にきれずにいます。」と「私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」の順番は逆がいいのではないかと思います。時系列が逆になっているのでやや読みにくいです。繋がりを調整する必要は勿論ありますが。
あるいは順番はそのままに「私はあのときから年を重ねず、娘や孫とともに各地を転々として生きてきました」の「娘や孫とともに」を省くとかですね。

悪魔は再び舞い戻る【ハイファンタジー】/ふわ ゆー  への感想

悪魔は再び舞い戻る【ハイファンタジー】/ふわ ゆー
作品はこちらから。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
語彙を数多く用いすぎてイメージがブレたりなど、文章の質が低い作品。また考察の楽しませ方が画一的で話の面白さを活かせていない。


●語彙被りを嫌うあまり精度が落ちた文章

本作は題にもある通りハイファンタジーの作品です。よくイメージされる中世ファンタジー、その中でも闇と泥が色濃いダークファンタジーに属します。
ハイファンタジー・ダークファンタジーの文章の特徴としては、固く精緻な文体とそれに伴う厚い文章量というのが浮かびます。重厚な文章とよく呼ばれます。
本作ではハイファンタジー・ダークファンタジーを書くうえでそれにとても気遣ってらっしゃることを窺うことができます。固い三人称文で事象や物語を重たく厚く凄惨に書き上げてらっしゃいます。

この文章執筆に際し、ふわ ゆーさんがよくよく気を付けたのだろうなとフィンディルの印象に残った点があります。
それが語彙を被らせないということです。一般的に文章を書く際は、以前の語彙と同じものを使わない方がいいというノウハウがあります。語彙が被ると文章の幅を狭く感じたり冗長になったりしてしまいますからね。同じことを表現する場合は別の言い回しで、というのはよくいわれることです。
本作ではその工夫が色濃く見えます。

しかし先ほども述べましたがダークファンタジーは固く精緻な文体とそれに伴う厚い文章量が特徴です。細かな描写かつ十分な文章量を備えていないとダークファンタジーとしての雰囲気がなかなか出ない。しかし語彙を重ねてしまうと冗長になる。
ということをふわ ゆーさんが考えられたかはわかりませんが、本作ではとにかく様々な語彙を用いて細かく文を重ねて文章の嵩を確保していきます。
しかしそれによって、文章全体の質が落ちてしまっています。

例えば隊員達を指す呼称は「傭兵」「兵士」「騎士」「勇者」「騎兵」と様々です。混成部隊だからこれら個人が混ざっているということではなく、部隊の隊員全体を指してこれらの呼称が使い分けられているので、この部隊はどういう集団なのかというイメージがブレてしまいます。正規軍でない「傭兵」という説明であったのに正規軍のイメージが強い「騎士」と呼称されたり、未熟な者が多いということだったのに「勇者」と呼称されたり、この部隊の練度が高いのか低いのか、戦士としての士気が高いのか低いのか掴めません。語彙を使い分ける度に、読者に根付いたはずの部隊へのイメージがグラついてしまいます。せめて隊員個々への呼称ということで使い分けていたら、混成部隊ということで納得できたのではないかと思います。また「騎兵」については、馬などに騎乗して戦闘を行う兵士のことですので、突然隊員が馬に乗ったイメージになってしまったりと、語彙の種類を増やしたばかりに語彙の精度が悪くなってしまっています。
また部隊の性格について言及した箇所でも「傭兵達は正規の職業兵士ではなく、農民出身のものも多い」「ここにいるのは戦闘に不慣れな者たちばかり」「歴戦の兵士」「彼らの誇り高き真剣」とこちらも語彙を被らせないかつ文章量を増やすという目標に執着するあまり、果たしてこの部隊は戦闘が得意なのか不得意なのか、個の戦闘力は高いのか低いのか、戦闘力が高い個人がどの程度いるのかなどといったことが上手く掴めません。
冒頭において部隊の練度の低さを印象付けられたにも関わらず部隊壊滅の間際に「歴戦の兵士」「彼らの誇り高き真剣」と記述されたために、この壊滅が、部隊の練度が低いのが原因か魔物達の戦闘力の高さが原因なのかということがいまいちわからず終わってしまいます。
また戦闘に際しての部隊の士気の高さもいまいち掴めません。「部隊は、恐怖に包まれた。」「喊声をあげて部隊はその言葉を復唱した。」「振り下ろすと傭兵達は正面の悪魔の首領へ突撃を開始した。豪気なラッパの音が高々と鳴り渡る。甲冑の群れが、怒声をあげた洪水となり流れた。」「騎士たちの攻撃怒号が、陰黙だったシャーロットの原生林に響き渡る。」「部隊は恐怖に反抗するように意味もなく声を荒げ叫び続ける。」「そこに兵士達の怒声が入り混じった。」「勇気を振り絞り襲い掛かる騎兵達」と、恐怖に士気が下がったのか、隊長の一喝で士気を盛り上げたのか、そうではなく虚勢でやはり恐怖だけなのか、逃げずに突撃したからやはり士気は高いのか、とこの部隊がどういう心理状態で戦闘に挑んだのか、これほどに文章が割かれているにも関わらずいまいち掴めません。むしろそれぞれの文章が指す意味と受ける印象が微妙に異なるため、一体どれを信用していいのだろうかとピントが合いません。

魔物達についてもそうです。魔物達を指す呼称は「化け物」「悪魔」「眷属」「魔物」「怪物」「魔族」「化物」「異形」です。これらそれぞれが持つニュアンスというのは微妙に異なります。「化け物」や「異形」「怪物」には知性を感じず本能で動く印象がありますが、「眷属」「魔族」には知性を感じ理性で動く印象があります。この魔物達がどういう性格を持つ集団なのか、語彙が多すぎるあまりいまいち掴めません。また「悪魔」が魔物達を指す呼称のひとつにしか見えないという弊害もあります。ふわ ゆーさんは首領を指して「悪魔」としているようですが、読んでいてそういう印象は得ず、魔物達全体も「悪魔」であるかのように受け取れます。呼称が多過ぎて「悪魔」が特定個体を指しているようには見えず、呼称が呼称として機能していないのです。
更に魔物達の表現として「不快な笑い声」「奴らはこの世のものとは思えぬ言語で嘲弄交じりの囁きを交わしている。」「威嚇のうなり声が白い牙の間からほとばしり出る。」「そしてそれらは時折、聞く者の耳をえぐるかのような奇声を発した。」「対する魔物達も耳を塞ぎたくなるような嫌な叫び声をあげ、ためらいもなくその身を躍らせてきた」「魔族が乱れた嘶きで空気を裂く」「魔物たちは巨体を宙空でくねらせて攻撃を巧にかわし、草の上に着地すると、そのままおぞましい奇声を発して」「化け物たちの爪が、拳が、牙が、兵達の胴当てを切り裂き、頸部を殴打し、喉を突き刺した。」「彼らの誇り高き真剣は、魔物の硬い爪に弾かれ刃こぼれが生じた。」「その鋭いくちばしや長い鉤爪に次々と、その血を吸わせていく。」といった多くの文章が用いられますが、与えられる情報と印象に統一感がなさすぎて、全く魔物達のイメージが掴めません。知性があるのかないのか、獣なのか鳥なのか、馬っぽさも感じます。読んでいてこの魔物達をどのようにイメージすればいいのかさっぱりわかりませんでした。様々な種類の魔物達がいるということなのかもしれませんが、そういう説明は皆無というのも不思議なところです。

結果として、強いのか弱いのか勇猛なのか臆病なのかわからない部隊と、知性があるのかないのか獣なのか鳥なのかわからない魔物達が戦って、魔物達が一方的に勝利した。という以上の情報と印象が得られませんでした。戦闘シーンにあれだけの量が割かれているにも関わらず、です。濃く書かれているように見えて、実は情報と印象を散らしすぎたことによってなにひとつ届けられていないのです。
またなかには手当たり次第に語彙を投げつけたのか、その場に相応しくないような語彙も散見されました。先の「騎兵」なんかがそうですね。こちらは後述の「●細かいところ」で取り上げることにします。

語彙が被ることを嫌うあまりに様々な語彙を使って、しかし手当たり次第に数を使っているだけなので文章全体の統率が取れずに、読者にあやふやな印象を与えることになってしまっています。
そもそも、ダークファンタジーなどの特徴のひとつは確かに厚い文章量ですが、これは文章量を増やそうと思って増やしているのではなく、しっかりとした世界観や情報を丁寧に書き起こすなかで文章量が増えていくというのが正しい順序なのではないかと思います。
ハイファンタジーは世界から作り出すというジャンルですのでその世界を表現するには相応の情報量が必要ですし(勿論全部書けばいいという話ではありません)、ダークファンタジーという陰鬱な雰囲気を描き出すには他ジャンル以上に情景描写などが必要となります。特にダークファンタジーは雰囲気で魅せる面が大きいので、その雰囲気出しに文章を割いて結果として文章量が増えるということになるのでしょう。
しかしふわ ゆーさんは文章量を増やすということ自体を目的にしてしまっているように見えます。その目的を達するために、似た文章内容を繰り返すという手段を取ってしまわれた。似た文章内容を繰り返すのですから当然求められる語彙は被りがちになってしまう。そこで語彙被りを避けるために様々な語彙を使った。結果文章全体の精度が落ちてしまった。ということなのではないかとフィンディルは推測します。

勿論7000字程度の短編ですからいくらハイファンタジーとはいえきちんとした世界構造を書くのは無理があります。ならばダークファンタジーとして雰囲気を出すための情景描写です。
丁寧に描写されているように見える本作ですが、実は描写対象のバランスが悪いことに気付きます。部隊の描写は丁寧すぎるくらいになされているのですが、森林や場所の描写についてはあまり積極性を感じません。森林については「隊列は陰鬱に生い茂る原生森林地帯を貫く細道を進んでいた」「陰鬱に沈んだ森の中。時折途切れてしまう森の小道を、」という描写程度に落ち着き、それ以上踏み込んだ描写はあまり見られません。また石柱の広場についても「そこには奇妙な石柱郡が立ち並ぶようにあった。」という描写を中心とした後、他は二、三同様の文章が添えられているだけです。部隊の描写に比して、森林や場所の描写は随分と控えめに映ります。
更に魔物の描写です。先ほど魔物について語彙を用いすぎという指摘をさせていただきましたが、語彙は用いすぎなのですが、実は描写はかなり不足しています。その魔物達はどんな魔物なのか、その容貌については実はほとんど描写されていないのです。牙や爪、翼といったその魔物の身体の一部がヒントとばかりに出ますが、ずばりその魔物はどんな姿をしているのかに言及している描写はほとんどありません。はっきりどんな魔物なのかわかったのは隊長に襲い掛かった蛇くらいでしょう。
―――――――――――――――――――
石柱の広場に姿を現した悪魔は、大柄の人間よりもさらに一回り大きく、尖った両眼が紅くぎらつき、黒々と湿った翼が邪気をたたき、はばたきが不快な腐臭を石柱の広場に漂わす。
―――――――――――――――――――
と悪魔の首領の容貌について、しっかりとした描写を施しているように見えますが実はこの悪魔がくちばしを有しているということは修道士に襲い掛かるまではわかりませんでした。この容貌描写は、部分部分の情報を与えるだけで全体像にはモザイクをかけているのです。
魔物達についての描写が、書きすぎているのに不足しています。バランスの悪さを強く感じます。

というのが本作の、文章に対するフィンディルの印象です。
部隊ばかり書いて魔物ばかり書いたが、周囲の描写は控えめで魔物の描写は実は足りないという描写対象のバランスの悪さがあるため、数少ない描写対象に文章が集中。文章量多くというダークファンタジーの特徴を満たすために描写を重ねるが語彙被りを嫌って手当たり次第に語彙を投入。結果それぞれの語彙の意味やニュアンスの違いによって印象がブレてしまい何も伝わらず、文章の質が低下。

現代劇のノウハウでダークファンタジーを書いたようにも見えます。現代劇では情景描写はさして重要でもないですからね。また容貌描写というのはその人の特徴的なところを出すだけで、全体像を描く必要はありません。情景は現代で、人は人ですから。
その文法をダークファンタジーにも当てはめてしまったので、情景描写が不足して、魔物の容貌の全体像にはモザイクがかかったままになってしまった。そして文章量多くという特徴だけを踏襲してしまった。そんな印象です。


●わかるようでわからないというラインが画一的

本作のストーリーです。シャーロットが呪いをかけたとされる森林地帯に悪魔の噂が立ったために王国が急造の討伐部隊を派遣する。盗賊の仕業かと思われたが実際に悪魔が潜んでおり、部隊はほぼ全滅。しかし修道士は人間ではない何者かで逆に悪魔達を喰らいつくしてしまう。そのままその何者かは逃げた魔物達を追って森に去っていき、この出来事は盗賊との衝突による部隊壊滅として処理される。というのがストーリーです。
本作には幾つかの謎があります。
・「お前のおかげで奴らに我が匂いを勘付かれずにここまで来れた。礼を言おう」はどういうことなのか。少年兵が修道士にとってどういう助けになったのか。
・この討伐遠征は仕組まれたものだったのか。この修道士が同行することに、何か統一教会の意図があったのか。
・この修道士は一体何なのか。あるいはシャーロットの呪いとは何なのか。この地にはどういう歴史が込められているのか。
・少年兵はその後何を決意し、何をするのか。
おおまかにこの四点です。
この四点はそれぞれ謎の範囲が異なっており、上から「作中で完成している謎」「作中から少しはみ出ている謎」「作品の背景設定になっている謎」「作中では感知しない謎」となっています。
そしてフィンディルが誤読をしていなければ、これら全ての謎が「わかりそうでわからない」という塩梅に整えられています。

「お前のおかげで奴らに我が匂いを勘付かれずにここまで来れた。礼を言おう」という修道士の発言ですが、まずこの「奴ら」というのが部隊を指しているのか魔物達を指しているのかを確実に判断することは難しいです。
「ここまで来れた」とあるので部隊を指しているのかと思いますが、「匂いを勘付かれずに」とあるので魔物達を指しているようにも思えます。
また少年兵が修道士にしたことといえば、修道士に話しかけて修道士の話に突っ込みを入れて場の空気を少し和ませたこと。また戦闘時に修道士とともに結界の中にいたことです。場の空気を和ませて部隊の警戒心を薄めたとも見えますし、少年兵の匂いに紛れることで魔物達に気付かれないようにしたとも見えます。
しかし少年兵が何かをしなくても部隊が修道士に警戒を向けるということは考えにくいですし、濃厚な人の死の匂いに溢れた中なので少年兵の匂いでカモフラージュする必要を感じません。そもそも修道士が正体を明かしても魔物達は修道士に襲い掛かっていきましたからね。
あるいは「修道士様は悪魔を見たことがありますか?」と少年兵に聞かれて修道士が悪魔を喰らう者になった経緯を正直に話そうとしたが、途中で少年兵が突っ込みを入れて話が終わったので部隊に自分が悪魔を喰らう者であると勘付かれずに済んだ。と見ることもできます。悪魔を喰らう者になった経緯を正直に話そうとしたのは、修道士にとって部隊に勘付かれずに済んだのはあまり大したことではなく、少年兵に礼を述べて命を救ったのも気まぐれな部分が大きかった、とも。しかし行軍途中で部隊に勘付かれてしまうと悪魔を捕食するチャンスを逸してしまう可能性が高いので、そこで修道士が悪魔を喰らう者になった経緯を正直に話す意図もあまりよくわかりません。悪魔を喰らう者は悪魔や魔物を逃がすことなく食べたがっていますからね。そもそもその話をするきっかけになったのは少年兵ですし。修道士の話自体も「やつを小悪魔じゃと思った」とオチがきいていてその後に話が続くようにも思えません。ですのでこの説も確信を持てるものではありません。
以上のようにフィンディルが読む限り、修道士が少年兵の何に対して礼を言っているのかがわかりそうでわからないのです。

次にこの討伐遠征ですが、何か仕組まれたものを感じます。
教会から派遣されてきたであろう修道士が実は悪魔を喰らう者で、噂程度の確信度しかなかったこの森林に実際に悪魔がいた。
そこからこの討伐部隊は実は魔物達の餌として派遣されて、それに誘き出された悪魔を修道士が捕食するという構図を想像することができます。討伐部隊が寄せ集めの混成部隊ということが説得力を持たせますし、戦争中で疲弊した状況であっても部隊を組んで遠征自体は行ったということにも納得できます。
そこから本作のお話は教会が黒幕で、教会に存在する悪魔を喰らう者の腹を満たすために、数十年に一度か期間はわかりませんが定期的に行っている食事の儀式なのではないかと仮説を出すことができます。
しかしこの段で述べた想像や仮説の裏付けとなるような記述は見当たらず、これは完全に想像の域を出ません。これも「わかりそうでわからない」といえます。仮説は立てられるけど確かなことはいえない。

次、修道士は何者なのか、シャーロットの呪いとは何なのか、この森林地帯にはどういう歴史があるのか、という謎です。本作は三人称視点ではありますが、得られる情報という点においては少年兵とほぼ変わりません。つまりよくわからないけど衝撃的なことが起きた、という以上のことはわからず、太い背骨の走っていそうな背景設定は把握できなくて当たり前です。短編ですし、薄ぼんやりと何か設定があるんだろうなーどまりで当然です。
しかし終盤で修道士の発した「少年よ、この森にシャーロットの呪いが続く限り、悪魔は再び舞い戻る。我に喰らわれる為にな。クヒャヒッヒャ……」というところから、この修道士はシャーロット本人なのでは? あるいはシャーロットに非常に近しい存在なのでは? と想像することができます。いずれにせよ修道士が「シャーロット」を認識して単語を使ったのは、修道士と呪いとに大きな相関を感じさせます。また修道士がこの呪いの内容を把握していることを読み取れ、更にその呪いを利用して悪魔の捕食を行っているところから、この呪いとは悪魔達を引き寄せる何かなのではないかと簡単な推測をすることができます。さすがに森林地帯にどういう歴史があるのかまではわかりません。
修道士の発言により、修道士の正体や呪いの内容、修道士と呪いの相関について想像をすることができます。これも「わかりそうでわからない」という塩梅です。

最後に少年兵の今後ですが、部隊の全滅と悪魔を喰らう者を目撃した少年兵は、その事実を触れてまわりますが誰にも信じてもらえず、この出来事は過去の一事件にされます。そして「その後、少年は戦場へ行った。」という文章。少年兵が何を考え、何を決意し再び戦場へ向かうのか。通常ならば初陣で部隊が凄惨な全滅を迎えてしまうのはトラウマになるには十分すぎるほどであり、そのまま剣を置いてもおかしくありません。しかし悪魔を喰らう者を確かに目撃し生存したおよそ唯一の存在として、何か決意を抱いたのかもしれません。あるいは悪魔を喰らう者に再び会うために戦場に向かったのかもしれません。と、終盤の少ない文章から少年兵がその後何を考えたのかを想像することができます。
勿論これは締めの文章にはよくある演出ですが、読者が物語の後をあれこれ想像・考察をするというのも「わかりそうでわからない」のひとつです。

と、本作に仕込まれた全ての謎について、想像したり仮説を立てたりすることはできますが、そのいずれも確かにそうだということもできないラインに整えられています。
(フィンディルに致命的な誤読がありましたらお教えください)
そしてこのラインはふわ ゆーさんが意図的に整えているのではないかとフィンディルは考えています。
「わかりそうでわからない」ラインは想像や考察が一番捗りますし、このダークファンタジーの雰囲気や少年兵に立ったような視点にもそぐいます。現にこの四つの謎についてフィンディルはこれだけの想像をすることができましたから。
ただその想像や考察が楽しかったかと問われると、フィンディルは首を縦に振るのを躊躇います。

というのも全てが「わかりそうでわからない」ラインに揃えられていることに作為的なものを感じてしまうのです。ふわ ゆーさんの存在を作中に感じます。
勿論作品に用意された考察箇所というのは全て作者が準備したものですが、そこに作為的なものを感じると楽しさは減衰してしまいます。
例えば最初の謎、修道士が少年兵にお礼を言った謎についてですが、これは作中内で完成している謎なので、ここは一読目であっさり理解させていいところだと思うのです。想像や考察を要する謎にしないで。ただフィンディルが読む限りでは修道士の「お前のおかげで奴らに我が匂いを勘付かれずにここまで来れた。礼を言おう」は上述の通り幾つかの理解のしようはあるがどれも確信は得られないという仕上がりになっています。敢えて把握させにくいように修道士に言わせた、そんな修道士のキャラ付けという印象も覚えます。
二つ目の謎である今回の遠征に仕組まれたものがあったのかについては教会が派遣した修道士が魔物を喰らう者であるという事実と質の低い混成部隊、それでも遠征を行ったという状況から教会の企てを推測することはできますが、それを裏付けるような発言や記述は見当たりません。せめて「教会主導で遠征を決定した」という一文でもあれば二読目にてこの推測に若干の確証を得られるのですがそれもなく。書いてしまえば明確に把握させられてしまいそうなので敢えて省いたような印象を得ます。
逆に三つ目の謎、修道士の正体とシャーロットの呪いについては「少年よ、この森にシャーロットの呪いが続く限り、悪魔は再び舞い戻る。我に喰らわれる為にな。クヒャヒッヒャ……」と明らかにヒントとなるような発言が入っています。修道士が森に消えた後で少年兵に言った場面ですが、やや強引に読者に考察の手がかりとなるように言わせた演出です。何も言及がなければ薄ぼんやりと何かあるんだろうなーと読者が思うだけですが、この発言があることで曲りなりにも考察することが可能になっています。この演出は、作者の頭の中に用意した背景設定に少しだけ踏み込んでほしいという意図を感じます。しかしこの程度の踏み込みを用意するくらいなら、何か設定はあるんだろうけど短編だし語られないんだろうなーという塩梅が丁度いいように思います。それがこの異世界の奥行きになるからです。

つまり「一読目で問題なく把握させるのが自然な箇所」「二読目で気付いてある程度確証を持たせるのが自然な箇所」「およそ想像の手がかりなくぼんやり漂わせるだけが自然な箇所」が全て「想像はできるが確証は持てない」というラインに加工されてしまっているのです。どうとでも解釈できる発言、言及がない、手がかりとなる発言を入れるという三者三様の加工を施すことで、全て画一的なラインになっているのです。

フィンディルはここにふわ ゆーさんの作為的なものを感じ、想像があまり楽しくありませんでした。それぞれの謎がそれぞれ自然に持つべき想像のラインであれば作者の作為は感じませんし、それぞれで想像や考察の手順が違うので楽しさがあるのです。しかし本作では作者の作為を感じ、しかもどの謎も考察をしてみれば同じような手順で同じようなところで行き詰まってしまうと画一的になってしまい、結果考察を含んだ読み味が冗長になってしまっています。
物語考察にメリハリがなくて、全体的にボヤけた印象になっているともいえます。全部が全部「わかりそうでわからない」のでボヤけているというのも当然の結果です。

「作中で完成している謎」「作中から少しはみ出ている謎」「作品の背景設定になっている謎」とそれぞれの謎には明確な違いがありますので、それぞれに沿った考察や想像の道を用意するのがよかったのではないかと思います。

ただ四つ目の謎、少年がその後何を考え何を決意して戦場へ向かったのかというのはすごくいいと思います。これも「わかりそうでわからない」点なのですが、この謎については「わかりそうでわからない」という現在のラインがぴったりですし、見せ方も上手いと思います。これに関しては締めというのもありますし、想像はできるが確信が持てないのが当たり前であり自然であり楽しかったです。
またそれまでの文章量とは違い、文章が少なくなっていくのがとてもいいですね。単純にメリハリを感じられるのですが「物語が終わったので物語のカメラが作中世界からズームアウトしていってる」というイメージをとても感じました。動画の最後でドローンが浮上して画を急速に引いていく、という感じですね。ズームアウトしていってる最中なので、本作のその後の重要な文だけが素材のまま二つ三つ表示されて……という感じ。まさに「作中では感知しない謎」であり、謎の性格にぴったり沿った見せ方です。ここはとても好きです。
短編ハイファンタジーの締めとして、すごくまとまりがよかったです。ジャンルを上手く利用した締めだなと思いました。
その文の残し方が読者の考察を呼んで余韻もよしというのも上手くできた構造だと思います。作中世界は続いていくのだけど物語のカメラだけが引いていく。
「さあ締めますよ!」と文章が意気込んでいないのがいいですね。


●細かいところ
ここからは文章の細かいところを取り上げます。

・中世時代の、ケルト地方に良く似た……異世界物語。
「中世」とはウィキペディアによると「西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代」とあります。つまり「中世」それ自体に「時代」という意味が含まれていますので「中世時代」というのは意味の重複です。
また印象として「時代」がつくと鎌倉時代や江戸時代など明確な境界線のある区分けがあるイメージがあります。勿論「中世」にはそんな明確な区分けはありませんので、尚更「時代」は省いた方がいいかと思います。

・中世時代の、ケルト地方に良く似た……異世界物語。
対義語として「悪い」を当てはめることができないケースでは「良い(良く)」は漢字ではなく平仮名表記にすることをオススメします。
固い文体では、不必要な漢字表記は幼稚な印象を与えかねません。

・中世時代の、ケルト地方に良く似た……異世界物語。
「ケルト地方に良く似た」「異世界物語」とあるので、「地方に似た物語」と理解することができますが、これは不適切です。
「異世界物語」を「異世界の物語」にするなどで回避できます。

・装備は不揃いで、それぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、中には50年も昔の型式で、今日の戦闘では、もう錘か飾りとしてしか役に立たない胴当てを着込んでいる者もいた。
「もう錘か飾りとしてしか」は「もう」ではなく「もはや」の方が文体に似つかわしいと思います。

・装備は不揃いで、それぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、中には50年も昔の型式で、今日の戦闘では、もう錘か飾りとしてしか役に立たない胴当てを着込んでいる者もいた。
「もう錘か飾りとしてしか役に立たない」とありますが、それは役に立つとはいえないと思います。
勿論皮肉の意図で用いているのでしょうが、役に立つというのはプラスのニュアンスが強いので、せめて「役割を果たす」程度にしてニュアンスの細かな調整をした方がいいかと思います。

・装備は不揃いで、それぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、中には50年も昔の型式で、今日の戦闘では、もう錘か飾りとしてしか役に立たない胴当てを着込んでいる者もいた。
読点が多くて読みにくいです。
「装備は不揃いで、それぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、」と「中には50年も昔の型式で、今日の戦闘では、もう錘か飾りとしてしか役に立たない胴当てを着込んでいる者もいた。」では内容が違うので一文で表すには読点で上手く区切るのがよいのですが、読点を多く使っているので区切る機能が死んでいます。結果読みにくさに繋がっています。
「装備は不揃いでそれぞれが着込んだ甲冑には統一性がなく、中には50年も昔の型式で、今日の戦闘ではもう錘か飾りとしてしか役に立たない胴当てを着込んでいる者もいた。」程度には読点を削った方が読みやすくなるはずです。

・槍傷で穴の開いた鎧の一部や、軽い皮製の防護服を身に纏うのが精一杯という歩兵たち
本作では難読漢字にフリガナが振られていますが、フリガナを振る振らないの選別に精度の低さを感じます。
一般的には難読だが小説にはよく登場する「纏う」や「蝙蝠」はフリガナがなくても多くの人が読めます。しかし小説にそんなに登場しない「槍傷」などは意味は簡単でも読みがよくわかりません。そういう語に「やりきず」とフリガナを振ることをオススメします。そして「纏う」には不要です。

・槍傷で穴の開いた鎧の一部
「開いた」→「空いた」

・槍傷で穴の開いた鎧の一部
つまりこの鎧はどういう状態なのだろうということが把握しづらいです。
「穴の開(空)いた」では鎧として残っている部分が多い印象、「鎧の一部」では鎧として残っている部分が少ない印象です。
どの程度鎧としての形を保っているのかがよくわかりません。
鎧として残っている部分が多い物、鎧として残っている部分が少ない物がそれぞれあるならばそれぞれ文章を分けるべきだろうと思います。
「穴の開(空)いた」を強調し、鎧として残っている部分が多いのならば「の一部」は省いていいと思います。

・まともに鎧を備えている先頭の5人程
・そのあと40人ほど続いていた。
「程」「ほど」の表記揺れです。表記揺れは文章の整然さを乱したり、作者の変換作業を想起させるので没入の妨げになります。
特に本作のようなダークファンタジーでは表記揺れは雰囲気をグラつかせる原因になりますので、意識して潰すことをオススメします。

・隊列の中程には荷を乗せた小さな驢馬が4頭、祈祷役の修道士が一人。
ここで「驢馬」が登場しますが、魔物達との戦闘においてこの「驢馬」がどうなったか、一切言及がありませんでした。
簡単に一文でもいいので戦闘においてこの「驢馬」がどうなったかを触れた方がいいと思います。

・それが今回王宮が使わしたシャーロット遠征軍のすべてだった。
「使わす」でも誤りではないようですが、このケースで使うのは一般的には「遣わす」です。

・王国の紫紺の軍旗だけが一際華やかにはためいていた。
一際とは「他とくらべて程度が際立っているさま」という意味です。
今回ならば他のものも華やかだが、この軍旗が一段と華やかであるという場合に使えます。
が本文ではこの軍旗だけが華やかであるということで用いられているので「一際」を使うのは不適切です。

・エーラル王国西北の山脈の麓に広がる森林地帯
一般的には「西北」ではなく「北西」を使いますが、本作は異世界のエーラル王国ですのでこういう語彙には好印象を得ました。
日本における東北地方みたいなもので、慣習的に「西北」と呼ばれているのかなと想像することができました。

・この地には400年前、シャーロットと呼ばれた絶大な力を持つ魔女が、呪いをかけたという伝説が残る。
この文を除いて「魔女」という語は一切使われていないのが気になりました。代わりに「悪魔」が使われます。
ここに意図があるのかはわかりませんが「魔女」と「悪魔」ではニュアンスが異なるので、イメージの定着の邪魔となりました。

・「数だけは最低限の体裁をそろえたましたが、質の悪さだけはどうにもなりませんな」
「そろえたました」→「揃えました」

・隊列の前部で、使い込まれた鎧を着込んだ、一人の騎士が話しかけた。
「話しかける」は他動詞なので誰に話しかけたのかという目的語が必要です。
ただ創作的判断によって敢えて目的語を省いた他動詞を、文法的に違うと否定することは野暮です。とはいえ「話しかける」はその創作的判断に鑑みてもやや逸脱した使い方であると判断します。
「話した」程度で調節することをオススメします。

・今回は戦闘と言うよりは視察
発話を表す以外の「言う」は「いう」と平仮名表記にすることをオススメします。
理由は「良い」と同じです。

・恫喝し追い払うのが目的
「恫喝」というのは非人道なニュアンスがあるので、国が派遣した部隊が盗賊に対して、しかも隊長が扱う語彙としては違和感が残ります。
「恫喝し」は省いた方がいいのではと思います。

・森の中での戦いなら馬や重い装備はかえって邪魔になるだろう……
「軽い皮製の防護服を身に纏う」とあるので隊員の多くが軽い装備を身に付けているのはわかりますが「錘りか飾りとしてしか役に立たない胴当て」とと重さを感じさせる文もあります。
どちらにせよ粗雑な装備であるのは確かなので「重い装備」よりも「立派な装備」の方がより適切かと思います。

・中には50年も昔の型式
・この十年、エーラル王国は海峡の向かい側にあるソルダム共和国と戦闘状態を続けてきた。
数字の表記がアラビア数字と漢数字で定まっていません。
どちらも二桁の年数ですし、ここは統一すべき箇所だと思います。

・今回シャーロットの悪魔統治遠征軍が組まれたのである。
作中の用語に言葉を挟むのも野暮かとも思ったのですが「悪魔統治遠征軍」の「統治」というのがいまいち理解できませんでした。
何をもって「統治」なのでしょうか? 「悪魔の噂」が立っている程度ですから、悪魔が統治をしているとするのはかなり尚早な判断にも思えます。
またその前の「シャーロット遠征軍」と呼称がブレているのも気になります。

・胴当てを着込んでいる者もいた
・明らかに下級兵卒と思しき隊員が隣のものに話しかける。
「者」「もの」の表記揺れです。

・俺の地方じゃ400年前のことだってお伽話だと言ってるぜ
「400年前のこと」だと、魔女の伝説がお伽話だといっているのか、単に400年も前のことはお伽話の範疇だといっているのかの判断が若干難しいです。
おそらく前者なのでここは「400年前の伝説(のこと)だって」とした方が解釈が揺れずに親切かと思います。

・「多分、戦争の間暴れていた野盗の類が戻ってきた軍隊に怯えて集まっておるんだろうな」
前の文章ではいまだ戦争の最中で前線は戦闘状態ということなので、軍隊が戻ってきたという情報は矛盾しています。
一兵士の四方山話なので情報が錯綜しているということでいい気もしますが一応。

・混成部隊の傭兵たちは私語を禁じられるほど
・傭兵達は正規の職業兵士ではなく
「たち」「達」の表記揺れです。

・傭兵達は正規の職業兵士ではなく、農民出身のものも多い
この世界の身分制度も絡んできているのかもしれませんが、農民出身の職業兵士がいてもおかしくないのではないでしょうか。
農民出身と正規の職業兵士は両立しないこともないはずです。
「農民くずれ」などがより適切かと思います。

・傭兵達は正規の職業兵士ではなく、農民出身のものも多い、そのせいか、不揃いの防護服とはいえあまりに不似合いで、武器を持つ手はおぼつかない。
「農民出身のものも多い、」は読点ではなく句点にする方がいいかと思います。
完全に文章が途切れているうえ、ここを読点で繋げることで読みにくくなってしまっています。

・不揃いの防護服とはいえあまりに不似合いで、武器を持つ手はおぼつかない。
「武器を持つ手はおぼつかない」とありますが、これだけではイメージしにくいです。
おそらく槍なら穂先がフラフラしていたり、剣と盾がぶつかって無駄に音を立てているなどを指しているのかと思いますが「武器を持つ手はおぼつかない。」とだけするのは文章の不足を感じるので、もう一文くらい補強が欲しいです。

・部隊長は後方での会話に隊列の緩みを感じ
「隊列の緩み」だと単純に隊の並びが緩んでいることになると思うので、ここは「隊の緩み」でいいかと思います。
本当に隊の並びが緩んでいることに対して号令をかけたのであればいいのですが。

・部隊長は後方での会話に隊列の緩みを感じ
・軍旗がゆるく風になびいた。
「緩み」「ゆるく」の表記揺れです。

・その心情を解すように勤めたりもしよう。
「勤めたり」→「努めたり」

・うつむき歩いていた少年兵はふと隊列の前方にいる修道士に視線を送った。
前に「隊列の中程には荷を乗せた小さな驢馬が4頭、祈祷役の修道士が一人。」とある通り修道士は隊列のなかほどにいるはずです。
少年兵から見て前方という意味なのかもしれませんが、その場合には「隊列の前方」ではなく「前方」とするのが適切です。

・少年は明灰色の正装を纏った修道士に近づき話しかけた。
その前に「部隊長は後方での会話に隊列の緩みを感じ、部隊に号令をかけて気をひきしめ直した。」とある通り、隊長は会話や隊の緩みに対して引き締めの号令をかけました。
であるのに緊張と不安のさなかにいる少年兵が隊列を崩して修道士に近付いて話しかけるということに違和感があります。
初陣で緊張しているならばなおさら隊長の号令により緊張し、何も話さず歩き続けるのではないでしょうか。
何故この少年兵が引き締めの号令の直後にも関わらず、初対面の修道士に近付いて話しかけたのか「緊張を解すため」以上の動機がほしいところです。

・初めて神殿の教会に入会し
「入会」というのが入信のことを指すのならば、その前の「神殿」が余計です。
「入会」というのが教会内の神殿に配属することを指すのならば、「教会の神殿」にするのが適切です。

・神殿の脇には大神官の控えの間があってな。
一般的に「神殿」とは建造物全体のことを指し、「間」とは部屋のことを指します。
つまり建造物の脇に部屋があるということになり、文の意味がよく通りません。

・ある日神官の目を盗んでその部屋に忍び入ったのだ。
・その壁には巨大な紅い布で扉が覆われていてのお。わしは扉を開けて、その向こうへ入ろうとした。
・ところが向こうの部屋に、わしと同じぐらいの年の修道士見習いが現われた。
・そして、わしが向こうの部屋に入ろうとするのを、すかさず邪魔するんじゃ。
・また、その顔が意地悪そうな顔をしておってのお。どんなにわしが素早く動いても、やつは通せんぼするんじゃ。幼いわしは、やつを小悪魔じゃと思った。
おそらく「大神官の控えの間」に「巨大な紅い布」が掛けられた扉があり、そこから更に向こうに部屋が続いているということなのでしょう。少年兵の指摘によればそれは扉ではなく鏡ではないかということですが。
「その壁」の「その」が指示しているのは「大神官の控えの間」のことでしょうが「その壁」とだけ示されても自然に理解できません。
また布で覆われているのにどうしてそこに扉があるとわかったのかという疑問もあります。通常覆われていたならば扉は見えなくなるでしょう。
構成としても「壁には布で扉が覆われていた」となり、文章として不恰好です。
「入った部屋には巨大な紅い布が掛けられた扉があってのお。」などとするのがいいと思います。
また「その向こうへ入ろうとした」「修道士見習いが現われた」「入ろうとするのを邪魔する」とありますが、修道士の動作がいまいち理解できません。修道士はどの程度移動したのでしょうか。入ろうとしたが人が現れて入るのを邪魔する、というのは非常にまどろっこしい言い回しです。
また鏡であるならばこれを扉と認知するのは無理があります。扉とは部屋同士の空間を遮断する可動式の板のことを指すのでこれが鏡であるならば扉は存在しないことになります。扉のような蓋がついた鏡もありますが……。
またこれが鏡であるならば、修道士がなんとか先へ進もうと強引に進んで、それが鏡であると気付けるのではないかとも思えます。
実際問題これが本当に鏡だったのか、あるいは別の何かだったのかはわからないので指摘も難しいのですが、いずれにせよ非常に読みにくい文なので洗練されることをオススメします。

・「おいひよっ子。聖職者を怒らすと戦いの神から罰を喰らうぞ」
実際はこのことがあって修道士に感謝されて命を救われるので、いい皮肉になっていていいと思います。
が上の項目でも触れましたが、このことでどうして修道士に感謝されたのかがよくわからないので、皮肉としてはあまり効いていないようにも思えます。

・そこには奇妙な石柱郡が立ち並ぶようにあった。
「石柱郡」→「石柱群」

・少年兵には、もしかしたら伝説の魔女の神殿の跡かもしれないとも思える。しかし不安は感じたが不思議と嫌悪感や恐怖はなかった。むき出しの石の神殿は森に広場を作り出しており、鬱蒼と茂る木々の間を先も見えぬまま歩いているより幾分か心が安らいだ。
ここだけ何故か少年兵の心情描写がありますが、その意図がよくわかりません。
ここの少年兵の心情が重要というわけでもありませんし、この程度の情報ならば少年の心情を通さずとも表現できるはずです。
ダークファンタジーの本作では文体が持つ雰囲気というのは重要ですので、大事でもない場面で視点をブレさせることは雰囲気を損ねることに繋がると思います。

・石柱群の中央では、隊長と副隊長が今後の方針を相談していた。
「石柱群の中央では」とあるので、ここでは隊長と副隊長が歩みを止めて相談しているように受け取れます。
隊長と副隊長が歩みを止めて相談しているならば隊全体の歩みを止める必要が高いですが、「部隊は行軍を一時停止させ」といった文章がありません。
あるいは隊長と副隊長は歩きながら相談しているならば「石柱群の中央では」と位置を指定しない方がいいでしょう。

・ところが向こうの部屋に、わしと同じぐらいの年の修道士見習いが現われた。
・夜になれば悪魔とやらも現れるかも知れん
「現われた」「現れる」と送り仮名の表記が不統一です。
一般的には「現れる」という表記なので前者を「現れた」とするのがいいと思います。

・夜になれば悪魔とやらも現れるかも知れん
「知れん」は「しれん」と平仮名表記にするのがいいかと思います。
他にもひとつひとつ指摘は省きますが、平仮名表記にして問題ない箇所を漢字表記にしているので、それぞれ平仮名表記にするのをオススメします。

・交代で仮眠を取りながら、夜を徹してこの森を視察散策する。
「散策」とは「これといった目的もなく、ぶらぶら歩くこと。」なので悪魔や盗賊の存在・痕跡を探す目的があるこの文では「散策」ではなく「探索」とすべきでしょう。
また「視察」は肩書きを持った人が一通りの危険が去った後に行う行動という印象が強いので、こちらもこの文には不自然かと思います。

・頷いた祈祷師
特定の人物への呼称については語彙を動かさない方がいいと思います。呼称の語彙がブレると読みにくさに繋がります。
「修道士」と固定した方がいいでしょう。

・部隊を正輪状に立ち並ばせて
「正輪状」とは造語でしょうか? 検索しても出てきませんでした。ただおそらく円状というような意味だと思います。
フィンディルが無知なだけで「正輪」「正輪状」という言葉があるならば問題ありませんが、造語であるならば素直に「円状」がいいと思います。
わざわざ造語を使うような場面ではありません。

・そしてその聖杖の中に言葉が見えるかのように耳を澄まし、見つめ続けた。
「耳を澄ます」という動作は端からそうとわかるようなものではなく、三人称文で使う際にはそれまでの話の流れを前提として使う動作です。
今回のように話の流れがなく「耳を澄ます」とするのは違和感がありますし、「見つめ続ける」とあわせて使うのは更に違和感があります。
「耳を澄ます」だけかもしれませんし「見つめ続けている」だけかもしれませんからね。「耳を澄まし」かつ「見つめ続ける」と端から判断するのは難解です。

・やがて唇を結んだままで口内を動かし誓言をとなえ続ける。
「やがて唇を結んだままで」の「で」は省いていいと思います。
また誓言を唱える動作はこの文からなので「となえ続ける」ではなく「となえ始める」「となえる」がいいかと思います。

・「出なきゃ、こんな辺ぴな混成部隊に使わされるかよ」
「辺鄙」とは「都会から離れていて不便なこと」という意味であり、派遣された部隊に対して用いるのは不適切です。
「こんな辺鄙な地への混成部隊に遣わされるかよ」が適切かと思います。

・「出なきゃ、こんな辺ぴな混成部隊に使わされるかよ」
何故かここでは「辺ぴ」と「鄙」が平仮名表記されています。そもそも「辺鄙」は割と使われる語なので漢字表記でも問題ないと思いますし、「辺ぴ」とひとつの語で漢字表記と平仮名表記を組み合わせるのは教育的放送的な使い方で小説にはそぐわない表記方法です。
また本作では難読漢字にはフリガナを振るという対処を行ってきたのに対し、ここでは平仮名表記をするというのも一貫性のない処理です。
「辺鄙」でいいと思いますし、難読だと判断したのなら他同様フリガナを振るべきでしょう。

・「出なきゃ、こんな辺ぴな混成部隊に使わされるかよ」
「出なきゃ」→「でなきゃ」

・祈祷師は戦勝を祈願し続け、儀式の最後の台詞に口を開いた。
「最後の台詞に」→「最後の台詞で」
また儀式の誓言のことを「台詞」と表現することにやや違和感があります。「誓言の最後で」などがいいかと思います。

・あなた方が徳と威光の届いた御膝元で許されざる大罪を為そうと企む者に
→「あなた方の徳と威光が届いた御膝元で許されざる大罪を為そうと企む者に」

・天上の神々、そして大恩ある国王陛下、あなた方が徳と威光の届いた御膝元で許されざる大罪を為そうと企む者に、我ら正義の鉄槌を今まさに下さんとす。神よどうか御慈悲を許し賜れ。そして我らを見護り給えかし
最初に「天上の神々」と複数形であるのに最後は「神よどうか」と単数形になっているので、複数形か単数形か統一すべきだと思います。そういう誓言なのかもしれませんが。

・その声に兵士達が一斉に唱和した。
やや微妙な箇所なのですが、「唱和」とは「一人がまず唱え、続いて他の多くの人達が同じ言葉を唱えること。」です。ですので「誰かの言葉を、大勢で繰り返す」という意味ではありません。
ただ日常では「皆さんご唱和ください」のように「自分の言葉を、大勢で繰り返す」という意味合いで用いられ、特にそれが誤用として指摘されているわけではありません。
ですので本文の使い方が誤りであると断言するのは難しいのですが、日常での「皆さんご唱和ください」は「一人がまず唱え」の「一人」が言うのに対し、本文では三人称の語り手という第三者が「一斉に唱和した」としている違いがあります。
ですので違和感が生じているのではないか判断しています。
三人称の語り手であるならば、「兵士達」の行動を「唱和」というのではなく「隊長」と「兵士達」全体の行動として「唱和」をあてるのが適切なのではないかと考えます。

・「剣にかけて勝利を誓う」
・「剣に賭けて!」
「かけて」「賭けて」の表記揺れです。

・「剣に賭けて!」
・    *
・兵士達が着陣の儀式を厳かに進めている間。
本作では「*」で場面の転換を表現していますが、ここでは場面が転換していません。
場の空気こそ転換しましたが、わざわざこれを用いるような箇所なのだろうかという疑問は消えません。
不要だと思いますし、空気の転換を表現したいのならば文章で処理するのがいいでしょう。

・兵士達が着陣の儀式を厳かに進めている間。
兵士達からは「儀式だからな、形だけのものさ」ともあるように「厳かに」というイメージが伝わってきません。
修道士や隊長を含めれば「厳かに」も納得できるので、主語を「兵士達」ではなく「部隊」などとするのがいいと思います。

・気がつけば森の奥から遠巻きに無数の黒い影が広場を取り囲んでいる。
「森の奥から」は不要に思います。
また「遠巻きに」には近付く意思がないニュアンスがありますので、別の語彙を用いた方がいいのではないかと思います。

・その気配は強辣で禍々しさを滲ませ、人の胸に不快感を煽る。
「人の胸に不快感を煽る」というのはこの気配の表現だろうと思います。
とはいえこの時点では部隊に明確に認識されているわけではなく、兵士達の胸に不快感を煽ったわけではないので読みにくさに繋がっています。
別の表現にしておいた方が無難だと思います。

・木々の陰から時折ちらつく姿が、その存在の実態を認識させる。
「実態」は「そのものの実際の様子」という意味ですので、「ちらつく」段階では「実態」を掴むのは困難です。
この場合は「実際に存在すること」を表したいので「その存在の実在を認識させる」などとしたいですが「存在」と「実在」が被っているので「そのものの実在を認識させる」などがいいかと思います。

・見るからに数が多すぎた。
この段階では「多すぎる」と現在形の方が文通りがいいと思います。過去形を用いるのは早いです。

・副隊長は混成部隊を落ち着かせ、臨戦態勢を整えるよう指示を出した。
魔物に取り囲まれるという緊急事態において「臨戦態勢を整える」というのはいささか緩い指示に見えます。
次の瞬間には襲われるかもしれないので「戦闘態勢を取るように指示を出した」などもう少し緊急性の高い指示がいいかと思います。

・退路を確保するために斥候を放とうと手配したまさにその時――。
この文の主語が「隊長」か「副隊長」かわからないのでほしいところです。おそらく「隊長」でしょうか。

・部隊が進んできた方の道側から、おぞましく穢れた笑い声が響いた。
「部隊が進んできた方の道側」というのが若干理解しにくく、また若干まどろっこしいです。
「部隊が進んできた方向」「部隊が通ってきた方向」などがいいかと思います。

・はばたきが不快な腐臭を石柱の広場に漂わす。
「腐臭」が「不快」なのはおよそ当然なので「不快な」は省いていいでしょう。

・石柱の広場に姿を現した悪魔は、大柄の人間よりもさらに一回り大きく、尖った両眼が紅くぎらつき、黒々と湿った翼が邪気をたたき、はばたきが不快な腐臭を石柱の広場に漂わす。
文章が長く、また読点を多用しているため読みにくさがあります。読点を整理するなどして読みやすさを確保することをオススメします。

・他の邪な眷属たちも薮の中から広場へとにじり出てくる気配を示した。
「広場へとにじり出てくる気配を示した」では広場に出てきたのか出てきていないのかの判断がつきにくいです。
その後を見ると広場へ出てきているようなので、もっと明確に魔物達が広場に出てきたとわかる文章がいいと思います。

・周囲の化け物がこの悪魔に合わせて動きを狭めてくるところを見ると
「動きを狭める」というのは意味が成立していません。強引に解釈するならば動きの程度を小さくしたり種類を少なくしたりということでしょうか。
この文では部隊との間隔を詰めるという意味合いで用いているので「この悪魔に合わせて部隊との間隔を狭めているところを見ると」などが適切でしょうか。

・周囲の化け物がこの悪魔に合わせて動きを狭めてくるところを見ると、恐らくこの魔物が集団の首領なのであろう。
「この悪魔」「この魔物」ともに「悪魔の首領」のことを指していますが、表記が違うことで読みにくさが生まれています。
「この悪魔」が並んで語彙が被るのを嫌ったかもしれませんが、それ以上の読みにくさが生まれています。
「この悪魔」で統一するか、「この悪魔」を二度使わずに済むような文章にすることをオススメします。

・奥の木々の間では巨大な蝙蝠のような羽音がざわめく。
「ざわめく」とは「ざわざわと騒がしい様子になる」という意味なので「ざわめく」という言葉には「音がする」という意味がありません。飽くまで「音などによって騒々しい様子になる」と音などによってもたらされた状態を表すという言葉です。
ですので本文のように「羽音がする」という意味で「羽音がざわめく」というのは不適切なので「羽音でざわめく」などとするのがいいと思います。その際「奥の木々の間では」との噛み合わせが悪いので「木々の奥が巨大な蝙蝠のような羽音でざわめく。」などとするのがいいと思います。

・そしてそれらは時折、聞く者の耳をえぐるかのような奇声を発した。
「それら」が何を指すのかが少しわかりにくいです。
およそ魔物達のことを指すのでしょうが、その前に魔物達の描写を並べているので「それら」がその様子にかかっているように見えます。

・隊長の野太い声が森と悪魔の禍々しい威圧を、朗々と切り裂くように轟いた。
本文だと「朗々と」が「切り裂くように」にかかっているように見えますが「朗々と」に鋭利なニュアンスはありません。
「隊長の野太い声が森と悪魔の禍々しい威圧を切り裂くように(、)朗々と轟いた。」がいいのではないかと思います。

・神よどうか御慈悲を許し賜れ。そして我らを見護り給えかし
・「エーラルの諸王よ天上の神々よ、わが軍を護りたまえかし。エーラルの栄光をわが手に」
「給え」「たまえ」の表記揺れです。
前者は修道士、後者は隊長の発言なのでそれぞれの語彙の違いともいえますが、ここで「たまえ」の表記に違いを持たせる意味がないので、やはり統一する方がいいと思います。

・「エーラルの諸王よ天上の神々よ、わが軍を護りたまえかし。エーラルの栄光をわが手に」
ここでエーラルという単語を出すのは上手い手だと思います。
こういうファンタジー短編では国の名前などを序盤に出したっきり二度と出てこないことが多いですが、このように使うことで自然に国の名前をもう一度使うことができます。
用語を序盤で使いっぱなしにしない優れた手だと思います。

・喊声をあげて部隊はその言葉を復唱した。
「喊声」は戦闘に突入するときの叫び声のことです。「喊声をあげる」で戦闘に突入するときの叫び声を上げるという動作を表します。
つまり「喊声をあげて部隊はその言葉を復唱した。」では一度喊声をあげた後に「エーラルの栄光をわが手に!」と復唱したことになります。つまり二度動作したことになります。
それでもおかしくはないのですがここでは「喊声をあげるかのように部隊はその言葉を復唱した。」などひとつの動作にまとめた方がいいかと思います。

・甲冑の群れが、怒声をあげた洪水となり流れた。
冒頭で「槍傷で穴の開いた鎧の一部や、軽い皮製の防護服を身に纏うのが精一杯という歩兵たち」とあり、通常イメージする甲冑を身に付けていない兵士達が相当数いることがわかります。
そこで「甲冑の群れ」と表現することに違和感があります。
甲冑とは「鎧と兜」のことなので「軽い皮製の防護服」も鎧であるとするならば誤りではありませんが、イメージの違いは拭えません。

・陰黙だったシャーロットの原生林に響き渡る。
「シャーロットの原生林」というのは地名でしょうか? シャーロットの呪いがかけられたという森林地帯なので「シャーロットの原生林」という名がついたのでしょうか。
そういう地名があるならば序盤にいくらでも紹介できるはずで、この場面で突然地名紹介がなされるのは唐突という印象が強いです。
序盤にて紹介すべきだったと思います。

・刀槍のひらめきが走り
「刀槍」にフリガナがほしいところです。「とうそう」と読むようですが「嘶き」よりも難読だと思います。

・魔物たちは巨体を宙空でくねらせて攻撃を巧にかわし、草の上に着地すると、そのままおぞましい奇声を発して攻撃に転じた。
「巧」は「たくみ」ということでしょうが、一般的には「巧み」と送り仮名をつけることが多いです。
読みの点からいっても「巧み」の方がよりよいと思います。

・魔物たちは巨体を宙空でくねらせて攻撃を巧にかわし、草の上に着地すると、そのままおぞましい奇声を発して攻撃に転じた。
この文章はつまり「攻撃をかわして攻撃に転じる」ということで、勿論意味は通じますが収まりの悪さを感じます。
「奇声を発して反撃に転じた」がいいでしょう。

・勇気を振り絞り襲い掛かる騎兵達の白刃をかわし
上の項目でも触れましたが「騎兵」とは「馬に騎乗して戦う兵」のことを指すので、本作で用いるのは不適切。
厳密には「騎士」もそうらしいのですが「騎士」は慣用的に人間単体に用いることが多いので、こちらは問題ないと考えます。

・石柱が返り血でまだらに染まり
「返り血」とは「相手を切ったり刺したりしたときに、はねかかってくる血」「切りつけた人についた、相手の流した血。」のことです。
つまり通常「返り血」を浴びるのは相手を切ったり刺したりした者であり、この文だと「石柱」が人を切ったり刺したりしたことになってしまいます。
そんなわけはありませんので「返り血」以外の語彙を使うことをオススメします。

・続々と狼狽の叫び声を挙げる。
「挙げる」→「上げる」

・部隊の規律が乱れ始めた。
「規律」とは「人の行為の基準として定められたもの。おきて。」「一定の秩序」という意味です。
「一定の秩序」という意味で考えればおかしくないようにも見えますが、やはり「規律」には平常時の秩序というニュアンスが強いです。
戦闘時の形勢などによる秩序を指すならば「統率」「統制」などがより適切かと思います。

・部隊の規律が乱れ始めた。
それまでの文章で部隊の敗戦は濃厚で、およそ部隊が機能不全に陥るほどの惨殺が表現されています。
それで「乱れ始めた」とするのはやや状況が遅々としている印象を受けます。
より強い崩壊の語彙を用いるか、せめて「乱れた(る)」とする方がいいのではないかと考えます。

・隊長は部下達を大声で叱責し浮き足立った味方を諌めようとした。
「諌める」とは「目上の人に不正や欠点を改めるよう忠告する。」という意味で、目下→目上の行動に用いる語です。
この文では隊長が部下達に対して行っている行動なので、関係性が逆になっています。
「鎮める」などが適切かと思います。

・突然、頭上から蛇が降りかかり、隊長の顔面を襲う。
「顔面」とは「顔の表面」という意味なので、「顔の表面を襲う」というのはどうも収まりの悪さを感じます。
「顔面を引っ掻く」「顔面に噛み付く」などであれば「顔の表面を引っ掻く」「顔の表面に噛み付く」と意味が通るのですが「顔の表面を襲う」というのは、あまり腑に落ちない意味合いです。

・大量の血しぶきが中空に噴き上がる。
「中空」とは「空の中ほど」という意味で、地上から視認できるが鳥が飛んでいる程度の高さのことを指すのではないかと思います。
当然血しぶきがそこまで噴き上がるわけはありませんので、ここは他箇所で用いられる「宙空」とするのが適切かと思います。おそらく変換ミスでしょうか。

・化物達は人間どもの哀願には目もくれず、
ここで「人間ども」としていますが、本作の三人称視点は人間側に寄っており、ここで「人間ども」と人間を下に見る言い回しはそれまでのスタンスとズレています。
おそらく魔物視点での「人間ども」という意図なのでしょうが、文がきちんと作られていないため三人称視点での「人間ども」になっています。
「化物達は人間どもの哀願には目もくれないとばかりに、」などがいいと思います。

・前方で剣と鉤爪とが交錯し、すさまじい刃音が鳴り渡る。
「前方」とは何の前方を指しているのでしょうか。省いていいと思います。

・その腕は巨大なハサミのような鋭い爪を持ち
・前方で剣と鉤爪とが交錯し、すさまじい刃音が鳴り渡る。
これはどちらも「悪魔の首領」についての描写です。「ハサミのような鋭い爪」と「鉤爪」と二つの言い回しで「悪魔の首領」の爪を表現していますが、この二つの表現ではどのような爪なのかという想像が難しいです。
「ハサミ」には湾曲していないイメージがありますが「鉤爪」には湾曲しているイメージがあります。
これも上の項目で触れた、語彙を多数使用してイメージを定められないという指摘のひとつに属すると判断します。

・しかし、熟した木の実が大地に落ちる程の間も置かず、我を取り戻すと即座に部隊に向けて撤退命令を絶叫した。
「熟した木の実が大地に落ちる」という比喩ですが、この比喩は時間が短いことの例えなのか時間が長いことの例えなのかわかりにくいです。
文脈を見ると時間が短いことの例えなのでしょうが、熟した木の実が枝から離れるのは一般的にある程度の日数を要します。
枝から離れて大地に落ちるまでの落下時間を指してこの比喩を用いたのだとは思いますが、この比喩は時間の短さを伝えるにしては不適当だと思います。

・我を取り戻すと即座に部隊に向けて撤退命令を絶叫した。
「撤退命令を絶叫した」というのはいい表現だと思います。
「命令」と「絶叫」という似つかわしくない語彙を組み合わせることで、隊長という身分は保持しつつ隊長という矜持を失いつつあるということを表現しています。
隊長の意識の高さと命の危機感の高さを同時に表現した、優れた言い回しです。

・生き残った兵士達はそこかしこで悲鳴の大きさを競い合っていた。
「悲鳴の大きさを競い合っていた」というのはいい表現だと思います。
悲鳴があちこちで上がっていることがわかりますし、誰もが悲鳴を上げているということを悲劇的かつ喜劇的に表現したもので、状況を想像しやすいです。

・しかし烈風に等しいすさまじい速度で悪魔は身をひるがえす。隊長の戦意と剣は、そこでくじける。
・その剽悍な体躯は背後にいた魔族から、既にくちばしで背中から胸までを貫かれていた。
「悪魔は身をひるがえす」「背後にいた魔族から」とありますが、これが「悪魔の首領」が攻撃をかわして背後に移動し隊長を貫いたのか、「悪魔の首領」が攻撃をかわしてその隙に背後の別個体が隊長を貫いたのか把握のしにくさを感じます。おそらく後者でしょうか。
上の項目でも触れましたが魔物達への呼称の語彙が多岐に渡るため「悪魔」「魔族」という単語が個体を特定する機能を失っていることの弊害のひとつと判断します。

・その剽悍な体躯は背後にいた魔族から
「剽悍」とは「すばしこく、しかも荒々しく強い」という意味です。
この前にも「剽悍」は使われていますがそこでは「鍛え上げられた肉体を持つ剽悍な戦士だった。」と隊長自身の表現として「剽悍」が使われており、こちらでは「隊長はすばしこく、しかも荒々しく強い」と自然な用いられ方をしています。
しかしこちらでは「剽悍な体躯」と隊長の肉体の表現として「剽悍」が使われています。これでは「隊長の肉体はすばしこく、しかも荒々しく強い」ということになってしまい不自然さが生まれてしまいます。
「すばしこくて荒々しい」特有の肉体や体つきというのもあるのかもしれませんが、やはり違和感は残りますので文を調整することをオススメします。

・しかし攻撃は徐々に収束し
「収束」→「終息」でしょうか。

・そこかしこで化け物達が人間の息の根を終わらせていった。
一般的に「息の根を止める」とは用いますが「息の根を終わらせる」とは使いません。
「息の根を止める」でひとつの慣用句ですので、これは誤用と判断しても差し支えないでしょう。

・化物達は人間どもの哀願には目もくれず
・そこかしこで化け物達が人間の息の根を終わらせていった。
「化物」「化け物」の送り仮名の表記揺れです。

・部隊は悪魔に殲滅され、折り重なった屍衣は人間のものだけだった。
「屍衣」とは小説に度々用いられる造語のようなものらしいですが、概ね意味合いとしては「死者に着せる衣」あるいは「死者が着ている衣」でしょう。本作では後者として用いられていると思います。
しかし本作では魔物達は衣服を着ているという描写はひとつもありませんし、そのような印象もありません。
つまり本作のこの場面において衣を着ているのはそもそも人間だけであり「屍衣は人間のものだけだった」という文だけで「人間だけが死んでいた」と判断することは難しいです。人間と魔物の双方が死んでいても衣を着ているのが人間だけである以上「屍衣は人間のものだけだった」という文章が成立してしまいますから。
「屍衣」ではなく「屍」でいいと思います。

・それは雷雨に打たれた泥人形のように無惨に積みあげられていた。
「泥人形」はまだしも「雷雨に打たれた」というのが比喩としていまいち掴めません。
その前に「森を覆った霧が晴れていく。」とあるように実際の天候との相性もよくありませんので、若干の混乱を生んでしまうだけの比喩なのではないかと思います。

・晩餐を嗜んでいた全ての魔族の動きが止まり、こちらを注視する。
魔族が修道士の方を向いた場面ですが「こちら」というのは不自然です。「こちら」だと視点(カメラ)の方を見ることになりますが、この文は修道士の一人称文などではありません。「こちら」では魔族の視線を説明するには不適といえるでしょう。
「そちら」がいいと思います。

・自分自身の鼓動と呼吸が早くなる音を聞き、
鼓動と呼吸ともに動作のスピードを示しているので「早く」より「速く」の方がより適切です。
しかし鼓動も呼吸も慣用的に「早く」とも表記するみたいなので、ここを修正するか否かはふわ ゆーさんの判断でいいと思います。
「呼吸が速い」には収まりの悪さも感じますからね。

・しかし修道士はこの殺戮を目前に控えながら
「目前」とは「見ている目の前。転じて、きわめて近いこと」という意味、「控える」とは「空間的・時間的に迫っている。近くに位置する。また、近い将来に予定される。」という意味です。
つまり「この殺戮を極めて近くに位置しておきながら」となり、若干意味の通りの悪さを感じさせつつもおかしいとまではいえない意味になっています。
しかし「目前に控える」という言い回しは慣用的に「(とある予定が)直近に迫っている」という意味で用いるため、その意味に照らし合わせるとこの文は意味が全く通らなくなります。
敢えて慣用的な意味でなく「目前に控える」をここで用いる必要も感じないので、別の言い回しをした方が無難なのではないかと思います。

・静かに悪魔に語りかけたのだ。
・「ほう、結界を結んでいたか。
この文の流れだと「ほう、結界を結んでいたか。」以降の発言は修道士による発言だと解釈することができてしまいます。現にフィンディルはそのように解釈をし、読み進めに若干手間取りました。
空行を二つ入れているから切り替えができているわけでもありませんので、この件は改善することをオススメします。
「語りかけたのだ」が指すであろう「悪魔よ何ゆえ常世に現れた」が離れているのも主要因でしょう。

・「ほう、結界を結んでいたか。~
この発言をし、修道士に襲いかかり、修道士に捕食される。
これが「悪魔の首領」なのか魔物達の一体なのか、修道士に捕食されるまで明確に判断することができませんでした。
ふわ ゆーさんは「悪魔」と呼称することでこれが「悪魔の首領」であると最初から明示できているとお考えだったかもわかりませんが、上の項目でも触れたように魔物達の呼称が氾濫するなかでは「悪魔」が「悪魔の首領」を指すという機能は失われてしまっています。
きちんと「悪魔の首領」と表記しておくべきだったと思います。

・我の慎ましい胃袋を満たすためにな。
悪魔が自身の胃袋を「慎ましい」と表現したことに好印象を抱きました。
とても慎ましいようには見えませんので、それが皮肉であるのかあるいは悪魔の胃容量を表現しているのか、幾つかの考察を挟むことができます。
この「悪魔の首領」の性格が垣間見えますね。

・「天地創造の神の思し召しによりて、この世の万物が委ねる理を、お察しください」
後に「強きものが弱きものを糧にする。それがこの世の理なのさ」とあるように「この世の万物が委ねる理」は弱肉強食を指していることがわかります。よって修道士は「天地創造の神の~」の時点で自身が悪魔を喰らう者であることを示す発言を行っています。
しかしこの発言は「天地創造の神の思し召しによりて」ともあるように修道士という立場を崩さずになされたものであることも見て取れます。
つまり修道士にとって、修道士とは単なる擬態というわけではなく「教会に属する立場」と「悪魔を喰らう者」は両立しているのではないかと考察を挟むことができます。
これは引いてはこの悪魔を喰らう者には教会全体が関与しているのではないかと想像を巡らせることができます。
上の項目で触れた謎についてヒントを得ることができる発言だろうとフィンディルは考えます。いい発言だと思います。

・悪魔のくちばしがまさに修道士を喰らわんとする、その刹那。
上の項目でも触れましたが、「悪魔の首領」がくちばしを有していると明確に判明するのはこの時点です。
当初の「悪魔の首領」の容貌描写が著しく不足していたと判断できる場面です。

・やがて唇を結んだままで口内を動かし誓言をとなえ続ける。
・聖言を唱え続ける修道士の体であるはずのものが
「誓言」「聖言」は表記揺れなのか、あるいはそれぞれ別なのでしょうか。

・聖言を唱え続ける修道士の体であるはずのものが
「唱え続ける」とありますが、修道士が継続的に聖言を唱えていたとわかる描写がないため、読者との認識の間に僅かな差が生まれています。
こういう差はひとつずつ潰しておくことをオススメします。

・少年は見た。悪魔のくちばしがまさに修道士を喰らわんとする、その刹那。禍々しい切っ先が届くよりも一呼吸先に、聖言を唱え続ける修道士の体であるはずのものが、法衣の中心からバリバリと音を立てて割れ、その隙間から無数の目玉があちこちに睨みを利かせた異様な姿を。
この文章は倒置法で書かれていますが、さすがに長すぎるかと思います。締めが丁寧に倒置法ですが、その間に文章が多く入っていますので倒置法ということを忘れ、しかし締めが倒置法なので読み心地が悪くなってしまっています。
倒置法以外の文法で書くか、「禍々しい切っ先が届くよりも一呼吸先に、」を省くのがいいと思います。この文を省けば文通りがよくなります。

・老修道士の身体であったはずの顔から腰にかけてまで、衣を裂いて縦に裂けて出来上がった巨大な口は、その肉体のどこに収まるというのか、悪魔の体すべてをはさみ込み、骨を砕く音を立てながら容易に飲み込んだ。
この文が読みにくいです。特に「老修道士の身体であったはずの顔から腰にかけてまで、衣を裂いて縦に裂けて出来上がった巨大な口は、」の部分。ここまでで主部ですが、これにくっついた文章が非常に多く、また読点も挟まれていることから非常に読みにくさを生んでしまっています。
「老修道士の身体を顔から腰にかけてまで縦に裂いて出来上がった巨大な口は、」など、もう少し文構造として読みやすい形にすることをオススメします。要素自体を減らしてもいいと思います。

・怪物達の体は宙空ではね、一瞬遅れて大地に激突し地響きをたてた。
「宙空ではね」とありますが、「宙空」とは「何もない空間」なので、何もない空間で跳ね上がる必要があります。超能力などではないとそのような動作にはなりませんのでここは「宙空にはね」が適切かと思います。

・本日最大にして最悪の叫びが円柱の広場に掻き轟いた。
それまで「石柱の広場」としているのでそれに倣うのがいいかと思います。
またこの「石柱」が「円柱」であるという情報はここまでありませんが、ここで「石柱」は「円柱」であると明かす必要も感じられません。

・口内に埋め込まれた無数の目玉が歓喜をあげるように、焦点の不揃いな瞳孔を収縮させて笑い歌う。
この文章は「目玉が笑い歌う」となっており、視覚器官が発声する形になっています。
正体不明の化物ですので視覚器官が発声することに否定を挟むことはできませんが、一般的な生物構造にもとった事象ですのでそこについての何かしらの言及がほしいところです。
あるいは「笑い歌う」というのは単に隠喩なのかもしれませんが、その場合は上述の通り隠喩と受け取られにくい状況と人物ですので混乱を避けるためにも別の言い回しがいいかと思います。

・修道士の凶刃から逃れた魔物達は逃げ去った。
「凶刃」とは「人を殺傷するために用いる刃物」という意味で、そこから「人を奇襲し殺傷する」という意味でも用いられます。
しかしこの場合は相手は魔物であり、また魔物側から襲い掛かってきたので「凶刃」のニュアンスにはあまり即していないように思えます。
別の語彙の方がより適切なのではないかと思います。

・裂け目にある無数の眼球はくるくると不審な動きを続けたまま、優しく少年に語りかける。
やはりこの文にある通り、眼球が発声しているのでしょうか。
ただしこの文は「眼球」が主語であるようにも取れますが、読点があるので(修道士は)という主語が「優しく少年に語りかける。」の前に挟まれているようにも受け取れます。
やはり不要な混乱をもたらしているように思えますので、改良を求めたいところです。

・少年兵は血と泥に汚れた顔で王都にたどり着いた。
「俺の地方じゃ400年前のことだってお伽話だと言ってるぜ、国都軍が政治目的で広めたな」「しかし、何ら証拠も持たず手ぶらで国都に帰っては笑われるでしょう」とあるので「王都」ではなく「国都」とした方がいいと思います。作中の用語のような扱いですので、語彙を動かすと把握の妨げになってしまいます。

・王都の宮廷書記官はこの事件を盗賊との戦闘による部隊の壊滅として処理した。
盗賊との戦闘によって五十人弱の部隊が少年兵一人を残して全滅というのはやや信じがたい話であり、どうして宮廷書記官はそのように処理したのかという補強がほしいところです。
戦争中で詳しく調査する余裕がなかったであるとか、教会主導でそのように処理したなど、何でもいいので腑に落とす文がひとつ欲しいです。

ヒッチハイク恋物語 -京都から熊本への旅-/愛果 桃世  への感想

ヒッチハイク恋物語 -京都から熊本への旅-/愛果 桃世
作品はこちら。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
全てにおいて作りこみが甘い作品。どういう作品を書きたいのか、そのためにどこに力を入れるのかを意識して執筆されることをオススメする。


●「ゆかり」が「祥平」の告白を受け入れる準備が皆無

本作のあらすじは、「祥平」が「ゆかり」と恋人同士になることを目的として熊本の現地学習に参加。そこでアクシデントが起きて「祥平」と「ゆかり」が二人きりになり、二人で困難を突破して「祥平」が「ゆかり」に告白、「ゆかり」が受け入れて二人は恋人関係になる。というものです。
ここで最も大事になる要素が、「祥平」と「ゆかり」がお付き合いするにいたる両者の心情の流れです。
「祥平」は元々「ゆかり」のことが好きで、恋人同士になることを目的としてこの現地学習(及び山口観光)に参加するので「祥平」はいいです。しかし「ゆかり」は元々「祥平」のことを想っているという描写はなく、今回以前は「祥平」のことを後輩の一人程度にしか認識していません。そんな「ゆかり」は今回のことで「祥平」に惹かれて、お付き合いを受け入れる。
この、何故「ゆかり」が「祥平」に惹かれたのかという心情描写がほとんどなされていません。

「ゆかり」が「祥平」の告白を受け入れる理由はひとつ明言されています。
バスに置き去りにされたときに「祥平」がヒッチハイクを提案して状況を打開しようと率先して動いてくれたこと。
他にも、二人とも母子家庭で育ったこと(ゆかりが母子家庭だったかは明言されていませんが状況的にそうでしょうね)、二人とも恋に臆病だったこと(「祥平」がそうだとはとても思えませんが)という共通点がもしかしたら関係しているかもしれません。
しかしこれらの理由は読者が「二人がお付き合いするのも自然な流れだな」と納得するにしては説得力が非常に弱いです。正直な印象としては「なんかなんとなく二人付き合ったよね」以上のものを感じません。

フィンディルがおよそ想像する理由としては若さとつり橋効果ぐらいしか思い当たりません。
年齢というのが関係するのかはわかりませんが、特別な心理動機がなくても恋愛対象になりうる人から告白をされて特別断る理由がないから受け入れた。
危機的な状況に二人一緒になって、その状況を二人で過ごしていくなかで相手が特別な存在に感じられて、その最中の告白だから受け入れた。
ぐらいなんですよね。「ゆかり」が「祥平」の告白を受け入れた理由。

「ゆかり」が弱視であることを打ち明けたというのも理由かもしれませんが、その打ち明けた理由もつり橋効果によるものでしょうし。お互いに身の上を話せたのもつり橋効果。それ以上の理由らしい理由を感じないのです。
別にいいんですよ。それでも。若さとつり橋効果によって恋人関係になりました、でも問題はないんです。現実の話と考えるとそれでお付き合いを開始したカップルは少なくないでしょう。
でもこれを作品と捉えた場合、若さとつり橋効果というのは本作を読んで受け取ったフィンディルの理解にすぎないのです。作中で丁寧に綴られた二人(特に「ゆかり」)の心情の移り変わりによって、自然に受け入れて強く頷けるようなものではなく。二人は大学生だもんね~こんな状況を二人で過ごしたもんね~という読者側の理解にすぎないのです。愛果さんがキャラ描写によって丁寧に表現した心情ではないのです。

つまり、実際若さや状況を考えて二人が恋人関係になることはまあ理解できるが、「ゆかり」がどのように「祥平」に惹かれていったのかという心情を示す描写自体がほぼ皆無であるということです。
恋人関係になるための舞台は整っているが心情が描写されていないので「舞台は整ってたもんね」ということで読者は理解するほかないのです。
まるで友達カップルの馴れ初めを聞かされている気分でした。馴れ初め話とかはそれぞれの心情なんて詳しく話さないですからね。付き合うときの話を聞いて「あーそれじゃあ付き合うよねー」とこちらが状況をもとに理解するばかり。本作にはそれと似た読後感があります。

では何故「ゆかり」が「祥平」に惹かれていく心情を読み取れる描写がほぼ皆無なのか。「祥平」の一人称文というのもあるかもしれませんが、一人称文でも他者の心情を読み取らせることは十分可能なので、一人称文だからというのは些末なことです。
愛果さんが二人の心情描写ではなく、二人の行動描写ばかりを書いていたからです。
バスに置き去りにされて二人きりになってから、話の本筋はどのようにしてこの状況を打開するか、また二人はどういう行動を取ったのかに偏重していきます。ヒッチハイクをすることになった、なかなか上手くいかなかったがなんとか成功した、ヒッチハイクで近くの駅まで乗せてもらった、そこから電車で乗り換え駅まで行った、そこで二人で晩御飯を食べた。
そういう「何をした」ばかりで、二人の心情描写が一切入ってこないのです。「祥平」は「ゆかり」との仲を深めて恋人関係になるためにこの現地学習に参加したのに、二人きりの状況というまさに仲を深める時間に、仲を深める描写が一切入ってこないのです。実際あれこれ本作に入ってないやり取りはしたのでしょうが、それを本文に書いていないなら作品として全く意味がありません。

仲を深める描写を入れる箇所は明確に二箇所あります。
ヒッチハイクに成功して老夫婦に車に乗せてもらって駅前のロータリーに向かうまでの車中、電車に乗って乗り換え駅に向かうまでの約一時間の二箇所です。車に乗せてもらっている時間がどれくらいかはわかりませんが、まとまった時間はあるでしょう。
最初に老夫婦がいて、老夫婦を間に入れての二人のやり取り、そこから二人きりで電車に揺られている約一時間。綺麗に2ステップが用意されているので、ここで互いの仲を深めるためのやり取りや心情描写がしっかり行えるはずです。弱視の描写もここで回収してしまって身の上話をここで済ませておくと最後に向かって自然な流れができます。
しかし本作ではこの二場面とも単なる移動とばかりに全カットです。
本作においてこの二場面は最も大事な場面です。もしかしたらヒッチハイクのお願いよりも大事な場面かもしれません。本来ならここでそれぞれ一ページ費やすくらい、しっかりと互いのやり取りと心情を描写するべきだったろうと思います。

仲を深めるパートで仲を深める描写を全カットして、いきなり身の上話をして告白して受け入れて恋人関係になりました。なんていう話の進め方をしてしまっているので読者はピンとこないのです。仲を深めるパートを全カットしてしまっているので、「ゆかり」が「祥平」に惹かれた箇所で「率先してヒッチハイクをしてくれた」という最初のひとつの要素しか出すことができないのです。二人が徐々に仲を深めていくという描写を抜きにいきなり告白して恋人関係になっているので「話ができすぎているね」という印象にしかならないのです。

作品としてはバスに置き去りにされて二人きりになったときに「どのようにこの状況を打開するか」は一番大事なことではないのです。それは二番目に大事なことです。一番大事なことは「ここから二人はどう仲を深めていくのか」ということです。
だってそうですよね。愛果さんは「祥平」と「ゆかり」にこの状況を打開させたくて二人きりにさせたわけではないですよね? 二人の仲を深めさせたいから二人きりにさせたんですよね? 二人の仲を深めさせたいから打開すべき緊急の状況を用意したんですよね?
ならば文章の中心に据えるべきなのは二人のやり取りとそれぞれの心情描写です。状況打開の行動描写は二の次で並行させて書くべきです。

本作で何を描きたいのか、ということをまず愛果さん本人が把握しておくべきだったと思います。

あるいは文字数に制限があったのであれば、旅行に旅立つまでに文章を割きすぎたのかもしれないですね。それで後半がキツキツになって行動描写に偏重してしまった。本当はここの心情描写が大事なのに、と。


●何故「祥平」はヒッチハイクをすることにしたのか

前項に次いで本作の重要な要素が、「祥平」と「ゆかり」がヒッチハイクをすることになったという展開です。
高速バスの休憩に寄ったサービスエリアにて男女カップルが強盗犯に追い回されて高速バスに乗ってしまった。運転手はそれで全員揃ったと誤認識して出発してしまう。「祥平」と「ゆかり」が置き去りになってしまった。
というアクシデントから「祥平」はヒッチハイクすることを決意します。

何故なのか。私は理解ができないです。
前提としてこれはバス会社のミスです。高速道路で交通事故が起きていつ着くかわからないとはいえ、ヒッチハイクを試みるよりサービスエリアに待機してバス会社の指示を待つ方が遥かに賢明です。
バス会社と一切連絡が取れないわけではありません。「ゆかり」と「沙月」は連絡が取れるのですから、「沙月」を介して運転手及びバス会社と連絡が取れます。ならばバス会社と「祥平」達が直接連絡を取ることも当然可能です。
また一般道と通じているサービスエリアも少なくありません。通常は高速利用者が一般道にそのまま下りることはできませんが、事情を話せばある程度の対応はしてくれたはずです。
そのサービスエリアがトイレしかない場所なら待機はきついですが、土産物屋が開いていてヒッチハイクのお願いを一時間続けることができるだけの人がいるのですからそこそこの規模があるサービスエリアでしょう。待機しておくのは十分可能です。

バス会社のミスなのだから対応できるしバス会社と連絡もできる。サービスエリアから一般道に下りられるかもしれない。規模があるサービスエリアなのだから待機に不安もない。
なのに何故ヒッチハイクをしたのか。
それは「祥平」がどうしても明後日の朝までに熊本県に着きたかったからです。現地学習は明後日の朝から熊本県で行われます。サービスエリアで待機してバス会社の対応を待っていれば明後日の朝までに熊本県に行けないかもしれない。サービスエリアから一般道に下りられるかもしれないとは想像しなかったのでしょう。

では何故「祥平」はそうまでして現地学習に参加したいのか。
「ゆかり」と仲を深めたいからです。現地学習で「ゆかり」と交流して恋人関係になりたいからです。
しかし「ゆかり」は今「祥平」と一緒にいます。しかも二人きりで。「ゆかり」と仲を深めるのは現時点でも可能です。むしろ多くの人数が参加する現地学習では「ゆかり」とあまり交流できないかもしれないと「祥平」は懸念を独白していました。それに対して現時点で「祥平」は「ゆかり」と二人きりです。仲を深める絶好の機会といえるではありませんか。現地学習に参加していては得られない機会です。
「ゆかり」と仲を深めるのが一番の目的だったのならば、無理して危険を冒して現地学習に間に合うように行動するよりも、サービスエリアに待機してバス会社の対応を待ちつつこの特殊な状況を「ゆかり」と仲を深めながら待つ方がよっぽど賢明です。
現在高速道路では刃物を持った強盗犯がうろついているのです。そんな中でヒッチハイクなどをすれば遭遇する可能性もゼロではない。それよりもサービスエリアに待機しておいた方が安全でしょう。当然サービスエリア側は警察に通報しているはずです。
現地学習に参加する理由として単位が足りないからというのも一応ありますが、単位がほしいから勇気を振り絞ってヒッチハイクを行うというのは不自然です。
既に現地学習参加費で二万円を払ったからという理由も一応ありますが、さすがに事情を話せば返金なりしてくれるでしょう。

ヒッチハイクなんかしなくていいんですよ。サービスエリアで待ってたらよかったんですよ。現時点が「祥平」の目的を達成する最大の機会なのです。
ヒッチハイクを決行した理由を強いて挙げるなら「非常事態でパニックになっていたから」くらいしか浮かびません。非常事態だから冷静な判断ができなかったから。
とはいえ「迎えは期待できない。タクシーも呼べない。」と独白させて他の案を潰させているので、非常事態でパニックになっていたからとすることにも説得力がありません。
愛果さんの中でヒッチハイクをさせることで絶対条件だったでしょう。緊急の状況を「祥平」と「ゆかり」が打開するという展開が絶対だったのでしょう。しかし「祥平」にこの状況を何とか打開させる必要性はありません。ヒッチハイクをせざるを得ないという状況の作り方が雑だったと思います。
「祥平」も「ゆかり」も携帯スマホをバスに置いてしまって連絡が取れない状況だったのならばまだわかりますが……。それでもサービスエリアの人にお願いすればバス会社との連絡はおそらく可能ですよね。


●「祥平」の言動にイライラすることが

本作は「祥平」の一人称視点で話が進みますが、その中で二箇所、「祥平」の言動や思考にイライラを覚えることがありました。

まずは「祥平」がヒッチハイクを試みる場面。
―――――――――――――――――――
 何人か声をかけていると、話を聞いてくれる人は出てきた。しかし……。

「迎えを待ったら?」

 そう言われて、立ち去られてしまうのだ。
―――――――――――――――――――
と、話を聞いてくれるも「迎えを待つべきだ」として断られてしまいます。
しかし声かけを続けることで老夫婦が快諾してくれます。
そのとき「祥平」は
―――――――――――――――――――
 世界には、優しい人もいるのだ。
―――――――――――――――――――
と独白します。
まず私はここにイライラしました。
この言い方ではヒッチハイクのお願いを断った人が優しくない人であるかのように感じられるからです。
ですが当然そんなことはありません。そもそもヒッチハイクのお願いはぶしつけなもので相手のスケジュールもあります。優しさが足りないから断られるのではなく、断られるのが普通のお願いです。また、
―――――――――――――――――――
 確かに得体のしれない人間を乗せるのは怖いだろう。さっき、強盗犯が刃物を振り回しているのを見た人も多いから尚更だ。
―――――――――――――――――――
と「祥平」自身が独白しているように、強盗犯の出来事があったばかりで周囲の人々にはそんな余裕がありません。
更に前項目でもフィンディルが述べたように、この状況ではヒッチハイクではなくサービスエリアで待機しておくのは賢明で妥当な行動です。
「迎えを待ったら?」という発言が面倒から逃げるためのものではなく、冷静で賢明な忠告と捉えることは難しくありません。
これらの状況でヒッチハイクのお願いを断った人を優しくない人であるかのように独白することに「祥平」の身勝手さを感じます。
老夫婦=優しい人、お願いを断った人=優しくない人という図式を想像させるような物言いではなく、「僕たちにとっての救いの神だ」や「本当に、この老夫婦には感謝してもしきれない」などのような言い回しが適切だと思います。

次ですが、
―――――――――――――――――――
「あの、ゆかりさんって目が悪いんですか?」
―――――――――――――――――――
と「祥平」は「ゆかり」に気になっていたことを質問します。「祥平」としては素朴な疑問なわけですが「ゆかり」にとっては重大な、弱視について直球で触れられた質問です。
その後「ゆかり」は意を決して自分が弱視であることと身の上話をするわけですが、それに対して「祥平」は
―――――――――――――――――――
 そんなゆかりさんが、最大の秘密を話してくれた。
 自然と、胸が熱くなる。
―――――――――――――――――――
と独白します。
このときフィンディルは「いやあんたがド直球で聞いたからやん」としか思えず、ここにもイライラしました。

弱視ということを知らず素朴な質問のつもりで聞いたので、それ自体は仕方ありません。特殊な状況ということもあって、幸い「ゆかり」は大きな不快感を覚えることなく話してくれました。しかしそれが「ゆかり」の隠したいことに直接触れてしまう発言であったと知ったならば、「祥平」は「ゆかりさんが秘密を話してくれた」と感動するよりも前にそうと知らずにぶしつけな質問をしてしまったことへの申し訳なさを感じたり、自分の言動を振り返ったりすべきではないでしょうか。
その申し訳なさなどをわざわざ「ゆかり」に伝える必要は必ずしもありません。更に気を遣わせるだけですからね。しかし思考の内では、図らずに相手の秘密に強く触れてしまったことを省みて、今後は繰り返さないなどと意識を改めるという作業を強く求めたいです。
自分がぶしつけで直球に聞いたことが契機なのに「ゆかりさんが秘密を話してくれた」と単純に感動している「祥平」に対して身勝手さを感じました。
その後、自分の身の上話をして早々に彼氏の有無を聞くところもすごく引っ掛かるところです。

と、「祥平」について二点イライラするところがありました。勿論これはフィンディルが個人的にイライラしたところなのかもしれません。

作品において登場人物が身勝手な言動を行っても許されるのは二つのパターンがあります。
・その作中で他の登場人物が身勝手な言動を指摘するなど、作中で「その言動はおかしい」と注意される場面があること。
・その登場人物の言動の是非を読者に問うような書き方をすること。
この二つのパターンはつまり、作者がその言動を「おかしい(かもしれない)」と認識したうえで敢えて書くということです。
しかし本作では上記二箇所において愛果さんが「祥平がこう思っているが、これはどうかと考える」と認識している素振りはありません。作品には「おかしくない」と認識されているが読者はイライラしてしまう登場人物の言動というのは、そのイライラが何によっても回収清算されないのです。


●登場人物の心理をこの先の展開に対応させる悪癖

前項とは関係なく、二箇所、非常に気になった部分があります。
まずは山口観光。
「祥平」は「ゆかり」と仲を深めて恋人関係になることを目指して現地学習に参加するわけですが、そこで大事なのは山口観光であると独白しています。
熊本の現地学習では参加者が多くなるので「ゆかり」とあまり交流できないのではないか、ならば人数の少ない山口こそが大事であると。
「山口からが勝負」「決戦は山口から」と独白しています。
しかし実際の山口観光はどうだったのか。
「祥平」が山口観光で行ったことといえば、巌流島で普通に観光し、瓦そばを普通に美味しく食べて、雄太に晩御飯どうするかを聞いて、高速のサービスエリアで土産物屋をブラついてただけです。どう見てもただの観光です。
唯一「ゆかり」にアピールしたことといえば、瓦そばの店で斜め前の席に座って「ゆかりさん、どうしたんですか?」と尋ねたことだけです。とてもアピールとはいえません。
「決戦は山口から」と意気込んでいたにも関わらず山口観光の結果は散々だったというほかありません。
しかしここからが不思議なのですが、この結果に対して「祥平」は一切の焦りを見せません。「山口が勝負だと思っていたのに、ほとんど会話することさえできなかった。」や「せめて熊本に着くまでには、福岡でもいいからもっと話したりとかしないと」などと思うのが自然です。勝負と意気込んでいた山口観光が本当に山口観光になってしまったことに何も思わないのはあまりにも不自然でしょう。
では何故「祥平」は焦りや後悔を一切感じなかったのか。この答えは明確です。
今から「ゆかり」と二人きりになるからです。
勿論そんなことは「祥平」は知るよしもありません。しかし愛果さんは当然そうなることを知っています。「祥平」と「ゆかり」が今から二人きりになることを知っています。
ですので山口観光で「ゆかり」とろくに交流できなかったにも関わらず「祥平」に焦りの心情を持たせていないのです。

もう一点です。
サービスエリアにて刃物を持った男が暴れました。その男は男女カップルを追い、その男女カップルが乗ったバスを車で追いかけました。
このとき「祥平」と「ゆかり」は一番に何を考えたか。状況を飲み込めない困惑の中でしたが、その後最初に考えたのはバスに置き去りにされて現地学習に間に合わないかもしれない、どうしよう、です。
おかしな話です。まず何よりも思うのは「刃物を持った男が人を追いかける現場を見た」ことと「その男がまた帰ってきて今度は自分が襲われるかもしれない」という恐怖でしょう。
その男が車に乗ってバスを追いかけたというのも「祥平」がそう思っているだけです。バスに追いつけないと考えた男が車を乗り捨ててサービスエリアに戻ってくるかもしれません。自分が強盗犯であることを悟られたかもしれないのは男女カップルだけですが、自分が刃物を持って人を襲ったのはサービスエリアの多くの人に目撃されています。「祥平」達はそう考え、僕達が目撃したから男が戻ってきて襲われるかもしれない……と恐怖に想像を働かせるのは何ら不思議なことではありません。仮に実際には戻ってくる可能性が低くても、そう想像して恐怖を感じるのは人の性ですし、自然なことです。
むしろこのようなショッキングな場面を見て恐怖を感じずに「それで、強盗犯は若いカップルを追いかけていたのか。でも、刃物持って追いかけたら余計目立つだろ。」と呑気にツッコミを入れたり「確かに得体のしれない人間を乗せるのは怖いだろう。さっき、強盗犯が刃物を振り回しているのを見た人も多いから尚更だ。」と他人事のような分析を入れる余裕はないはずです。あまりにも不自然。
確かにバスに置き去りにされたことも重大な出来事ですが、それよりも刃物を持って人を襲う男がまだ付近にいるかもしれないという事実の方がよっぽど重大です。
上の項目でも触れましたがヒッチハイクなんかしている場合ではなく、サービスエリアの中で他の人達と一緒になって身を守りつつ警察の到着を待つという行動を取るのが賢明でしょう。
「祥平」だけでなく「ゆかり」までも刃物男への恐怖を感じさせないというのも異様です。
またその刃物男はバスを追いかけたと「祥平」は考えています。バスには自分の友人達が乗っています。ならばバスに乗っている友人達を心配するのが自然です。バスに乗っているから安全というわけでもありません。男が乱暴な運転をしてバスを無理やり止めて、バスに乗り込んでくるかもしれません。あるいは追われたバスが事故を起こすかもしれません。
何もないかもしれませんが友人達が乗ったバスが刃物を持った男に追われて何一つ心配を見せないというこれも異様な心理です。

しかしこれにも明確な答えがあります。
刃物男はサービスエリアに帰ってくることもないし、バスに乗った友人達に危害が加えられることもないからです。
勿論そんなことは「祥平」はもとより誰にも知るよしはありません。しかし愛果さんは当然そうなることを知っています。刃物男は「祥平」と「ゆかり」をバスに置き去りにさせるためだけに用意した人物であり、それ以上の役割を持たせていないからです。
刃物男が登場人物に危害を加えないことを知っているので、「祥平」や「ゆかり」に恐怖や心配を抱かせていないのです。

これが本作から確認できる愛果さんの悪癖です。
作者のみが知りうるこの先の展開に対応するように、登場人物が心情を持つ。あるいは持たない。
この先の展開で二人きりになるから結果が駄目でも焦りも後悔もない。刃物男が暴れても襲われることがないから恐怖も心配も感じない。
端的にいうならば、登場人物に人間味が感じられません。
特に刃物男を見たのに恐怖を感じていない場面は目を疑うところがありますし、フィンディルはこの時点で「祥平」と「ゆかり」への感情移入を途絶しました。
おそらく愛果さんは無意識に、話の筋に沿うように、そして話の筋に関係ないものは省いて、心情を登場人物に抱かせてしまっているのでしょう。
しかし物語の筋で考えた場合で無駄であったとしても登場人物は人間なのですから、人間が自然に持つであろう心情は持たせるべきだと思います。
本作のように人と人の作品を書かれるのであるならば、この悪癖は意識的に改善することをオススメします。


●タイトルの看板に偽りあり感

若干細かいところなのですが、タイトルの話です。
本作のタイトルは「ヒッチハイク恋物語 -京都から熊本への旅-」です。
このタイトルを最初に見たときに抱く印象は「ヒッチハイクで京都から熊本まで行くんだろうなあ。で、その旅に恋が絡んでくる」です。この印象は概ね全ての人で同じだと思います。
確かに恋は絡みました。しかしその他の点は違っているということがわかります。
まず「-京都から熊本への旅-」ですが、本作は福岡で終わります。熊本まで行きません。更に「京都から」というのも確かに本作で京都から移動しますが、実際は山口からの旅みたいになっています。京都→山口間は何一つ描写がなく、ただの移動ですからね。
またタイトルでの印象は「ヒッチハイクで旅をする」というものですが、実際そうでもないこともわかります。ヒッチハイクは山口のサービスエリアから福岡の駅までの移動です。旅というのはやや苦しく、実際は他交通機関が利用できる状況までの緊急措置といった印象です。

(「京都」電車かバス→)「山口」高速バス→「山口」ヒッチハイク→「福岡」電車
が本作で言及されている移動手段です。これで「ヒッチハイク恋物語 -京都から熊本への旅-」というのは看板に偽りありという印象が拭えません。

これの何が問題なのかというと、最初に抱いたワクワク感がしぼんでいってしまうことです。
ヒッチハイクで京都から熊本へ、どういう珍道中になるのだろうかと思えば、京都から山口はあっという間で結局熊本までは行かないしヒッチハイクはちょっとだけだしと。
悪い意味で初見の印象が裏切られていくのです。
こういうお話にするのであれば「ヒッチハイクで京都から熊本まで行くんだろうなあ。で、その旅に恋が絡んでくる」という印象を抱かせるこのタイトルは、読者への騙しが入ってしまっているとフィンディルは判断します。悪い意味での裏切り。


●セリフに必ず付属する「言った」

これは愛果さんに限らず多くの方がしてしまっている癖だと思うんですけども、セリフの前後で高確率で「言った」及びそれに準じる語が入ってきています
―――――――――――――――――――
「すみません。熊本県に行きたいんですけど、車に乗せてもらえないでしょうか」

 俺は、目の前にいる五十代ぐらいの夫婦にそう言った。
―――――――――――――――――――
「面白そうだから混ぜてくれない?」

 そう言ってきたのは、ゼミの先輩である青野沙月さんだ。~
―――――――――――――――――――
「うわー、とうとう来たなぁ!」

 メンバーたちは、口々に言う。
―――――――――――――――――――
「ええっ!?」

 思わず俺は声を上げてしまった。~
―――――――――――――――――――
 そして、ゆかりさんは拳を握りしめて言った。

「私も一緒に声かける。二人で声かけたら、怪しまれずに済むかも!」
―――――――――――――――――――
そうでない箇所もちらほら見えましたが、「言った」が付属しているセリフの方がずっと多いです。
私も文章書きなので気持ちはわかります。セリフの後に「言った」をつけると文が落ち着きますからね。いい繋ぎになります。
でも読者はセリフがある時点で言っていることなんてわかってるんですよね。言ってるからセリフがあるんですから。
「ええっ!?」「思わず俺は声を上げてしまった。」も「ええっ!?」だけで思わず声を上げていることはわかるんですよね。
なのでこの「言った」は文章内容としてはほとんど無駄なのです。
―――――――――――――――――――
「私、迷惑かけるよ?」

「支えます」

 俺は即答した。
―――――――――――――――――――
なんかはですね、「即答」に「すぐに返事をした」という意味がついているので、これは「即答した」を入れることに意味があるからいいのですが。
そうでなくセリフだけで「言った」ことや「驚いた」などが容易に見て取れる場合、その後や前に「言った」をつけるのは無駄なのです。
そして文章的に無駄な語はできるだけ排除した方がいいです。

愛果さんは「目の前にいる五十代ぐらいの夫婦に」や「拳を握りしめて」という情報を付属することでこの「言った」に工夫を施してらっしゃるようですが、できれば情報を足すのではなく、「言った」を消すという方向で工夫した方がいいのではないかとフィンディルは考えます。
セリフがある度に「言った」「言った」と続くと文章がうるさくくどくなりますから、この「言った」はできるだけ使わずに登場人物の会話をこなした方がいいと思います。

なお「言った」には誰が言ったのかというのを明確に説明できる効果があります。
その場に数人いた場合に「と、Aが言った」とすればそのセリフはAが言ったことがわかりますからね。でもそういう場合でもできるだけ「と、Aが言った」という文章を入れずに「Aが言った」ことを理解させる方がいいです。
文章面での具体的な課題かなと思います。


●作品感と実話感が中途半端に混ぜられている

この項は総括のような項です。
本作は作品的な箇所と実話的な箇所が混ぜられているとフィンディルは見ています。
前もっていいますがこれは特徴でも特長でもなく欠点です。

作品的な部分といえばまず冒頭にヒッチハイクのシーンを持ってきたこと。
作品中の盛り上がるところを切り貼りして冒頭で一旦見せるというのは定番の演出であり、とても作品的ですね。
また強盗犯が脱走したというニュースを「祥平」が見るシーンを出したり、瓦そばの店で「ゆかり」が弱視であることを匂わせる伏線も当然作品的。
締めの「祥平」の独白のさせ方も作品的な締めになっています。
これらは作品としてはありふれた演出であり、まあいい意味での作品的でしょうか。
また前項でも取り上げた悪い意味での作品的もあります。他の方針も十分考えられるのに強引に「祥平」にヒッチハイクを決心させたところ、この先の展開に対応させるように登場人物に心情を持たせたところは悪い意味で作品的です。作者である愛果さんの意図と意向が登場人物に色濃く反映されていることを感じさせます。

一方実話的な箇所も見受けられます。
心情描写がほとんどなく行動描写に偏重しているところは非常に実話的ですね。友達の馴れ初め話、あるいは個人がブログで綴った旅行記にも似た印象があります。
また「祥平」のイライラさせる独白。これも個人がブログで綴った日記のようです。イライラの回収場所がないところ。
他にも物語にほとんど全く関わってこないのに名前付きで出された「樋口アキラ」という登場人物。話にほとんど関係ないのにフルネームで人を出すあたりなど、逆に上手さを感じさせるほどに実話的です。
また「祥平」の年上しか恋愛対象にならないということが「祥平」の特殊な事情であるかのように語られているところ。読者として見れば正直大して特別でもない考え方なのですが、本人としてはそれなりに重大な事象です。これも実話的。
ヒッチハイクの件も冷静に見れば「一時間粘ったらヒッチハイクに成功して近くの駅まで乗せてもらった」というだけで、作品としてみれば弱いです。しかし当事者からすれば「人生最難関」といえるイベントだったでしょう。これも実話的。

このように作品的な箇所と実話的な箇所が混ぜられているのです。
ではこれが何故欠点なのかというと、作品的と実話的の相性が悪いからです。
作品的に見れば、実話的で挙げた箇所は全て指摘対象です。心情描写がほぼない、イライラさせられる、関係ないのに名前を出す意味がわからないですし、さして重大でもないことを重大であるように取り扱われても面白くありません。
逆に実話的に見れば、作品的で挙げた箇所は全て指摘対象です。冒頭の演出は余計ですし伏線も余計、締めも余計です。キャラの行動理由が雑で作品の意図を感じさせられて実話的に見ることもできませんし、刃物男に恐怖を感じないなんて実話として見ることは不可能です。
つまりどちらかの視点に立てばもう片方は全てマイナスにしか映りません。

おそらく愛果さんは実話風に書こうという意図はなかったと思います。作品的な箇所は(悪い意味での箇所を除けば)工夫ですが、実話的な箇所は工夫をしないことが工夫です。普通に作品として書こうとして、工夫と配慮ができなかった部分が実話的という印象になっただけだと思います。
もしかしたら山口観光などで紀行は意識されたかもしれませんけどね。
なお実話的に書いて作品として面白くするというのはある程度高度なことだと思うので、色々と難しいかと思います。

これも踏まえたうえで、本作の総括をさせていただくならば、どういう作品を目指し、そのためにどういう工夫と配慮を施すかといった意識が愛果さんには全く欠けているように思います。
その意識のないままに闇雲に書き、闇雲に工夫しているため全体を通した構成が組めていなかったり箇所箇所の配慮に欠如していたりするのではないかと思います。
まずどういう作品を書くのかを考え、そのためにどこに力を入れていくのかを意識して執筆されることをオススメします。
また話を作る際にはその話にキャラを従わせるのではなく「こう考えるかもしれない」「こう考えないのは不自然かもしれない」という点を意識されることもオススメします。


●細かいところ
ここから文中で気になった細かいところを挙げていきます。

・ここで今、俺は人生最難関の旅に出ようとしている。
最後まで読めばわかるのですが、この段階では旅の途中ですね。
ヒッチハイクを始める時点で「旅に出ようとしている」とするのは不自然に映ります。
「祥平」の意識の上ではここからが旅だ、と考えればおかしいとまではいえませんが。

・俺は京都市内の大学に通っている、大学三年生だ。
関西では大学生の年次のことを「~回生」と呼称することが一般的なようです。京都の大学もこれにあてはまるようです。関西以外では「~年生」です。
なお「~年生」はその大学カリキュラムの進捗度を指し、「~回生」はその大学に何年在籍しているかを指します。留年した際に数え方が変わるということですね。
というのはさておき、地域によって呼称が異なるようなのでここは「大学三回生だ」とした方が気が利いているのかなと思います。

・深夜と言っても決していかがわしいバイトではない。
「発話する」という意味以外での「いう」は漢字ではなく平仮名表記にすることをオススメします。
文に漢字が多いと読みにくさに繋がり、ぎこちなさも生まれますので。

・24時間営業のコンビニである。
田舎であれば24時間営業でないコンビニも多く見られますが、京都市内であるならばおよそ全てが24時間営業であると思われます。
また一般認識としてコンビニ=24時間営業ですので、ここで「24時間営業の」とわざわざ修飾をつけるのは無駄であると判断します。
しかし本文ではコンビニでアルバイトしていることが重要ではなく、24時間営業であることが重要なので、そのまま「24時間営業の」を割愛すると文の意図が上手く伝わりません。
ですので「コンビニの深夜帯に働いている。」などとするのが適切かと思います。
またそうするとその後の「しかし、深夜に働いていると、当然、日中は眠くなってしまう。」で深夜に働いているという情報が重複するので、こちらの調整も必要になるかと思います。

・雄太の目の前には、チャーハン、ラーメンなど、炭水化物の皿ばかりが並んでいた。
一人称文で「炭水化物の皿」ばかりと隠喩を用いるのはやや不自然に映りました。「祥平」の語彙を見てもそういうタイプには感じられません。
普段料理のことを皿と隠喩して呼称することに馴染みもありませんし。文語的な表現ですよね。
普通に「炭水化物の料理」「炭水化物の食べ物」「炭水化物」とした方がいいのではと思います。

・一方、俺は男子にしては小食な方で、豚骨ラーメンのみである。
あまり小食とは思いませんでした。豚骨ラーメン一品を食べて満足するのは大学生男性であっても小食ではなく、一般的なのではと。
統計を取っていないのでフィンディルの想像にすぎませんし、「祥平」がそう考えているならばそれを否定することはできませんが。

・食堂のおばちゃんが作ってくれたラーメンをすすりながら、俺は言った。
食堂で食べている時点で食堂の人(本作ではおばちゃん)が作った料理であることはおよそ明らかなので、わざわざこの段階でそれを説明する必要はないと思います。
おそらくただ「ラーメン」とすることを寂しく感じて付け足したのだろうと思いますが、付け足すならばもっと別の情報がいいのではないかと思います。

・細い体に、肩より5センチほど下にある、ストレートヘアの黒髪。
「肩より5センチほど下にある」という表現だとまるで肩より5センチほど下から髪が生えてきているように受け取れます。
「肩より5センチほど下まである」「肩より5センチほど下まで伸びた」という書き方が適切ですね。

・どこか憂いをおびた目を縁取るまつげは、いつ見ても長い。
野暮なツッコミかもしれませんが、まつげの長さは基本的に一定なので「いつ見ても長い」のは当たり前だろうと思います。
そういうことではなく、「祥平」はいつも「ゆかり」のまつげの長さに美しさを感じる、ということなのでしょうが。
「いつ見ても長くて見とれてしまう」などとすればそういうツッコミ心は起きないのですが。フィンディルがツッコミたがっているだけでしょうか。

・「一つ上の先輩も、私達のクラスに来てくれてたの。だから、私も後輩のゼミに参加しようと思って」
これは「ゆかり」の発言ですが、「祥平」の質問に答えたものです。
ならば「後輩のゼミ」ではなく「みんなのゼミ」「祥平君達のゼミ」などとする方がよりよいのではないかと思います。
後輩に対して「後輩のゼミ」というのはやや事務的な印象があります。

・たとえるならば、水中に生まれては消える泡のようなもの。
泡は水底で発生して水面に上がって消えるのが通常だと思うので、水中で発生して水中で消えるというのは違和感が残ります。
私が無学なだけでそういう泡の発生の仕方もあるのかもしれません。
「水中に」は削除してもいいかなと思います。

・単位は微妙に足りない。
・でも、お金も微妙に足りない。
・だけど、ゆかりさんと接触する時間は、圧倒的に足りない!!
単位もお金も微妙に足りないと並べていますが、先ほど「ただし、参加費は数万円かかるし、現地までの交通費は自費だ。貧乏学生の俺には、とてもじゃないが払えない。」とあるようにお金は圧倒的に足りないはずです。
参加費が数万円として、京都から熊本までの往復交通費(宿泊費飲食費はわかりませんが)を考えるとかなり重たい出費になりますからね。
「ゆかり」と接触する時間の少なさを強調するために単位とお金が微妙に足りないとされたのでしょが、少なくとも「祥平」の状況からして「お金も微妙に足りない」とはいえないはずです。
愛果さんの文章意図に「祥平」を振り回している印象があります。

・参加費は二万円。貧乏学生には痛い金額だが、春休みのバイトのシフトを増やせばいい。
上と関連しますが、参加費二万円よりも往復交通費の方が確実に高くなるのでそちらへの言及もほしいです。

・集中講義には俺のゼミの友達も、何人か参加するらしく、夜行バスで一緒に行くことになった。そして、幸運なことに、ゆかりさんと、ゆかりさんの女友達数名も、一緒に夜行バスで行くことになったのだ。
「夜行バスで一緒に行くことになった。」「一緒に夜行バスで行くことになったのだ。」と文章が重なっているので、どちらかを削って文章を調整する方がいいと思います。

・ゼミの先輩である青野沙月さんだ。
おそらく「さつき」でしょうがありふれた漢字の組み合わせということでもないので、フリガナがほしいです。

・そして、あっという間に、春休みが近づいてくる。
「あっという間に」と「近付いてくる」の噛み合わせが悪いように感じます。
「あっという間に春休みまで一ヶ月となった」などがいいと思います。

・たち 達
表記揺れです。
同一の作品中では漢字表記にするのか平仮名表記にするのか、特別な意図がないならば表記を同一にする方が好ましいです。
読んでいるときに意識が散らかる原因になりますからね。

・そんなことを思っていたある日。
1ページ目でも「そんなことを思っていたある日」が出てきます。
いずれも食堂での「雄太」とのシーンなのでお決まりの切り替え方としてまあいいかとも思ったのですが、やはりどうせなら切り替え方は別のものにしておいた方がいいかな? と思います。

・体は肉体労働をしているせいか
コンビニバイトは肉体労働なのでしょうか。勿論大変な仕事ではありますが、肉体労働かといわれると疑問符が浮かびます。

・そうしているうちに、俺の中では母は守るべき存在、妹は母を守る仲間のような存在になっていく。それが、恋愛にもそのまま反映された。
・つまり、年上は恋愛対象、同い年以下は恋愛対象外、と。
この部分、理屈は理解できるのですが具体的にどういう風にこの理屈を同級生や年上にあてはめているのでしょうか。
同級生を仲間と認識してしまうということでしょうが、妹は「母を守る」という共通の目的があるのに対して同級生に対してはそういう目的を共有しないので仲間というのがどういうことなのかと理解しにくいところがあります。
この辺り、補強がほしいです。

・当然、俺の恋愛の数は激減した。出会いの場は学校が主だ。そして、接する人数は同い年が圧倒的に多い。
・両親が離婚した後、俺が恋をしたのは二年後。高校一年生の時だ。
このとき「祥平」は中学二年生で、中学二年生から高校一年生になるまでの二年間恋愛をしなかったとしています。
そしてこれを祥平は「俺の恋愛の数は激減した」と表現しています。
フィンディルの感覚ですが、二年間恋愛をしなかったことを「激減」とするのはやや違和感があります。むしろ中学二年生までの間、「祥平」はどれほど恋しがちな少年だったのかと。
勿論恋には片想いだけということも含みますから、別に「祥平」がだれかれ構わず付き合っていたというわけではないのでしょう。
ただだれかれ構わず好きになりがちな少年だったのだろうとは想像できます。一人の相手に片想いをしていたなら「恋愛の数は激減」とは表現しませんからね。
二年に一度恋するペースが「激減」なら、少なくとも数ヶ月単位で別の子に恋していたのだろうと解釈することができます。
それでもいいんですけどね。

・当然、俺の恋愛の数は激減した。出会いの場は学校が主だ。そして、接する人数は同い年が圧倒的に多い。
部活をしていれば先輩と接する場面は少なくないはずです。
「祥平」は家計を助けるために部活には入らずにアルバイトに勤しんだのでしょう。そのため学校の先輩と接することがなかった。
という文がほしいです。アルバイトをしていたため部活には入らなかった、と。
またそれと同様に大学ではサークルに所属していないという情報もほしいです。

・年上しか好きになれないから、俺はもう彼女なんてできないんじゃないかと思っていた。
そんなことはないと思います。
むしろここまでの話を見ると「祥平」は「年上でパートナーのいない人」という条件を満たせば誰でも好きになるのではないかという印象すら抱きます。
「祥平」の自己分析と、フィンディルが抱いた印象には大きな差があるような感じがします。

・テレビで朝のトップニュースを見ていると、山口県で、強盗容疑で逮捕されていた男が、脱走したというニュースが目に入った。
コンビニの深夜バイトをしているアパートに一人暮らしの男子大学生に抱くフィンディルのイメージにすぎませんが、朝にテレビをつけてニュースを確認するのはどうもズレを感じます。
勿論コンビニの深夜バイトをしているアパートに一人暮らしの男子大学生が朝にテレビをつけてニュースを確認しても何一つ問題はないのですが、朝にテレビでニュースを見るよりも大学でスマホのニュースアプリで確認する方がイメージには合致するなと思いました。

・テレビで朝のトップニュースを見ていると、山口県で、強盗容疑で逮捕されていた男が、脱走したというニュースが目に入った。
この文を省略すると「トップニュースを見ているとニュースが目に入った」となりますが、文通りが悪いです。
「朝の番組」でいいのではないでしょうか。

・大金をはたいてゆかりさんとの時間を確保したのに、何か事件が起きて中止になったら困る!
これ、中止になるとしたら山口観光なんですよね。現地学習自体は熊本なので、山口の事件で中止になることは考えにくいです。
山口観光は生徒達が自主的に行っていることなので、山口で事件が起きたら観光場所を別の都市に変更するという対応は取りやすいです。
またこの文ではお金を払って「ゆかり」との時間を確保したのに中止になったら困ると、まるでまず山口観光の話が浮上してからお金を払ったみたいに受け取れます。
しかし実際の順序では熊本の現地学習のためにお金を払って、その後山口観光の話が浮上したのでズレが生じています。
まあ「祥平」はそれほどまでに山口観光が本番であると認識していることを表しているのかもしれませんが。

・だから、決戦は金曜日ならぬ、決戦は山口からなのだ。
「決戦は金曜日」とはDREAMS COME TRUEが1992年にリリースした曲のタイトルです。
今から25年以上前の曲を、現在大学生の「祥平」がネタとして持ち出すのは世代のズレを感じます。
「え? 決戦は金曜日って知らない?」ということではないです。「決戦は金曜日」という語をインプットし知っていることと、「決戦は金曜日」をアウトプットしてネタに用いることでは雲泥の差があります。
アウトプットしてネタに用いるためには「決戦は金曜日」という語に日常的に深く親しんでいる必要があります。それをするには「祥平」は世代がズレているのではないか、ということです。
若者が昔の一発ギャグを知っていても昔の一発ギャグをすることはないように。
勿論「祥平」がドリカム好きだったらばアウトプットしてネタに用いても不思議ではないです。でもそういう文ありませんからね。
それと単純にここで唐突に「決戦は金曜日」というネタが飛び出してきたことへの困惑もあります。何故ここで?

・そして、俺はとうとう、ゼミのメンバーと共に、京都を出発し、山口県に降り立った。
・「うわー、とうとう来たなぁ!」
・メンバーたちは、口々に言う。
・今、俺たちがいるのは山口県下関市にある巌流島だ。ここは、あの宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した島らしい。
移動順序として山口県で最初に降り立ったのが巌流島ということはないでしょう。京都→下関→巌流島というのが自然で京都→巌流島というのは考えにくいです。巌流島は無人島ですからね。およそ必ず下関市を移動して巌流島に向かわなければならないでしょう。
しかし「うわー、とうとう来たなぁ!」という発言は「とうとう」からも受け取れるように山口観光全体を指して「とうとう山口に来たなぁ!」という意味合いであることが適当です。前々から巌流島に行きたくて「とうとう巌流島に来た!」と感動を覚える人もなかにはいるかもしれませんが、メンバー達が口々に言うのは不自然ですね。
移動順序として途中下関にも降り立っているでしょうに、そこでは「とうとう来たなぁ!」とは言わずにわざわざ巌流島まで移動してから「とうとう来たなぁ!」と皆で発言したというのは腑に落ちません。
おそらく電車なり新幹線、あるいは高速バスで移動したのでしょうから、下関駅などの中心地にまずは到着するはずです。下関駅を出て「とうとう来たなぁ!」と皆で言うのが自然ではないでしょうか。

・そして、俺はとうとう、ゼミのメンバーと共に、京都を出発し、山口県に降り立った。
・「うわー、とうとう来たなぁ!」
「とうとう」が被ってますね。くどいので、どちらかは省いた方がいいかと思います。

・そして、俺はとうとう、ゼミのメンバーと共に、京都を出発し、山口県に降り立った。
この山口観光のメンバーが何人かという情報がなくてふわふわしているので、おおまかでもいいので何人いるのかという情報がほしいです。

・「いいっすねぇ。俺たちなんて、これから卒論と就活ですよ。羨ましいっす」
・俺がそう言うと、雄太やアキラなどゼミのメンバーが、うんうんと頷く。
・「何言ってんの。あたしたちも、去年は同じ立場だったんだから。頑張りなさいよ。応援してるから」
・沙月さんの激励に、俺たちはホロリとなる。
「祥平」の発言に無神経さを感じました。四年生は卒論と就活を終えてそれほど日が経っていないにも関わらず何も考えず「いいっすねぇ。俺たちなんて、これから卒論と就活ですよ。羨ましいっす」と発言するのはいかがなものでしょうか。まるで四年生が卒論と就活を何年も前に終えたり免除されたりしているかのようです。特に羨ましいとはなんでしょうか。羨ましがるより前にお疲れ様でしたと労を労うのが先なのではないでしょうか。
またそれに対して「沙月」が応援しつつ窘めたのに対し「俺たちはホロリとなる」となるのも厚かましさを感じます。自分が無神経で不愉快に取られかねない発言をしてやんわりと窘められたにも関わらず、呑気に感動を覚えているのです。
身勝手に映りました。

・俺たちは思わず声をそろえて返事した。
「思わず声をそろえて返事した」というは不思議な文章です。思ったところで声をそろえて返事するのは難しいからです。
「思わず」は省くのがいいと思います。

・そして、巌流島を出て本州に戻り、お昼ご飯を食べることにした。
「本州」というのは九州や四国などに対して用いる語彙であると認識しています。
巌流島など島に対して用いるならば「本土」が適切ではないでしょうか。

・瓦そばとは、熱した瓦の上に茶そばを乗せたものである。そばの上には卵や肉が乗っていて、見た目も豪華だ。
「卵」という表記ではどのような状態でそばの上に乗っているのかがよくわかりません。卵は様々な調理方法で食べられている食材ですからね。
また「卵」は生物学的な表記、強いて料理で使うならば生卵の状態のことを指します。本文のように「卵や肉が乗っていて」では月見うどんのように上から生卵を割り入れているかのような解釈がされやすいです。
瓦そばは錦糸玉子が使われています。「卵」ではなく「錦糸玉子」が適切でしょう。
また肉は牛肉が一般的のようなので、「肉」ではなく「牛肉」とする方が好ましいです。

・「うまー! なんだこれ!?」
・さっそく瓦そばを食べた俺たち男子が、声をあげる。
これで問題はないのですが、瓦そばは味よりも見た目に特徴がある料理だとフィンディルは認識しています。味は茶そばですからね。
なので食べた後で「なんだこれ!?」と声をあげることには違和感があります。茶そばで「なんだこれ!?」とはなかなか言わないです。その店の腕がよほど高かったとかではないと。
「なんだこれ!?」と声をあげるならば、瓦そばが配膳されてきたときに言う方がよりよいのではないかと思います。

・さっそく瓦そばを食べた俺たち男子が、声をあげる。
「さっそく」は余計だと思います。料理が運ばれてきてさっそく食べるのは当たり前ですからね。
瓦そばの写真を撮る女性陣に対して、というようなことでしょうか。

・瓦そばは、温かい天然醤油をベースにした汁がついている。
この書き方では「温かい」が「天然醤油」にかかっていますね。ただ「温かい」は「汁」にかけたいので「天然醤油をベースにした温かい汁」とした方がいいかと思います。
またこの「汁」の読みはおそらく「つゆ」ですね。ふりがながほしいです。平仮名表記でもいいです。

・そして、カリカリとした麺のおこげも最高だった。
「熱した瓦に触れた」という情報があるとなおいいと思います。どうして麺におこげができているのか、という補足として。

・瓦そばとは、熱した瓦の上に茶そばを乗せたものである。そばの上には卵や肉が乗っていて
・瓦そばは、温かい天然醤油をベースにした汁がついている。
・カリカリとした麺のおこげ
瓦そばについて検索をしていて気付いたのですが、上記の文とほぼ同一の文章が見つかりました。2017年に書かれた文なのでそちらの方が先でしょう。
ご自分の言葉で書かれた方がよいのではないでしょうか。
拝借していないのならば、2017年に類似した文章が書かれていますので、本作の文章を変えておいた方が無難だと思います。

・ゆかりさんは、眉をしかめながら瓦そばを食べている。そして、顔と瓦そばの距離が、やたらと近い。
・顔に、そばが付くんじゃないだろうか?
・しかも、顔を近づけているにも関わらず、何度かそばを掴み損ねている。
「ゆかり」が弱視であることを匂わせる場面ですが、一度食事をともにするだけで不審に思うほどにわかりやすいことが、何故今までわからなかったのだろうかと疑問に思いました。
一緒に食事をしないまでも、一緒にゼミに参加していたら「ゆかり」が極端に目が悪いことを知る機会はいくらでもあったのではないかと思います。


「アキラ」が山口出身なので山口観光だったのに、「アキラ」がしたことといえば瓦そばを食べる面々を見てドヤ顔で頷いたことだけです。
別に「アキラ」に山口ガイドをしろというわけではありませんが、せめて「アキラが山口に来たら絶対に食べろとうるさく言う瓦そば」など、この山口観光の提案は「アキラ」によるものであるとアピールする文章がもう幾つかほしいです。

・そして、夕方。
・夕方には福岡県に着く。
さすがにどちらも「夕方」とするのはおかしいです。「夕方に出発して夕方には着く」というのはあまりにも収まりが悪いです。
四時頃に出発して六時前には着く、というようなことを仰りたいのだとは思いますが、「夕方に出発して夕方には着く」以外の言い回しを求めたいです。

・そして、休憩のために、サービスエリアに立ち寄った時のことだ。
到着は福岡ですが、その後熊本に行くことを考えると福岡の博多区まで向かうのが妥当です。
この高速バスは下関~博多の高速バスでしょう。
調べてみますとサンデン交通の高速バス「ふくふく号」が下関~博多(天神)を運行しています。所要時間は1時間30~40分程度です。トイレ休憩はどうもないようです。
別に福岡・山口ライナーというバス路線もあり、こちらはトイレ休憩があるようですが山口県山陽小野田市・宇部市・山口市での乗降車なので下関市で乗車することはできません。山口県西端である下関市からわざわざ東にある市に移動してこちらに乗るというのも考えにくいですしね。
ということで下関から福岡に向かう高速バスが休憩でサービスエリアに立ち寄るということは考えにくいです。

・茫然とする俺の目の前で、刃物を持った男は、駐車場に止めていた車に乗り込み、バスを追いかけ始める。
追いかけたと断定するのはやや難しい状況なので「追いかけるためかサービスエリアを出ていった」などとするのが適切かと思います。

・「沙月からメッセージが来たんだけど……」
・ゆかりさんはそう言って、携帯を差し出す。
「沙月」から「ゆかり」に状況説明がなされるシーンです。ここで「沙月」から「ゆかり」にメッセージが送られ、それを「ゆかり」から聞くことで「祥平」も状況を理解します。
しかし「祥平」と「ゆかり」が合流しているかどうか、「沙月」達は把握していません。
土産物屋があるこのサービスエリアはそれなりの規模を持っていると推察されます。
同じ場に「祥平」あるいは「ゆかり」がいるとわかっていれば互いに探し出して合流することは難しくありませんが、「祥平」あるいは「ゆかり」がいるとわかっていない状況では合流しようとは思いません。この程度の広さならば、合流しようと思わなければ合流できないままということも十分考えられます。
なので「雄太」から「祥平」に同様のメッセージが送られるか、「沙月」からのメッセージで「祥平君もそのサービスエリアにいるからゆかり合流して」などと言われているかをされている必要があります。
本文では省いているだけなのかもしれませんが、「沙月」や「雄太」から合流を指示されるようなメッセージを受け取ったという文を入れておいた方がよいと思います。

・「若いカップルは犯人の顔をチラチラと見ていた。だから、正体がバレているのではないかと思って、パニックになったらしい……?」
「沙月」のメッセージですが、大学生が若いカップルのことを「若いカップル」と書くでしょうか?
自分達は大学生なので、大学生のことは大学生と呼びますね。高校生なら高校生。二十代の社会人なら自分達より年上であることが予想されるので「二十代」「社会人」などと呼びますね。
「若いカップル」と呼ぶことはあまりないのではないかと思います。

・それで、強盗犯は若いカップルを追いかけていたのか。
この男のことを「祥平」達は「強盗犯」と呼んでいますがここに違和感があります。
実際にニュースで拘置所や刑務所に入れられた人が脱走したと報じられることがあります。このとき私達はこの人のことを「脱走した人」という認識をすることが多いですが、この人がそもそもどういう犯罪を犯して逮捕されていたのかということはあまり覚えていません。脱走犯、脱走者、脱獄犯という印象ばかりなのです。
そしてこの脱走犯が脱走したのはこの旅行の半月前です。半月前に脱走したならばニュースなどで散々脱走犯として報じられるはずです。強盗犯のイメージはもはやないでしょう。
しかしこの後も「祥平」はこの脱走犯のことを強盗犯として認識しています。
勿論それでも構わないのですが、ここは脱走犯と呼称しておくのがより適切なのではないかと思います。

・そして、強盗犯に追いかけられた二人は、間違えてバスに逃げ込んだ。
間違えてバスに逃げ込んだというのはやや不適切な言い回しだと思います。
刃物を持った人に追い回されていたわけですから、正しかろうが正しくなかろうが自分達の命を守れそうな場所に逃げ込んだということだと思います。それがたまたま高速バスだった。
「慌ててバスに逃げ込んだ」などがいいのではないかと思います。

・乗車人数は合っていたので出発したらしい
これは「祥平」もツッコミを入れているのですが、こんなことがあるのでしょうか。
いや逃げ込んだカップルを「祥平」と「ゆかり」と間違えたということを指しているのではありません。
バスに逃げ込んだカップルは間違いなく気が動転しているはずです。息も荒いでしょう。間違いなく緊急事態です。
そしてバスに乗っていた他の人達もいますので、外に刃物を持った男がいることは容易に気付けるはずです。それによりバスの運転手もおおまかな状況を理解するでしょう。
そういったなかで「乗車人数は合っていたので出発した」なんてことがあるのでしょうか。「緊急事態なのでとにかく出発した」とするのが適当ではないでしょうか。
上の項目でも触れましたが、愛果さんは刃物を持った男が暴れていることに対しての危機意識の描写が著しく欠如しています。

・だから、迎えを出しても、辿り着くのは、いつになるかわからない……?
「辿り着く」とは苦労の末にようやく到着するという意味です。ニュアンスとしては道筋がわからないであるとか紆余曲折があってというニュアンスです。
確かに高速道路で事故が起きたので大きな足止めは想定されますが、道筋は明らかでしょうから「辿り着く」というのはいささか違和感を覚える言い回しです。
「到着する」でいいと思います。

・驚いたように目を見開く、ゆかりさんをよそに、俺はあたりを見回した。
ひとつめの読点が余計ですね。「目を見開く、ゆかりさん」→「目を見開くゆかりさん」

・聞いた瞬間、俺は目に精一杯、力を入れる。
「力を入れる」だと意思をもって行っているので「聞いた瞬間」との噛み合わせが悪いです。
「聞いた瞬間、俺の目に力が入る」「聞いた瞬間、思わず俺は目に力を入れる」などがいいのかなと思います。「思わず」は使用回数がかなり多いので少し避けたいですが。

・そして、老夫婦は鉄道が通っている近辺まで送ってくれた。駅前のロータリーで車は止まる。
「鉄道が通っている近辺」はまどろっこしいので省いていいと思います。
「そして、老夫婦は福岡県のとある駅まで送ってくれた。駅前のロータリーで車は止まる。」などがいいかなと思います。実在の駅名でもいいですね。

・旦那さんはそう言いながらも、受け取ってくれた。
この前の二回では「ご主人」と呼称していたのですが、ここでは「旦那さん」になってますね。呼称なので語彙は動かさない方がいいと思います。
個人的には「ご主人」ではなく、「旦那さん」の方が合ってるかなと思います。

・今日は、福岡県のホテルに宿泊予定だ。
現在福岡県に「祥平」達はいて、しかも移動の最中なのに、「福岡県のホテルに宿泊予定だ」なんて言いますかね? 言わないと思います。
「○○市のホテルに宿泊予定だ」とするのが妥当ではないでしょうか。また福岡市ならば「福岡市○○区のホテルの宿泊予定だ」などですね。

・野菜中心のサラダ丼を選んだゆかりさんは、ご飯を一口食べて、そう言った。ゆかりさんは、木製のスプーンで、ご飯をすくっていく。
「ご飯」という言い回し、駄目だとは思わないのですが妙に引っ掛かる言い回しです。
丼ものだけあって米だけ食べているのかという印象を与えかねません。
ただ「ご飯」でなければなんなのだという疑問もあるのでやや悩ましいところなのですけど、「ご飯」は省いてもいいかもしれませんね。
「野菜中心のサラダ丼を選んだゆかりさんは、一口食べて、そう言った。ゆかりさんは、木製のスプーンですくっていく。」でもおかしくないです。

・「俺もです。しばらく休憩しましょう」
「乗り換えの電車まで少し時間あることですし」という補足がほしいところです。

・「あの、ゆかりさんって目が悪いんですか?」
・そう言った途端、ゆかりさんの顔が目に見えて硬直した。
目のことをきいて「目に見えて」と重ねるのは気になりますね。できれば「目に見えて」以外の表現がいいです。

・しばらく沈黙していたが、やがて何かを決心したように、強い目をして言う。
・「私ね、弱視なの」
こちらは意図が感じられていいと思います。強い目をして弱視であることを打ち明ける。

・「じゃぁ」
さすがに「じゃあ」が好ましいと思います。「じゃぁ」は軽い印象があります。

・全身が心臓になったようで苦しい。
いい表現です。「祥平」の一人称文にも合っていていいですね。わかりやすい。

・ゼミに入ったばかりの頃だ。
「俺が」がほしいです。「ゆかり」は既にゼミに入っているので。

・俺の悩みに、一つ一つ耳を傾けて聞いてくれた。
「俺の悩みに」→「俺の悩みを」

・「俺、親が離婚した後、怖くなったんです。いつか、恋には終わりが来るんじゃないかって。実際、高校の時にできた彼女とも別れました」
・だけど、今の俺は、裸の自分をさらけ出すことに抵抗を感じていなかった。
・「恋をしても、いつか失う。それなら、最初から好きにならない方がマシだと思ってたんです。そんな俺が五年ぶりに恋をした。だから、弱視でも関係ないです。ゆかりさんは、ゆかりさんです」
おかしいですね。「祥平」が恋をしていなかったのは「年上かつパートナーがいない人」という条件を満たす相手が周囲にいなかったからです。高校時代にはその条件を満たす相手が一人しかいなかったのでその人とのみ恋愛をし、部活及びサークルにおそらく所属していなかったのでそれ以後恋愛対象がいなかった。だから恋愛をしなかった。それだけのはずです。
以前には「羨ましいことに彼女持ちの連中は、春休みはデートだ、旅行だと浮かれてやがる。俺には関係ない話だチクショー! 俺だって彼女ほしいわ!」という文章もあり、とても恋をすることに臆病になっていたなどという素振りはありません。これは独白ですから嘘をついていたということもありませんし、今回の旅を通して本当の自分の気持ちに気付いたなんていう描写もどこにもありません。
「祥平」は恋愛対象の相手がいなかったからというだけで、むしろ恋しがちな人というのがフィンディルの理解です。「恋をしても、いつか失う。それなら、最初から好きにならない方がマシ」という考えを持っていたなどということは初耳です。
もしかするとこの場で「ゆかり」に対し、自分は年上の人しか恋愛対象にならないと伝えることを躊躇ったのでしょうか。そして「恋をしても、いつか失う。それなら、最初から好きにならない方がマシ」と「ゆかり」の考え方に近しいであろう物言いを敢えてしたのでしょうか。「ゆかり」に嫌われないように。「ゆかり」からの心証をよくするために。
ならば「祥平」はこの大事な場面で人間相応の姑息さと浅薄さを垣間見せたということになるかもしれません。
フィンディルは「祥平」に対してよい印象を抱くことはできないですね。少なくともこの発言にそれまでの「祥平」の独白との関連を見出せず、今回の旅で「祥平」の恋愛観に大きな変化がなされたという描写が見当たらない以上、この発言が「祥平」の「裸の自分」だとはとても思えません。

・「私、迷惑かけるよ?」
・「支えます」
・俺は即答した。
弱視について先ほど初めて聞いたにも関わらず、「支えます」と即答する「祥平」は実に向こう見ずな印象を与えます。
ただこれに関してはいい意味で向こう見ずだなとも思えます。知識はなくても想いさえあれば支えていける、という気概を感じます。実際問題どのような困難があるのかないのかはわかりませんが、まず「支える」と宣言・即答することはひとつ大事なことだなと思います。
ただその前に「祥平」はフィンディルの目から見て随分と調子のいいことを言っているので、この発言も一体どんなもんだろうなという印象も覚えます。

・「さっき、祥平くんがヒッチハイクしてくれた時、かっこいいなって思ったの」
「さっき」の具体的時間については勿論それぞれの主観なのですが、「老夫婦の車に乗っている時間」「駅に入りホームで電車を待つ時間」「電車に乗った約一時間」「電車を降りて飲食店に入り注文して丼を受け取る」「食事の約二十分」がかかっています。最低でも一時間二十分、実際は二時間から三時間かかっているでしょう。
しかもこの三時間は緊急事態を打開した非日常な三時間ですからね。心理的に見ればもっと長い時間に感じられるでしょう。
この時間のことを「さっき」と呼ぶのはやや無理があるかと思います。

・そして、俺たちは、どちらからともなく顔を近づけていった……。
別にいいんですけど、飲食店というのが気になりましたね。二人とも人目を気にしそうなタイプなのに。
キスしたとは書いていませんが。

・そして、五年ぶりに恋人ができた日のことを、俺は一生忘れることはないだろう。
この書き方では「ゆかり」さんと恋人同士になれたことよりも彼女ができたことの方が重要という風に読み取れます。
それはいかがなものかと思います。

ごじの肝だめし/箒星 影  への感想

ごじの肝だめし/箒星 影
作品はこちらから。
への感想です。





※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。










★一言でいうと
意欲的な構成により目を引く作品だが、粗が大きく多い。凝った箇所と雑な箇所が極端なので、全体を見渡した洗練を求めたい。


●誤字の伏線と終盤への繋ぎ、メタの処理

本作でもっとも印象的な場面といえばやはり、「宝田」の誤字を「畑間」が指摘するところでしょう。
序盤から抜かることなく続けられる「宝田」の誤字を我慢できなくなった「畑間」が雰囲気を台無しにすることを覚悟の上で大指摘します。
敢えての誤字というのは手法として珍しくはありますが、斬新な手ではありません。衒いたがりの作者ならば一度は試したくなる手だと思います。
本作はタイトルが「ごじの肝だめし」、そして書き出しは「12月27日、朝5時。」です。ここを見るだけで「ごじ」「5時」と表記が異なるのでここにダブルミーニングが仕掛けられていることは容易に想像できます。
そして「ごじ」のダブルミーニングといえば「5時」でなければ「誤字」が有名。ある程度察しのよい読者ならば、敢えての誤字が仕掛けられているのではと身構えることができます。そして案の定わかりやすすぎる誤字が散見されます。そして回収。

フィンディルは途中まで読んでいて正直「これはどうしたものか」と思いました。あまりにもわかりやすすぎるのではと。誤字の伏線が回収されたときも「ですよね」としか思いませんでした。
が箒星さんは、解説でも仰っている通り、この誤字の伏線を見せたくて誤字の伏線を仕掛けたわけではありませんでした。本作の肝は誤字にはありません。
それは
―――――――――――――――――――
アフレコするなら「いや気になってたけど……気になってたけどさぁ……」と言ったところだろうか。
―――――――――――――――――――
という文章からも読み取ることができます。

解説にもある通り、この作品の肝は「呪いの館」の設定及び展開にあります。「ピーター・パン」の設定を活かした顛末です。
本作の構成は「呪いの館」の設定と展開を最初に見せて、中盤でその空気を台無しにして読者を笑わせ油断させた後で、再び「呪いの館」の展開を復活させて締めるというところにあります。
つまり中盤の誤字の伏線の目的は、それまでの空気を一旦壊すというところにあります。
その役割を果たすうえで、誤字の伏線というのはとても効果的です。作中の人物が誤字を取り扱うということはメタを取り扱うということになります。登場人物のいい間違いではなく文章上の誤字であるということは、察してくれと言わんばかりの「懐中電灯を日本」からも読み取ることができます。
メタというのは空気を一変させる効果としては、全ての展開の中でも一、二を争います。作中の空気どころか作品の構造すら簡単に崩壊させることができますから。
現に読者の中でもこの誤字の件に入ると「これまでの呪いの館とかは全部前振りかー。全く笑わせるなあ」などとそれまでの「呪いの館」や「千瑠」と「風奈」についてなどを頭の中から追い出した方もいらっしゃるでしょう。
このメタによって弛緩した空気を引き伸ばしながら、終盤に再び「呪いの館」の展開を忍ばせて、最後にホラーで締める。という本作の構成は一定以上の成功を収めているといえるのではないでしょうか。

誤字を敢えて使うこと自体は斬新ではありませんが、誤字を空気の弛緩に用いて締めの演出に利用するということは構成において斬新で意欲的な試みだと思います。
「ホラー→メタ」はままありますが「ホラー→メタ→ホラー」はなかなかお目にかかれない。本作、及び箒星さんの個性として十分認められます。
「小説のジャンルは一定であるべき」「小説で変なことをしてはいけない」などという考えを有した読者でない限り、箒星さんの試みは好意的に受け入れられるはずです。

またこの構成を組み立てるうえで、箒星さんは巧みなバランス感覚を披露します。
「畑間」は「宝田」の誤字を指摘する際に「雰囲気ぶち壊し」と独白していますが、実際は雰囲気ぶち壊しにはなりません。本当に雰囲気ぶち壊しになったら締めを組み立てることができませんからね。メタで終わってしまいます。
これは箒星さんが完全に雰囲気をぶち壊さないように工夫を施しているからです。
というのもメタに相当する誤字の件は、「畑間」と「宝田」の二人によってのみ進行していきます。「千瑠」「風奈」「久我野」は一言も発さずにその場にいるだけに徹します。誤字の件に一切の関わりを示さないのです。
これが非常に上手いバランス感覚でして、メタを扱う際にはメタを扱うキャラを限定することで、作品全体をメタに支配されることを防ぐことができます。全員がメタを扱えばそれはメタ作品ですが、少数がメタを扱えばそれはメタキャラに留まるのです。

メタの展開があっても、その後にメタを扱わないキャラにメタ以外の言動をさせることで話を元に戻すことが可能です。
誤字の件があった後、
―――――――――――――――――――
 館を出た俺たち五人は、ほぼ同時に大きく背伸びをした。

「ちぇっ……ここもハズレかぁ。いい雰囲気ビンビン来てたんだけどなぁ」

「あはは、千瑠ちゃんのオカルトレーダーとやらもアテにならへんなぁ!でも何もなくてホンマに良かった……」
―――――――――――――――――――
とまず発言させたのは「畑間」と「宝田」ではなく「千瑠」と「久我野」です。しかもその発言内容は、誤字や弛緩した空気に触れるものではなく、冒頭に示されていた「千瑠」のレーダーの件と「久我野」のビビリの件です。ここで話を、たとえ形式上であっても「呪いの館」に戻すことに成功しています。
しかし「畑間」と「宝田」は相変わらず誤字のやり取りをしており、完全に戻るわけではありません。話のラインは「呪いの館」に戻すも誤字のやり取りは継続する。読者の読む気分を誤字のままにしておくが、しかしストーリーや文章で「呪いの館」の展開を繰り出すことも可能な塩梅。
箒星さんは「千瑠」と「久我野」、「畑間」と「宝田」にそれぞれ役割を持たせることで空気を以上のように調節することを行っています。このバランス感覚が非常にいいですね。
このバランス感覚を心得ていないと性格的に「千瑠」にも誤字のツッコミをさせてしまっていたのではないかと思います。しかしそうなると軌道修正がいよいよ利かなくなって終盤に繋ぎにくくなってしまうでしょう。
また作品中であまり役割を担っていないように見える「久我野」が、この空気調節に非常に役立っています。「千瑠」「風奈」の件にも「誤字」にも直接関わっていない「久我野」を間に挟むことで空気の調節を非常に上手く行えるのです。関西弁ということで色も強めですし。
思えば「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」と、「千瑠」「風奈」の件から肝試しに軌道を修正したのも「久我野」の役割でした。箒星さんの中で「久我野」は非常に重宝するキャラだったろうと思います。
勿論「千瑠」「風奈」の件にも「誤字」にも関わっていないので物語への絡みがないことにも配慮して、最後に「畑間」に抱きとめられて「千瑠」との因縁を植えておくという補強も忘れていません。

更に付け加えるならば、「千瑠」「風奈」「久我野」に誤字の件で黙らせていたのは、「風奈」の存在を消す意味もあります。
「風奈」を消すときに、「風奈」だけを消すのではなく「千瑠」「風奈」「久我野」の三人全てを消してから「千瑠」「久我野」を復活させるというのは消し方としては大胆な手です。
「風奈」を巧みにフェードアウトさせるのではなく、空気を一変させて読者の頭も一変させて、かつ出すキャラを絞っておく。大胆で面白い手だと思います。

フィンディルとしては、誤字の伏線を持ってきたことよりも、誤字の伏線をどう機能させたかということと誤字の伏線で巻き起こったメタの処理の仕方の二点を評価しています。
あのわかりやすい誤字のちりばめ方にも納得です。


●誤字

「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」
「畑中」→「畑間」
(「風奈さんは問題ないから、」が「風奈さんは問題ないだから、」となっていましたがこちらは後で確認したところ修正されたようですね)

この発言は「久我野」の発言です。「久我野」の発言に誤字があります。
誤字を扱う作品では、意図外の誤字は禁物です。通常の作品よりもずっと。何故かというと誤字によって成立している構成に大きな影響が考えられるからです。場合によっては作品全体を揺るがしかねない。
そして本作においては、誤字は「宝田」が行う、というキャラ付けに大きな影響を与えてしまっています。
この「久我野」の誤字に気付いた人は「宝田だけでなく久我野も誤字をしたから久我野にも何か仕掛けがあるかもしれない」と思うでしょう。しかし「久我野」はただの誤字なので当然「久我野」に仕掛けはなく、肩透かしを味わうということになります。
また「久我野」の誤字により、誤字は「宝田」のキャラ付けというわけではないと考える読者もいるかもしれません。そうなると「宝田」のキャラ付けは失敗してしまうことになります。
現にフィンディルは読んだときは「畑間」の「風奈さんは問題ないだから、」にも気付いたので、「宝田だけだと思っていたが、もしやこれは全員にかかってる仕掛けなのか?」とも思いました。結果「宝田」だけですからやはり肩透かしですね。
誤字を扱うなら誤字には人一倍慎重に、というのは基本で大事なことですね。


●メタの使い方

前項にてメタの処理の仕方を褒めさせていただきましたが、一点気になるところがあります。

「ホントもう台無しだよ。せっかく“呪いの館”とか言われてるのにお前の誤字脱字が気になって何にも怖くなくなっちまったよ。つか“呪いの館”って何だよ!!安直すぎるだろ!!今どきのオカルトなんだから、もっと捻れよ!!」

という「畑間」のセリフですが、ここの後半。
この場面では誤字指摘が繰り広げられますが、このセリフの後半では「呪いの館」についてツッコミがなされています。
この部分についてフィンディルは首をひねっています。
好意的に考えるとここで「呪いの館」についてツッコミがなされたので、
―――――――――――――――――――
 二階と三階も結局はもぬけの殻。

 もしやと思って入り口に戻り、再度ガチャガチャと扉を動かしてみたら、建て付けが悪かっただけらしく普通に開いた。もうイヤだ。
―――――――――――――――――――
と、「呪いの館」はなんでもないただの館でしたー、という流れに繋げやすくはなっています。
なっていますが、これは何も「呪いの館」へのツッコミをせずとも、メタの空気感さえあれば誘導できる流れだろうとは思います。弛緩した空気のまま割愛のように流してしまえば問題なくこなせる場面です。
むしろここで「呪いの館」にメタ的なツッコミをしてしまったことで、「呪いの館」には実はきちんとした呪いがありましたという説得力が若干削がれてしまっています。この「畑間」のセリフは「畑間」のセリフであって「畑間」のセリフではありません。メタ的な発言がされた以上、そこには作品としてのそして作者としての息がかかっているのです。見ようによっては作者からのツッコミともいえます。それは「呪いの館」への否定の仕方としては非常に強力なものがあります。
「呪いの館」には呪いがありますし、空気はメタによって弛緩されているのに、ここでメタ的に「呪いの館」を否定することにメリットがあるようには思えません。むしろデメリットのみ。

更に本作の「呪いの館があります。ホラーです」→「誤字指摘でメタ的に弛緩」→「でも呪いの館が否定されたわけではなくそこにはピーター・パン的な顛末がありました」という構成がこのセリフにより乱されてしまっています。
本作は空気感の操作ジャンルの操作によって構成が組み立てられ、読者を巧みに誘導しているのですが、ここで「呪いの館」へメタ的な言及メタ的な否定が入ることで折角の構成の主旨と美しさを大きく害する結果になってしまっています。

フィンディルにはこのセリフが、オチの邪魔及び構成の邪魔にしか見えません。
折角のメタ展開なのだからと箒星さんが欲張ってしまったのでしょうか、あるいはきちんとした意図があってなされたのでしょうか。
疑問が大きく残るセリフです。


●作品から独立してしまい、叙述出題と設定講釈となった終盤

本作の肝は「ピーター・パン」の設定に則った「呪いの館」の顛末です。
この内、終盤で初出になった材料としては「行方不明になった人が別人に代わっており、その事実を周囲の人は認識できない。そしてその代わった人は影が出ない」ということのみです。
一応12/27である理由も示されていますが、これは作品にはほとんど関係ない趣味の領域です。
一方中盤までで出された材料が「行方不明になったのは大人のみであり、千瑠は風奈を確かに憎んでおり、その理由は二人とも畑間のことが好きである」ということです。
こちらは読者に推理させるわけでもなく、「畑間」と「風奈」のやり取りで明言に近い形で出されています。「確かに行方不明になったのは、成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」という文はかなり核心をついた文章ですね。
そして読者が推理するのは、「この五人の中で風奈だけが成人だから、風奈だけが行方不明になるのではないか」「風奈を憎んでいる千瑠は行方不明にさせることを狙って風奈を呼んだのではないか」ということ。この推理、非常に簡単です。材料が丁寧に揃えられており、後は電子レンジでチンするだけというくらい簡単です。

そして本作を読むにあたって読者が気になっていたのは「本当に人が行方不明になるのか」「行方不明になるのはどういう人か」「千瑠は風奈を本当に憎んでいるのか」「憎んでいるならどうして憎んでいるのか」「千瑠は何故風奈を呼んだのか」「この五人はどうなるのか」といった点です。
これら全ての謎が、中盤まででわかってしまうのです。人は行方不明になるし、成人のみが行方不明になるし、千瑠は風奈を憎んでいたし、二人とも畑間が好きだから憎んでいたし、行方不明にさせるために呼んだし、五人の内風奈だけが行方不明になるのです。これら全て中盤まででわかってしまいます。
「行方不明になるときはどういう形で行方不明になるのか」という要素が終盤で明らかになりますが、そんなことは読者は大して気にしません。
なお中盤までの推理時に「風奈は千瑠の思惑を知っていながらどうしてついてきたのか」という謎が残りますが、これは読者の想像次第になってしまいました。

中盤までで読者の気になること全てが解消されてしまい、では終盤では読者は何を楽しめばいいのかということですが、突然放り込まれた叙述トリックと「ピーター・パン」の設定の二点です。
「風奈」が行方不明になることは中盤まででわかっていますし、終盤をさらっと読むだけで風奈が行方不明になったこともわかっています。
しかし「館を出た俺たち五人」なのに何故「四つの影がぼんやりと照らし出されていた」となっているのか、その場面だけで完結している叙述トリックに読者は取り組まされます。また解説において、「ピーター・パン」を活かした影についての細かい設定を理解させられます。
「つまりどういうことなのか」という全体像は既に見えているのに、その叙述トリックの細かい仕組みと「ピーター・パン」の設定だけが残されて、これを解き明かすという作業。
この楽しみ方は、本作全体を楽しむとは言いがたいものになっています。終盤の叙述トリック及び「ピーター・パン」の影の設定が、作品全体の面白さに寄与していません。その終盤の場面だけで完結しています。
ですので読者もよくよく楽しもうよくよく解こうという気持ちにならない。「つまりどういうことなのか」はわかっているので。ですので完結後すぐさま誘導された解説を見て、「ピーター・パン」の設定と叙述トリックを確認する。
そういう流れになってしまった方、少なくないのではないかと思います。フィンディルはそうでした。フィンディルだけでしょうか?
また解説への誘導の仕方もアピールがきつすぎます。箒星さんの「解説したい! 解説したい!」という気持ちが前に出過ぎているので、尚更独力で解いてみようという気持ちになりません。
そもそも「ピーター・パン」の設定などは解説を読まないとわかりようのない性質でしたし。

中盤までで丁寧に説明しすぎたのです。全体像を把握させすぎた。それによって終盤が作品から独立してしまい、単純に叙述トリックの出題と「ピーター・パン」の設定講釈になってしまっています。
中盤までで説明をある程度抑えて読者の謎を残しておくか、終盤に何か新たな驚きを追加するか。いずれにせよ作品全体を考えた改良が求められるところです。


●「ピーター・パン」を入れるということ

本作の締めはこうなっています。
―――――――――――――――――――
「そうです!きょう、12がつ27にちは、なんとなんと……“ピーター・パンのひ”なのですっ!!」
―――――――――――――――――――
つまり「ピーター・パン」です。「ピーター・パン」こそが本作のキーワードであり、解説にて「ピーター・パン」は成人を殺すこと、「ピーター・パン」には影がないという設定が本作に用いられていることが示されています。
しかし「ピーター・パン」の設定が本作に活かされたことはわかっても、何故本作で「ピーター・パン」の設定通りになったのかという説明はなされていないように思います。
つまり本作に「ピーター・パン」が出てきた必然性です。「ピーター・パンっぽいことはわかった。じゃあ何でピーター・パンなん?」という疑問に答えられていません。
12/27が本作と「ピーター・パン」を繋ぐキーワードらしく出てきますが、解説によると12/27は「ピーター・パン」が初上演された日とのことです。では何故「ピーター・パン」が初上演された日に、「ピーター・パン」とは縁もゆかりもない地にて「ピーター・パン」の設定のような怪奇現象が起こったのでしょうか?
あの「呪いの館」が「ピーター・パン」の住む家だったと仮定しても、12/27は初上演の日ですから「ピーター・パン」本人とは何ら関わりがありません。また「呪いの館」が「ピーター・パン」の住む家だという仮定がそもそも飛躍しすぎています。本文中に、あの「呪いの館」が「ピーター・パン」と関連があるということを強く匂わせる文はありません。

これが「ピーター・パン」ではなく、箒星さんオリジナルの話であればこの辺りはある程度強引にいけるのです。しかし「ピーター・パン」は実在するお話です。実在するお話であるならば、何故それが本作に登場し影響を与えているのかという説得力のある必然性が必要です。「ピーター・パン」という言葉が出てきたときに読者が「なるほどピーター・パンか! 道理で!」と思えるような。しかし実際は「ピーター・パン? 何で?」としか思えません。解説でいくら「ピーター・パン」の設定を利用したことが綴られていても、その設定が本作に活かされる必然性がわからない以上「それで何でピーター・パン?」という疑問は晴れないままです。
箒星さんは「ピーター・パン」の設定を本作に活かすことに執心されているようですが、その前に「ピーター・パン」の存在を本作に馴染ませることに取り組むべきだったのではないでしょうか。

また「ピーター・パン」を登場させるにあたり、本作には強引さと歪みが生まれています。
箒星さんはなんとか「ピーター・パン」という言葉を登場させたいとお考えになったのでしょう。「ピーター・パン」といえば「絵本」だ、「絵本」といえば「幼児」だ、本作において「幼児」といえば「妹(弟)だ」と連想ゲームのような発想を行います。そしてその通りに、本作最後に無理やり妹である「紗菜」を登場させ、強引に「絵本」を読ませようとし、「ピーター・パン」という語を出します。
これが非常に稚拙です。この一連の箒星さんの思惑が手に取るようにわかってしまいます。いくらなんでも意図があからさますぎます。
特に絵本を持ってくるためだけに作り上げた「紗菜」という登場人物。絵本差し出し装置とでも言わんばかりの登場の仕方です。もう少し、キャラを作るにあたって練る必要があったのではないでしょうか。
最低限の最低限、冒頭の自己紹介で「5歳になる妹がいる。最近絵本を読んでくれてとうるさい」などという一文があってもいいのではないかと思います。

更にこの場面を入れることで歪みが生まれています。最後の場面、これは家の場面です。
冒頭を読んでいるときから気になったことが「12/27に特定の場所で人が行方不明になっているという事件が実際に発生しているのに、心霊スポット探検隊という危険な行動を行いそうな部活に所属している子供達を、しかも朝五時に外出させることを何故親が許しているのか」ということです。
この疑問はしかし創作においては野暮なことかとフィンディルは捨てておきました。しかし最後、家のシーンが出てきます。家のシーンが出てきておいて「親のことはまあいいか」とはさすがに思えないです。
「こんな時間にどこに行っていたのか」や「まさかあの館に行ったんじゃないのか」などと親が叱らないのはあまりに不自然です。これが「畑間」一人のことならば家庭の事情があるのかとも思えますが、五人(四世帯の子)が出てますからね。
そしてここについてのフォローが本文中に一切ない。冒頭に「親には友達の家に泊まってくるなどと嘘をついた」の一文があればまだ呑み込める疑問なのですが。

他にも疑問点があります。
解説において「その場にいる俊たちは誰も風奈がいないことに気付いてません」とあります。現に本文では「風奈」が行方不明になっていることを誰も触れていません。つまり、成人が行方不明になったことを周囲の人は把握できないと解釈できます。
ならば何故「雑誌記者やテレビスタッフが、毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている」のか。こちらでは成人が行方不明になっていることが周囲はもとより世間に認知されているのです。
これが何故なのか? 行方不明になっていることが気付けないのは、その場に一緒にいた人だけということなのでしょうか。この疑問についても作品中及び解説にて答えが示されていないように見えます。

更に「雑誌記者やテレビスタッフが、毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている」のにどうして「呪いの館」に簡単に入れる状態になっているのか。
これが噂レベルであるならばそれもそうかと思えますが、実際に「報せも届いている」ならば警察が動いてもおかしくないはずです。それで「呪いの館」が立入り禁止になっていてもおかしくないはずです。
この辺りもモヤモヤが残るのです。これについては事前に「千瑠」が入れそうな抜け道を探しておいた、でクリアできる疑問であります。

この項をまとめますと、「ピーター・パン」という言葉と設定を入れたいのはわかるけど、「ピーター・パン」を入れるための作品の世界観作り・作品への入れ方・入れた際のフォローが全く御座なりになっている、ということです。
「ピーター・パン」という実在のお話を作品に組み込むにあたって、必ず求められる作業だと思います。


●誤字の場面での盛り上げ方

本作で一番盛り上がる場面である誤字指摘の件です。

1 「畑間」が「宝田」に誤字を指摘する。
2 最も目立った「懐中電灯を日本」の誤字を回収する
3 「千瑠の豹変シーン」というメタ的な単語で盛り上げる
4 誤字の誤字を行いそれにツッコミをする
5 「呪いの館」へのメタ的ツッコミをする
6 お経みたいな誤字を行いそれにツッコミをする
7 アフレコするならという件で誤字を締める

という構成で盛り上げていきます。全体的に面白くて上手い構成なのですが(5については上の項目で触れた通り不要だと思います)、6について首をひねります。「お経みたいな誤字を行いそれにツッコミをする」ですね。
端的にいえばツッコミがくどいです。
―――――――――――――――――――
「焦燥を理由に出家すんな!!呪いの館なんかよりお前のその気持ち悪いお経みたいな文の方がよっぽど怖いわ!“そんなこと、僕に言われたって分からないよ”のどこに誤字ポイントがあるんだよ!!わざととしか思えねぇんだけど!!漢字も怖ぇし!!」
―――――――――――――――――――
ツッコミがくどいです。「宝田の誤字の仕方をお経に例える」「ボケの解説を行う」「わざとだろ」「誤字の仕方が漢字で怖い」という四つの要素にて、ひとつのツッコミが構成されていますが、これはひとつの要素で十分です。
箒星さんはおそらく盛り立てよう盛り立てようと思ってツッコミを積んでいかれたのだと思いますが、まず「ボケの解説」は不要です。なんとなく「宝田」が何を言ってるのかわかりますから。ツッコミにおいてボケの解説をするというのは非常にリスキーな行為で、全体を盛り下げることに繋がりやすいです。それほど難解なボケではありませんし、ツッコミで解説をしたいと思った場合でも婉曲的に言及することをオススメします。こんなに真正面から解説してしまうのはよくないです。
また細かいですが、解説しない際の理解のさせ方としては「そんなこと、僕に言われたって分からないよ」ではなく「そんなこと、僕に言われても分からないよ」の方が読者による変換がスムーズに進んだと思います。

またこのボケなのですが、これは他のボケに比べて構造が単純です。1は最初のツッコミですし、2と3は前の内容への言及なので仕掛けがあります。誤字の誤字は、誤字のさせ方としてはウィットに富んでおり「宝田」の誤字のさせ方として一番捻っているとも思います。
しかし「そ、そんな児頭、朴煮岩霊竜手輪火羅南鋳夜!!」は誤字を羅列しており、字面のインパクトこそ強いですが、ボケの性質としてはただ単に暴走させただけのものです。こういったボケというのはテクニカルなものではないので、文章多くツッコミを入れることが向かないです。入れれば入れるほど盛り下がってしまう。
このボケについてのツッコミは「わざととしか思えねぇんだけど!!」だけに抑えるのがよいのではないかと思います。

ツッコミのさせ方なんて自由では? 好みでは? と思われるかもしれませんけども、小説中にあってはボケもツッコミも修辞のひとつです。望まれた場面でないところで必要以上に長い描写を綴っていれば「描写がくどい」という指摘は当然受けるでしょう。ツッコミであってもそれは同様です。
またこの誤字の件では7は締めですので、実質6が最も盛り上げるところ。場面の盛り上げという点で見ると重要な部分だと判断し、このように言及をさせていただきました。

テクニカルなボケならばその面白さを全て出すためにツッコミの要素を増やすということはいいと思うのですが、「そ、そんな児頭、朴煮岩霊竜手輪火羅南鋳夜!!」についてはいっぱい誤字しましたという以上の要素がありませんので、そこに沢山ツッコミをしても暖簾に腕押しでダレるだけだ、ということです。


●細かいところ
ここからは文章の細かいところを取り上げます。

・「分かる」「要る」「居る」「凄く」など
これは本作の本文中全体にいえることなのですが、例に挙げているような漢字表記がやや散見されます。
例に挙げているような「平仮名表記にしても問題ない言葉」というのは基本的に平仮名表記にすることをオススメします。
こういった言葉を漢字表記にすると文章がぎこちなくなりますし、若干の読みにくさも生んでしまいますからね。

・自らを“世界一オカルトを愛する者”と称する彼女が、年に一度のそのチャンスを逃すはずもなく。
何故去年はそのチャンスを逃したのか。「毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている。」のならば去年の段階でその「呪いの館」の話は当然「千瑠」にも届いているはずです。
その理由は明確で、去年は「風奈」が成人していないからです。去年訪れても「風奈」は行方不明にはなりません。
「風奈」が二十歳と成人したばかりの歳に訪れるというのは、「千瑠」の憎しみが長年積もり積もったものであるということがとても伝わりますね。待ちに待った年なのでしょう。
が当然ですが、そんな「千瑠」の思惑を「畑間」は知りません。「畑間」は「毎年何名も行方不明になっているという嫌な報せも届いている。」のにも関わらず、なぜ「千瑠」が去年のチャンスを逃したのか疑問に思う必要があります。年に一度のチャンスを逃すはずもない「彼女」が去年はチャンスを逃している、ここに「畑間」が引っ掛かりを覚えないのはあまりにも不自然。
「心霊スポット探検隊」の体制がまだ十分に整っていなかったからでも構いません。「畑間」は違和感を覚えつつも一定の回答を有して強い疑問までは持っていない、という状態を作っておく必要があったでしょう。

・例のスポ探部長であり俺の幼馴染みである甘峰 千瑠
「例の」が「スポ探」にかかっているのか「部長であり俺の幼馴染み」にかかっているのかがわかりにくいです。
「スポ探」にかかっているならば「例の」は不要ですし、「部長であり俺の幼馴染み」にかかっているならば別の言い回しで強調した方が自然です。

・ついに呪いの館と対面できた喜びで、俺の隣で小さい体をピョンコピョンコと弾ませている。ジャンプする度に、肩に届かないくらいの茶髪が軽快に揺れる。よほど嬉しいんだろう。
文章の流れとして、「飛び跳ねている」→「髪が揺れる」→「嬉しいんだろう」となっていますが、やや稚拙です。これでは「髪が揺れる」ことを見て「嬉しいんだろう」と判断したように読めてしまいます。
文章構成を改良することをオススメします。

・黒フレームのメガネをクイッと上げて館の外観を分析している。
最近の加筆修正により「呪いの館」の外観の描写が、この前に付け加えられましたね。
しかしその描写のせいで、「宝田」の分析がやや滑稽に映ってしまいました。「畑間」が一人称で細かく分析していましたので。「もう畑間がさっきやってるから」と読者が思ってしまえば、現状の「宝田」の頭脳明晰なキャラ付けにほんの少しマイナスが働いてしまいます。

・屋敷探索
「屋敷」→「館」が適切ですね。
「館」というのをキーワードにして語彙はブレさせない方がいいと思います。

・千瑠が隣に立った女性
「立った」→「立っている」が適切ですね。
「風奈」は少し前から「千瑠」の隣にいるはずですから、「立った」という表現だと今隣に立ったという印象が強くなってしまいます。

・普段は風奈さんは、俺たちの同伴はしない。今回が初めてだ。
「今回が初めて」なら「普段は」という物言いはやや不親切です。
「今まで風奈さんが俺たちの同伴をしたことはない」などの方が自然でしょう。

・時刻は朝の4時58分。
館に到着してからの感じを見るに、館に到着したのは五時少し前といった印象があります。
ならば館に向かうとき「早くしないと五時になっちゃうよぉ!」などのような「千瑠」の催促があれば、「千瑠」に無理やり連れてこられた感がより強くなっていいかな、と思いました。
ギリギリなのに急ぐ描写が見られないです。

・踵を返して帰ろうとする久我野の首根っこを鷲掴みにして、千瑠が意気揚々と扉を開けた。
・俺たち五人は呪いの館に足を踏み入れた。
・扉が勢いよく閉まる。全員が戦慄した。
ここの描写が雑に見えました。まるで三コマ漫画のように、静止画の連続で「扉を開ける」→「皆が入る」→「扉が閉まる」といった感じです。それまでの文章が滑らかに進行していただけに、ここの動きの固さが気になります。洗練した方がいい箇所かと思います。

・ホラーの定番だ。半ば諦めながら、俺は取っ手を何回か押し引きする。
入ると扉が閉まるというのはホラーの定番ではありますが、実際に起こればとんでもないことであり、すぐさま理解が追いつくというのは考えにくいです。
しかし「畑間」はそれがホラーの定番であることを瞬時に察知し、「半ば諦めながら」と事態を理解し受け入れるのも早すぎる印象があります。
作品のホラーと、実際の事態とで区別する方が望ましいと思います。

・中は当然ながら電気も通っておらず
おそらく「館」には電気が通っていないのでしょうが、この時点で電気が通っていないと断定することはおよそ不可能だと思います。
灯りがないことを示したかったのでしょうが、初めて入った館で電灯を点けるスイッチの場所などはわかりません。
「おそらく電気は通っておらず」など推測に留めておく方がいいと思います。

・屋敷の探索
「屋敷」→「館」

・「俺の頭を優しく撫でた。柔らかく、温かい手だった」
頭を撫でられて手の体温がわかるのでしょうか。わからないこともないですが、毛髪越しでは感知の精度は低いはずです。
「畑間」が坊主である可能性もありますが。

・去年この館にね……俊くんたちと同じ高校生の、三人の男の子が立ち入ったの。
「去年の12月27日、この館」あるいは「去年の同じ日、この館」などにした方がいいです。
本文だと去年の別の日という解釈もできてしまうからです。その解釈のされ方は意図せぬ推理に導くおそれがあります。

・去年この館にね……俊くんたちと同じ高校生の、三人の男の子が立ち入ったの。
この「俊くんたちと同じ」というのがやや、ややこしいです。
高校生であることが同じなだけならば「俊くんたちと同じ」はまどろっこしい物言いですし、この書き方では通っている高校が同じという印象も受けます。
おそらく「畑間」達も同じく高校生=未成年ということを印象づけたかったのかなとは思いますが、そのすぐ後で「成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」という文章が入るので、あまり効果的には感じません。
(というか上の項でも触れた通り、「成人男性グループとかテレビスタッフとか、大人ばかりだ。」が核心をつきすぎているんですけどね)

・全てを悟ったかのように俺に向き直った。
「畑間」の一人称なので「全てを悟ったかのように」という表現で間違いはないのですが、事実「風奈」は全てを悟っているのでここで「全てを悟ったかのように」という比喩を用いるのは収まりの悪さを感じます。
「覚悟を決めたように」などならば、まあ通るかと思います。

・「あっ……畑中くん!何しててん!?急にいなくなったから心配したやんかぁ!!って……風奈さん大丈夫ですか!?汗だくですやんか!!」
上の項目でも触れましたが、「畑中」→「畑間」

・あのさ…………シリアスの中で喋るにしては…………誤字脱字がありすぎる
「誤字脱字」ですが、実際「宝田」は誤字脱字だけでなく衍字を多くしています。
勿論ここで「誤字脱字衍字がありすぎる」とするのはくどすぎますが、実際に脱字だけでなく衍字もしているのでここは「誤字がありすぎる」とするのが自然なのではないかと思います。
タイトルとの兼ね合い上でも「誤字脱字」より「誤字」の方がスマートですし。

・せっかくこれから怖いこと起こる感じジワジワ来てるのにさ、お前のセリフだけ特に酷いんだよ。
「特に」は不要ですね。誤字的な意味で酷いのは「宝田」だけという体なので。
あるいはこれは「久我野」の誤字は意図的であることを示唆しているのでしょうか。「久我野」は単純に怖さで名前を呼び間違えた、と。
仮にそうならばそれは不要な仕掛けです。「畑間」が指摘しないのもおかしいですしね。

・だから言ったんだ……“これを言ったら全てが終わる”って。
言ってはないですね。「畑間」の独白なので。
メタの展開なので「言った」でも通用しないこともありませんが、ここでメタを出す必要も薄いので修正するのが無難かと思います。
あるいはメタでいくなら「だから独白しておいただろ」とかにするとかですかね。

・懐中電灯で俺たちをリードすることに徹底しろ!!
「懐中電灯で俺たちをリードすることを徹底しろ!!」か「懐中電灯で俺たちをリードすることに徹しろ!!」のいずれかの方が文通りがいいですね。

・アフレコするなら「いや気になってたけど……気になってたけどさぁ……」と言ったところだろうか。
アフレコとは「アフターレコード」の略で、既に出来上がった映像などに声をあてることを指します。
アテレコとは「あててレコーディングする」の略で、他者の演技などに別個で声をあてることを指します。
両者にはそのような意味の違いがありますが、アテレコをする場合は大概アフレコなので、現在では統一してアフレコと呼ぶことが多いです。
ですのでアフレコ=アテレコと考えてもよいのですが、意味の違いを考えた場合、この文でアフレコというのは違和感が残ります。
三人の現在進行形の動作に対して声をあてているわけですから。アフターではない。
ですので今回の場合は「アテレコ」と表記した方がより正確なのではないか、と考えます。

・もしやと思って入り口に戻り、再度ガチャガチャと扉を動かしてみたら、建て付けが悪かっただけらしく普通に開いた。
では何故扉がひとりでに閉まったのかという疑問が残ります。
そもそも扉がひとりでに閉まり、しかも開けようとしても開かなかった理由について明かす必要性は高くありません。
ギャグの空気もありますので「再び開けようとしたら開いた」でも問題のない場面です。
しかしここで開けようとしても開かなかった理由について説明してしまった以上、扉がひとりでに閉まった理由についても説明する必要が生じます。
「風が強かった」でもなんでもいいので、こちらの説明もほしいところです。

・ほぼ同時に大きく背伸びをした。
「背伸び」→「伸び」
伸びをする場合に多くは背伸びを伴いますが、背伸びをしたからといって伸びをするとは限りません。「伸び」がより適切でしょう。

・「まあまあ、そんなに怒らなくてもいいじゃん、俊くん!五人で生きて帰れるんだからさ!はぁ、おなかすいた!」
叙述トリックの答えとなる、当初の五人以外の、いるはずのない一人。それがこのセリフの主でしょう。
この話し方をしそうなのは「千瑠」ですが、「千瑠」は「畑間」を無視してますからね。「千瑠」でないならこれは誰だ? となります。
が、私だけなのかもしれませんがここがわかりづらかったです。この話し方をしそうなのは「千瑠」だが、「千瑠」は無視しているから有り得ない、という理屈。理屈が若干理屈として強くて、直感的な気付きを得にくいような……。
勿論叙述トリックなのでわかりやすすぎても駄目なのですが、「そういえばあのときなんか変だったな」という引っ掛かりが若干足りないような気がいたしました。
ただしこれはフィンディルが個人的に感じただけかもしれません。ですのでこれについては読者一人のサンプルとしてお受け取りください。
構造として特別わかりにくい何かがある、というわけではありません。個人的な感覚です。

・「イェスノーすらも!?あと漢字怖いんだってば!!あぁもういい!!とっとと帰んぞ!こんな寒いところいたら、マジで風邪引いちまう!」
「イェスノーすらも!?」というツッコミは面白いです。いいと思います。
しかしその後の「あと漢字怖いんだってば!!」は余計に映りますね。
箒星さんのツッコミはひとつひとつの言い回しは面白いのですが、それを積んで積んでしまうため面白さが損なわれているように感じます。
中級小説書きさんにありがちな、全ての文章を張り切って描写してしまうことのツッコミ版のような感じです。

・そして俺の顔の目の前にそれを突き出し
くどいので、「俺の目の前」か「俺の顔の前」のどちらかがいいと思います。
BACK|TOPNEXT